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四方赤良の余談集1
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難波江にあしとすてにしみ佛も 今は信濃によしみつの寺・・大田南畝 |
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『其之 52』H16.11.6〜H16.12.31
寛政の改革の松平定信、幕末の会津藩主松平容保、徳川家康の父は松平広忠、松平・・挙げればきりがありません。江戸時代に松平と名乗っていた人物はどれほどいたのでしょうか。
「松平」と言えば徳川将軍家と縁のある姓だと知っている人は多いでしょう。もともと徳川家康は松平氏の宗家として「徳川」に改姓するまで松平元康と名乗っていました。家康が全国制覇をするにあたって松平氏は一族として優遇され、大名や旗本に取り立てられ幕府の重要な地位を占めていきました。徳川家康が若い頃までに、松平氏は18の家に分かれ、支配していた三河国の各地域の名前をとって○○松平家と呼ばれていました。
この内信濃国と特に縁のある松平氏は、長沢松平、大給松平(おぎゅうまつだいら)、藤井松平、それと後に家康から松平姓を与えられた戸田松平です。大給松平は大給(愛知県豊田市)を拠点としていた一族で、幕末に短期間ですが田野口藩(南佐久郡臼田町)として信濃国に本領を持ち、陸軍総裁として幕末の幕府陸軍の中心として活躍した松平乗謨(まつだいらのりかた)が有名です。乗謨がちょんまげ姿に西洋の軍服を着て、洋刀をたててポーズをとる写真は不格好ですが印象的です。藤井松平氏は家康の曾祖父の弟(松平利長)を始祖として藤井(愛知県安城市)を拠点としていた一族で、上田藩主として7代にわたって支配しました。最後の藩主となった松平忠礼は細面で背が高く、西洋の軍服に身を包んで家臣と酒を酌み交わしたり、馬に乗ったりとなかなか親近感の湧く殿様です。戸田松平は、戦国時代に三河国田原を支配していた一族で、竹千代(徳川家康)が今川義元に人質として駿河に送られるのを船上で強奪して織田信秀に人質として連れて行ったのが戸田康光です。彼の4代目にあたる戸田康長が幼少から家康に仕えて松平の姓を賜わり、元和3年(1617)に松本藩主となりました。一度移封して信濃を出ますが、再び6万石で松本藩に返り咲き、以後9代の長きにわたって幕末まで松本を支配しました。
そして今回紹介したい人物が、長沢松平の松平忠輝です。忠輝については、有名でありながら研究著書や紹介が少ないことに驚きました。 長沢松平は愛知県音羽町を拠点にしていた一族で、文禄2年(1593)9代目松平康直が死んで跡継ぎがなく絶家となっていたところに家康が6男の忠輝を継がせました。家康の関東移封により武蔵国深谷1万石の所領でしたが、忠輝に松城(後の松代)を拠点とした水内郡、高井郡、更科郡、埴科郡のいわゆる北信濃4郡を支配させ、慶長15年(1610)には越後国高田を加増して45万石とし、以後これほどの大大名は信濃国に存在しませんでした。忠輝は伊達政宗の娘を嫁にし、北陸の要として巨大な軍事力を保有してましたが、大坂夏の陣で将軍秀忠の旗本を殺害し、家康から勘当され、家康の死後に秀忠から領地を没収されて伊勢国に配流となりました。忠輝が後に諏訪高島藩で没するのは有名です。『捨て童子松平忠輝』という小説を読んだらよいでしょう。
松平忠輝墓(諏訪市)
現代の長野市松代町に西念寺というとても小さなお寺があります。ここに花井遠江守吉成(三九郎)という人物のお墓があります。その息子の花井主水正義雄とともに忠輝の配下では最も有名な人物で、家老のような立場でした。花井吉成は江戸にいる忠輝に代わって松城に入り、越後加増後の信濃領ではほとんどを花井が差配(松代城の城代)していました。娘を村上義明と忠輝の付家老であった大久保長安に嫁がせ、大久保長安との関係が深く推理されます。大久保長安は徳川家の中で絶大な権力を握り、花井が手掛けた善光寺平での土木事業は長安が関わっていると考えられています。 花井親子が、越後国と中山道を結ぶ北国街道と北国脇往還で新たな宿場を設けたり街道の整備を行い、さらに犀川の改修、裾花川の付け替え、網掛用水・岡田用水・今井用水・戸部用水の開発とそれらを利用した新田の開発を行ったといわれています。これらには武田家の遺臣であった雨宮次郎右衛門などが代官として技術的な面を支援したとされ、用水路は今日でも残っています。 花井吉成は慶長18年(1613)に死亡し、元和元年(1615)旗本を殺害した花井義雄は配流となり、忠輝も領地没収・配流になってからは、息子の正木義虎が忠輝に付いて諏訪の配所まで従って没しています。
ありし世に知らぬぞ あやな賤の夫の からくいとなき よすがなりけり 花井主水正 『其之 51』H16.9.28〜H16.11.6
前日の雨で霧がかかった細いアスファルトの道を進む。阿知川に刻まれた深い渓谷に沿って右に左に車をはしらせて行くと道はしだいにそれらしい雰囲気を与えてくれる。脇には『古代東山道』と書かれた手作りの標識が目立つようになり、心がワクワクしていくのを感じる。ここは長野県下伊那郡阿智村という土地で、空には台形をした百名山の恵那山が見える。その向こうは岐阜県だ。学校の歴史の授業で、律令制度のあたりを学ぶ時に必ずと言っていいほど耳にする東山道が恵那山の北脇を越えていた。今日の目的地はその峠にあたる。『御坂峠』と呼ばれるその峰を「おさかとうげ」と呼ぶ日本人もいるが、「みさかとうげ」の間違いである。東山道最大の難所で科野之坂、信濃坂、神之御坂とも呼ばれてきた。標高1595m
