四方赤良の余談集3

 


四方赤良

雨雲のはるるみ空の月かげに恨みなぐさむ姨捨の山・・・西行

『其之 71』H18.11.3〜H18.12.31

 

 最近、昔の事を思い出します。

 毎年、家の庭で大豆を蒸して潰し、地面にブルーシートを広げ、その上に家族総出で20cmほどの玉に丸めて並べました。その後、玉を縄で括って軒下に吊し、カチカチになるまで乾燥させました。子供心に何を作っていたのか分からずに手伝っていましたが、今となってはこれが味噌だったと理解できるようになり、懐かしく思います。この味噌は、私達がスーパーなどで買っている市販の味噌と違い、粒が粗く、少し酸っぱい匂いがして、薄淡色で水分がもう少し多かった気がします。このような自家製の味噌を手前味噌と言い、全国各地には自慢の違った味や特徴を持つ手前味噌があります。今回は、その中でも東京を中心に、全国最大の生産量、シェア40%を誇る「信州味噌」について余談します。

 

 味噌がいつ造られたのか、正確なところ分かっていないということを申し述べておきます。文字として味噌が登場するのは、養老2(718)年に作成された『養老令』に書かれている「未醤」で、天皇家の食事を掌る宮内省大膳職が使用する調味料の部分に、酢、酒、塩などと共に書かれていますが、一般的には後世の味噌とは違った物であろうと云われています。そして、平安時代となって、いよいよ現代と同じ「味噌」という文字が表れます。延喜元(901)年に作成された歴史書の『日本三代実録』に、こうあります。

勅唐僧湛誉供料、日、白米3升2合、塩3合、味噌2合、滓醤2合、醤1合、海藻2両、滑海藻2両。節料、白米10斛。毎年5月12日、近江国正税充之。

唐僧の湛誉が、朝廷から現物支給された年俸の中に、「醤」とは区別された「味噌」という文字があります。この年棒は、近江国(滋賀県)の産物であり、その頃の味噌産地の1つであったことが判ります。しかし、この時点で「味噌」という文字を、現代のように「みそ」と読んだとは限りません。実は、既に平安時代から、何時から?どのように?「みそ」と読まれたのか?といった論争があり、現代に至る千年以上それは続き、解決していません。

 味噌は、大豆+塩+麹があれば誰でも造れるという手軽な物で、現代ではアパートでも造れる味噌セットなるものも販売されています。鎌倉時代の頃までは、市場などで味噌が販売されていましたが、次第に味噌作りは一般の家でも行われるようになり、市場からは消えていきました。湿度、温度、水、雑菌の種類や配合によって味が変わることから、各地にそれぞれの面白い味がありました。それでは、信濃国の風土から生まれた味噌は、どのようにして「信州味噌」として全国1位の生産を誇るまでになったのでしょうか。

 

 まず、戦国時代より以前に、信濃国の人々が何を食べていたのか見てみましょう。信濃には海が無いので、それらを外した物を載せてみましたが、輸送して食べられていたので食べていなかったというわけではありません。

[野菜、果物類]

カブ、大根、茄子、瓜、葱、アサツキ、大蒜、ノビル、ウド、フキノトウ、セリ、ヨモギ、ゴボウ、三つ葉、里芋、長芋、山芋、葛の根、ヨナメ、竹の子、蕨、フキ、ナギ、アザミ、カブラ、ケシ、ウハギ、山椒、ヤマアララギ、アオナ、ゼンマイ、ミョウガ、ショウガ、シソ、ナズナ、韮、蓮根、ユリネ、ナツメ、柿、栗、胡桃、山葵、杏子、スモモ、桃、キノコ

 

[魚類]

鮎、ウグイ、鱒、鰻、鯉、鮒、岩魚、山女、鮭、ナマズ

 

[肉類]

鴨、鶴、雉、鶏、鶉、羊、猪、鹿、狸、豚、熊、兎、鼈

 

当たり前のことですが、この頃の人々は、野山に自生している物を採ったり、山川に生きている獲物を捕らえて食べていました。もちろん畑で栽培したり、飼育している物も食べました。戦国時代に信濃の市場で売られていた食物を当時の記録から見ると、米、粟、大麦、小麦、稗、大豆、小豆、塩、酒、干し葉、芋のから(里芋の茎を干したもの)、蕎麦、蕨、夕顔、茄子などがありました。飢饉や豊作によって相場が上がったり下がったりした事が、よく日記などに書かれています。このような市場で販売される品物は、それだけ多くの土地で栽培されていた事になり、当時の信濃の人々が主食としていた物でもあるということになります。この中に大豆が含まれていますが、これは味噌造りに使用された大豆でした。信濃に侵略した武田信玄はこの信州味噌に注目し、軍事に役立てようと下記のお触れを発布しました。

※史料の原文所在は不明

一.川中島をはじめ、信濃国全体の川添い左右五里の奥地まで、各戸かならず味噌つくりを奨励すること。

 

一.軍が味噌を徴発する時は、三年味噌から高価に買いあげ、自然貯備量を増加させること。

 

一.混入米麦は、現地の実情に応じて、百姓の好みを活用すること。

 

 武田軍は信州味噌をどのように食べていたのでしょうか?

 戦場では数ヶ月におよぶ長期の野陣があったり、慌しい移動、長距離や山岳道を行軍する場合もあったので、それらに適した食事が求められました。なま物は、直ぐに腐ってしまうことから、乾燥させた物を良く食べました。魚肉類としては、肉をそのまま燻製にし、戦場ではそのまま割いたりして食べました。日本海から千曲川を遡上してくる鮭は、楚割(すわやり)という魚肉を細長く切って干した物にし、都にまで納めていた記録が残っています。諏訪地方の雉肉も有名だったらしく、雉の干物や塩漬け肉が都に納められていました。生肉のまま食べたり、酢に漬けて食べてもいたようです。野菜類としては、里芋の茎、菜っ葉、大根などを乾燥させ、戦場ではそれをお湯に入れて食べたり、そのままかじったりしました。乾燥させる前に味噌で煮詰めておけば、お湯に入れた時に味噌汁になるという便利な方法も戦場で行われました。また、焼いた味噌をそのまま食べたり、干したご飯が戦場ではよく食べられたのですが、これに味噌を着けて食べました。武田軍の兵士はこのような携帯に便利な味噌や干し飯を腰の袋に入れ、信濃の平地や山々を駆け巡ったのでした。当時の記録を見ると、戦場だけでなく、ありとあらゆる食事の場面に味噌汁が登場するので、味噌が武士の食料としていかに大切だったかの分かります。

 甲斐国の名物に「ほうとう」という鍋物があります。平たい小麦麺を味噌汁に入れ、お好みによって南瓜や大根、人参などを入れる有名な郷土料理になります。武田信玄が戦場で食べたのが始まりとも云われているので調べてみたのですが、結局根拠となる史料は見つかりませんでした。

 

 

