四方赤良の余談集2

 


四方赤良

けはひたる妻戸の妻のかほの上にぬりかさねたるべに坂の山・前田慶次郎

『其之 63』H17.12.1〜H18.1.1

 

 

 天文14年(1545)私こと小僧丸は、大膳大夫信濃守 小笠原長時の3男として生まれました。林の御館( 松本市 )という山城の麓にある屋敷に暮らし、私には守護の息子として前途洋々の人生が待っていました。しかし、私が5歳の天文19年(1550)、父長時が宿敵 甲斐国の武田信玄に塩尻嶺の合戦で大破し、次々と城が落とされ、生まれ育った林の御館を離れることになりました。馬にゆられて梓川に沿った長い道中を進み、二木豊後守が籠もる中塔城( 松本市 、旧 梓川村 )に兄や叔父達と入りました。父はそこで武田信玄に徹底抗戦していましたが、それまで従っていた者達が次々と裏切り、無念から切腹しようとしましたが二木に止められ、剃髪して湖雲斎と名乗り、天文21年(1552)大晦日、中塔城を捨てて、北信濃の高梨殿を頼って草間( 中野市 )へ行きました。そもそも武田は小笠原家とは同族であるのに、何故これほど争わなければならないのでしょうか。「鎌倉の時代、逸見源太清光の2男武田信義と3男の小笠原遠光は兄弟。お互いに甲斐守護と信濃守護を朝廷から受け、累代別々にこれらの地を治めてきた。」と、父は常々口にしていました。

 天文23年(1554)父は領土回復をあきらめず、弟の小笠原信定殿が武田と戦っている伊那郡の鈴岡城( 飯田市 )へ向かいました。私達は危険であると言われ、高梨殿を通じて上杉謙信殿の春日城下( 上越市 )で暮らすことになりました。上杉殿は私達のためにしきりに信濃へ出兵されて武田と戦い、母はいつも感謝の気持ちを忘れてはなりませんと私に言っていました。ある時、父のいる鈴岡が落ちたと知らせがありました。父は三河を経て伊勢国の外宮御師を務める榎倉武国殿という方に厄介になっているとの便りがあり、無事で安堵しました。

 弘治元年(1555)父が同族である三好長慶という方を頼って、都で落ち着いたとの知らせがあり、私達も向かうことになりました。長慶殿は近畿一帯の覇者で、私達はその領土内の摂津国芥川城下(大阪府)で生活することになりました。父は100貫の領地をもらって、三好家や将軍足利義輝さまに弓馬の師範をしていました。

 それから3年後の永禄元年(1558)、私は元服して名を小笠原喜三郎と改めました。時折、信濃において上杉殿と武田が激しく争っているとの話が耳に入ってきましたが、生まれ故郷に帰れる日はまだ遠そうでした。父はまだ諦めていないようでしたが、私はすっかり都の生活が気に入ってきました。そしてまもなく、父から秘伝の小笠原礼法を伝授され、私も公家や各地の武将との交流が増えてきました。そんな折、ご縁で日野大納言様の息女を嫁に迎えることになり、幸福に暮らしていました。しかし、都での生活が10年も経とうとした永禄7年(1564)、三好長慶殿が死亡し、我々は家臣であった松永久秀の下に置かれることになりました。彼は足利義輝さまを殺害したり、東大寺を焼くなどし、三好一党内は混乱していました。そのような中で、永禄11年(1568)昨今著しく勢力を広げてきた尾張国の織田信長という者が軍勢を率いて入京してきました。私は三好義継殿に従って桂川で初めての合戦に臨みましたが、叔父の小笠原信定殿が討ち死にするなどして破れ、芥川城も落ちました。母は織田方へ捕らえられ、私は父や叔父の貞種殿などと共に多聞山城(奈良県)に立て籠もりました。しかし、これ以上戦っても勝ち目はなく、三好義継殿や松永久秀殿も織田殿へ従ったので、我々も降伏しました。私は子も生まれ、妻の実家である日野殿とのご縁もあるので京都に留まり、父から伝授された礼法を織田の各将などへ師範していました。そんなこともあって、私は信長殿を通じて従5位下右近大夫という栄誉に叙位されました。

 それから4年後の天正元年(1573)、武田信玄が死んだとの知らせが私と父のもとに届きました。このことに父がどれほど喜んだことか、父は思案の末、織田殿との縁を私に任せ、自身は深志を取りもどすために再び上杉謙信殿を頼って、越後へ向かいました。既に50も過ぎていたので、あちらで無理をしないかと心配でしたが、上杉殿は父を賓客として500貫もの領地を与えてくださいました。越後での父は、越中国や関東まで出かけて反武田の工作をし、私は織田殿が信濃へ出兵してくださるように嘆願し続けました。そんなかいもあって、天正3年(1575)

三河の長篠(愛知県)で武田軍が織田殿に大破し、いよいよもって深志へ帰れる日が近づいてきたように感じられました。しかし織田殿はすぐには信濃へ出兵せず、ただ待つ日が続きました。

 天正6年(1578)、上杉謙信殿が突然死亡しました。そして、その跡継ぎを巡って争いが起こり、宿敵武田の影響力が上杉家まで及んできたので、父は越後に居られなくなり、天正7年(1579)会津国の芦名盛氏殿を頼っていくことになったと知らせがきました。父は星味庵という場所で暮らしていましたが、しばらくすると私を都から呼び出しました。6年ぶりに父と再会しました。父は70近くになり、随分年をとったと感じました。父は私に家督を譲ると言い、400年続く小笠原家の家宝や旗印を与えられました。そして私は、名を小笠原貞慶(さだよし)と変えました。

 天正10年(1582)3月、織田殿の軍がいよいよ信濃へ進軍しているとの急報が会津に届きました。かねて織田殿から「信濃へ出兵せよ」との催促があったので、私は父を会津に残し、さっそく譜代の者を引き連れて30年ぶりに信濃へ出陣しました。上杉と武田は同盟していたので、越後口からの入国は厳しく、飛騨国まで迂回してようやく安曇郡の金松寺へ入ることができました。しかし、既に武田家はことごとく滅び、深志一帯は織田軍に制圧されていました。さっそく上諏訪の法華寺( 諏訪市 )に滞陣していた信長殿へご挨拶に出かけたのですが、何故かお目通りが叶わず、さらに深志は木曽義昌へ与えられたことを知って大変落胆しました。しかたなく妻と子がいる都へ戻り、父に合わす顔もないので酒びたりの生活をしていましたが、7月の夜都で騒ぎがあり、信長殿が本能寺で討れました。誰もがその後継を巡って大きな戦が起こると言っており、私はこの機会にかねてから懇意にしていた徳川家康殿を頼って三河へ行くことにしました。

 岡崎城(愛知県)に着くと、信濃進出を狙う徳川殿は私を用いようと喜んで迎えてくれました。家来の石川数正殿へ私の世話を命じられ、「既に深志の木曽義昌は上杉軍(景勝)に攻撃されて逃げ去り、上杉軍に担ぎ上げられた叔父の小笠原貞種殿が治めている」と、話してくださいました。徳川殿の勧めもあって出兵の準備をしていると、有賀と平澤という者が、二木一族と征矢野の書状を持って私のところへやってきました。二木は私に「深志へ来て領地を回復してもらいたい」とのことで、ひとまず溝口・犬甘・平林など譜代の15人と共に伊那郡へ向かうことにしました。鈴岡城は武田によって破却されていたので、既に徳川殿に従っていた一族の下条頼安がいる吉岡城( 下条村 )へ入りました。すると伊那郡の旧家臣達が兵を引き連れて集まり始め、父と流浪の日々を送った箕輪の藤沢頼親も兵を率いて参陣してきました。私はこれらを引き連れて北上し、塩尻に布陣して小笠原の旗印を高々と掲げました。すると父の家来だった筑摩郡や安曇郡の者達が次々と集まってきました。彼等はみな上杉の傀儡となっていた貞種殿に不満を持ち、父の深志入りを待ち望んでいたとのことでした。そして兵も集まったので、いよいよ深志城の小笠原貞種殿と上杉軍を攻撃しました。城の抵抗は激しく、鉄砲で箕輪の者共が多く討死しましたが二の丸まで落とし、やがて私がいることを知った貞種殿が、総領家に反抗するわけにはいかないと、城を明け渡してくれました。

 こうして7月18日念願の深志回復を果たすことができました。私は長い都生活において、これからの時代は商売がものをいう時代だと確信しました。武田が築いたこの深志城を中心に、富んだ城下町を整備することを決意しました。私はこれを記念して、家臣一同へ宣言をしました。「今後、深志を改めて松本と号す」

 


『其之 62』H17.11.3〜H17.12.1

 

 今から千年以上昔に書かれた『孫子』という書物があります。

 これが有名な孫子の兵法といわれるもので、全部で13篇に分けられる中国で最も古く優れた兵書になります。その内の軍争篇の1節に「其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆の如し」とあります。この言葉を生涯旗印の文字とした男が、言わずと知れた武田信玄になります。ちなみに『風林火山』とそのまま書かれていたのではありませんので注意!

 さて、2007年のNHK大河ドラマが『風林火山』に決定しました。井上靖原作で信玄の軍師をつとめた山本勘助が主人公のドラマだそうです。武田信玄はその強さから全国でもファンが多く、もちろん信州の人々にとっても人気No1の戦国武将に違いありません。さらに信濃国が武田信玄の領地であったことも1つの自慢のような感情を抱かせています。しかし・・・果たして武田信玄が生きていた時代に、現代の私達が抱くのと同じ感情はあったのでしょうか?数百年の時が経ち地元の歴史も忘れ去られ、全国的な小説、テレビ、本などを通じて伝えられた武田信玄の強烈なイメージによって、いつしか信濃国の人々が受けた恨みや痛みは消し去られていきました。

 

 信濃国は武田氏に統一された甲斐国と違って、南北朝の動乱期から安曇・筑摩郡の小笠原氏、小県郡・埴科郡の村上氏、諏訪郡の諏訪氏、木曽郡の木曽氏、高井郡の高梨氏に勢力が分散し、信濃守護職も小笠原と村上が交代(ほとんどは小笠原氏)で任官されていました。その他の地に点在する小勢力は、小笠原か村上のどちらかに従属していました。

 応仁の乱が終わって40年が過ぎた頃、信濃国は武田信玄の父である信虎と戦っていました。宿敵とも言っていい武田信虎は、幾度となく国境の佐久地方や諏訪地方に侵略して村上氏や諏訪氏と争っていました。武田氏にとって南に巨大な今川氏が存在する上は、北の分裂した信濃に進出するしかなかったのでしょう。その跡を継いだ武田晴信も、朝廷から源信濃守大膳大夫に任官されるなど信濃への執着を抱き、下記のように次々と侵略をしていきました。

 

 天文10年(1541)韮崎の戦い(村上義清・小笠原長時・諏訪頼重)