奈良、平安、鎌倉、室町と長い年月使われ続けてきた道。都と信濃国府やそれより東の国々の人々がどれほどここを越えていったのだろうか。どのような調(信濃は麻布)を運んだのだろうか。防人は九州まで行って帰ってこれたのか??そんな漠然とした想像を巡らせながら峠より6.5q下にある『御坂神社』の前に車を停めた。 日本武尊命腰掛石が鳥居の側にあり、思ったより小さな神社だと感じた。本殿へ向かって足を運ぶと、鬱蒼と繁った森の中に突然入ったためにしばらく暗さに目が慣れない。苔生した階段を登ると、巨大な日本杉の御神木とトチの木が立っているのに気付いた。樹齢1000年の長い年月とあまりにの大きさに驚く。樹皮が非常に美しい。ここを起点に今日の険しい峠道が続くので、神社へ無事を祈っていよいよ登山の覚悟を始めた。
境内の裏から阿知川に沿って時計回りに登っていくのが古代東山道であるが、個人的には「富士見台」へ向かう道をお薦めする。どのみち途中でこの東山道と合流するからだ。 川の鋭く流れる音を聞きながら進んでいくと道は次第に川から離れ、坂が急になっていく。馬はこれほど急でも登れるのだろうか?、阿知駅には律令で常時30疋の馬が置かれていたので、荷を背負って登っていったのだろう。 造林された檜に囲まれて良い香りが匂う。新しい国守様が赴任すると信濃国の郡司などが御坂峠までお迎えにあがったと云う。そこで招かれざる国守は、嫌いな食物でもてなされたらしい。道々には赤や白など様々な種類のキノコが顔を出していた。時折出会うリス、猪が掘り起こした無数の根や土、鹿の足跡。もののけ姫の世界を感じさせながら足を動かす。 『今昔物語』に載っている藤原陳忠(ふじわらのぶただ)が信濃国守の任を勤め上げて帰京する際に、ここで谷底に転落したのだが、キノコを拾いながら戻ってきた話しは有名だ。どの辺りで落ちたのだろうか?、谷らしい部分の道下をのぞき込む。 ブナ、ナラなどの広葉樹林帯や檜の林を抜けると、今度は唐松の森が続く。ふと信州には当たり前に生えているこの木が西日本にはないらしいと、四国の友人に聞いて驚いたことを思い出した。唐松の足下には笹の絨毯が一面に広がっている。秋が深まるとこの唐松の葉が黄色くなって落ちていくのがとてつもなく美しい。この森を進んで行くと坂はしだいに緩くなる。ようやく山の尾根に出たのだ。 登るにつれて植生の変化がある。今度は、唐松に混ざって少しずつ生えてきたのが白樺とナナカマド。昭和の頃であろうか、昔に牧場であった付近に来ると、もう白樺とナナカマドばかりである。峠まで残り3q。
ここまで来ると遠くにラクダのコブの様な笹山が見えてくる。自然の造形美とはこのことである。こんもりと面白い山だ。このコブの窪んだ部分が『御坂峠』で、うれしくなってついついペースが早まる。森を抜けると小屋が建っている。実はここまで車で来れるのだ。『萬岳荘』と言って昭和8年放牧場の小屋として建てられたもので、現在は阿智村・中津川市営のログハウス小屋である。古代には無かった休憩所があることに感謝したい。ここから『御坂峠』まで2q。少しばかり休みすぎた。 もはやゴールがどこからでも見えるのでまったく苦でない。付近から祭祀遺跡が発見されているので、ついつい何か落ちていないか足下を探る。FMを探るとFM愛知とFM岐阜が入った。普段聞くことができない音も聞きながらあっという間に目的地の『御坂峠』に到着した。眼下に見える岐阜県、夜明けとともに出発すれば阿知駅(阿智村)から中津川(岐阜県)の落合まで日没までには行けそうだ。ここまで3時間であった。
江戸時代、木曽の道が開削(中仙道)されるとこの峠を越える者はほとんどいなくなった。峠から落合の方面に目をやると、右側に斜面に張り付いたような宿場が見える。旧中山道の馬籠宿である。12月には岐阜県に行ってしまうのか、長野県に残るのか決定する。年数は不明だがおよそ700年ぶりに美濃国に戻るのだろうか・・残念至極である。
『其之 50』H16.8.24〜H16.9.28 激戦長篠の戦い・・その後 信州から静岡県の浜松市を目指す場合、現代では@名古屋市を通って東へ、A清水市を通って西へ、B新城市を通って南への3ルートが主な方法となります。この内、新城市回りのルートを巡って430年前に熾烈な戦闘が行われました。世に名高い『長篠の戦い』です。
天正元年(1573)上洛を夢見た武田信玄が、三河国(愛知県)攻略の途中で死亡しました。跡を継いだ子の武田勝頼は、父の遺志を継いで徳川家康との決着と、その同盟者である織田信長との対決をすることになります。 武田勝頼が家督を継いで半年も経たぬ間に、信濃国の南部から三河国へ通じる重要拠点である長篠城(愛知県鳳来町)が、三方衆の奥平信昌の寝返りによって徳川家康に攻略されました。これに対して武田勝頼は、天正2年(1574)織田信長の領地である美濃国東部の諸城(馬籠、岩村、苗木、明智城など)を攻略して信長を牽制すると、徳川方が守る遠江国の高天神城(静岡県大東町)を攻略し、その北にある諏訪原城(静岡県金谷町)と連携して、徳川軍が駿河国へ侵入する際の防御網を整えると、いよいよ長篠城奪還を開始しました。この奪還戦において行われた戦いが天正3年(1575)5月21日の『長篠の戦い』で、詳細は他のホームページや書籍によって多く書かれているので、今回の特集号では合戦が終わってからの動向を述べたいと思います。