 信州味噌は寒いと発酵が遅れるので、通常3月後半から5月の間に大豆を煮たり、蒸かしたりして軟らかくし、潰して玉にします。そして玉をそのまま並べて数日、雑菌が付着するのを待ちますが、縄で縛って吊るして付着を待つ地方もあります。それから玉を細かく砕いて麹と塩を加え、樽に入れて保存しました。夏の土丑を過ぎると食べられるようになりますが、この頃の信州味噌は1年物としてはあまり食べませんでした。翌年の冬を越すと2年味噌、さらにもう一回冬を越すと3年味噌となり、これが1番おいしい信州味噌と言われてきました。信州味噌の標準配合は、大豆1斗、米麹1斗、塩5升(十麹:とこうじ)になりますが、塩分を嫌った家では、塩を少なめにしました。塩は大豆の腐敗を防止するのに必要なため欠かせない物ですが、越後の日本海や、三河の太平洋などから購入していました。信濃国の麹は、米麹がほとんどですが、大豆麹を使用していた地方もありました。麹は蒸した米に麹菌を混ぜて作るのですが、温度、湿度管理が難しく、失敗する者もいました。よって麹屋で販売されていた物を使っていたようですが、自家製の物を使用した家もありました。信濃国の風土は、朝寒く、昼暑く、空気が澄んでいるので雑菌が少なく、湿度が低くカラッとしているので、味噌の発酵に適した気候でした。さらに地形的にも、山岳傾斜地が多いことから田が造れず、変わりに大豆や蕎麦を植えるなどしていたので、材料の大豆の生産も盛んでした。

 

 幕末の信濃国に、市販する味噌業者は何軒かありましたが、しかしそれはまだ酒造りをしたり、醤油造りをしたり、あるいは穀屋、麹屋を営む人達のほんの片手間の仕事にすぎませんでした。それが明治時代になると大きく変化します。廃藩置県と秩禄処分によって、武士が士族となって特権を失うと、彼等の多くが酒造を営むようになりました。しかし経験と知識の無い彼等は、米を腐らせたり、経営を誤るなどして店を倒産させました。その頃、東京で醤油の需要が高まり、それに乗じた醤油屋の起業が流行りだしました。酒造屋、穀屋、麹屋や酒造業に失敗した士族などが、醤油屋に転業し、発展し続ける東京の市場を狙って進出を図りますが、既に伝統と技の下に販売していた千葉、茨城、埼玉県などの醤油の味には勝てませんでした。醤油は寒い気候が苦手で、低温だと原料の分解や発酵が遅れ、良質な醤油を造ることはできませんでした。明治30年頃になると、こうした市場や醤油の特性を長野県の醤油屋も理解するようになり、長野県ならではの味を誇る味噌を製造することが最も最良であるということに気付くようになっていきました。明治8年の味噌生産量の全国シェアは、下記のようでした。今の群馬県と新潟県の生産量が突出して多く、長野はこうした周辺県から購入しているような状況でした。

 

明治8年の味噌主要産地

府県名

生産量(貫)

熊谷県(群馬)

6,562,830

新潟県

6,477,604

新治県

3,946,131

長野県+筑摩県

2,652,895

秋田県

2,619,532

千葉県

1,390,402

 

 明治時代までの東京では「江戸味噌」と呼ばれる、ほとんど寝かせない若い1年味噌が最も多く食べられていました。江戸で食べられる味噌は、江戸で造られていたというわけですが、明治時代になって転勤する官員や地方からの流入者が増えると、各家庭で造られる味噌というのは次第に減り、味噌店で購入する家が増えていきました。こうした需要の高まりと鉄道網が整備される中で、少しずつ信州味噌の生産量も上がっていきました。富国強兵によって、国策として工業化が進められていくと、諏訪郡を中心に製糸工場が増加していきました。製糸工場では、多くの工人が働くので、工人の食料を工場で賄う必要がありました。そこで、工場の忙しくない時期を見計らい、空いたボイラーで大豆を蒸し、繭倉で味噌を干すなどして大量に味噌が造られました。さらに味噌造りの手間を少しでも減らすために、次第に機械化も進められ、味噌すり機や豆洗い機が取り入れられていきました。

 

 明治時代まではそれほど大豆を必要としなかったので、長野県県内で生産された大豆で味噌を造っていました。長野市と松本市の間(犀川南北)に西山と呼ばれる山間地があり、ここで作られた大豆は特に良質とされ、各地の味噌屋から重宝がられました。明治時代に鉄道網が広がっていくと良質で安い大豆が求められ、今度は東北地方や北海道の大豆が用いられるようになりました。そして明治43年に日韓併合が行われると、今度は朝鮮大豆が用いられるようになりました。この朝鮮大豆が信州味噌を製造するのにとても適し、終戦まで信州味噌の大豆の主流でした。

 大正12(1923)年に関東大震災が発生し、県内の味噌屋や味噌を製造していた製糸工場は、中央線や信越線によって、被災者救援のために蓄えておいた味噌を東京へ供出しました。この味噌に用いられていたのが朝鮮大豆でした。東京の人々は、江戸味噌のような1年味噌を食べていたので、2〜3年物の信州味噌を食べて驚嘆したと言われます。長い年月をかけて丁寧に熟成させ、多種の風味を持つ信州味噌は評判を呼びました。関東大震災から急激に信州味噌の生産量は増え続け、県内では諏訪郡が佐久郡を抜いて、生産量第1位となりました。しかし、第一次世界大戦後の不況と、世界恐慌によって諏訪郡を中心に県内の製糸工場は次々と倒産しました。倒産した製糸工場は、これまでの経験と、少ない設備投資によって味噌工場へと転化しました。皮肉ですが、これによって味噌生産量はさらに増加し、戦後の昭和26(1951)年、2位の東京都に2倍以上の差をつけて、ついに生産量全国1位となりました。テレビや店頭などで見聞きする「マルコメ」、「ハナマルキ」、「ひかり」といった味噌がありますが、何れも長野県の業者になります。

 

平成11年の味噌主要産地

府県名

生産量(千トン)

長野県

194,262

愛知県

49,447

青森県

31,367

北海道

26,737

群馬県

25,667

新潟県

25,129

 

 長野県は現在、女性が長寿3位、男性が1位で、長寿と言われる沖縄県よりも長寿県となっています。世間では健康食品や薬品があふれていますが、長野県産の野菜や味噌を食べ、水を飲んでいる者達がこれだけ長寿なので、つまるところ同じような物を食べていれば、それなりに健康で長生きできるのではないかと思われます。味噌は平均40%が水分です。よって「味噌は水が命」という話も味噌屋さんから耳にします。これからも多くの人々が、長野の自然を大切にし、良い水が得られるように努めてほしいものです。

 信州味噌は多くの信州人の機械化と努力によって、大量生産と高品質に成功しました。しかし、こうした味噌業界の中で、機械化を倦厭して手造りにこだわっている店もあります。「天然醸造」と書かれているものがそれで、旧街道筋などの古い佇まいの味噌屋さんなどで販売しています。今回味噌の歴史を調べるのに、味か知ってからと県内至る所の味噌を買い込みました。どんな料理で食すかと今日も思案しています。しかしなかなかの味。


『其之 70』H18.9.1〜H18.11.3

 

 御坂峠再憶(・・・『四方赤良余談1』より)

 前日の雨で霧がかかった、勾配のきつい細いアスファルトの道を車で進む。園原川によって深く刻まれた渓谷に沿って、右に左にハンドルをきりながら進んで行くと、道はしだいに自然霊的な雰囲気を与えてくれる場所に出ました。道脇には『東山道』と書かれた標識が目に入るようになり、自身の心が期待に高揚していくのを感じます。ここは長野県下伊那郡の阿智村という土地で、あいにくの空模様により横長台形をした百名山の恵那山が見えずに残念で した。恵那山の向こうは岐阜県になります。