 天文11年(1542)瀬沢の戦い(信濃連合軍)首1621

           平沢の戦い(村上義清)首319

           諏訪へ侵略(諏訪頼重)首200余

           諏訪頼重を甲府にてだまし討ち

           伊那へ侵略(高遠頼継)首700余

           大門峠の戦い(村上義清・小笠原長時)首1721

 天文12年(1543)依田窪、佐久平へ侵略

 天文13年(1544)

 天文14年(1545)伊那の戦い(高遠頼継)首1000余

           松本平へ侵略

 天文15年(1546)内山城の陥落(大井貞清)

 天文16年(1547)志賀城の陥落(笠原清繁)

           諏訪の戦い(小笠原長時)首100余

 天文17年(1548)上田原の戦い(村上義清)首2919

           諏訪の戦い(諏訪西方衆の反乱)首300

           塩尻峠の戦い(小笠原長時、木曽義昌)首1000余

           松本平へ侵略

           佐久の戦い(前山城等の陥落)首5000余

 天文18年(1549)佐久の春日城の陥落、平原城を攻撃

 天文19年(1550)林城の陥落(小笠原長時)

           村井の戦い(小笠原長時)首1493

           戸石城の戦い(村上義清)首192

           真田幸隆の裏切り(村上義清)首500

 天文20年(1551)戸石城の陥落(村上義清)

           平瀬城の陥落(小笠原残党)首200余

 天文21年(1552)小岩嶽城の陥落(小笠原残党)首500余

 天文22年(1553)苅屋原城、塔原城の陥落(小笠原残党)

           会田・麻績方面を侵略(小笠原残党)

           葛尾城の陥落(村上義清)

           塩田城の陥落

 天文23年(1554)神之峰城の陥落(知久頼元)

           鈴岡城の陥落(小笠原残党)

 天文24年・弘治元年(1555)木曽の戦い(木曽義康)

 弘治 2年(1556)雨飾城の陥落(村上残党)

 弘治 3年(1557)葛山城の陥落

           小谷城の陥落

※信濃国における代表的な戦闘を載せました。首数字は、『高白斎記』『勝山記』『甲陽軍鑑』に記載されている信濃国の人々が武田軍に討ち取られた首帳数字になります。あくまで参考としました。

 

 上の書物でざっと調べただけでも18,000人余の信濃人が武田軍に殺されていました。首数が不明だった戦闘も合わせると2万人は優に超えると思われます。ある本に1600年頃の信濃国の人口が27万人と書かれてあったので、これによると1割近い人が殺されたことになります。この他に、武田軍が戦術として家を叩き壊したり、街を焼き払ったり、収穫前の稲を刈り取ったり、植えたばかりの田んぼをこね回したりと、誇らしげに書かれていました。最近の研究によると、戦国時代の合戦では、武士以外の人間は戦利品(奴隷)と考えられ、攻撃される側の城の近隣に住む者達は、生け捕られるのを避けるために家財をまとめて一緒に篭城し、城から遠い者達は山の中に仮小屋を造って身を潜めていたそうです。

 現在の安曇野市(旧穂高町)の西方に有明という地域があります。そこの安曇野山岳美術館と青原寺の裏山に小岩嶽城という山城がありました。小笠原氏に従い、北安曇を支配していた仁科氏の南方拠点にあたる重要な城でしたが、小笠原氏が敗れた後でも反抗したので武田信玄に攻撃されました。城主の古厩氏はよく守りましたが城は落ち、一緒に篭城していた領地の女子供は殺害されたそうです(首数500)。

 また、佐久市の東方の群馬県境に近い所に、志賀城という山城がありました。ここも武田軍に攻められ、上野国(群馬県)から援軍に駆けつけた高田憲頼などがよく守りました。しかし、小田井(御代田町付近)まで援軍に来た関東管領の上杉軍と武田軍が合戦し、武田軍が2000以上の上杉兵を討ち取りました。そしてその首を志賀城下に並べて城兵の志気をそいで落城させたという逸話があります。『妙法寺記』とい書物には、志賀城の者達を奴隷として生け捕り、2貫、3貫、10貫などと値段をつけて売買したとの記録が残っています。同じ佐久郡の田野口城(臼田町)でも数え切れないほどの女子供を生け捕ったとあり、これら武田軍に対して徹底抗戦した敗残兵は金山に送られ、女子供は奴隷として売られ、城主などの奥方は家臣に与えられていったのです。

 

 占領後の武田氏の政策も過酷なものでした。諏訪頼重、知久頼元、高遠頼継、仁科盛政などの信濃武将は、降伏してから甲府へ連れて行かれて殺害されました。さらに洗馬(塩尻市)の三村長親という武将は、甲府に連行されてから213人の家臣もろとも虐殺されたとの記録が残っています。武田信玄は信濃国内の支配を強めるために各地の名家を乗っ取る方法もとりました。源氏の名門である海野氏、望月氏、仁科氏、諏訪氏を自分の息子などに継がせてその所領を直轄領のように支配しました。降伏した信濃の武将に対してはその所領を安堵するとともに、全土にわたって伝馬役、川除普請、城普請、諏訪社御頭役などの強制労働を命じました。また郷ごと(江戸時代以降の村)に額を定めた棟別銭という税金を全土に課しました。ある家が逃亡したり災害で無くなって払えなくなっても他の家等で負担し、郷として決まった総額を納めるシステムになっていました。これは有力農民の家1棟につき銭200文、その他の家に100文といった住宅を単位とした税で、年貢に次いで武田軍を支える重要な財力となっていました。これを払えない者や労働ができない者には、軍役が待っていました。信濃国は武田軍の信濃先方衆として組み込まれ、領地を安堵した各地の領主に対して、例えば180貫の知行であれば、40人を出陣させ、その内35人は具足を付け、馬は5、鉄砲は2、弓は5、旗は1本などと細かに軍役を規定しました。信濃国は甲斐国よりも多くの人数を出陣させるようにされ、召集された時にそれが守られなければ領地召し上げか死罪でした。これに対して各領主が強引な軍役を領民に課すのを防ぐために百姓以下の参陣は禁止されていましたが、長篠の戦い以後は激減した兵力を補うために15〜60才をことごとく出陣させるように決められました。先方衆と名付けられたように武田軍の先頭にたって戦わされ、川中島や信濃人にとって意味のない駿河・遠州・三河・美濃国での戦いでは多くが死んだことでしょう。一般の民は年貢の他に、こうした戦闘での荷物を運搬する役目も負わされました。こうして武田氏の信濃支配は、信玄が天文5年(1536)に海野口城を落としてから天正10年(1582)の46年間におよびました。

 このような武田氏から受けた苦しみから、織田信長が侵攻してきても信濃で刃向かう者などいませんでした。次々と織田へ寝返り、戦いらしい戦いもせず武田氏は滅亡しました。

 しかし、信濃の平和はまだ訪れません。武田氏滅亡後に高井・水内・更科・埴科郡の領主となった織田信長の家臣の森長可は、これまで以上に年貢を徴収しようとしたので、芋川親正を大将とした一揆が起こりました。大蔵古城(長野市、旧豊野町)を修築して立て籠もりましたが、森軍の猛撃によって1250人余が城外で討ち取られ、城内に残っていた女子供1000人余が切り捨てられたという悲劇が伝えられています。そして、旧武田領を徳川、北条、上杉が取り合い、さらに武田氏に敗れて逃げていた者達が、武田氏の手先となっていた信濃の武将を追討するために各地で戦闘を繰り広げました。こうして信濃での戦闘が完全に終わるのは慶長5年(1600)の上田城の戦い後になります。

 現在、これら中世の時代に使われた山城が長野県内の各地に県指定史跡などの様々な形で保存されています。諏訪から松本を経て長野市へ高速道路で向かうと、上原城→桑原城→林城→犬甘城→平瀬城→光城→青柳城→麻績城→葛尾城→尼飾城などの山城が青空の下でそびえ立っているのを見ることができます。紅葉の信州、走行中は危険なのであまり余所見をしないように気を付けましょう。


『其之 61』H17.10.1〜H17.11.3

 

 今、日常的にあたり前のように使っている道にも歴史があります。

 現代の道路は、可能な限り平坦で真っ直ぐに造られるので、それまで数百年間はどこを通ってどんな形だったのか住んでいる人でも分からなくなってしまいました。昭和30年代頃までは県内の道路のほとんどが砂利道で標識も無く、 その頃までは昔の道路の面影や街並みが至る所で残っていました。幕末から明治初期にかけて外国人が日本の各地を撮影した写真が数多く残っており、それを見ると当時の道がどのようなものであったか良く分かります。

 明治11年にイザベラバード(Isabella L. Bird)というイギリス人女性が、西洋の影響を受けていない日本の純風景とそこに暮らす人々を見たいという好奇心から日本へやってきました。彼女は横浜港を出発地として、人力車・徒歩・馬・船を用いて東北地方の日本海側を巡り、さらには北海道まで踏破しました。その時に彼女が残した日記には次のように書かれています。

「りっぱな道路こそは、今の日本でもっとも必要なものである。政府はイギリスから装甲軍艦を買ったり、西洋の高価なぜいたく品に夢中になって国を疲弊させるよりも、国内の品物輸送のために役立つ道路を造るというような実利のある支出をすることによって国を富ました方が、ずっと良いことであろう。」

明治政府の役人もこのようなことは理解しており、少しづつですが整備を始めていきました。

 

 江戸時代、信濃国内の主要な道の幅は、平坦部で5.5m程でした。今でもお年寄りが「3間道」と呼んでいるような幅の道です。それ以外の道は2m〜人が通れるだけの獣道や畦道のようなものでした。コンクリートや鉄骨を使ったトンネルや橋の技術が無かったので、その頃に村と村を結ぶ道は大きな峠を越えたり、渓流沿いや山腹を曲がりくねって造られていました。 こういった道は雨が降ると土の路面が削られて凹凸ができ、雨量が多ければ崩壊しました。また、橋は木を組んだり、藤の蔓を編んだ吊橋だったので、時間が経つと腐ったり濡れるとツルツルして滑ったり、洪水で簡単に壊れるものでした。このように昔の道は地形に合わせた自然的な道だったので、現代の道路地図で国道などに「○×△街道」と描かれていますが、実際には江戸時代の街道からは、数qも離れてしまっている場合が多くあります。

 昭和27年に公布された新しい『道路法』によると、道路には高速自動車国道、一般国道、都道府県道、市町村道の4種類があるとなっています。信濃国の道は高速自動車国道を除くと、おおむね3段階に整備されてきました。第1に明治時代の改良、第2に太平洋戦争前後の改良、第3に現在の改良となっています。第1段階では江戸時代に人と馬が歩けるだけの道を、人力車と馬車が通れるようにそれまでの道を拡幅しました。そして昭和の第2段階では、自動車がすれ違いできる道に拡幅され、交通量の多い道では宿場や集落の外側を迂回するようにバイパスが造られました。よってこの頃に整備された道の公図を見ると内務省と書かれた道路用地の両側や片側に建設省と書かれた拡幅分がくっついたようになっています。そして現代の第3段階では、大型トラックや貨物車なども自由に走行できるようにバイパスのさらに外側に農地を貫くように4車線バイパスが造られています。