武田勝頼がどのルートで長篠に達したのか詳細は不明ですが、1万5千人を率いて医王山鳳来寺(長篠城近傍の山)に本陣を敷きました。長篠に動員された兵は、越後国(新潟県)の上杉謙信への備えとして甲斐の兵を守備に残したため、ほとんどが信濃国と上野国の兵でした。兵は動員されてから長篠で合戦に及ぶまで50日間の長期間、慣れない土地で野営をしなければならず、さらに5月といえば梅雨の季節で、兵達の体力を奪ったことでしょう。実際に合戦の朝まで雨が降っていたと云われています。 織田徳川連合軍の馬防柵と鉄砲の前に破れた武田勝頼は、旗本に守られながら長篠から伊那街道を北上して寒挟川の山上にある田峯城(愛知県設楽町)を目指しました。しかし、菅沼一族の裏切りによって城内に入ることができず、そのまま稲武から信濃へ逃れました。ようやく駒場(長野県阿智村)まで逃れて来ると、高坂弾正が留守部隊の甲州勢8千を率いて武田勝頼を出迎えに来ていました。田峯から駒場までは約70kmの道のりですが、途中に赤坂峠、治部坂峠、寒原峠などがあり、その他谷沿いの険峻な山道を延々と進まなければならず、傷付いた兵達はさらに死ぬような苦労を重ねたことと思われます。高坂弾正は信濃国内を通過する際に、敗軍と見えぬよう軍列を華々しく飾って勝頼を甲府まで送り届けました。この勝頼が退却した道は、2年前に父武田信玄が病没して退却した道で、高坂弾正もそれを思い起こしたとのことです。 一方の織田信長は5月25日に徳川家康とさっそうと岐阜城へ凱旋しました。
武田信玄、武田勝頼の最も有名な歴史史料として『甲陽軍艦』があります。これは江戸時代に書かれたもので、兵法書としての他に当時の様々な様相を知る貴重な物となっています。 『甲陽軍艦』によると、甲府に戻った勝頼に、高坂弾正が「武田典厩(武田信玄の弟)と穴山梅雪(武田家譜代家臣、一族扱い)に責任を取らせて切腹させ、北条氏政と上杉謙信に領地を割譲するなどして和睦し、木曽の木曽義昌を上野国へ移封させ、上野国の小幡信貞を木曽へ移封させて裏切りを防止するように」と、進言したそうです。 勝頼は死亡した各家臣の相続を急いで行わせて組織の建て直しを図ると、天正5年(1577)北条氏政の妹を嫁に迎えただけで、他の高坂弾正の進言は受け入れず、逆に上杉謙信死去後の相続争いに介入して北条氏政と争うようになり、さらに遠江での度重なる徳川家康の侵攻のために幾度となく百姓・僧に至るまで動員するなど、ますます国は疲弊していきました。
長篠合戦後の徳川家康との駿河・遠江国争奪戦は凄まじく、武田家が滅びる天正10年(1582)までの7年間に幾度となく戦闘を行っています。徳川軍の攻撃に対して二俣城(静岡県天竜市)で良く守備したのが、芦田信蕃が率いる信濃国佐久郡の兵でした。また、美濃国岩村城(岐阜県岩村町)を守備していた城代の秋山伯耆を補佐したのが、大島、座光寺など信濃国伊那郡の者達で、織田信忠の攻撃によって降伏した後にだまし討ちにあい、彼らも長良川の河原で磔となりました。
天正10年に武田勝頼の首を根羽(長野県根羽村)で首実験した織田信長は、勝頼の首に向かって「そのほうの親父の信玄は、信忠を婿にすると約束したにも拘わらず、天下を望んで縁を破り、様々な裏切りをしたために天罰によって死んだのだ。信玄は例え首になっても都に上って宮中に参内したいと願っていたらしいが、勝頼親子も獄門になって京の童にでも見られるがよい」と言って、京都の鴨川河原に晒しました。享年30歳
『其之 49』H16.7.1〜H16.8.24 蚕王国、信濃国 養蚕(ようさん)とは、蛾の幼虫である蚕(かいこ)を飼育することです。
これは、製糸(せいし)や織物技術とともに中国大陸から伝来し、始めは渡来人がそれに関わってきたと云われますが、時代とともに日本各地で行われるようになり、江戸時代の頃になると、家の中に棚を架け、桑の葉を餌にして副業で蚕を飼っていました。そして江戸時代後期になると開国により外国への輸出が始まり、米畑作などより収入があることが知れると、多くの農家が養蚕をするようになりました。
卵で越冬した蚕は4月に孵化し、25日間ほどで4回脱皮をして口から糸をはいて繭となります。繭の中でさなぎとなり、10日間ほどで蛾となって出てきます。そして、6月中下旬には再び卵を生み、5日ほどで死に絶えます。この時に、幼虫を育てて繭を売る者、繭から糸を採って売る者、蛾の卵を売る者、糸から織物をする者など様々な段階で商売のチャンスがありました。 農家は利益を上げるために、田畑を潰してまで蚕の餌となる桑を植え、幕府や藩の禁制も出されるほどで、蚕は「お蚕様」とまで人々から崇められました。江戸時代後期から明治初期の日本における養蚕地は、長野県、福島県、群馬県で、明治10年を過ぎると長野県が圧倒的な首位となり、県内では小県郡、東筑摩郡、下伊那郡、埴科郡の順で大量に生産されていました。
一般的にはあまり知られていませんが、蚕の歴史は安定性、コスト、良質の3原則を追及するもので、これを成し遂げるには蚕そのものの品質を向上させることが必要とされ、多くの人々が品種改良や飼育技術の研究などを行いました。これにより世界でも屈指の優れた蚕が生み出されたのです。そもそも蚕は、白い繭だけを作る蚕だけではなく、黄色、薄緑色などもあり、糸の硬さ、弾力なども種によって様々です。これらの中で、絹糸にした時に上質で高く売れる糸を求めて、いくつもの蚕と蚕を交配させて品種改良を行いました。
信濃国では、江戸時代の寛文年(1661頃)間に「大林丸」「ただこ」という2品種が見られ、元禄年(1700頃)間には「大林丸」から優れた「きんこ」という種を選び出して育てました。その他、伊那郡の大草村(中川村)で「大草」、小県郡の長瀬村(丸子町)で「白龍」という品種も作り出されました。弘化年(1845頃)間になると、小県郡上塩尻村(上田市)の藤本善右衛門と下之條村(上田市)の中山重作が「掛合」という種を作り出しました。この藤本善右衛門が、有名な「青白」種を山から発見した人物で、黄緑色の繭を作る「青白」はヨーロッパ人に好まれて幕末から明治初年にかけて爆発的に売れました。県内でも小県郡が養蚕の最大の地であったのはこのためです。