 学校の歴史授業で、律令制度のあたりを学ぶ時に必ずと言っていいほど耳にする「東山道」が、恵那山の北脇を越えてありました。今日の目的地はこの北脇の峠、東山道最大の難所といわれた標高1,595mの「御坂峠」になります。ここを「おさかとうげ」と呼ぶ人もいますが、「みさかとうげ (万葉集に「美佐賀」とある)」なので間違えないようにしてください。平安 より昔から「科野之坂」、「信濃坂」、「神之御坂」とも呼ばれてきました。奈良、平安、鎌倉、室町 (縄文弥生時代の遺物も周辺から出土します)と数百年に亘って使われ続けた官道で、都と信濃国府、それより東に住む人々がどれほどここを越えていったのでしょう。都へ納める調(信濃は麻布)を馬や人の背に載せて運んだり、防人として九州に派遣される人々が通行しました。

 網掛山から中央自動車道の園原インター付近を通っていたと推定されますが、料金所の前を流れる本谷川は、風化し易い花崗岩が削られた川で年々底が下がっています。単純に10年で1m下がるとすると1200年前は120m高い位置を流れていたことになるので、今より本谷川を渡る風景は大分違ったことでしょう。ここから更に西へ2km行った「御坂神社」(標高1,030m)に車を停めました。ここから峠までは7qの道程になります。鳥居横にある日本武尊命腰掛石を見物しながら本殿へ向かうと、鬱蒼と繁った暗い森の中に、巨大な杉の御神木と、同じく巨大な栃の木が立っていました。樹齢1000年以上の威厳が樹皮から湧き出て、荘厳しい凛々しさを感じされてくれます。ここで旅の無事を祈っていよいよ峠を目指しました。

 境内の裏から園原川に沿って時計回りに登っていくのが東山道で、川の鋭く流れる音を左に聞きながら進んでいくと、道はしだいに川から離れて坂が急になってきました。これほどの急坂を馬で登れたのだろうか?と不思議に思いますが、園原川も花崗岩が削り込まれた川なので、今より100m以上高い場所を通っていたと考えれば、神社からほぼ等高線に沿って 川沿いを緩い坂で行けるので納得できます。この辺りは近代になって造林された檜に囲まれているので良い香りが漂い、道々には赤や白などの茸が顔をのぞかせていました。道中、栗鼠と出会ったり、猪が掘り起こした木根や土、鹿 や兎の足跡がありました。室町時代に書かれた『今昔物語』には、藤原陳忠(ふじわらのぶただ)が信濃国守の任を勤め上げて帰京する際に、足を滑らせて谷底に転落したのですが、沢山の茸を拾って這い戻ってきた有名な話しがあります。陳忠はこの辺りか?あの辺りで落ちたのだろうか?それらしい地形を覗き込んでみました。

 暗いブナ、ナラなどの広葉樹林帯や檜林を抜けると、今度は唐松の森が続いて明るくなってきます。唐松の足下には笹が絨毯となって一面に広がっていました。秋が深まるとこの唐松の葉が黄色くなって落ちていくのがとてつもなく美しいのです。この森を進んで行くと坂はしだいに緩くなり、ようやく尾根に出たことが感じられました。登るにつれて植生の変化があり、唐松に混ざって白樺とナナカマドが見えるようになりました。昭和の頃と思われる牧場跡まで来ると、もう白樺とナナカマドばかりになります。御坂峠までの道程は半分を過ぎ、残り3qとなりました。

 ここまで来ると遠くに駱駝のコブの様な笹山がちらちらと見えてきました。自然の造形美とはこのことで、こんもりとした面白い山です。このフタコブの左側の低い部分が「御坂峠」になります。ほとんど平らな森道を抜けると、急に開けて1軒の山小屋が建っていました。実はここまで岐阜県側から車で来られます。山小屋は「萬岳荘」と言って、昭和8年に放牧場の小屋として建てられたもので、現在は阿智村と中津川市営の宿泊施設になります。ここから「御坂峠」までは舗装された道を1qになります。点在するモミの木と一面の笹の絨毯が続き、ほぼ平らな道を楽々と進みました。付近からは祭祀遺跡が発見されているので、ついつい何か落ちていないか斜面を見ながら歩いて行きましたが、そうは簡単に見つかってくれません。ラジオでFM放送を探ると、FM愛知とFM岐阜が入りました。普段聞くことができない音も聞きながら歩くと、あっという間に目的地の「御坂峠」に到着することができました。比較的平らでやや窪んだ峠に着くと、なんだかほっとした気持ちになりました。過去の発掘調査から、信濃方面から峠に到着すると、前面に人工の溜池(舗装された道路付近)があったことが判明しています。 荷を運ぶ馬や人などが水を飲んだのでしょう。東山道は、この池の手前を右方向に避けて西へ延びていました。池端や更に右手緩斜面からは大量の祭祀遺物が出土しました。新しい信濃守が赴任すると、信濃国の各郡司やその家来など数百人が、御坂峠までお迎えにあがりました。肉、酒、汁などでもてなされ、招かれざる国守は、不味い物を出されたそうです。ちょうどこの池端で歓送迎会を行ったのでしょうか、楽しく想像させてもらいました。冬は数mの雪に閉ざされるこの峠、岐阜県側が一望できる尾根際まで来ると、山にぶつかった空気が雲となって、次々と私の体をすり抜けて行きました。眼下に広がる下りの森、雲の隙間から遠くに中津川の街並みが見えました。とても日暮れまでに坂本駅までは行けそうにありません。

 神坂峠の発掘調査によると、平安時代の1100年をピークに、通行量がしだいに減っていったことが分かっています。室町時代後半にはほぼ使われなくなったと思われ、江戸時代に木曽道が中山道として開削されると、この峠を越える者はいなくなりました。

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 夜明けとともに阿知駅(阿智村駒場)を出発すれば、3時間で御坂神社へ着き、そこから更に3時間で御坂峠に着くことが出来ます。坂本駅(岐阜県中津川市)までは下りであっても更に倍の時間が必要なので、そこへ着く頃には日没になってしまいます。荷を運ぶ者や足弱の者、健脚でも雨雪であれば途中で野宿をする羽目になったと思われます。 さらに先日行った網掛山の木には熊の爪痕がありました。日本狼もいた時代なので、獣に襲われて死ぬ者もいたことでしょう。 また、先程から再憶文に書いているように、園原川の河床の低下による山崩れが大規模に幾度となく発生していたと思われます。 それは山腹の傷跡や地質からも分かり 、周辺では今日現在も土砂崩落のために各所が通行止めになっています。これらのために数百年を通じて道の状態や位置も変化していったと考えられます。

 

 今から約1200年前の弘仁6年(815)、最澄は東国へ布教のために神坂峠を通りました。この時の最澄の体験が弟子の仁忠が撰した『叡山大師伝』に あります。

大師東征の日、信濃の坂を越ゆ。その坂数十里なり。雲を踏み空に跨り、霧をはらいて錫をつくに、馬はあがいて風を喰ひ、人は呻きて気を吐き、尚一日の行程にたへず。ただ半山に宿してわずかに村里に達す。大師この坂のかん難にして、往還に宿無きを見て、誓って広済、広拯の両院を置き、進退の便りあり、公私損ずること無からしむ。美濃の境内をば広済と名け、信濃の境内をば広拯と名くるなり。 (難字変更文)

 