 それでは江戸時代の信濃国にはどのような道があったのでしょうか。

http://www.ktr.mlit.go.jp/nagano/sinsyukaidou/index.html

 

 明治初期というのは何でも初めてづくしで、信濃国内に領地を持つ全ての藩と伊那県が集まっ て、信濃駅逓会議というものが松代(長野市)で開かれました。この駅逓会議の結果は明治3年1月に議定書として公布され、それまで幕府や藩が各々管理していた街道の宿場における人馬数、駄賃、賃銭、役員、給与、定例会、規則などが統一されました。そして議定書には長野県の道として「中山道」、「伊那街道」、「北国往還」、「甲州街道」、「北国西往還」、「雨降街道」、「北国脇往還」の7路線、74宿場が挙げられています。 往還というのは幕府が定めた5街道の支道をいい、更にその支道を脇往還と言います。中山道と甲州街道が5街道で、享保元年(1716)に幕府が名称を定めた「甲州道中」という名称が使われず、「甲州街道」と記されています。「北国往還」とは、中山道の追分宿から分岐して小諸宿〜上田宿〜長野宿〜牟礼宿〜野尻宿〜新潟県境の道になります。「北国西往還」とは、稲荷山宿〜麻績宿〜会田宿〜松本城下〜中山道の洗馬宿に合流する道になります。「北国脇往還」は、北国往還の上田城下〜北国西往還の岡田宿(松本市)を結ぶ道となります。その他2路線は街道と書かれて「伊那街道」は中山道の下諏訪宿〜松島宿〜宮田宿〜片桐宿〜飯田城下〜山本宿〜上清内路宿〜蘭宿(駅逓会議の時)〜中山道の妻籠宿を結ぶ道で、「雨降街道」という名はあまり聞きなれないと思いますが、松代道とも呼ばれ北国往還の矢代宿〜松代城下〜長沼宿〜牟礼宿と再び北国往還へ戻る道です。ここに記載されたということは、荷物の運搬などがある重要な道路だということで、信濃国では今後これらの道を主軸に整備されていくことになります。

 

 維新から10年が過ぎようとしても信濃国内の道は、ほとんど江戸時代のままでした。政治や産業発展に支障をきたしていると危惧した長野県令(知事)の大野誠は、明治11年〜25年の期間で「七道開鑿」という道路整備プランを実行することにしました。これは第1段階の骨格となる道路計画で、他県への出入口となるような県内7路線の中で馬車が通れない部分の道を整備しようというものでした。元来難所の区間なので、測量を行って幾つかのルートの費用を算出し、ほとんどが江戸時代の街道から外れた新道となりました。膨大な予算は、三分の一を国からの補助で、残りを県税と寄付金でまかなうことにしました。戦前の多くの道路整備というものが寄付で行われてきたのには驚きです。

 

整備箇所

整備路線名(県道は正式には仮定県道と云ふ)

@

碓井峠

中山道→国道7号線(18)

A

上田〜松本

北国脇往還(保福寺街道)→県道西街道+県道松本街道(143)

B

飯山〜新潟県境

谷街道→県道谷街道(117)

C

飯田〜愛知県境

伊那街道→県道三州街道(153)

D

大町〜新潟県境

千国街道→県道糸魚川街道(148)

E

鳥居峠

三留野〜岐阜県堺

中山道→国道7号線(19)

F

塩嶺峠

中山道→国道7号線(20)

※参考に表の右欄数字は現在の国道番号

 

これによって整備されたAの明通隧道(青木峠、建設当時はレンガ)などが今でも残っています。これら路線は現代の道に比べて道幅が狭く(4〜6m)、通行止区間や落石があるので見に行く場合は注意が必要です。明治の道路整備では、県の命令で拡張に支障となる路傍の神や仏の石造が多数移動させられました。移動に移動を重ねた石造が今日の場所にあるのです。

 また今回の「七道開鑿」において、いよいよ最新技術を用いた橋梁(Aの上田橋がブラット式トラス)が架けられるようになりました。それまでの橋は、相変わらず舟橋か木橋か吊橋・石橋で、村営や民営で架けた橋などは大蔵省の許可を得て渡り賃を徴収していました。ようやく「七道開鑿」が終了した明治30年を過ぎるとハウ式トラスという鉄骨を組んだ橋梁が次々と架けられるようになりました。現在、戦前の橋梁は老朽化の時期にきており、架け替えや大規模な補修が行われています。このようにして私達が何気なく使っている道は、使う者達の欲求によって形や位置を常に変えながら発展してきました。ただ単に走行するだけでなく、昔の道がどこを通っていたのかちょっと調べると良いでしょう。


『其之 60』H17.9.4〜H17.10.1

 

 春日局のドラマでは、大奥の権力争いと将軍の世継をつくるのに躍起になっているシーンをよく見ることができます。どうしても家光の子に跡を継がせたい春日局は、自分が選んだ側室を次々と徳川家光に輿入れさせ、その中に阿玉(家光の死後は桂昌院となる)という女性がいました。そして彼女はとうとう次男の徳松を産みました。後に徳松は5代将軍徳川綱吉となり、その実母である桂昌院は絶大な権力を手に入れることになります。桂昌院には実の弟になる足利藩(栃木県)の本庄宗資(旧安田邸庭園を造った)という人物がいました。本庄宗資は江戸藩邸に姉と徳川綱吉を招待してもてなし、息子達を綱吉に紹介しました。その中に、跡継ぎがいなかった与板藩1万石牧野家の養子となっていた3男の牧野康重もいました。康重は桂昌院に可愛がられ、宴の中で5千石を加増されて小諸領1万5千石を治めることになりました。それから180年余が過ぎた牧野家の小諸藩、幕末の目まぐるしい世相の中で大事件が発生しました。映画やテレビで、次々と刃向かう者を弾圧したり、私腹を肥やす悪家老を見ますが、しょせんフィクションだという嘲りを消すことはできません。しかし、小諸藩には本当にこの悪家老が存在しました。その名も『加藤六郎兵衛成美』。

 9代藩主牧野康哉(やすとし)の正室は早くに病死し、飯田藩から嫁いできた後妻も理由は分かりませんが直ぐに離縁されました。そして2人の召使いが天保12年(1841)生まれの長男 康済(やすなり)と、弘化元年(1844)生まれの次男 康保(やすもり)を産みました。そして彼らが20歳を過ぎた文久3年(1863)父の牧野康哉が病死し、跡継ぎをめぐって家臣が争いを始めました。

○牧野康済派:長男

  牧野成聖(江戸家老)、加藤成美(城代家老)、村井藤左衛門(用人)、稲垣左一兵衛(用人)、笠間与左衛門(用人)

 

○牧野康保派:次男

  牧野成澄(国家老)、太田宇忠太(用人)

 そもそも牧野家は、長岡藩(新潟県)の牧野家を宗家とし、分家である小諸藩は重大事を宗家に伺いを立ててから決める慣わしになっていました。当然ながら今回の跡継ぎ問題でも宗家の意向を仰ぐことになり、長岡藩の申し出により長男の牧野康済が継ぐことになりました。しかし両派に大きな争いのしこりが残りました。その翌年の元治元年(1864)11月、水戸浪士が領内の中山道を通過した際に、戦わずに小諸藩兵を引き上げさせた牧野成澄と太田宇忠太を処分しようとする動きが出ました。藩主の牧野康済も自分に対立した2人を処分するのに異論はなく、牧野成澄は家老職取り上げ、太田宇忠太は謹慎を申し渡されました。
 この処分に不服な牧野成澄の息子の牧野成道(用人)は 、太田宇忠太と組んで、父を陥れた加藤成美一派への復讐を画策しました。まず藩主夫人の楠子を巧みに味方に付けて同士を集い、加藤成美一派の悪行を藩主に告げ口しました。それを本気にした藩主牧野康済は、加藤成実一派の処分を決定しました。特に加藤成美の処分は根深く、最も恨まれたと見え、蟄居と面会制限、城下屋敷の没収が言い渡されました。当然ながらこうした 処分に不服な彼等は長岡藩へ訴えました。今回の小諸藩の騒動を懸念した長岡藩は、河井継之助を派遣して調停を図ることにしました。そして結局全ての家臣の処分を無効にし、牧野成聖は何ら加担しなかったことから逆に加増されました。この騒動の最中に牧野成道、太田宇忠太、真木則道が家老に就任しており、小諸藩では 1万5千石の小大名ながら5人の家老が存在することになりました。さらにこれ以上争いが起こらないように、次男の康保を岡崎藩(愛知県)本多家へ養子に出すことが決まりました。

 

 慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いを端にして戊辰戦争が勃発しました。3月小諸藩は尾張藩を通じて朝廷へ勤王を誓い、小諸藩は出兵免除と代わりに碓氷峠(軽井沢町)警備の願いを朝廷に出して認められました。 信濃諸藩が越後経由で会津(福島県)攻撃に向かう中で、小諸藩は全く戦闘をせず、碓氷峠に新関を設けて2小隊交代で警備をしていました。そして間もなく長岡藩が朝敵となって攻撃されることになり、5月には落城しました。長岡藩主牧野忠恭は家臣と共に会津へ逃亡し、竹山定右衛門という長岡藩士が密かに会津を脱出して小諸藩へ庇護してもらえないかと訪ねてきました。筆頭家老の牧野成聖が京都へ行って留守であったので、家老の真木則道と牧野成道が独断で竹山を匿うことに決め 、奉行の高崎郁母邸に隠れさせました(後に東京に潜伏)。
 本州での戊辰戦争が終わった明治元年(1868)11月7日、新政府の役人である刑法官巡察使の松岡と新川の2人が小諸の視察にやってきました。2人は小諸宿本陣(国指定重要文化財)に逗留して小諸藩内の様子を藩士から諮問しました。この時、対立している牧野成道一派を憎む加藤成美は、牧野成道一派が竹山を匿っていることを自ら刑法官へ密告しました。そして11月9日加藤は刑法官からの何ら指示も待たずに、「刑法官巡察使の命令だ」という名目で藩兵を差し向け 、家老の真木則道と牧野成道、奉行の高栗儀人と高崎郁母の4人を捕らえました。捕らえられた4人は切腹も許されずに直ぐさま斬首となり、残された家族は屋敷も取り上げられて領内からの退去を命じられました。さらに京都などへ遊学していた4人の息子も捕らえて幽閉しました。この処置に驚いた刑法官は、加藤を本陣に呼びよせて「私はそのような処置を命令していない」と責め、東京へ急いで戻って行きました。これによって加藤は刑法官巡察使の命令というのを急いで取り消して、藩主の命令だと 変更して領内へ触れました。

 牧野成道一派を処分した加藤成美は、腹心を家老や用人職に就けて体制の強化を図り、自分に反発する小諸藩士を次々と幽閉し、意見する商人・百姓・僧侶まで捕らえました。さらに京から筆頭家老の牧野成聖を呼び戻して隠居を命じました。こうした加藤の暴虐に対して、ついに勇敢な者達が小諸を脱出して東京へ向かい、新政府へ訴えました。彼等が東京へ向かうための碓井関所の通行券を発行した奉行の押兼文三郎は、加藤の怒りをかって毒殺されました。