蚕種は買い手のニーズに合わせて時代と共に変化し、明治14年頃になると「青白」人気も終わって、「大巣(おおす)」という種類が人気となりました。さらに明治20年過ぎには「大巣」に代わって「中巣」「小巣」という種類が人気となり、中でも小県郡伊勢山村(上田市)の小田中源右衛門が発見した「小石丸」は人気を博しました。「小石丸」は、繭を踏んでも小石のように硬いことから名付けたそうです。代々皇室で飼育されている蚕が「小石丸」で、明治・大正・昭和天皇の皇后が養蚕し、給桑の儀式などが今でも有名です。
明治13年(1880)上田町で開催された『第1回長野県製糸絹織物共進会』で出品された品種は下記のとおりです。
さらに、時代と共に養蚕を年間で営めるように、春だけ孵化する種だけでなく、夏秋に孵化をして良質な糸を吐く蚕を品種改良で作り出しました。この様に蚕種が増えつづけると、劣悪な品種が出回るようになります。こうした劣悪な蚕種は、外国貿易での信用にもつながるので、国は蚕病予防法を制定したり、長野県は品種に対する規則や規制を加えるようなりました。大正11年(1922)『蚕品種整理統一に関する件』として、長野県は下記などの指定した1代交配品種以外は製造してはいけないとの通達を出しました。
一般的に養蚕といえば、屋内で蚕を飼うことですが、信濃では野外で蚕を飼う方法も古くから行われてきました。この蚕は『天蚕(ヤママユガ)』と呼ばれ、中国から伝来した蚕が桑を食べるのとは違い、里山のどこにでも生えているクヌギ、コナラ、カシワ、シラカシなどの葉を食べます。天蚕は4月下旬から5月上旬に正露丸ほどの大きさの卵から羽化し、中国産と違って毛の生えた幼虫は50〜60日間で4回脱皮をして成長していきます。そして成長した幼虫は、クヌギなどの葉を2〜3枚あわせた間に1週間程で薄い緑色の繭を作り、8月上旬に繭の中から蛾となって出てきます。蛾は体長が4cm程度で、繭1個からは600m程の糸が採れます。 信濃国の安曇野(穂高町付近)で天明年間(1781〜1789)に天蚕を飼育したという記録があります。この地方の天蚕は、明治時代になると京都の西陣などへ運ばれ「有明天蚕糸」として珍重されていました。この「天蚕」も現在皇室で育てられている貴重種です。
現在の蚕は、200年以上の歴史ある品種改良の成果として、春、夏秋だけでなく1年間対応できる種であったり、桑などの葉だけでなく、リンゴなども食べられる蚕が作られています。 『其之 48』H16.6.13〜H16.7.1 信濃と関東 雄大な流れをみせる利根川は、群馬県を源に関東平野を横断し、銚子で太平洋に到達します。この利根川と東京湾へ流れ込む江戸川の分岐点を挟んで南北に関宿(せきやど、野田市)と古河(こが、古河市)いう地域があります。千葉県、茨城県、埼玉県の3県境に位置し、渡良瀬川や思川など栃木県からの河川が合流する下流にあたるため、古くから水との戦いの地域でした。 日光街道と水戸街道の中間に平行して南北を結ぶ日光東往還(江戸−千住−松戸−流山−野田−関宿−結城−宇都宮)が関宿を通り、古来から物資や人の流通が盛んな地域でした。付近の岩井は平将門の根拠地であったり、流山は新選組の近藤勇が処刑された地と、歴史に彩りを添える土地柄でもあります。この平坦な関東平野の水郷地帯と信濃がどのような関わりがあるのか今回ご紹介したいと思います。
関宿城
天正10年(1582)2月武田勝頼に臣従していた松尾城主(飯田市)の小笠原信嶺は、かねてから織田信長に通じ、織田信忠が信濃に侵攻してくると真っ先に裏切りました。3月10日には諏訪にて織田信長に拝謁し、森蘭丸が使者となって松尾領の安堵を申し渡されました。 それから3ヵ月後の6月、本能寺で織田信長が討死した後の信濃は、未だ織田家の領地として安定しておらず、直ぐさま北から上杉景勝、東から北条氏政、南から徳川家康が侵攻し、信濃は領地争奪戦の場と化しました。
信濃の南地域にあたる伊那、諏訪には徳川軍が侵入し、飯田の松尾城で生まれ(天文16年)育った小笠原信嶺(室町時代に3分家した松尾小笠原)は、自己領を守るために徳川家康に服従して信濃・甲斐攻めに参陣しました。信嶺は妻を人質に差し出し、7月徳川軍の先陣である酒井忠次の軍に加わり、高島城(諏訪市)、新府城(山梨県韮崎市)などで北条軍と合戦しました。徳川と北条の和睦がなると、小笠原信嶺は徳川家康から松尾城を安堵されました。信嶺の祖父・父が、50年程前に小笠原一族の争いによって松尾を追われ流浪の身となってからは、領地の安定に必死だったのでしょう。
天正12年(1584)徳川家康と豊臣秀吉が小牧長久手で戦った時、信嶺は小牧山城(愛知県小牧市)の留守を預かりました。 天正16年(1588)子の無かった信嶺は、酒井忠次の3男小平次郎を養子とし、名を小笠原信之とさせました。 天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原の北条氏政を征伐した際にも徳川軍の一員として参陣し、徳川家康が関東へ移封されると、徳川の家臣同然であった小笠原信嶺も従うことになり、松尾城は破却されました。信嶺は、新しく越後・信濃国方面から武蔵国への入口にあたる本庄城(埼玉県本庄市、後に中山道の宿場として整備)1万石を賜わり、同族の小笠原貞慶・秀政(府中小笠原)親子は古河城(後に飯田→松本)へ入りました。
慶長3年(1598)2月19日小笠原信嶺が病死すると信之が跡を継ぎ、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍に加わって上田城で真田昌幸に敗れるなどしています。その後、天下を取った家康から旧領である松尾への移封を命じられますが、信之はそれを断り、代わりに叔父の小笠原長臣(父 小笠原信嶺の弟)が伊豆木(飯田市)に1万石で旗本となりました。この時の状況が記録に残っておらず何故断ったのか不明ですが、信之は7年後の慶長17年(1612)加増されて古河城(茨城県)へ2万石となりました。本庄城はこれにて廃城。