このように、御坂峠越えが険しく困難であることを体験した最澄は、旅人のために信濃と美濃の両側に広拯院と広済院という布施屋(宿泊施設)を設けました。信濃側に建てられた広拯院の位置については、戦前に多くの郷土史家が調査を行い、園原月見堂があ る場所がそうではないかとされました。調査は発掘という確証を得ない、文献史料からの想定に過ぎないのですが、平成12年に園原月見堂は比叡山延暦寺から「信濃比叡」の称号を戴き、平成18年4月に完成した本堂で落慶法要 が行われました。どの程度の建物が建っていたのかも不明なのですが、園原川による崩壊の影響を受けない安定した土地が、ちょうどこの信濃比叡から御坂神社にかけての高度になるので、道程などからもこの 1.5q間が広拯院の位置として適当ではないかと思われます。『叡山大師伝』にも「途中で野宿をしてようやく村里に達する」とあり、御坂神社と信濃比叡の間では古墳時代から江戸時代の住居跡が発掘されているので、これが『叡山大師伝』に書かれている村里にあたると考えられます。そして、宿の無い村里に広拯院を置いたと読み取れるので、やはり信濃比叡付近が該当するのではないでしょうか。 平安時代に坂上是則が詠んだ「園原や伏屋に生ふる帚木(ははきぎ)のありとてゆけど逢はぬ君かな」 という歌があります。ホウキに似て枝の広がった檜の大木が、これまで園原月見堂の裏山にあったのですが、半分が枯れ、残った半分も枯れ、遂に数十年前に根元を残して枯れてしまいました。真に残念でなりません。

 

 現在、信濃比叡の門前は発掘調査の真っ最中です。ここから灰釉陶器(平安時代)や銅鏡(平安時代以降)が出土したのですが、遂に東山道そのものの遺構らしきものが出てきました。平成17年に上田市の国分寺近くから東山道の遺構が見つかって以来の快挙になるものです。同じように道端に溝があり、山の斜面にも関わらず道がほぼ直線に延びていました。これ以前の阿智村における発掘調査は、昭和40年代の中央自動車道建設に伴う阿智駅から御坂峠にかけてのもので、道の遺構は発掘されませんでした。しかし、これらからは「幣(奴佐、ぬさ)」と呼ばれる、石製模造品が全国でも類を見ないほど大量に出土しました。「ぬさ」 とは、石を刀・円・勾玉状に加工し、紐を石に開けた穴に通したり、括りつけたりして繋ぎ、それを木に掛けて神に何かを祈りました。私は刀・円・勾玉 (または管玉類)は、剣・鏡・玉に相当し、いわゆる三種の神器と同様の意味合いがあったのではないかと考えています。御坂峠では、峠の東側(信濃側)から、武に関係すると思われる刀状ぬさが多く出土しました。万葉集には次のような防人の歌があります。

知波夜布留賀美乃美佐賀爾奴佐麻都里伊波布伊能知波意毛知知我多米

(ちはやぶる神のみ坂に幣奉り 斎ふ命は母父がため)

主帳 埴科の郡の神人部子忍男

埴科郡(坂城町付近)の忍男が、どんな気持ちでここを通過していったのか偲ばれる内容で、「ぬさ」が防人によって奉げられた物だというのが分かります。確定はできないのですが、これまでの研究によると「ぬさ」は土師器・須恵器と共に出てくるので、古墳時代から平安時代に使用されていたものであると特定されています。防人の時代もこの中に含まれるので、「ぬさ」とは都や九州へ駆り出された東国の人々がここで父母などの無事を祈って奉げたものであると考えられるのではないでしょうか。園原には、まだまだ彼と同じような境遇の者達が奉った「幣(ぬさ)」が、山中の至る所で掘り出されずに静かに眠っています。今後の発掘調査と併せて、様々な謎が解明されることを期待します。

 「幣(ぬさ)」の時代が終わると、次は灰釉陶器(かいゆうとうき)から始まって、様々な陶器類が御坂峠から出土する時代に入ります。その主な産地は濃尾平野と東美濃で、現在の豊田市(愛知県)付近にあった全国最大規模の猿投窯(さなげよう)で製造されたものがほとんどでした。猿投窯は古墳時代から操業され、窯数は1,000基を超える一大陶器生産地になります。ここで生産された灰釉陶器(白瓷、しらじ)や山茶碗が御坂峠まで運ばれ、祭祀の道具として使用されました。全国の遺跡から発掘される灰釉陶器は、主に宮跡、寺院跡、官衙跡などからしか出土しないので、御坂峠の特殊な地域的特長を思わせます。平安時代以降になると、猿投窯から独立した常滑や美濃で生産された物が出土するようになります。この頃までの時代に使われた信濃国の陶器のほとんどが、御坂峠を通って運ばれたものではないかと言われています。更級郡の森将軍塚古墳から出土した巨大な甕などは、2人がかりで丸太などを利用して神輿を担ぐように運んだのでしょうか。

 

 平安時代に作成された『延喜式』に記載されている阿智神社(阿智村)には、ある伝説が残っています。北の越後側から侵入してきた一族から、御坂峠より西側の朝廷が支配する地域を守るために、天八意思兼命(あめのやこころおもいかねのみこと)が率いる一族がこの地に住み、善政を敷いたと云われています。天八意思兼命は神武天皇から遡ること数代になるので、まさに神話の時代になります。この頃から既に、御坂峠は西側からの玄関口として位置付けられ、多くの人や文物の流出入に使われていたのではないでしょうか。今となっては神のみぞ知る時代となってしまいましたが、まさに信濃国における13世紀以前の歴史の鍵を握る峠と言えるかもしれません。官道として使われなくなった道も、生きるためにここに住み着いた人々が昭和になっても細々と使い続けました。皆さんもぜひ歩いてみてください。

 


『其之 69』H18.8.1〜H18.9.10

 

 

 長野県の歴史論壇では、県北は上杉びいき、県南は武田びいきだと言われています。しかし本当にそうなのでしょうか?現代のような大量の情報が行き交う世の中では、小説やテレビから受けるインパクトがあまりにも大きく、「ひいき」という固定化されたものよりは、ほとんどの人に武田信玄に対する好印象が植え付けられています。とりわけ近年では、1988年に放送されたNHK大河ドラマ『武田信玄』、その原作となった新田次郎の小説『武田信玄』、漫画界では横山光輝『武田信玄』などがその主原因となっています。多くの武田信玄ファンを証明するように、図書館に所蔵されている武田に関する本を調べると600種類を越えます。予想はしていましたが、あまりの多さに驚かされます。そのほとんどの内容が、『甲陽軍鑑』、『武田三代軍記』、『川中島五箇度合戦之次第』など江戸時代に書かれた書を基本とし、明治以降の講談や、大日本帝国陸軍が作成した『大日本戦史』などの教科書が根本となって、名将としての武田信玄が多くの小説家に採用された経緯によるものになります。

 しかし、硬派に歴史を学んでいる者が、当時の史料などを基に武田信玄の史実を研究すると、「長野県は武田信玄に侵略された」、「信玄は悪人である」という結論に達します。当然ながら私も同意見で、これまで余談において武田信玄の話題を避けてきました。今回は、2007年大河ドラマ『風林火山』が放送されることもあって、敢えて信玄の話題にふれたいと思います。

 

 

 信玄の事を色々調べると、ある事に気付きます。それは、奥信濃(武田信玄は川中島以北を奥信濃と呼んでいました)の出来事を書いた物が意外に少ないことです。知人に「武田と上杉の戦いは、川中島が北限じゃないの?」と言われました。それは大きな間違いです。川中島合戦があまりに有名なため、それ以北であった上杉と武田の戦いが打ち消されてしまっているのです。川中島合戦は、奥信濃の情勢を含めて把握しないと、その内実を見誤ってしまいます。現在、精査された研究書もありますが部分的であり、今回はそれらにも殆ど書かれていない出来事を余談します。