 国元の混乱を知った藩主の牧野康済は驚き、11月13日直ぐさま新政府へ4人の斬首について報告をして康済は自ら謹慎を申し出ました。12月4日には領内へ自分が謹慎したことを触れて神事や祭礼を行わないように命令しました。そして加藤に隠居させられた牧野成聖を復職させて全権を委任し、加藤派を辞めさせて騒動を収めることを命じました。さらに12月6日伊那県に口添えをしてもらって「私は勤王の他には無く、家臣も総入れ替えしました」と弁明してもらいました。12月12日加藤は東京に呼び出されて新政府に尋問され、明治2年(1869)1月29日淀藩邸で抑留されることになりました。その他、加藤派の者達も次々と東京へ呼び出されて長期間にわたって尋問されました。

 加藤成美は抑留されているので、一派の者達の仕業だと思われますが、尋問による東京への旅費などのために大金が必要となり、藩内の御用達を呼び出して御用金を出すように命令しました。しかし彼等は断固として拒否したので加藤一派は怒り、屋敷や蔵にまで税を課す新税の実施と、春に種籾を下付する制度を廃止すると領内に触れました。これを聞いた農民達は嘆願書を提出しましたが、加藤一派は次ぎに嘆願したら打ち首にすると回答したので、農民達は一揆の準備を始めました。これを知った牧野成聖は、8月5日各村の名主を小諸城に集め、加藤一派が出した新税などを中止することを伝えました。 これによって一揆はかろうじて防がれました。
 

 9月20日今回の騒動に対して新政府の処分が下されることになり、藩主の牧野康済は礼服着用で呼び出されました。そして牧野康済には正式に謹慎が申し渡され 、加藤成美は笠間藩おいて永禁錮、太田宇忠太、牧野成省、木俣成勲、笠間景徳、牧野正直の5人は禁錮、その他9人が謹慎、打首となった4人の家族は家を再興すること が命令されました。


(以下、新政府の判決文を簡略しました)

 

 小諸藩  加藤六郎兵衛(成美)


その藩、昨年 の騒擾(戊辰戦争)の節、飯山出兵において勝手に引き揚げた事について列藩からの嫌疑もある最中、宗家隠居拙堂(長岡藩)の内意をもって家来竹山定右衛門 が哀訴のため依頼来たり、牧野八郎左衛門外3人が申し合わせて潜伏させた事を承知した上は、篤と情実を取り糾して相当の処置をすべき処、その儀なく、 刑法官巡察使の新川去病が私語を体として、監察司内の沙汰であったかのように飾り、みだりに斬罪に及び、その旨を藩中へ相達し、再び主命 (藩主の命令)にて斬罪を申し付けたと触れなおした。

 直ちにその後、前件の事について刑部省で取調べがあることを分かっていながら、妄に権下 (家臣など)へ、私の曲直を正すことについて心底に不届である。この度きつく申し付けるべきところ騒擾中なので、出格の寛典を得て永禁錮を申付け候。


 九月二十日  太政官
 

 

 新政府の判決文を見ると、「刑法官巡察使の新川去病(しんかわさるやむ)の私語を体として」と書かれています。新川が加藤にヒソヒソ声で「このような問題が明るみに出る前に内々に処分したら如何?」とでも言ったのでしょう。田舎者の加藤は新政府の役人からの言葉を本気にして処刑してしまったようです。小諸騒動について書かれた本を見ると加藤の残虐性が際立って書かれており、家臣への弾圧をみるとかなりの悪人だったように思われます。まるで小説のような状態が小諸藩で起こり、多くの人々が苦しみました。
 謹慎した藩主は、間もなく家臣一同の嘆願書と自主的な版籍奉還願によって2ヶ月も経たない11月10日に謹慎赦免となりました。そして12月7日版籍奉還が認められて牧野康済は小諸県の知藩事に任命されました。小諸藩は天狗党追討や飯山戦争で勝手に兵を引き揚げたり、戊辰戦争への出兵を断ったり、捕らえた赤報隊員への無慈悲な処分、明治3年には強圧的な態度で川西騒動という1万人の大一揆を引き起こすなど、信濃国の他藩と比べて何か違った家風を感じさせます。現在の小諸市では少しずつですがこの頃の街並みが整備され、小諸城と城下の北国脇往還を歩いてみるのも楽しいかもしれません。 


『其之 59』H17.8.5〜H17.9.4

 岐阜県と長野県の境に賤母(しずも)という場所があります。ここはつい数ヶ月前までは長野県木曽郡山口村でしたが、今は岐阜県中津川市となっています。木曽川の断崖とJR中央本線や国道19号が絡み合って走るこの細い谷間で、90年前に木曽の人々を苦しめた大きな歴史の転換期がありました。

 日本は、明治維新から文明開化と富国強兵を推し進めました。これにより紡績などの工場機械の動力となっていた蒸気機関等に代わり、明治20年(1887)日本橋茅場町(東京都)に設置された25KWの小さな直流式火力発電所を最初として日本には次々と 小さな発電所が造られるようになりました。世界では既に明治10年(1878)フランスで水力発電が発明され、日本は山岳地形と急流な河川が多くあるという特徴から、長距離送電技術の研究開発と併せて、大規模な水力発電が計画されるようになっていきました。水力発電とは自転車のライトと同じような原理で、 モーターの軸を回転させると電気が発生する仕組みになります。それを回転させるために軸の先に水車を付けてそこに水流を当てます。

【 概算発電量(KW)=9.8×落差×流量 】

 日本で水力発電所を建設するための条件を多くもった地域、それが千曲川、犀川、木曽川、天竜川などの川が流れる長野県でした。明治後期から多くの企業家が長野県に目を付け、明治33年(1900年)の落合発電所60KW(下諏訪町)を初めとして、以後多くの発電所が造られました。現在県内のあちこちで、古い発電所の建物や、よくぞこのような所を掘ったと思えるような水路やトンネル、深緑色の巨大なダム湖など、美しく異様な景色を見ることができます。

 

 明治初期の木曽は、木曽川と山の中を縫うようにある中山道があるだけで、宿場と宿場の間は何もない森でした。この長閑な木曽に大きな影響を与えたのが福沢桃介という人物でした。彼は福沢諭吉の娘婿となって、資金力によって名古屋電燈の株式を購入し、明治45年(1912)に44歳で名古屋電燈の取締役となりました。そして就任後の彼が力を注いだのが木曽川での発電と名古屋・大阪方面へ電気を販売することでした。そのとりかかりとなったのが賤母発電所の建設でした。福沢桃介は、賤母の他に読書(南木曽町)、大桑・須原(大桑村)での発電所の建設を目論み、既に明治41年に読書(南木曽町)〜田立(南木曽町)の水利権を得ていたので、その上流になる読書〜福島までの水利権をもっていた企業と合併して、木曽川の水利権を全て手に入れました。そしてまずは県境にあって集落から離れ、最も下流の賤母で建設することにしました。木曽川の水を使用するには、逓信省と長野県から許可を得る必要があります。大正5年(1916)水利権を持つ福沢桃介は、上記4箇所の発電所建設の計画を長野県に提出しました。長野県は建設予定地の山口村に意見聴取を行いましたが、2,000円を寄付されている山口村は「問題なし」との回答をし、これによって許可となりました。国や県への根回しもしており実に用意周到です。

 

 賤母発電所は、現在上流の山口ダム(南木曽町)からの水によって発電していますが、当時はこれがありませんでした。この頃は巨大なダムを造る土木技術などが無いため、直接木曽川から取水した水をトンネルや鋼管によって導水して発電しました (水路式)。まず大正6年(1917)から工事着手し、木曽川 の水がトンネルの入口に向かうように小さな堰堤を築きました(南木曽町十二兼)。単に川底に置いただけでは直ぐに壊れてしまうので、4.5m程地面に掘り込んで築きました。堰堤は高さ3.6m、長さ120mのコンクリート 製で、左岸に3個の水門を置き、ここから基本形5.5×5.5mのアーチ隧道と水路によって4,867m もの延長を流しました。隧道の掘削には日本で初めてとなる削岩機を用い、朝鮮の方々を多く使用したと云われています。隧道の山を抜けると石積みの水槽があり、一旦貯められた水はそこから内径2.54m(394m3/s)の鋼管3本で46mの落差を一気に水車へ落としました。水車はスウェーデンのボービング社で大正6年 に製造されたもので、横軸双輪単流渦巻形フランシス水車でした。 大正3年〜大正7年は第一次世界大戦の最中で、銅の国外持ち出しを禁止していたスウェーデンの検閲にひっかかり、なかなか水車が輸出できませんでした。水車は導水管を下流へ向かって右から1号機、2号機、3号機で、1号機は大正8年(1919)7月に、2と3号機は11月の完成間近にようやく設置することができました。スウェーデンの輸出許可については日本政府が交渉し、日本から銅を送るので、それと交換ということでようやく許可となりました。また 、水車に直結する発電機はアメリカ製の3相交流式でした。 これら機械や土木資材などは、明治44年(1911)に全通したばかりの中央本線を利用しました。主に使用したのは坂下停車場(中津川市)で、ここから発電所建設地の間にある木曽川には対鶴橋を架けて往来をしました。今でも人が大勢乗ったら落ちそうな吊り橋として残っています。かなり揺れます。また、第1次世界大戦により米価高騰で暴動などが全国で発生しており、従事する人夫の食糧を確保するのに長野県と岐阜県が奔走したそうです。

 

 風光明媚な木曽に、このような構造物群が突如として現れるには無理があり、景観問題、水利権問題、漁業権問題を解決する必要がありました。よく当時の風刺マンガで、お札に火を付けて自分の靴を探す成金の絵を見ますが、建設した名古屋電燈の福沢桃介もかなりのお金をばらまいて人を巧みに操り建設までこぎ着けました。景観問題については公園を造るという名目で強引に押し通しましたが、漁業権と水利権の問題は大変難航しました。前余談でも話しましたように、江戸時代の伊那と木曽は木材を年貢としていました。それを海まで運ぶのに利用したのが天竜川と木曽川で、明治になっても利用されていました。木曽の森林は皇室の御料林にもなっており、民有林も含めて帝室林野局と協議をして、木材を運び出すのに川を利用しないで、鉄道を用いることで解決となりました。これにより野尻線、蘭線、与川線、田立線の森林鉄道が建設されることになり、名古屋電燈が180万円を12年賦で帝室林野局へ分割払いをしました。中央本線との接続には木材の揚場(野尻、三留野、坂下停車場)が設けられました。現在でも赤沢森林鉄道(上松町)が観光でがんばっています。漁業権を含むその他補償問題は、木曽の全村を巻き込む騒動となり工事着手となってももめていました。福沢桃介は村役場や有力者を買収したり、土地を売らない者や反対者に暴力をふるったり家を壊すなどして強引に補償額をまとめました。これにより大正11年(1922)木曽の16村に29,000円が支払われることになり、漁業権については1,000円を補償し、これによって木曽川漁業組合が設立されました。暴力行為に対しては山口村長まで巻き込まれ、警察や内務省は見ぬふりをしたそうです。