間もなく小笠原信之の跡を継いだ子の2代藩主小笠原政信は、元和5年(1619)2万2千7百石で古河から15q程南の関宿へ転封となりました。現在、千葉県市川市の総寧寺に小笠原政信夫婦(板倉重昌の女)の大きなお墓があります。 政信の時代に幕府直轄として関東郡代伊奈氏が指図して、利根川の東遷工事(当時、江戸湾に注いでいた利根川本流を旧常陸川を通じて銚子へ流す大工事)という国家プロジェクトが行われました。これ以後利根川は現在のルートに整備され、小笠原氏が関宿を統治していた時代の工事を下記HPから見ると、赤堀川開削、新川通開削と最も重要な山場をむかえていたことが分かります。 [ 国土交通省利根川工事事務所HP ] http://www.tonejo.go.jp/jiten/rekisi/file/rekisi.htm
その後、政信の跡を継いだ子の小笠原貞信は、幼少を理由に寛永5年(1628)こちらも長良川と揖斐川の水郷地帯である美濃国高須(岐阜県海津町)へ移封となり、さらに越前国勝山(福井県勝山市)へ移されました。この勝山藩が明治維新まで続きます。
勝山城
全国各地に散った信州の血脈達はそれぞれの地でどのような風景を見たのでしょうか。古河の隆岩寺には文禄4年(1595)に死亡した小笠原貞慶(府中小笠原)のお墓もあります。山奥の信州から平坦な関東平野での生活はそれまでとはまったく違った影響を与えたことでしょう。以前、勝山に行った際に、九頭竜川と周辺の山々を見ていると、ふと天竜川が流れる飯田の風景に似ている印象を受けました。 関宿城からは遠く筑波山が見える程度で、ほとんど山一つ見えない平地です。大きな池の中に浮かぶような関宿の地を統治するのには試行錯誤した思われます。それから約200年後、これら関東の地を治めている大名等を攻撃した官軍の中に、信濃の諸軍も加わっていました。
『其之 47』H16.6.1〜H16.6.13 信濃の歴史學 今回の余談は、これから長野県の歴史を研究していかれる方々が、少しでも県内の郷土史研究の実体や成果を理解し、その糧となるような事を語りたいと思います。
群馬県などに行くと『群馬』という郷土史研究の冊子が作られているように、各県には必ずと言っていいほど全県レベルの郷土史研究会が存在し、月刊、季刊、半年単位などで冊子を発行しています。それは研究会に所属する多くの在野の郷土史研究家達が、日頃の成果を投稿し、それを幾つかまとめて1つの冊子として発行するものです。おおよそ年会費3,000円〜5,000円程度で活動を行っているようです。
長野県には、信濃史学会という団体が戦前から発行している『信濃』という冊子があります。『信濃』が全県的な研究冊子にあたるとすれば、他に『長野』、『高井』、『須高』、『松代』、『とぐら』、『筑北郷土史研究会』、『伊那』、『上伊那』、『郷土史巡礼』など、県内の各地域ごとに設立された郷土史研究会で発行している冊子もあります。この他に博物館が発行する研究雑誌、紀要などもあり、長野県の歴史研究を密度濃く充実させてくれています。また県外では、日本史学会や、各大学で研究したものをまとめた冊子もあり、その中には長野県の歴史について研究されたものもあります。
そして、こうした郷土史研究を総合的に整理し、誰もが分かり易く閲覧できるようにしたものが『長野県史』、『○○郡史』、『△△市史』、『□□町史』、『××村史』です。考古から現代まで強引に濃縮したので、1冊でも厚さ5p以上になるのでしょうか。これは最も基本となる初心者向けの冊子なので、厚くて重いのですが、ぜひ1度は目を通すようにして下さい。最低限必要な情報が掲載されています。また昭和30年代の大合併で消えた村が作成した『××村史』や、さらに細かな地区レベルの記念的な冊子も作られています。これら自治体史は、作成から10〜70年経っており、その後の在野の郷土史研究や、発掘、発見により、当時は分かり得なかった事柄も判明しているかもしれません。 その他に長野県には偉大な歴史家と呼ばれた人々が残した遺産もあります。どこかで1度は聞いたことがあるという人もいるかもしれませんが、藤森栄一さん、市村咸人さんなどが記した書物は、その内容で優れています。
こういった情報は、誰もが教えてくれるものではありません。偶然知人に教えてもらうか、自分で気付くしかありません。卒業論文に取り組み学生が苦しむ最大の要因が、史料不足ですが、これはどんな史料がどこに存在しているのか?、さらにその史料を誰かが研究し、それをどこに行けば見ることができるのか?といった情報が、ほとんど目に見える状態で存在していないからです。インターネットが普及した現代でも、どの郷土史研究会や博物館等で、どういった研究が過去にされ、実績をあげているのか?現在に至っても数%も見ることができないと感じています。
このような膨大な郷土史研究には、根拠となる基礎史料や補足史料が存在しています。県内の有名なものでは、『信濃史料叢書(上)(下)』に掲載されている『信府統記』、『千曲之真砂』、『信濃地名考』、『蕗原拾葉』や、『信濃史源考』、『藤森栄一全集』など、こうしたものも見ておく必要もあります。冊子を閲覧する中で史料の存在を確認し、これを探しながら最後には博物館などで保管されている原文にも到達する日が来るのではないでしょうか。