 NHK大河ドラマ『風林火山』の主人公は、武田晴信(信玄)の軍師であったと云われる山本勘助になります。勘助については、江戸時代から現在に至る300年間において書かれた書物に登場するだけで、全国各地に現存する数百点にも及ぶ武田の古文書には彼が登場しませんでした。 呈して江戸の版元や作者も面白可笑しく書かなければ商売にならないというわけで、勘助は伝説上の人物ではないかと言われてきました。しかしその後、昭和44年に北海道で下記古文書が発見され、山本勘助が実在の人物であったことが判明しました。

 

注進状披見。仍つて景虎、野沢の湯に至り陣を進め、其の地へ取り懸かるべき模様、又武略に入り候と雖も、同意無く、剰え備堅固故、長尾功無くして飯山へ引退き候由誠に心地よく候。何れも今度、其の方の擬たものしき迄に候。なかんずく野沢在陣のみぎり、中野筋後詰の義、飛脚に預り候き。すなわち倉賀野へ越し上原与三左衛門尉、又当年の事も塩田在城の足軽を始めとして、原与三左衛門尉五百余人、真田へ指し遣はし候処、既に退散の上是非に及ばず候。全く無首尾有るべからず候。向後は兼て其の旨を存じ、塩田の在城衆へ申し付け候間、湯本より注進次第に当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣、今日飯富兵部少輔の所へ下地を成し候の条、御心易く有るべく候。猶山本管助口上有るべく候。恐々謹言。

 

六月廿三日   晴信(花押)

市河藤若殿

上文の最後に山本管助と書かれています。名前の1字が違っていますが、これまでの「勘助」という字が間違いで、実は「管助」が本当だったかもしれません。さらに、この古文書により軍師だったという事が否定され、信玄の口上を述べる程度の使者(軍使)だったのではないかという説が出てきました。しかし、軍使には相手の様子を探ったり、敵方を調略する役目もあるので、一概に違うとも言えません。山梨県立博物館所蔵『古府之図』には、信玄が居住した躑躅ケ崎館の西方の川窪(塚原橋付近)という場所に相川という川が流れているのですが、その川沿いに山本勘助の屋敷とあります。ご近所としては、初鹿野源五郎、真田源太左衛門の屋敷がありました。さらに江戸時代の『武功雑記』には、 「色黒く散々の醜男にして一眼、指も叶はずその上足はちんばなり」と、山本勘助の様子が書かれています。

 

 

 それでは奥信濃の戦いを覗いてみましょう。

 戦国時代における詳細な信濃国内の道筋というのは不明なのですが、江戸時代の絵図から信濃国と越後国を結ぶ道を見ると、大きく5方向がありました。@野尻湖の東岸と西岸を抜ける2本、A千曲川の東を通って十日町 (新潟県)に抜ける1本、B飯山を起点に千曲川の西を通って十日町に抜ける1本、C飯山を起点に富倉峠や関田峠をはじめとした鍋倉山周辺を越える間道が5本、D小谷から糸魚川に抜ける2本がありました。AB千曲川東西道とD小谷道は、断崖絶壁の急峻な地形のため、かなり厳しい道であったと推定されます。また、重要なポイントとして、飯山より下流の千曲川は、急激に断崖地形となり、越後国の十日町ぐらいまで下らないと千曲川のA東B西間を往来できないというのを知らなければなりません。よって、越後国へ抜ける道でもっとも主要となるのは、C飯山から鍋倉山付近を越えていく道と、@野尻湖の道筋となり、「飯山」と「野尻湖」の地が、交通や越後国防御上、いかに大切な土地であったかが分かります。この道は古代からあったとも云われる道で 、それだけ利便性のある道でした。

 天文22年(1553)、武田晴信が村上領を制圧して善光寺平へ進出した時、村上義清は越後国へ逃れて長尾景虎(上杉謙信)へ救援を求めました。残された奥信濃の豪族達は、武田に降るか、隣国の長尾景虎に救援を請うかに迫られました。奥信濃の豪族達に救援を請われた長尾景虎は、天文22年から弘治3年までの5年間に3度信濃へ出陣し、延べ1年間近くも滞陣しました。「飯山」と「野尻湖」を抜かれると、幾つものルートで越後国内へ侵入されるようになり、景虎の居城である春日山城やその城下町へは約35qの距離なので、武田軍が強行すれば1日もかからず到達できるようになります。これによって長尾景虎は、奥信濃の豪族達を保護することにし、岩井氏(中野市)、安田氏、東条氏、井上氏、須田氏、嶋津氏、高梨氏等は長尾方へ付きました。しかし、素早い武田の調略によって、高井郡の市河氏、木島氏(木島平村)、井上氏(須坂市)等は武田方へ降り、「飯山」の対岸である千曲川の東側はほぼ武田領となりました。

 武田晴信は奥信濃の攻略にあたって、飯富兵部少輔虎昌を、佐久、上田、深志、諏訪の四方を結ぶ重要な拠点の塩田城(上田市)におきました。飯富虎昌は長男の武田義信の守り役も務める信玄にとって信頼を寄せる重臣で、塩田において奥信濃への作戦指揮や兵站線の確保をさせました。

 弘治3年(1557)、「飯山」の南にあたる「中野」(中野市)を支配していた高梨政頼は、 飯富虎昌の調略による相次ぐ家臣の裏切りと攻撃に耐えきれず、「中野」を放棄して水内郡「飯山」へ退却しました。政頼など奥信濃の豪族達は、「飯山」を死守して長尾景虎へ救援を依頼しましたが、景虎は諸事情によって出陣しませんでした。痺れを切らした高梨政頼は、「持ち堪えられず、飯山を放棄するしかない」と書状に書いて景虎を脅しました。高梨家は景虎祖母の実家で、長年にわたって昵懇にしていた家柄でした。さらに、わざわざ雪の季節を狙って、和議により定めた境界を侵して葛山城を落とした武田晴信を許すことができず、翌年の弘治4年(1558)春、長尾景虎は春日山城を出陣しました。その勢いは凄まじく、山田城(高山村)、福島城(須坂市)を落とし、武田軍と睨み合いながら善光寺平を臨む旭山城(長野市)を増強しました。この時に高梨政頼は、裏切った野沢(野沢温泉村)の市河氏を説得しましたが、成功しませんでした。 

 上杉と武田が戦っている最中、京都の将軍家は各地の武将に上洛するように要請しました。長尾景虎はこれに応じることにし、将軍足利義輝は武田晴信に上杉を攻めないように要請し、晴信もそれに応じる返答書を出しました。これによって永禄2年(1559)長尾景虎は5千の軍を率いて上洛し、関東管領に任命されました。しかし、武田晴信は自分が前年に信濃守に任命されたので奥信濃を領有する権利があると主張して、景虎が上洛中に返答書を破って侵略しました。下の古文書が残っています。

甲越一和の事、晴信に対し度々下知を加ふると雖も同心なし、結句分国境目に至って乱入の由、是非なく候、然らば信濃国諸侍の事、弓矢なかばの由に候間、始末景虎意見を加ふべきの段肝要に候、なほ晴光申すべく候なり。


 六月廿六日 長尾弾正少弼とのへ
                  (足利義輝花押)

 この古文書は、征夷大将軍足利義輝が大館上総介晴光を使者として長尾景虎に与えたものになります。内容は、武田と上杉の和議の事について、武田晴信に度々伝えているが命令を聞かない。さらに上杉の国境を侵して乱入していると聞いた。しからば信濃国の諸侍の事は戦闘の途中なので、その始末を長尾景虎のやりたいように任せると書いてあります。