 

 このようにして賤母発電所は、平和に暮らしていた木曽の人々を力と金で抑え付けて大正8年(1919)に完成しました。この成功をきっかけに大桑(1921)、須原(1922)、読書(1923)発電所が次々と建設されていきました。そして現在も昔のままの施設を残した読書発電所が国指定重要文化財に指定され、木曽でも一際目を引く存在となっています。普通、長野県は東京電力と中部電力のエリアだと考えられますが、木曽川は関西電力が管轄しています。その理由がこの賤母発電所の建設によります。名古屋電燈はその後、紆余曲折して無くなり、持っていた権利は戦後に関西電力が引き継いで現在となっています。 昭和32年(1957)に山口ダムが完成し、賤母発電所建設によって造られた堰堤と水門は使われなくなりました。読書発電所の横には福沢桃介記念館が建っています。勝てば官軍ではありませんが、記念館とするに値する人間かどうかは歴史をもっと知る必要があります。


『其之 58』H17.7.1〜H17.8.5

 

 人は病気になったり、子や孫など守るべき者が生じた時などに、自分の今後を感じ、とめどもない不安を感じることがあります。そんな苦悩を取り除き清浄な自己に到達するには八正道を修行しなければならない。そう称えたのが仏陀でした。紀元前5世紀 (複数の学説あり)のインド、断食や激痛に耐える修行をしていたシッダルタ( 仏陀)は、苦行を捨てて菩提樹の木の下で坐禅をしていた時、夜空に瞬く星を見て悟りを開きました。

 それから1000年以上(6世紀)が過ぎた中国に菩提達磨が現れ、仏陀が悟りを開いた時の坐禅を用いて、「禅」という方法が実践されるようになりました。菩提達磨が禅の指標としたのが「教外別伝」「不立文字」「直指人心」「見性成仏」でした。このように禅は 、宗教的体験を重視して文字を忌むものなので、余談で禅を言葉や画を表すこと自体が間違っているのかもしれません。いずれにしろ無限の禅は奥が深く、紙上でのにわか勉学では歯が立たないということです。そもそも禅を安易に語ると、臨済宗の祖である臨済義玄(九世紀の中国河北省)などに、棒で1万打以上叩かれる気がします。

 

 さて、日本に禅が伝えられたのは、白雉4年(653)に入唐した道昭という僧が 禅を学んで帰国し、飛鳥の元興寺に禅院を建てて坐禅をしたのが始まりだと云われます。それ以後、禅宗として臨済宗、曹洞宗、黄檗宗 (江戸時代)の順で日本に伝えられました。 曹洞宗は坐禅を黙々とする宗ですが、臨済宗は坐禅の他に、修行僧の優劣の能力を考慮して「公案」というものを用い、師匠が弟子を導くという方法がとられています。書店の宗教棚などに行くと、『碧巌録』『十牛図』 『無門関』などの本がありますが、これがそうです。

 長野県には臨済宗の名僧が2人いました。関山慧玄かんざんえげん(無相大師)と道鏡慧端どうきょうえたん(正受老人)です。二人とも高井郡の出身ですが、時代は 400年ほどの開きがあります。関山慧玄は全国的に有名なので詳しくは書きませんが、鎌倉時代の建治3年(1277)高梨氏の一族として生まれました。生誕地については現在の中野市、小布施町、高山村など諸説あり、高梨高家の子とも弟 ・孫とも伝えられています。

 高梨氏の成り立ちは今だ定かでない部分が多くあります。源頼季が井上(須坂市)に土着し、その孫が高梨(須坂市)に館を置いたので高梨と名乗ったと云われています。平安時代末期、木曽義仲が 平氏打倒のために、越後国を経て京都へ上洛するに及んで、源氏である高梨高信も木曽義仲に従いました。しかし、瀬戸内海の水島の戦いで平教経に矢で射殺されたとの記録が残っています。鎌倉時代の高梨氏は未だ勢力が小さく、東條荘園(高井郡)の1荘官に過ぎなかったようです。鎌倉幕府の勢力圏にある信濃国は 『御成敗式目』に定められているとおり、御恩と奉公のもと戦国時代のように勝手気ままに領地を増やすことなどができず、殺人や他人の土地を犯せば罰せられました。高梨氏が急激に勢力を広げ始めるのは鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱になります。建武5年(1338)では東條荘山田郷を領有していたことが判明していますが、 しだいに北へ勢力を伸ばして中野氏や市河氏と戦い、明徳3年(1392)になると水内郡と高井郡の半分程度を安堵するよう室町幕府へ提出した書状が残ってい ます。 やがて中野市(県指定史跡 高梨氏城館跡)を拠点とし、修験霊場の小菅社(飯山市)の別当も務めるようになりました。戦国時代には上杉謙信の配下となって武田信玄と争い、後に上杉景勝が豊臣秀吉によって米沢転封となると、それに従って高梨氏も米沢へ移っていきました。

 この頃の地方武士は、人を殺し、寺社を焼くなどを生業としていたことから、救いを求めて強い信仰を持っていました。 一族の子や兄弟を僧にして、菩提を弔わせたりしていたようです。本家の井上氏は親鸞に帰依して、子や家臣6名を弟子にさせたほどで、修行を終えた彼等が戻って浄土真宗の寺院を建立しました。関山慧玄もこうした環境の中で出家をしたと考えられます。

 関山慧玄が出家した頃の臨済宗は、鎌倉幕府の庇護によって大興隆し、中国のシステムを模した鎌倉五山と呼ばれる寺院が中心 でした。しかし五山は 難解で官学的な禅に傾倒し、それを嫌った宗峰妙超(大燈国師) が大徳寺(京都市)を開いて距離を置きました。関山慧玄は青年の頃に、五山の1つ建長寺(鎌倉市)の大応国師のもとで学んだ後、宗峰妙超の弟子となりました。そして花園上皇の京都にあった離宮を与えられて、暦応元年(1338)妙心寺を開山しました。現在の臨済宗で最大の妙心寺派の総本山を築き上げたのが関山慧玄です。 関山慧玄の禅は、「質素を尊び、虚飾を嫌ひ、禅誦規式の末枝に走らず、向上一義を専らにし、為人接化を事とせり」だったそうです。こうした禅が後々にも尊ばれて、最大の宗派となったのです。

慧玄が這裏に生死なし

関山幸いに児孫の在る有り、続焔聯芳七百年

 

 室町時代になると、鎌倉だけでなく京都五山の制度もできました。臨済宗は室町幕府の将軍や各地の守護大名などにもてはやされ、悟りの境地を文字 ・画・庭などで表すという 、本来の修行から遠ざかった分野へ傾倒していきました。 芸術面ではこれらは誰が見ても一流で、現在では国宝や重要文化財に指定されているほどです。有名な夢窓疎石が、詩句に傾倒する弟子達を「剃髪の俗人」と戒めたほどでした。応仁の乱で上層階級が崩壊すると五山はますます衰え、江戸時代になって幕府の宗教統制ができると、幕府に従ってさえいれば寺院は布施を受けられるため、禅は停滞してい ったと云われます。しかし、関山慧玄の禅は静かに受け継がれ、ついに道鏡慧端(正受老人)が現れます。

 現在、飯山城址と千曲川を望む小高い山の中腹に、正受庵 (県指定史跡)という小さなお寺があります。江戸時代に創建されたこの庵の開基が道鏡慧端でした。道鏡慧端は、寛永19年(1642)真田信之の子として生まれ、飯山藩主松平氏に預けられました。 参勤交代で江戸に行った折に東北庵(東京都  東北寺)の至道無難の弟子となりました。やがて飯山に帰り、藩主松平忠倶の援助によって上倉村(飯山市)に正受庵を創建しました。関山慧玄の禅を継ぐ無難に教えられた道鏡慧端の禅は、 質素剛胆であって、石の上などで黙々と坐禅をしていたそうです。

 道鏡慧端が60歳を過ぎて、白髪交じりの正受老人しょうじゅろうじんと呼ばれ始めた頃か、白隠慧鶴という若者がやってきました。この白隠慧鶴と正受老人の激しい問答が実に面白いのです(釈瓢斎『白隠和尚』より)。8ヶ月間の攻防とでも言いましょうか、既に鐘の音を聞いて悟りを開いたと自負していた白隠慧鶴が、正受老人にたしなめられて弟子となり、再び悟るまでの瞬間がなんとも気持ちがいいのです。禅宗は托鉢も修行の1つで、正受老人の公案に悩む白隠は、飯山城下でボ〜ッと托鉢をしていました。白隠慧鶴が油屋四郎兵衛 (婆ともある)の店前で「ほう、ほう」と托鉢の決まり文句を言っていました。お布施をしたくない油屋が「お通りっ」と何度も言いましたが、白隠が動かないため、油屋は怒って竹箒で白隠を叩きました。そして泥道に倒れた白隠は突然悟りを開き、笑いがとまらなかったという話しです。白隠慧鶴は後に妙心寺の第1座となり、臨済宗の体系的な修行方法をつくり、 分かり易い禅の普及につとめました。この白隠慧鶴が臨済宗の中興の祖と言われる人物で、現在の臨済宗の和尚様方のほとんどが、この法系に属するとまで言われています。

 元禄時代の飯山城下の絵図を見ると、油屋が5軒見受けられます。 白隠を打った油屋はどこにあったのでしょう?1750年頃から菜種を油の材料とするようになり、米が作れない扇状地や河川敷で菜の花が栽培されました。千曲川沿岸は多くの菜の花で黄金島と呼ばれたそうです。これにより飯山城下の油屋もしだいに多くなっていきました。沿岸には今も菜の花畑が広がり、 春には多くの観光客を呼んでいます。

     【正受老人の辞世句】

        死急難道 言無言言 不道不道

       (死急にして道い難し、無言の言を言とし、道わず道わず)

 

 明治天皇が長野を行幸した際に、善光寺で随行していた山岡鉄舟が、「正受庵はどうしている?」と地元の者に聞いたところ、無住のために明治6年に廃寺となったことを知らされました。正受庵の事を知る鉄舟は兄の高橋泥舟とともに、正受庵の復興を国や長野県に働きかけ、ようやく明治17年にそれが叶いました。高橋泥舟が荒れ果てた正受庵を調査のために訪れた時、鼠の糞だらけの屋根裏から正受老人の辞世句などを発見したそうです。

 

 「公案」は哲学的でないので、簡素でありながらまったく訳が分からないものです。「趙州無字」という有名な初歩の公案がありますが、 「狗子に還って仏性有りや也た無しや?」と問われても答えにつまりまります。歩きながら答えを考えていた時ですが、最中の雑多が頭に入らず、世の中の小さな動きが理由もなく頭の中に入ってくるような感覚になった時がありました。 第一歩でしょうか?