図書館に行くと、奥まったあまり人気の無いスペースに、重厚な冊子群が並んでいます。これが上記に述べた冊子等で、小説や雑誌と違ってあまり見る人も無く、埃まみれの場合もあります。人を近付け難いこのスペースを私は好んで通い、取り敢えず手に取って見てみます。戦前の研究史料などはボロボロで、時折読んでいると腕などが痒くなり、手も真っ黒になります。こうした多くの研究成果を閲覧していると、江戸時代を含めて歴代の郷土史研究家の方々の力量もある程度分かり、時折根拠も無く結論付けている方もいて、そうした身勝手な研究の見極め方も必要になってきます。さらに県内の地域によって、研究の進み具合に大きなバラツキがあり、遅れている地域は残念でなりません。今後の研究に期待したいと思います。 『其之 46』H16.5.15〜H16.6.1 信 濃 の 遊 郭 遊郭を日本史事典類で引くと「公娼制のもとで指定された売春区画」と記載されています。複数の売春宿が集合し、仕出屋、風呂屋、髪結所、飯屋などもあり、1種の社交場的機能をもった1つの街を形成していました。全国では京都の島原、江戸の吉原、大坂の新町、長崎の丸山などがあり、地方にも数十カ所あったと云われています。 明治5年(1872)明治政府は『芸娼妓等年季奉公人解放令』を公布し、人身売買を禁止するとともに、娼妓・芸妓や年季奉公人を解放し、その貸借訴訟は全て取り上げないこととしました。この解放令は江戸の世から業を営んできた者達に衝撃を与え、それはやがて遊郭設置を願い出る運動に発展していきました。明治政府は娼妓を解放しましたが、今後は各地方で独自に規則をつくるようにし、長野県では賛否両論の末、人口の大きな都市から次第に許可されるようになります。 県内では明治10年(1877)松本、上田、長野に遊郭設置が長野県議会で決められ、その後明治17年(1884)までに11箇所が設立されました。
長野県南部の飯田市(いいだし)の長野県合同庁舎(飯田城址)と谷川を挟んで北側に二本松という地区があります。明治から昭和の約70年間に、ここに二本松遊郭がありました。遊郭の入口に小さな社があり、その裏に2本の松がひょろっとあったことから二本松と名付けられていたようです。西側からの幅5m程度の狭い道路の行止りにあたる場所で、数件通った辺りから鍵の手となって、遊郭の奥が見えない構造になっています。 飯田では明治15年(1882)二本松に遊郭設置が長野県議会で可決され、大黒楼、山岸楼、柳川楼、丸井楼、岩亀楼の6軒が開店し、翌年には長姫楼、日進楼、四海波楼、東屋、千代竹、丸鷲楼の計12軒が建ち並びました。開業当初は30人程度の芸娼妓しかいませんでしたが大正7年頃には130人を超えるまでになりました。 戦後の昭和22年(1947)飯田大火では、地形的に火災から守られましたが、昭和31年(1956)売春禁止法の施行により遊郭は廃業を余儀なくされ、多くの建物は貸間やアパート業に転業し、建物は次第に壊されていきました。 先頃も、鍵の手の場所に建っていた久保田楼(丸鷲楼→深川楼→清川楼→久保田楼)が歴史的価値を惜しまれながら解体され、飯田市によって図面と木材の一部だけが辛くも保存されました。 明治20年頃建築、木造2階建て、寄棟造瓦葺き、総床面積660u
シンプルですが、芸娼妓のランクが室内意匠に明確に反映されている建築物で、往時の姿を今日に伝える貴重な建築物です。全国の遊郭建築物も次々と姿を消し、京都の角屋などごく僅かしか現存していません。二本松の現在は、新しいアパートが建ち並び、当時の様子を現地で知るすべがまったく無くなってしまいました。
長野市の明治時代の地図を見ると、善光寺門前通り(北国脇往還)の東側に大きな長方形の城のような施設が見えます。これは敦賀遊郭で、通りから遊郭まで折れ曲がった道をつなげ、1万坪の遊郭を板塀で囲み、西の大門の他に5箇所の非常口を設けました。各地で業を営んできた者達はこの新しい遊郭の中に移転し、明治13年には48軒が集まりました。 敦賀遊郭が突如田園地帯の真ん中に出現したように、日本各地に様々な考え方で遊郭が造られました。しかし、こうした遊郭の歴史の中には犠牲となった多くの女性の歴史があったことも忘れてはなりません。華やかさの裏には病気、死と隣り合わせの辛い日々もあったことでしょう。 『其之 45』H16.4.29〜H16.5.15 飯山戦争から戊辰戦争へ信濃諸藩の歩み 今年も飯山市(いいやまし)の千曲川を背景にした菜の花畑が人気です。この余談については下記に掲載しています。
『其之 44』H16.3.27〜H16.4.29 諏訪大社御柱祭が開催されるによって。 今年、6年に1度の御柱祭が開催されます。御柱祭は、正式には「諏訪大社式年造営御柱大祭」と言います。この余談については下記に掲載しています。
『其之 43』H16.3.11〜H16.3.27 松本藩士伊藤軍兵衛 『NHK新撰組』で松本藩士の伊藤軍兵衛が突如登場して驚きました。 本来であればまったく接点の無い近藤勇等と結びつけるシナリオには脱帽です。この機会なので、軍兵衛について少しお話しをしたいと思います。 テレビで放送されたとおり文久2年(1862)5月29日伊藤軍兵衛23歳は、松本藩、岸和田藩、大垣藩500人が警備をしていた東禅寺(品川駅から徒歩5分)で、2人のイギリス人クリムプとスウィート水兵を殺し逃亡しました。これを史学では「第2次東禅寺事件」と呼んでいます。軍兵衛は何故殺したのでしょうか?、本人の遺書が現存しているので現代語訳略版でご紹介したいと思います。 (以下、伊藤軍兵衛の遺書 略版) 去る6月23日(文久元年)西海寺フランス人お固め(警護)を命じられ、御家中一統穏やかならず。別してお固め所に勤める方々は心配の事と存じます。これに付き、恐れながら未熟の私、昼夜心痛しておりますが、未だ御地不案内の事ゆえ、延引を願い、またよろしく節もあるので差し控えておりました。 7月16日西海寺残らず引き取りになり、お固め御免を蒙られ、恐れながら大喜びしていましたが、またまた8月23日東禅寺イギリス人へお固め替えを仰せ蒙られ、そのことを御在所で聞かされました。 9月29日江戸へ着府したところ、異人も引き取ったようで安心していましたが、10月9日異人共東禅寺へ到着したとのことで、同日東禅寺警備を申し付けられたので、是非も無く出向いたところ、婦人などを召し連れ江戸見物等をするとの意向で、誠に心外である。 恐れながら御公儀は申し及ばず、御藩主様を恐れて、そのまま放置していましたが、国中の下人などに至るまで難渋し、且つ又去る6月以来ただ今までの御入用(警備にかかる費用)少なからず、このまま長々と御勤めすれば、お勝手(財政)はもちろん、松本御家中をはじめ、町に至るまで難儀をするのではないかと思います。これにより国の衰えともなるのではと深く考見しましたが、大変の元と恐れながら恐察しました。