 そして今度は、上杉政虎(永禄3年改名)が小田原の北条を攻めている最中の永禄4年(1561)、武田晴信は黒姫山と飯縄山の間に道を切り開いて割ケ嶽城を攻撃し、初めて「野尻湖」まで侵入しました。これによって上杉政虎は、遂に許し難しと決着を付ける覚悟を固めました。有名な第4次川中島の開戦です。『上杉年譜』によると、上杉軍の先鋒には、村上、高梨、島津、井上、須田と奥信濃の豪族が書かれています。上杉軍は武田のキツツキ戦法を逆手にとって、妻女山を暗いうちに下り、川向こうで待つ武田信玄の本陣へ向かいました。その時、この奥信濃衆は、妻女山から信玄を救おうと追ってくる別働隊を迎え撃つために、山裾に陣を張ったと云われています(上信越自動車道の松代SA西側付近)。

 山本管助の名が記載されている先の古文書は、ちょうどこの頃のものになります。文には、野沢を守る市河藤若を長尾軍が攻撃したが守りが固く飯山へ引き上げていったとあります。そして、これ以後は武田晴信へいちいち救援依頼するのではなく、塩田の飯富に出陣するように言ってあるので、そちらに依頼するようにと述べています。 野沢には野沢城がありましたが、それは今の野沢温泉街にあった館のようなものでした。とても堅固で落とせなかったと言えるような城ではないので、千曲川周辺にあった西浦城、平林城と推定されます。この頃の武田晴信から市河氏への古文書に「新しい城にて立て籠もるように」との命令が残っているので、どちらかが武田が築城した城となり、武田晴信が市河氏を重要視していたことが判ります。さらに「倉賀野」(群馬県高崎市)の文字が出てきますが、永禄2年(1559)秋、武田信玄(永禄2年改名)は上野国へ出陣しているので、古文書の年代としては、この年ではないかと推測されます( 文には「景虎」が攻めたとありますが、本人ではないと考えています)。この時に野沢まで出向いて市河藤若の戦功をねぎらった使者が山本管助でした。翌々年の9月10日、第4次川中島合戦で山本管助は討死しました。

 

 武田晴信は、長尾景虎との対決と要衝「飯山」を攻略するのに、塩田から長距離なので、真田幸隆が落とした雨飾城(尼厳とも、長野市)を廃して麓に拠点を築くことにしました。永禄3年(1560)、ほぼ完成させた海津城 (かいづじょう)です。さらに前線への拠点として永禄11年(1568)、長沼城(長野市)を完成させました。これら前線の城には、伊那の箕輪衆、坂西氏、佐久の北方衆など信濃国内で降伏した者達に当たらせました。

 一方の長尾景虎も、数年にわたる武田晴信との戦闘において、武田軍の侵入を警戒した防御網を整えました。越後国内では、春日山城への直撃を避けるために、その南に鮫ケ尾城(新潟県妙高市)を築き、飯山道と野尻湖からの合流付近には猿橋城(新潟県妙高市)をおきました。信濃国内の飯山の守備も重視し、そこには奥信濃の豪族を当たらせました。現存している史料から飯山城を守備していたのは、上倉下総守、奈良沢民部少輔、上堺彦六 、泉弥七郎、尾崎三郎左衛門、中曾根筑前守、今清水源花丸 、岩井備中守らでしたが、総体的にどのような防御網を敷いていたのか不明です。しかし、地形や道をもとに、城跡や集落を見れば自ずと想定することができます。「飯山」を攻略するには@難路の高社山を越えて対岸の東側から千曲川を渡って直撃するか、A替佐城(中野市豊田)を落として千曲川西側を北上するしかないので、特にこの方面の防備を固めていたと思われます。また、野尻湖方面は野尻湖の野尻城を上杉氏が直属に守り、さらに野尻湖南辺を大倉城や矢筒城などで防御網を敷いて島津氏が守りました。

 上杉方の奥信濃の豪族は、武田に奪われて信濃国に殆ど領地を持たなかったので、越後国に知行地を与えられて忠義に励んでいました。当時の「飯山」は、江戸時代のような城下町が整備されていたわけではなく、千曲川河畔に泉弥七郎の館があるだけの小村落にすぎませんでした。景虎はこれを補強して永禄7年(1564、永禄6年ともある)現在残っているような飯山城を完成させ、家臣の桃井義孝と加地春綱を援軍(実質の飯山城代)として2之郭に配備しました。

 このような戦国時代の城は信濃国に無数ありました。城跡の発掘調査などをすると、決まって出土するものがあります。石臼、硯、砥石、鉄釘、銅銭、かわらけ、内耳鍋、中国産の青磁・白磁・青花、常滑焼の甕、瀬戸焼の天目茶碗、黄瀬戸の器になります。特に多いのが「かわらけ」で、酒などを飲む時の杯に使用されました。主に手で練ったいわゆる土器で、直径10cm前後で、高さ2cmぐらいのものになります。その数は多い城で数千点にのぼり、城の兵の生活を想像させてくれます。

 

  以前NHKで、川中島合戦は武田と上杉の『実力伯仲』か『パフォーマンス』か?という番組を放送していました。四方赤良の意見はこのどちらでもなく、上の余談に書いてきたように、上杉謙信はあくまでこれ以上、奥信濃の豪族を攻めぬように武田を威嚇し、和議や将軍足利義輝の停戦命令などによって境界線をしっかりと固持させようとしていたのだと考えています。しかし、武田信玄が度々約定を破るので、致し方なく5回にも及ぶ戦となったのです。そして上杉謙信としては、境界線を侵さなければ音便に済まそうとしていましたが、野尻湖と越後国への侵入には我慢できず、関東管領として第4回川中島合戦という大規模な戦闘に及んだものと思われます。 上杉謙信が弥彦神社に奉納した願文には次ぎのように書かれています。

たけ田はるのふあくきやうの事(武田晴信悪行之事)

1.飯縄戸隠小菅などの名社がすっかり衰え、お供え物や燈明もあげられなくなった事。
2.塚原の対陣の時、駿河の今川義元のとりなしで和睦したが、その時神様に誓って誓詞をとりかわしたのに、信玄がすぐにそれを破った事。
3.信州で寺社の領地を俗人に与え、そのために仏法が亡びた事。
4.武田氏が何の関係もないのに隣国や隣郡を取ろうと野心をいだき、無道な攻撃をするので、御堂や御宮が焼失すること。これも武田晴信のあやまちである。
5.信州の仏神の氏子が、あるいは滅亡し、あるいは浪人して乞食のようなくらしをしている。今度、仏の力を添えて下さらなければ、彼等は仏神の力を信じなくなるのでしょう。
6.すでに本当の親、武田信虎を追い出し、浪人乞食の身の上におとし、正しい人の道を失っている。これでは仏神の御心にかなうはずがない。
7.この秋中に、武田晴信を退治し、輝虎が本意を達したら本社の神領や堂、社については、前々のとおり心の及ぶかぎり充分に取り計らわせたいと思う。仍って件の如し。
 永禄7年甲子六月二十四日  上杉輝虎(花押)
弥彦御宝前