 最後に、南宋で10年も禅を修行し、南禅寺(京都市)の開基となった無関普門(大明国師)も信濃国高井郡(長野市保科)の生まれであったことを忘れてはなりません。この様に信濃国高井郡と禅は深い歴史の糸で結ばれているのです。

以上、無門関の第4則にある胡子無髭こすむしゅを感じさせる余談でした。


『其之 57』H17.6.1〜H17.7.1

 江戸時代の年貢は「米」だけではありません。

 信州の急峻な山間地では容易に田を広げることができず、斜面にわずかな段々畑を造って細々と生活をしていました。江戸時代に幕府がその地から年貢を徴収しようとすると、少しの大豆、綿、紙などを納めさせるしかなかったので、代わりに「木」を年貢として納めさせるようになりました。

 世界最大の都市といわれた江戸では、江戸城築、大名屋敷、寺院、橋などの大規模普請が行われ、街が整備されていくにしたがって、膨大な木が消費されていきました。そこに住む多くの人々も家を建て、日常生活をするのにも木を必要としました。さらに明暦の大火など幾多の火災によって建物は燃え、再び建てられるということが繰り返されました。こうした木材はどこから集められたのでしょうか?

 主な入手先は奥羽地方、飛騨国、信濃国でした。信濃国の木材供給地は木曽郡、伊那郡、佐久郡で、木曽郡は尾張領(名古屋)となったことから、幕府が直接木材を入手できるのは、伊那郡と佐久郡(初期は甲斐領)でした。伊那郡から太平洋までは天竜川が流れていたので、木材を川に流して海まで運搬することができました。その支流の小渋川(大鹿村)、遠山川(上村、南信濃村、天竜村)、和知野川(売木村)、阿知川(阿智村、清内路村)流域には良質な木材があったことから、幕府は早くからこの地域に目を付けました。遠山氏を改易したり、飯田藩に石高の少ない堀氏を配置して天領を増やしたのも、木材を入手するためだと言われています。

 幕府領として木で年貢を納めることになった伊那郡の村は、『榑木成村(くれきなりむら)』と呼ばれました。伊那郡では43村(幕末まで)が指定され、木の無い村では遠くの山まで伐採に行かなくてはなりませんでした。樹種は檜(ひのき)か椹(さわら)で、伊那郡ではほとんどが椹でした。

 

各自が勝手気ままに切った木だと運搬の能率が悪かったり、使い物にならない形状であったりしたため、幕府は規格(時代や地域によって異なる)を統一しました。伊那郡では、椹の丸太を8等分にし内外の余分をカットした台形(図の赤)の断面をつくり、長さは約3尺3寸[100cm]〜2尺3寸[70cm](長さによって大・中・小の等級に分かれる)で、台形の狭い部分の幅は2寸5分[7.6cm]〜1寸5分[4.5cm]の角材とされました。この規格を入手するには直径30〜50cmの椹が必要とされ、その樹齢は約40年以上となります。この角材を榑木(くれき)と言いますこれらの村の年貢は、これまで大豆等で納めていた年貢を石高に換算し、それに匹敵する榑木(およそ、中榑木だと350丁(本)=2石1斗=1両)を納めました。農民は年貢を納めるために熟練した村のキコリに金を払って依頼し、彼等は農閑期の3月から4月に山へ入って伐採して規定の榑木に加工しました。そして榑木には年貢を納める者の刻印が押され、11月から12月に旗本の千村氏、知久氏、宮崎氏(後改易)などの伊那郡に知行所を持つ木材奉行の家臣が、「帳場(ちょうば)」又は「渡場(どば)」で榑木を検査し、ようやく引き渡しとなりました。

 帳場や渡場では、村の庄屋などが命令され、3〜4年分の榑木が積み置かれるまで管理させられました。その間、積んでおいた木材が洪水に流されたり村役人の役目は大変だったと云われます。そして3〜4年目の冬に、各地の帳場等にあった榑木が一斉に川に流されました。「渡入(どいれ)」と言います。1回の渡入で60万丁〜200万丁の木材が流されたと云うから大変な光景だったでしょう。渡入からの責任は完全に木材奉行なので、途中で榑木を盗む者がいれば死罪でした。天竜川を下ってきた榑木は、遠江国の舟明と日明(静岡県天竜市)という場所の間で縄が張られ、そこで止められて引き上げられました。ここで幕府勘定奉行の検査を受けて、大坂行、江戸行、商人売却などが決められ、さらに下流の掛塚港という天竜川が太平洋にそそぐ地から、海路で各地へ輸送されて行きました。農民が差し出した榑木を、帳場で木材奉行の役人が検査した際、かなりの榑木が規格外として取り替えを命じられました。また、木材奉行が引き取った後も、幕府勘定奉行に引き渡される際に、検査を受けて規格外だとして受け取ってもらえず、旗本の宮崎氏などが不足分を金で代償して、数代にわたって借金地獄だった記録が残っています。

 慶長17年の記録によると、松代藩や諏訪藩、高遠藩などが、幕府から江戸城天守閣や橋の普請に必要な木材を伊那郡から江戸まで搬出する役目を負わされました。年貢以外にもこの様な木材の強制搬出があり、膨大な量の木が伐採されたようです。17世紀後半になると伊那郡の山々は伐採され尽されたと云われます。切られた木が再び成長するまでには40年以上を必要とします。禿げ山に雨が降ると崩れて川を埋め、時には土石流となって村や田畑を襲いました。宝永3年(1706)の飯田藩の年貢は1,000石余不足していますが、これは3村ほどが全滅するに等しい被害でした。また、正徳5年(1715)には8,000石余の被害が出ています。こうした災害から、幕府や飯田藩は植林を行ったり、伐採を禁止するお触れを出したり、榑木成村には木材の代わりに「金」で納めさせるようになっていきました。

 それからおよそ170年後・・・・

  明治時代、新政府は近代国家を築くために、数多くの外国人を日本へ招聘しました。オランダ人生粋の河川工学の土木技術者であるデレイケという人物もその一人です。彼が政府の命令によって淀川上流の視察に訪れた際に目にしたのが、禿げ山の連なりでした。彼は中央アルプスの荒れようも指摘しています。明治初期の塩尻峠から諏訪湖を望む有名な写真がありますが、これも周辺の山々が禿げ山となっています。それまで幕府や各藩に伐採が規制されていた山々が、明治維新によって解禁となると伐採され、金銭のために燃料や木材とされました。これによる災害が多発したため、明治政府は明治29年河川法の制定、明治30年砂防法と森林法の制定へと踏み切りました。


『其之 56』H17.5.5〜H17.6.1

 

 馬を制御して、移動や戦闘に使用することを知った人類は馬具をつくり出しました。馬具には鞍橋クラボネ、銜クツワ、手綱タヅナ、鐙アブミ、鞦シリガイ、シタグラ、腹帯ハルビ、差縄サシナワなどがあります。これらの中で銅や鉄で製造されたものが古墳の中から副葬品として出土します。

 全国で最も古墳に馬具が埋葬されているのが科野くに(信濃国)です。その数は北九州と並んで圧倒的な数にのぼり、信濃は馬の生産地として後々に受け継がれていきました。馬を制御するという方法を突然、信濃に住んでいた弥生人が気付くことはまずありえません。そうするとそれを教えた者が存在したことになります。既に春秋戦国や三国志の戦乱時代を過ぎた中国大陸では盛んに馬が用いられていました。これが次第に朝鮮半島を経由して船で日本に渡ったといわれます。そもそも縄文や弥生時代に、日本に馬が存在したのか?といった議論があります。それ以前の地層から馬の歯や骨が幾多と出土しないかぎり永遠と続く議論かもしれません。今のところ存在しなかったという論が優位のようで、馬が存在しなかった日本へ馬そのものと、馬具、飼育、繁殖方法が人によってもたらされたのです。

 現在の長野市で千曲川と犀川が合流します。この東側の緩い斜面と谷間に500基以上の古墳があります。国指定史跡の大室(おおむろ)古墳群です。古墳の大多数が積石塚という形式の円墳で、50p前後の石を積上げて古墳とする珍しいもので、その数は全国で1位になります。また石室はほとんどが横穴式石室ですが、合掌型石室という2枚の板石をお互いに立て掛けて石室とした珍しいものもあり、全国で山梨の一例を除いてここにしかありません。高句麗や百済で積石塚の古墳が多数残っていることから、大室の古墳も彼等のものであると考えられてきました。時代は古墳時代中期(5世紀)から古墳時代後期(6〜7世紀)。

 誰の墓なのか様々な論評がありましたが、最近では「大室に大和朝廷の命を受けた馬の飼育技術を持った朝鮮半島(百済人?)の渡来人が定住させられ、彼等が持ち込んだ馬を在地の信濃人を使って飼育・繁殖を行わせました。渡来人が死亡すると母国の埋葬方式を採用した積石塚を造り、彼等をそこに埋葬しました。そして渡来人の2代目以降になると、在地の人達との関係も出て、信濃人達も積石塚を造って死者を埋葬するようになりました。これが7世紀まで続けられて全部で500基余になったというわけです。」という説が有力です。

 長野県最大の森将軍塚古墳からは大室が非常によく見えます。両者の近傍にはそれぞれ条里制(整備された田)の遺構があり、大室の人々が、森将軍塚古墳を有する大規模集落(後の更級郡)の人々とどのような関係にあったのかも興味がそそるところです。

 大化2年(646)薄葬令という古墳を禁じる制度ができてからは簡素な埋葬が義務付けられ、大室での古墳造りが終わりました。しかし大室での馬の飼育作業は続けられ、平安時代には『大室牧』として官営の牧場に指定されました。その他最近、善光寺平から朝鮮半島の権力者が着用していたとされるベルトのバックル(古墳時代後期)が出土したり、大室古墳群の出現よりさらに100年以上さかのぼる弥生時代後期の朝鮮半島製(任那)の鉄剣が出土し、この一帯における歴史を再考させられる段階にきています。古代から生き残ったといわれる亜種の木曽馬と、大陸の馬のDNAや骨格を調べていくのもまた面白いかもしれません。この様に信濃の古代史はまだまだ謎の多い時代なのです。


『其之 55』H17.3.6〜H17.5.5

 

 「明治4年(1871)廃藩置県が行われた。」

 教科書に載っているこの文字からだけでは廃藩置県というものの内容が曖昧です。文字数などからしかたがないのですが、実際には明治4年以前から廃藩置県は行われていました。この教科書の文字が指すものは、明治4年7月14日に「藩を廃し県と為す」として最終的に全国の諸藩を強制的に廃し、知藩事の免官を行った出来事を述べています。

 既に外国に対抗する強い国家を築くために廃藩論というものは幕末からありました。それはアメリカのような州制であったり、巨大な郡制であったり人によって様々でした。そして、これまでの権力を藩主達から奪うことになることから、その必要性を理解している新政府のエリート官僚達は独断的に廃藩置県を唱えるというよりは、まず地方から幾つもの廃藩が中央に出され、それを受け取り実行するという形式を誘導していきました。そうした中で、政治上の問題を起こした藩に対して、内々に「あなたの藩は不祥事を起こしたので、率先して廃藩したらどうですか」という意味の誘いも行われました。信州松代藩に対するものもその1つです。