日の本の為とおもふれ切る太刀は なに伊藤へき千代のためしに
※この遺書を書いた翌30日軍兵衛が切腹しているのが松本藩邸で発見され、事件の首謀者が彼だと発覚しました。 当日は英国公使オールコックが帰国し、代わりに陸軍中佐ニール(J.Neale)が代理公使として、水兵30人を引き連れて5月15日から東禅寺(仮公館)に赴任していました。1年前の文久元年(1861)5月28日に水戸脱藩浪士が東禅寺を襲撃して日本人どうしが斬り合いになりました(第1次東禅寺事件)。この日はそれからちょうど1周年にあたり、再び水戸浪士が襲撃するのではないかとの噂がしきりに飛び交っていました。 事件の後、6月1日ニールが幕府に抗議をし、犯人の処分を強く迫ります。オランダやフランスもあわせて幕府に抗議しました。翌2日松本藩は警護を解雇させられ、代わりに田中藩(静岡県藤枝市)が警護役を命じられました。そして、町奉行の石谷穆清が幕府の命により、松本藩士番頭の友成覚右衛門など14人を尋問しました。 6月3日幕府は正式に謝罪し、6月13日、7月23日老中らがニールを接待してご機嫌をとります。8月5日松本藩主差控(謹慎)、軍兵衛が遺書を託した豊島広右衛門などは押込処分とされました。10月13日ニールは1万ポンドを要求し、幕府は生麦事変(薩摩藩による事件)賠償金と共に、ニールに支払いました。 『其之 42』H16.2.22〜H16.3.11 信州の歴史を訪ねて【阿島知行所 旗本知久】 小春日和の暖かな日差しのもとで、長野県南部(下伊那地域、天竜川東岸)の喬木村(たかぎむら)を訪ねてみました。目的は130年前まで喬木村を領地としてきた知久氏がここでどのように生きていたのかを知るためでした。 今年3月26日(金)〜28日(日)7年に1度の『飯田お練りまつり』が飯田市で開催されます。下伊那地域に残る30余りの獅子舞が集合し、20m近くになる豪壮な舞が楽しみです。この余談については下記に掲載しています。
『其之 41』H16.1.30〜H16.2.22 歌詠みから感じること テレビやパソコンの無い時代・・・ 人々の社交の手段や趣味、楽しみとしての時間の過ごし方はどのようだったのでしょうか。江戸時代これらは祭り、旅行、歌舞伎、絵、俳句、和歌、漢詩などにより営われていました。俳句、和歌、漢詩にいたってはサロンと言われるような、いわゆる知識人を中心に、豪農や豪商、庄屋や武士などが数人集まり、日頃鍛錬している自身の技を披露する場を開くなどして交流を深めていました。
和歌は31文字の中に心を表現する文化として、農民から武士層まで幅広く受け容れられていました。徳川幕府が200年を経過した頃花開いた文化を化政文化といいます。文化1804−文政1830年間前後に興ったこの一大文化運動の中で、近世和歌のトップと言われた人物が『香川景樹』です。桂園派と言えば教科書で見た記憶があるかと思いますが、中世やそれ以降の和歌のあり方を批判し、「歌とは調のみ」「調は誠のみ」「誠とは真心」「真心とは人の心の中に内在する自然の心で不変の情である」とした和歌を提唱した人物です。景樹は特に古今和歌集を好み、山上憶良と柿本人麻呂を尊敬していました。
『あなくるし何ぞは老てむかしより まれなる年のうきにあふらん 景樹』
香川景樹には数千の弟子がいたと言われるのですが、その中でも優秀な弟子が桂門十哲(年月によって変化)です。そこに『桃沢夢宅』『内山真弓』の名が出てきます。この2人は信濃国の人物で、信濃国に桂園派の和歌を広める役割を果しました。 桃沢夢宅は、伊那郡飯島本郷村(飯島町)の名主で、香川景樹より30歳も年上だったのですが、香川景樹が香川家の養子となる頃からの知り合いで、かなり交友が深かったようです。 内山真弓(男)は安曇郡十日市場村(池田町)の名主で、25歳で上京して弟子となり、景樹の秘書役を勤め、郷里と京都とを幾度となく往来しています。「歌学提要」の編修者。
『梅の花あればぞ来なくうぐひすを 我をとひぬとおもひけるかな 真弓』
さらに桂園派を経済的に大きく支えた萩原貞起(筑摩郡和田荒井 現松本市)や、西郷元命(松本藩家老)、林良本(松本藩家老)、丸山辰政(須坂藩家老)などの藩の重役も弟子となっていました。 幕末の尊皇攘夷思想として社会的に影響を与えたのは水戸学の他に、契沖、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤に始まる「国学」です。この国学と和歌は密接な関係にあり、復古主義といわれる儒教や仏教に侵される前の日本文化に還ろうという思想が和歌にも適用されました。香川景樹は和歌の中で単に復古することを否定しましたが方向性は一緒であり、こうした古に還る思想が和歌を通じて信濃国内にも広まり続け、平田国学などと共に幕末の信濃勤王思想を強めていったのではないかと私は感じています 『其之 40』H16.1.14〜H16.1.30 幕末の京都と信濃 江戸に信州各藩の藩邸があったことはご存じだと思いますが、今回は京都にも藩邸があったことをご紹介します。 京都の地は歴史的価値のある地にまた価値のある地を再築していった場所で、様相を時代毎に変化させていった都市になります。慶応4年(1868)=明治元年は徳川幕府が消滅した年になりますが、この時に作成された『京町御絵図細見大成』という絵図を見ると京都に屋敷を持つ大名が74家みられます。そのほとんどが西国の大名ですが、中に信濃国を含めて東国大名が10家含まれています。薩摩藩や鳥取藩などの複数の藩邸を所有する藩がありますが、ほとんどが1藩1邸で信濃国の大名としては松代藩(真田家)、上田藩(松平家)、飯田藩(堀家)が保有していました。 それでは、このような信濃諸藩の京都藩邸は何故建設されたのでしょうか、幕末の世相から探ってみたいと思います。