 この文からは上杉謙信の人柄がわかるとともに、2番目にも書かれている「約束を破った」という真実が語られています。このような文言が他の古文書にも残っており、さらに信濃の者達に助けを請われたので戦っているのだとも言っています。死闘が繰り広げられる中で、武田信玄の矛先が上野国(群馬県)へと向かい、両者の戦いもそちらへ移り変わっていきました。奥信濃の須田、村上、高梨、岩井などは上杉家の重鎮として活躍し、やがて武田が滅びると村上国清(義清の息子、山浦氏を継ぐ)は海津城主になるなど、領地を一部回復することができました。しかし、すぐに羽柴秀吉の天下となって上杉家が会津国(福島県)へ移封となると、奥信濃の豪族達も一緒に移っていきました。 折りしも、この上杉と武田が争った道に、長野新幹線が開通しようとしています。


『其之 68』H18.7.10〜H18.8.1

 

 

 明治4年(1871)9月2日、善光寺の北方6qほど行った戸隠へ通じる山間道を8人の男が駕篭に乗って進んでいました。彼等は伺去真光寺村(しゃりしんこうじむら、長野市浅川)役人の山崎与市宅へ入り、酒2斗5升、鱒2匹を差し出し、「この村で湧出している草生水(くそうず)を採取したいので、他人と契約している分を破棄して自分が採取できるように口利きしてもらいたい」と申し出ました。この8人の中心に座っていた者が、石坂周造という人物になります。
 草生水とは今で言う石油のことで、ある本では『石油』という言葉は石坂周造が最初につくったとあります。下文は明治5年(1872)3月に石坂周造が長野県の諮問に応じて提出したもので、それまで草生水と呼ばれていたものを石脳油と称し、自分の会社名に「石油」の文字を使用したので、語源は彼によるものと思われます。ちなみに下記の石炭油とは今の軽油になります。

 火気、水中に沸騰し、臭気ありて石脳油の気あるとこを知る。おおよそ地油に石炭油、石脳油の区別あり。
 茶褐色なるものは石炭油なり。この油、清澄にするには水に炭末に塩とを加えて油を灌き入れ、湯蒸気と共に引かされば火鑵内に移り危うきことあり。
 青黒色にして稠厚なるものは石脳油なり。この油、石炭油より固油の質多し。これを清澄乾溜するに火災の危うきことなし。
 石炭油蒸溜し残るところの稠厚の固油は、洋国にて大船そのほか諸器械の朽敗を止めるに用いて、その功少なからず云々。



 幕末に活躍した新選組のファンは、 石坂周造という名を聞くと「アレッ」と思うかもしれません。まだ近藤勇が道場の主として多摩(東京都)で暮らしていた頃、清河八郎が幕府を密かにあざむいて結成した浪士組に応募しました。そして将軍警護として浪士組は京都へ行ったのですが、清河八郎の片腕として近藤勇や芹沢鴨と対立していたのが石坂になります。京都に到着して清河八郎が浪士の前で声高々に演説しました。「諸君!我々の本当の目的は将軍警護でなく、尊王攘夷にあり」と、石坂はその横で清河に刃向かう者を斬ろうと、睨みをきかせながら刀を握って立っていました。
 石坂周造は生涯を通じて、自身が有名になっても出自を隠していました。昭和になってようやく判明したのですが、越後境の千曲川沿いにある桑名川村(飯山市)の出身でした。寺の僧でしたが脱走して江戸に行き、医師の石坂家の養子となりました。しだいに尊皇攘夷活動に身を費やし、清河や山岡鉄太郎(鉄舟) と出会って「虎尾ノ会」(こびのかい)という組織を結成しました。大胆にも横浜焼き討ちを計画しましたが、計画が洩れて石坂は幕府に捕縛されました。出獄してすぐに浪士組結成のために京都へ行き、尊皇攘夷のために浪士組を引き連れて江戸に戻りました。騙された幕臣が清河八郎を斬り殺すと、石坂他残党は2,000人余の江戸市中取締を命じられた高崎藩兵等に囲まれて再び捕縛されました。5年の入牢生活の後、慶応4年(1868)御一新により釈放され 、山岡鉄太郎と勝海舟に従って幕府脱走兵への鎮撫の役目を負うことになりました。しかし、北関東で逮捕した極悪人を勝手に処刑したとの理由により、今度は新政府に逮捕されました(3回目)。そして、出獄後に東京で暮らしていた石坂が外人との話などで興味をもったのが草生水掘りでした。

 伺去真光寺村で石坂周造が名乗った身分は、「静岡県貫族士族 山岡鉄太郎に厄介となっている者で、 長野石炭油会社会頭である」でした。 事実、石坂は山岡鉄舟の妻の妹を嫁に娶っていました。この肩書きをもって長野県などにも協力させ、元牢獄者としての迫力ももって、次々と石脳油掘りの権利を獲得していきました。石坂は前月の明治4年8月に、東京の湯島天神下の大岡越前守屋敷跡に『長野石炭油会社』を設立しました。 設立にあたっては横浜の鈴木安兵衛・村松吉兵衛、東京の瀬戸物屋などからの3万円の出資金を元手にしました。新潟県と長野県長野町に支社を置き、長野町の支社は刈萱山西光寺に置き、本堂を製油所として伺去真光寺村の石油の販売も開始しました。
 明治政府は富国強兵のために資源の開発に目を向け、明治2年 (1869)太政官布により「鉱山の試掘を一般に開放」し、さらに明治5年3月『鉱山心得書』(「鉱物はすべて政府の所有で国民の採掘するものは政府からの請負である」)が発布されました。石坂はこの政府の動きに先んじる形で行動し、明治5年までに上水内郡24ケ村など、長野県内の石油が地表に湧出している50ケ村と急いで契約しました。 ここでいう村との契約というのは、「村のどこを掘ってもよいが、本格的に掘削するときは土地所有者に地代を払い、石脳油が出れば利益の数%を地主と村へ払う」という、村と会社との契約でした。伺去真光寺村もその1つで、脱ダム宣言の舞台となった浅川ダム建設予定地の下流に湧出していました。第3紀層と呼ばれる約1,000万年以上前の浅川泥岩層と裾花凝灰岩の歪曲した部分の地表 付近に石油溜ができ、善光寺地震によって湧き出たと云われています。 現在、ダムによる県道付け替え道路のループ橋が架設されています。ループ橋の下に石油の神様である持国大明神と、善光寺地震復興に活躍した中野代官高木清左衛門を祀る高木大明神の石碑があります。石坂はその付近の浅川両岸一帯に油田を建設しました。下記は石坂が長野県へ伺去真光寺の様子を報告した文になります。

  伺去真光寺村石脳油之模様
    草生水製造人石坂周造
 伺去真光寺村より出るところの地油は、真に石脳油なるものにして、その質その色まったく同じくして固油なお同じ。蒸溜して火の憂いある事なし。井戸径4尺四方に枠木を入れ、板を張り、落土を留めて掘下り、その土砂、桶モッコをもって車にて揚げ掘ること40〜50間にも及び、堅石また床岩と号る岩あり、堀破りその臭気盛んにして掘進むことあたわず時は、タタラをもって風を入れ掘下り、堀終わりて井戸底より尺5〜6寸の桶頬を積み登り、右桶へ穴を明け、桶枠木の明間に樫木を詰め、その透き間穴より滴々湧出し、その油溜まること3〜4升より2〜3石に及び、1つ下げの銅瓶にて汲み揚げ、桶へ溜め、水交わりあるときは又外桶へ移し水を去り、桶詰めにしてい牛馬にて運送す。井戸数13有り。もっとも寒暖により出数過及ばず有るものなり。