 

 現在は長野市の一部になる松代藩。明治3年(1870)11月25日新政府の金融政策と庶民の状況を見誤った松代藩士の高野広馬(藩のNo3)の通達によって領内で暴動が発生しました。26日松代城下に一揆が乱入し、藩士宅、商人宅を焼討ちし、真田幸民が自ら一揆勢の要求に譲歩しました。この騒動は周辺にも波及して、新政府は2個中隊を派遣して鎮圧し、真田幸民の譲歩を破棄させ、一揆の参加者を取り調べて28人を処刑しました。騒動の発端をつくった松代藩士の高野広馬は、騒動の3日目で松代を脱出して東京に潜伏していましたが、藩から追捕手が出されて自ら出頭して12月4日宇和島藩へ預かりとなりました。

 

 明治4年1月7日この様な騒動を起こした松代藩に対して民部省役人の吉井友実は、「1、2年の内には郡県(廃藩置県)になるので、真田殿にもこの場で憤発して、諸藩に先立って知事職を返上して朝旨を貫徹して誠心を尽したら如何であろう? 松代は信州においても大藩であり、国中が随って朝廷の趣意が行われるであろう。松代1藩の知事職よりは信州1国の知事職と志を立てられたら如何?」と松代藩へ迫りました。

 そして知事辞職が今回の騒動によるものと周りから見なされることに対して、「この度の事件とは別段の事であって、藩士の食禄等を削るものでもなく、藩士の住居を移すものでもない。その藩士を用いて藩を治めるもので、藩士が難渋することはない。真田殿も家禄と御賞典をもって東京に住居すれば、何にも差し支えない。第一に藩籍を返上すれば藩士は朝臣になる。この度の紛擾の汚名を一洗して勤王の美名を伝える事になる。」と言いました。

 この廃藩勧告に対して松代藩では全藩士が藩庁に集められて吉井友実の言葉が伝えられました。そして討論を行い、松代藩では「知事職返上と朝旨の貫徹を藩中の士卒に告げ、私も精々説諭したが、いずれも苦情を申し出て、藩士の不安がおさまらない」として辞職の猶予を吉井に願い出ました。また藩の借金の返済が遅れていることについては真田幸民と家臣総出で金を融通して返済することにし、約3千人の藩士の署名を書いて新政府に提出しました。吉井友実にとっては自分の意見を聞かない松代藩に対して不愉快を感じたのでしょう。「不容易しだいに至りそうろう段、まったく申し付け方不行届の儀束ずの事にそうろう」よって真田幸民以下を明治4年4月22日謹慎閉門処分としました。この様に松代藩では藩士総出で廃藩を防止したのですが、冒頭にも述べたとおり謹慎から3ヶ月後に全藩が一斉に廃藩置県されたのです。

 

 鹿児島藩士の吉井友実はその後、元老院議官、工部大輔、宮内次官、枢密院顧問官などのエリート街道を進んでいくのでした。今回のような藩と新政府の対立は、盛岡藩、長岡藩、福岡藩でもみられ、この3藩は廃藩勧告に屈して7月14日の廃藩置県断行前に廃藩させられました。

 


『其之 54』H17.1.27〜H17.3.6

 

 ついに長野県内でも贋札がでました。

 歴史は繰り返される。それは世の中が不況になり、とりわけ新貨幣が発行される時に起こる宿命とも言うべき出来事なのです。奈良時代に和同開珎など日本に貨幣制度が導入されてから贋金造りは行われてきました。私的に鋳造するので私鋳銭と呼ばれ、それぞれが勝手気ままに製造するので品質にバラツキがあり、商人は取引の都合上交換比率を取り決め、千年以上にわたって贋金を使ってきたのです。それは流通量に対して貨幣の数量が不足しているためでもあり、中国から貨幣を輸入するなどしていましたが、私鋳銭を抑制するまでにはいたりませんでした。江戸時代に寛永通宝が大量に発行されると一定の効果がみられましたが、再びそれが大量に出回ることになったのが明治維新の時です。

 

 戊辰戦争によって多額の軍費がかさみ、さらに朝廷への強制的な献上金などで新政府や各藩では借金地獄でした。新政府は慶応4年(1867)閏4月太政官札(13年限りで兌換する)という「太政官会計局」と書かれた縦18.9cmの短冊型の粗末な紙切れを発行し、不足するお金の代わりとしました。各藩でも藩札という同様な物を明治2年頃に全国至る所で発行し財源に充てました。しかし太政官札・藩札は全てが金銀に即時に換えられるものではなく、返すあてのない不換紙幣であったため、商人からは大変嫌われました。藩札を発行できない藩はもっと大変です。敗れた会津藩では贋金造りをしない者などいないほど贋金を製造したそうです。こうしたことから全国で大量の贋金が出回り、交換比率も著しく変動し、質の悪い貨幣が多いことから物価の値段が次々と値上げされていきました。

 そうした中で、幕末から貨幣の主力であった『二分金』という小さな四角い金貨の贋金が原因で信濃国内で大きな騒動が発生しました。飯田藩の『二分金騒動』と言われるものです。贋金を造ったのは薩摩藩。

 

 函館の五稜郭が陥落して1ヶ月も経たない明治2年6月、飯田藩1万7千石領内でも横行する贋金等が原因であらゆる物価が高騰していました。新政府に従順な飯田藩は、新政府の命令を素直に実行しようと、他の国では規制されていた新政府製造の劣悪な新二分金を流通させたため、周辺国から大量の新二分金が入り込み、併せて贋金も流入しました。「飯田に持っていけば金銀に換えられるぞ」といった具合です。そして、新政府が太政官札を領内で流通させるようにとの達しに際しては、太政官札を流通させるために、6月20日新二分金の使用を停止して太政官札を使用するようにとお触れを領内に出しました。さて、大量の新二分金を所持していた領民は、太政官札など信用しておらず大騒ぎとなります。

 

 7月1日、近江国(滋賀県)の紺屋商人を営む小林重介という人物が中山道を清内路越えで、飯田城下を目指していました。目的は伊那郡の繭糸を買い付けるためで、大八車に一万三千両余の二分金を積んでいました。どこで聞きつけたのか飯田城下では大量の贋金が領内に入ろうとしているという噂が広がり、若者達が押し掛けて小林重介の二分金を強制的に押収しました。重介の二分金は薩摩藩が製造した精巧な贋金で、昨今の贋金を用いて物価を引き上げている城下の商人への怒りへと代わり、暴動が発生しました。

 7月2日領内全域の百姓などが城下へ押し寄せ、藩の説得にもかかわらず、小林重介が逗留していた家や豪商(史料には「奸商」とある)を打ち壊しました。翌日後も村々で混乱が続き、周辺の伊那県や高須藩の領民まで参加するようになりました。総勢1万人。4日飯田藩兵と川を挟んで睨み合いとなり、一揆側は次ぎの要件を出しました。

1.新二分金を通用する貨幣に引き替えてもらいたい。

2.贋金取り扱い人を処分してもらいたい。

3.一揆の犠牲者を出さないでほしい。

4.困窮人に米を安い値で売ってもらいたい。

 飯田藩では全ての要求を受け入れました。さっそく飯を炊いて与え、各村へは2千両を与えてお救い金としました。さらに飯田藩は、贋金を取り扱った城下の19人の商人を捕縛して牢屋へ押し込め、枡型や城内にあった藩の樹木を売却して、冥加金や拿捕した商人からの罰金などを元手に3万8千44両の藩札を発行しました。そして各村人が所持していた二分金の額と氏名を藩に提出させ、全て藩札と交換しました。

 こうした飯田藩の処理に対して各村々から下の文が藩へ出されました。

 

 今般新二分金の通用について、奸商どもの所業に対して伊那郡一円の百姓が行った極難、一時のやむを得ず事で奸商を悪みそうろう義にて、殿様へ対し恨み無く御座そうらえども、卒然と動揺いたし、不容易な挙動を働き、即今の事件に至り恐懼たてまつりそうろう。しかし仁慈の処置をもって御家限り紙幣(藩札)を製造し、二分金と引き替え下され、一同深く感服しております。

 これらは村々役人が平生の村中取締が不行き届きの故の義と恐れ入れたてまつり、私共庄屋役の義を御免下さるそうろうよう願い上げたてまつりそうろう処、寛大の御仁恤をもって出格のご理解あらせられ、これまで通りお役あい勤める旨仰せ渡せられ有り難く感じえ仕りそうろう。

 粗承知仕りそうらえば、御重役様その他掛り御役の様方が事件故の義か、差し控え遊ばれ候おもむき、これまた深く恐れ入りそうろう義にご座候か、これまで通り御役御勤務あらせられ、御政体仰せたてまつりたく村々役人ども一同歎願いたてまつりそうろう。

 明治三未年

    名古熊村・一色村(以下略)

民政 御役所

 飯田藩は新たな藩政改革により、政事堂・民政局・軍務局・会計局の1堂3局体制に改変されていました。上の書状はこの内、飯田藩領の村々連名で民政局へ提出された感謝状と更迭されていた藩役人の赦免願いです。領民と藩との絆の様なものを感じさせる内容ですが、翌年飯田藩は廃藩置県で消えることになります。

 新二分金は金含有量があまりに少ないため、石に投げつけても「チャリッ」とした鈍い音しかしないので、民衆からは「チャリ金」とバカにされました。『二分金騒動』は信濃各地へ飛び火し、上田藩、松本藩、高遠藩、須坂藩、中野県、松代藩が大混乱となり、中野は焼け野原となりました。明治4年(1871)閏2月外国の技術を導入した大蔵省造幣寮(現在の造幣局)が大坂で開業し、新貨条例に基づく(当時は)精巧な『円』が初めて発行されて貨幣の混乱は収束していきました。

 

よく聞けば贋金王と悪サツ(薩摩)の、力を仮(借)りてそこて横政(王政)

ぬす人をとら(捕)へてみれば我子也、切るにきられぬ贋金の道

おくげ(公家)さま宇治(氏)も素性もよいものを、ついうかされて喜撰無茶苦茶


『其之 53』H17.1.1〜H17.1.27

 

 明治4年(1871)、肥前国(佐賀県)出身の伊東武重が小倉県(福岡県)の参事として初めて赴任した時、親友の大隈重信に手紙を送りました。伊東はその手紙の中で、「赴任したが、言葉が通じなくてほとほと困った」と愚痴をこぼしました。隣県ですら言葉が通じなかった時代から130余年が過ぎた現在、お隣の県との交流も盛んになり、海の持たない長野県人は、新潟県の海を『信州の海』と呼ぶほど親しんでいます。そして、特に人気の高い海水浴場は、糸魚川から柏崎にかけての海岸になります。

 