元治元年(1865)蛤御門の変に破れた長州藩を征伐するために江戸にいる将軍徳川家茂の上洛が様々な形で画策されました。しかし、将軍が上洛しないまま尾張藩主徳川慶勝を総大将として10月から始まった戦闘は11月には和議により終了してしまいます。そして、その和議の内容に不満を持つ幕府の重臣等は、再び長州藩を攻撃する準備を開始します。慶応元年(1865)5月いよいよ将軍家茂が江戸を出発して上洛し、長州再征の勅許と条約の勅許、兵庫開港の奏請が行われますが、調整が難航して将軍辞職や江戸への帰府などの駆け引きが大坂や京都で行われます。こうした事に関係して信濃国の諸藩主も上京しました。 松本藩主戸田丹波守は、この時将軍家茂に従って大坂と京都の間を往来し、7月には長州征伐のために出陣し8月広島に着陣しました。しかし、将軍家茂が逝去した為に撤兵となり11月15日大坂を経由して江戸へ戻りました。 松代藩主真田信濃守幸民は、慶応2年(1866)3月9日夏期京都宿衛を命じられ上京します。そして、6月から第2次長州征伐が開始され真田幸民は引き続き秋期京都宿営を幕府に命じられますが拒み、重臣を京都警固に残して自身は信濃に帰城しました。 飯田藩主堀石見守親義は文久2年(1862)に設けられた京都守護職の管轄下である京都見廻役に慶応2年(1866)11月任命されて天皇に拝謁しました。翌年3月24日にはその任を解かれますが、年末まで滞京していたので大政奉還の際には京都に居たことになります。
このように一見関係無さそうな幕末の京都においても信濃諸藩が関わりを持っていました。政治の舞台が江戸から京都へ移り数々の役割をあてられるのですが、長期にわたる藩兵の滞京で寺社や商家に宿泊する訳にもいかず、必然と藩邸の建設となったのでしょう。
京都の町屋は、安政元年(1854)の大火や元治元年(1864)の禁門の変で多くが類焼しました。京都町奉行は再三にわたり復興促進の御触れを通達しましたが、多くの町人が経済的な負担にたえられず普請は遅々として進みませんでした。そうした中で、京都に拠点を必要とした大名は広大な用地を町人から半強制的に買収し藩邸を築いたのでした。巨大な幕府の京都守護職邸などの建設もこれと同様です。 将軍の上洛や長州征伐、戊辰戦争など数千、数万の武士が滞在し続けた京都の町は、宿泊や食料の調達で大きく影響を受けていったと言われています。それで財を成す町人や、出費に窮乏する大名、突如京都の街中に発生した広大な邸宅は、こうして造られたわけです。 『其之 39』H16.1.1〜H16.1.14 新年のご挨拶に先立ちまして、本日は『歴史』についてお話をさせていただきます。 小中高などで受験のために歴史を勉強していますが、授業を受けている人の中では「何故こんな事を勉強しなければならないのか、役に立つのか?」などと疑問に思った人は多いのではないでしょうか。このHPを御覧になっている方々はすでに歴史を好んでいる人がほとんどだと思われますが、特にこれから歴史を学ばれていく人には『歴史』を学ぶことの本当の意味を知ってもらいたいと思います。
『歴史』とは、人間が人間の生きる道を学ぶ道しるべです。人間の一生は時間が限られているように、その中で多くの生きる道に関するエッセンスを学ぶことには限界があります。歴史の本などを読んで面白いと感じている人は、このエッセンスを知らぬまに感じ取っているのです。親が子にしつけを教えるのもこれに近いのではないでしょうか。 これまで他の人間が歩んできた道を『歴史』として学ぶことによって、自身の道を選択する視野や知識が身に付くことになります。最近、人を簡単に殺害したり、自由という言葉を拡大解釈して法律に抵触しない限り何をしてもよい風潮が見られます。こうした要因は、人の道を知らないことから起こるものです。学校の中でこそ教えない事を人が知るよしも無く、今後もますますこうした負の人間が増えてくことでしょう。 私が中国に行った時、ふと隣に座っていた某有名大学生らしい日本人が中国の人に戦争の原因を説明していたのですが、学校で習った単語と小説などを混同させた説明をしており、大変悲しい思いをさせられました。
「学問は歴史に極まり候」という江戸時代の学者である荻生徂徠の言葉がありますが、これは歴史の中にこそ人間の知恵や生きる道が示されているということを述べているものです。江戸時代の頃までは人の道徳は歴史の中から学んできました。それが次第に政治的な精神へと結び付き反省すべき戦争へと発展していったのですが、あまりにひどい戦前の反動を受けて『歴史』はいつか敬遠される実用性の無いものとされてしまいました。最近、「愛国心」という言葉が教育の中で耳にするようになってきましたが、この言葉の意味するところを知るにも『歴史』を限り有る時間の中で大切に知る必要があります。 .....四方赤良” |
(其之83以降) (其之82以前) (其之76以前) (其之71以前) (其之63以前) 四方赤良余談1 (其之52以前) (其之38以前)
四方赤良とは 1749〜1823 平賀源内との出会いを契機に19歳で狂詩集「寝惚先生文集」を出版。以後、狂歌・洒落本・黄表紙と活動の範囲を広げる。また「菊寿草」「岡目八目」は黄表紙の評判記として影響力をもった。軽妙な笑いと機知は広く歓迎され、天明期を制するが、寛政の改革に抵触して筆を断つ。晩年、役人の仕事に専念する。
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