 さて、平成16年(2004)10月23日、長野県の北隣にある新潟県において大きな地震がありました。『新潟中越地震』と名付けられたこの地震は、長野県北部も激しく揺さぶりました。長野県を通過した千曲川は中越地方を通って日本海へ流れ込みます。古代から人間の交流の道としてつながりのあったこのラインは、地質でもつながりが深いのです。

 平成16年12月、偶然長期間にわたって中越地方に行く機会がありました。新潟県の地質は長野県と違って砂山の集まりのようで、そのせいか目に見える山々全てが大中小と崩れていました。崩れた山は川を堰き止めて田園を川にし、道路は歪み、消雪パイプやマンホールは空中に飛び出し、家は潰れ、文化財にはブルーシートが掛けられて木材で補強されたりと、想像以上に大きな被害が生じていました。毎日厚い雲に覆われ、雨が降ったり止んだりと独特の気候でした。これがもっと寒くなると毎日雪になるなのだなと関心しました。寒さに震えながらこの景色を傍観していると、ふと江戸時代に書かれたある日記の事を思い出しました。およそ160年前、桑名藩士の渡辺平太夫と勝之助の親子が10年間にわたって書いた『柏崎日記』(桑名市博物館蔵)です。今回の地震は、震源地の山古志村や小千谷市に近い、西隣の柏崎市にまで被害が達していました。

 江戸時代末期、桑名藩(三重県)の飛地が日本海に面したこの柏崎にありました。本領の桑名から柏崎には、年貢徴収や裁判などのために藩士が派遣され、柏崎に陣屋を置いて政治を行っていました。冬でも暖かい桑名から雪深い越後国に転勤させられるのを、多くの藩士が嫌がりました。柏崎の人に「ここはどのくらい雪が積るのですか?」と聞いたところ、「温暖化で減ってはいるが1.0〜1.5m」という驚きの返事が返ってきました。

 それでは柏崎日記を読んでみましょう。

 この日記では、弘化4年(1847)3月24日夜10時頃、信濃国善光寺付近で発生した巨大地震(善光寺地震)のことが書かれています。書き留めたのは息子の渡辺勝之助。日記を読むと、善光寺と柏崎は100km程しか離れていないせいか、柏崎周辺も大きく揺れて幾つかの山が崩れました。信濃国では虚空蔵山(長野市と信州新町境付近)が崩れ、犀川を埋めて巨大なダム湖をつくりました。現在の信州新町など上流にあった600軒余の家が水没し、4月13日15時頃にそれが決壊して下流の西山地域(長野市の西部)や川中島が全滅しました。松代の真田宝物館に詳しい被災地絵図が残されています。善光寺地震の被害は翌日には旅人を通じて柏崎にも伝わりました。特に松代藩の被害が大きく、殿様も松代城から立ち退いたとの噂があり、柏崎から御見舞いのために西垣武右衛門を派遣することにしました。そして、見舞いを終えて4月7日に帰国した西垣から信濃国の様子を渡辺勝之助が日記に書き留めました。(以下、参照)

 

 

 関川を渡り柏原宿(信濃町)からは全滅である。古間宿(信濃町)、牟礼宿(飯綱町)、荒町で1軒も建っている家は無い。柏原宿の死者は14〜15人、古間宿は8〜9分が死亡。牟礼宿では200人余死んでいた。どの家も人や煙は途絶え、潰れた家の周りや焼け跡には人、牛馬の死骸があちこちに積み重ねられ、臭気が酷く、目も当てられぬ惨状であった。荒町と牟礼の間の吉村(長野市)という60軒程の村は全滅し、その上に山が崩れ、土砂で村全体が埋まっていた。その上を人が往来していたが、足元が定まらないようだった。松代道へ入ると建っている家もあるが、いずれも大破して中へ入れない。その上、未だに夜昼構わず揺れるので、みな家の外に囲いをして生活していた。そこに無理矢理泊めてもらい、翌日、松代の町へ入ったが、町の半数程の家が倒壊し、建っている家も大破しており、みな外で生活していた。
 松代藩御家中の者が、3月24日より火事装束で昼夜なく町家を見廻っていた。御屋敷は大破し、大門の内には葦簾囲いがしてあり、そこで御見舞いを述べた。その夜、真田様の御近習が火事装束のままみえ、「殿が柏崎のことを御案じ申しておりましたところ、貴殿がお出で下さった。早速、柏崎の様子を承りたいとのことでございます」と述べるので、「明日改めて参上仕る」と述べ、翌朝に松代城へ伺うと、御城も御殿も全て大破したため、信濃守様は御城の後山へ立ち退き、仮御殿住まいだったので、そちらへ伺候した。

 今も揺れは昼夜続いているが、今度は丹波川(犀川)の溜水の方が危険だとのこと。丹後島宿(長野市)より北西へ入り、西側から岩山が崩れ、土砂が犀川を堰止め、水溜まりとなっていた。そのため、松代御領地の3里四方が湖となり、山や沢にも水が入り込み、深さは十丈(約30m)もあり、日に八、九寸(約25cm)の増水が続いていた。松代より人夫が出て、崩れた山を切り開き、水を川の方へ誘導しようとするが、岩山のため簡単には水路ができなかった。そのうち何処かが決壊するのではないかと一層不安になり、そうなったら御城まで水を冠ってしまうと怖れ、みな夜は山へ入って寝ていた。
 もし洪水になれば、合図の狼煙が揚がることになっており、まことに生きた心地がしなかった。一瞬も気の安まることがなく、地獄と申すは、あのようなことであった。その後、善光寺へ回ると、家3000軒もある内、渡し場のはずれの150軒ばかりが残るだけで、他は1軒残らず潰れた上で焼失、当所の者約8500人死亡、死んだ旅人の数はまったく不明で、焼け崩れた場所には人骨が山となっていた。未だ形の残る者は別の山にしてあるが、そのような山が幾つもあり、臭気が甚だしい。怪我人に対してはお救い小屋ができ、国々からの迎えも着き、少しずつ減ってきた。
 善光寺本堂、大門、経堂のほか2寺を残し御坊すべてが潰れて焼失、坊主も生き残ったのはわずかであった。残った2寺というのは、何故か今回の御開帳を見合わせるべきだと呼びかけていた寺だそうで、三条地震といい、今回の地震といい、仏の御罰に違いないとの噂があった。


以下、桑名藩士品川十四郎の報告


 
丹波川(犀川)の1里上流に小市(長野市)という渡し場があるが、そのかなり上の方に虚空蔵山という近辺1の高山があり、麓から頂上まで1里あった。この山の東と北が両側から崩れて犀川が2ヶ所堰き止められた。その2ヶ所の間は5町程(約550m)あったが、上の堰より水が溢れて5町ほどのところも徐々に増水した。上の堰より上流は13〜14里(約60km)も水が貯まり、20村ほどが水中にあった。
 山の右側の崩れた場所から下の河床が地震によって6尺余(約2m)高くなった。これでは決壊しても水は川筋を流れないであろうと、松代様はじめ川筋の御預所、私共の領地も含め相談をし、決壊箇所よりも河床の高くなった部分に堤防を築いたが、かなり長い距離であった。「これで大丈夫だろう」と言っていたところ、下の堤防が切れて水が流れ出し14日昼頃、水は一気に堰山を破壊、水と堰山の土砂が一つになり、人足50人ばかりが一瞬のうちに押し流されてしまった。
 流れ出た水は河床の高い部分で渦を巻いて逆流し、新しい堤防の左右を破り、水は南北に溢れ出した。南は丹波宿をはじめ村々を流し、2里下の千曲川に合流した。もう一方は北側の小市渡場より陸へ上がって東へ向かい、善光寺の東の村々、川中島15〜16村残らず流失し、家一軒、人間ひとりも助からなかった様子。その後、再び千曲川に合流し、川筋の村々はどれだけ流失したが判らないが、松代様の御城下は大丈夫だった。小千谷辺りの川原、水の引いた跡には箪笥、長持、膳、桶、椀などが山をなしていた。また、川端の木々には死人が幾人も引っかかっていたが、上げると面倒になると、みな押し流したという。その他色々気の毒な話が沢山あった。 

 

 

 現存する善光寺での被災絵を見ると、境内の石燈籠や六地蔵はみな倒れ、本堂、山門、経蔵を残して善光寺門前町は西南の風にあおられて焼け野原となりました。この時に無事でいた建築物が現在の国宝や重要文化財に指定されているのです。町外の畑には大八車に家財道具を乗せて避難する人々が見えます。たまたま御開帳で本堂で宿泊していた人は助かり、宿坊に宿泊していた人々は焼死しました。傘を屋根にしただけの粗末な避難小屋に大勢の人々が集まり、この人達はこの後どう生きていったのだとうかと考えさせられました。現在のような支援がされない当時は、地震後も多くの人が亡くなったことでしょう。被害を受けたのは天領、善光寺領、松代藩領、上田藩領、松本藩領、須坂藩領、椎谷藩領、飯山藩領、戸隠神社領、他旗本領と広範囲にわたっています。特に被害が大きかったのは御開帳で大勢が詰めかけていた善光寺門前と、犀川と千曲川が合流する付近の松代藩領だと云われています。松代藩は洪水を予想して、小市付近で人夫を動員して堤防を造っていたましたが、間に合わずに皆流されました。越後国から善光寺に御開帳へ行っていた人々が、逆に逃れてくる様子など日記では違った側面からの様子を教えてくれます。

 

 また、善光寺門前の南の問御所村が椎谷藩(新潟県柏崎市)の飛地であったため、ここに代官として派遣されていた椎谷藩士の寺島善兵衛が、火災がこれ以上広がらないように懸命に消火活動にあたり、現在のオリンピックセントラルスクエア付近で食い止めた美談が残っています。

 さらに話しが少し逸れますが、元和頃の善光寺絵図を見ると、現在の仁王門をくぐって直ぐに右手へ300m程進んだ岩石町に、越後柏崎墓というものがありました。「なんだろう?」と調べたところ、逸話が残っていました。『鎌倉時代に越後国柏崎の御家人であった柏崎某が訴訟のために子の花若を伴って鎌倉へ出掛けましたが病気で亡くなり、花若は行方不明となってしまいました。柏崎に残された母は子を探しに善光寺に来て、夫の形見を奉納し、舞っていたところ、そこに居た花若と再会した』というお話です。新潟とはこのようなつながりもあったのですね。

 

 『柏崎日記』を読むと、中越地震と160年前の善光寺地震の被害があまりに似ているのに驚かされます。決して他人事ではないのです。最近長野では、中越地震の影響で再び地震が起こるのではないかと騒がれ始めています。かろうじて残った善光寺本堂の柱と台座のズレは、知らない私達に地震の恐ろしさを教えてくれます。

.....四方赤良”

四方赤良余談6

其之83以降


四方赤良余談5

其之82以前


四方赤良余談4

其之76以前


四方赤良余談3

其之71以前


四方赤良余談2

其之63以前


四方赤良余談1

其之52以前


四方赤良余談

其之38以前


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●こぼれ話
 
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