 当時は油まみれになりながら人力で掘っていました。土砂が崩れて生き埋めになったり、石脳油が揮発した空気で息ができなくなるなど大変苦労な仕事でした。視察した外国人が、意識を失って油まみれで真っ黒になって上がってくる鉱夫を見て恐怖を覚えたとのことです。採取された石脳油は、会社の製油所に運ばれました。石油は比重が軽いので、加熱された石脳油が蒸発して天井の鉄板に付着し、それが漏斗をつたって流れ出てくる仕組みでした。このような蒸溜方法では不純物が多く含まれたままで、石脳油は品質によって上中下に分け られ、県内はもとより東京でも販売されました。
 皇国草生水はすなわち洋国の石炭油なり、上下の差別比較するときは、減り方少なくして、光輝舶来に勝る。油質爽やかにして招火の憂いなし、これ権輿すれば最上の品と存じ奉りそうろう。

  ※石坂の『石油会社』による1升当たりの販売価格

    上質(東京売捌)15匁
    上質(所売捌)  13匁
    中質(東京売捌)13匁5分
    中質(所売捌)  10匁
    下質(所売捌)   5匁

  長野石炭油会社は、伺去真光寺村をはじめ静岡県相良など各所で適度な量を採掘していました。そこで石坂は更に増資することを決意し、明治5年9月『石油会社』と改称し、 自分を会頭、会社の役員を取締5人、会計5人としました。1株千円で株式を募集し、華族の九条道孝、五条為栄、堀直明、沢宣種、松平直致、藤波教忠、親族の山岡家(田中作四郎)とその知人の小池詳敬、資産家の村松吉平、鈴木保兵衛、滝沢安之助、小山宗兵衛など30人が株券を購入しました。石坂はどのような会社を目指したのでしょう、下記会社定款が残っています。

 

当社加入の輩は、第一富国の御趣意を体認し、一己の利を顧みず、貧富貴賤を不論協同一和専ら功を盛大に期し、内国繭茶諸品の表に抜出し、無疆の余益を起さんと欲す(中略)同心協力して此に千載未発の国産を開き、上は国恩の一分に報し、下は各々永久の産業を成さん


 これによると、石坂の石油会社とは、会社の利益よりも国益もしくは新しい国産を興すことを目的としていたことが分かります。そして、増資金を元手に手狭となった西光寺の南西(現在のアゲイン付近)に長野支社を移し、本格的な製油所を建設しました。当時の写真を見ると、洋窓の付いた大きな蔵風建物 の中には31基の蒸溜釜が並んでいます。和風の井戸が玄関横にあり、周囲を木柵で囲み、煙突からは煙と炎が出ています。 当然ながらまだ長野駅はありませんが、この時代の善光寺門前における市街地として最南端にありました。現在の西光寺には、当時の石油会社関係者が4人埋葬されています。さらに採掘量を増やすために高価な米国式掘井機を3台購入し、それを操作する米国人アムフローム・C・ダンと 年1万円で3年契約しました。これによりこれまでは手掘りでしたが、機械による掘削が開始されました。 このダンが、石坂をはじめ株主を窮地に陥れた大悪人になります。知識もないのに自称:石油技師として石坂に接近し、茂菅村仁棚(長野市)で は櫓を組めば崩し、掘れば器械を壊し、足りない部品のことすら知らず、地質の知識も無いので掘っても湧出せず、会社の資金を食い尽くしました。石坂は1年間は我慢しようとしていましたが、遂に堪忍袋の緒も切れ、ダンを解雇しました。ダンは残りの契約期間分の給料2万5千円と名誉毀損金を支払うように裁判所へ訴えました。石坂はイギリス人法学士ネスを雇って闘いましたが、明治8年結審により財産の全てを差し押さえられ、明治11年11月大審院の判決では2万5千円を支払うことを命じられました。
 石坂は裁判中にも掘削の手を広げ、上水内郡富倉村(飯山市)で借区開坑願を提出し ました。翌年工部省から許可が下りると、明治10年に掘井機を設置しました。結局、石坂が長野県内で契約した村々で、実際に石脳油が販売できる量として採取できたのは、伺去真光寺村、富倉村、上松村 (長野市)の3村だけでした。そして、ダンが壊した以外の掘井械や長野支社の製油所が火災にあい、ダンへの支払いなどにより石坂は石油会社を閉鎖しました。

 倒産は株主にもその被害は及び、元藩主の資金を運用していた元家臣が切腹する事件まで出ました。須坂藩主の堀直明は石油に手を出して多額の債務に苦しみ、元須坂藩士たちが金を融通して助けたという話しが残っています。このような株主の債務を危惧した岩倉具視が尽力して 、石坂は天皇より御下賜金3万円を拝借することになりました。これにより石油事業を続けることができ、少しずつですが明治25年ぐらいまでに借金を返済しました。

 年老いた石坂は最後に新潟県に望みをかけ、内郷村鎌田(刈羽郡西山町)で日本石油やコスモ石油の創始者達と交流したり、援助を受けながら掘削に成功しました。そもそも石坂は、日本が欧米の石油を買い続けることにより、日本の金が流出し、しまいにはアジア・アフリカのように国自体が経済的に乗っ取られるのを危惧して石油掘りを始めました。アメリカ産の石油に質・量ともに勝つことをモットーに掘り、失敗もありましたが、その心意気は見習うところがあります。長野県で石油が出るなど今の私達には信じられませんが、県内のあちこちでわずかながら染み出しています。今度涼しくなった時期をみて、浅川や裾花川、油沢川などの川べりを探ってみようと思う。


『其之 67』H18.6.1〜H18.7.10

 

 体と体をぶつけ合って、相手を倒す単純で明快な力比べ。古墳時代の埴輪や須恵器にはこうした行動が形として残されています。平安時代、源順(みなもとのしたごう)によって書かれたといわれる『宇津保物語』の巻「俊蔭(としかげ)」には、次のように書かれています。

「かくて、御箸くだしたまふ。御かはらけはじまり、相撲出でて、五手六手ばかり取りて、最手(大関)出で来て、布引きなどするに、(中略)信濃の布を賜ひけれど、今年は心ことに、陸奥国の絹を賜はす。蘇枋の脚つけたる中取り三つに、東絹積みて、御前に舁き立てて、政所の人装束して出で来て、召し立てつつ賜ふ。番長、相撲の最手には四疋、ただの舎人、相撲には二疋賜はす。」

 平安の都では毎年7月に諸国から強力の者を召し、天皇の御前で相撲をとる「相撲の節(すまひのせち)」というものが行われていました。先の上文は、いわゆる現代の2次会とでも言いましょうか、御前での「相撲の節」が無事に行われ、勝った側の主催者が味方の者達を屋敷に招いて、再度宴会の席で相撲を行わせた還饗(かへりあるじ)というものになります。この文からは、すでに相撲が平安時代には重要な儀式として行われていたことがわかります。さらにこの時代の相撲とは、布を引き合う勝負であり、褒美として信濃国から納入された「調」の信濃布(麻布)が力士達に賜われていたこともわかります。

 源平など武士が台頭してくると、「相撲の節」は途絶していきました。鎌倉時代に後鳥羽天皇によって「相撲の節」が行われるにあたり、複雑に儀式化した「相撲の節」の故実例式を代々敬称していた吉田家次という者が越前国から召し出され、相撲行事官に任ぜられました。このとき吉田家次には褒美として、「追風」の名と団扇が天皇から下賜されました。その後、承久の乱によって朝廷の権威が大きく落ちると、承安7年(1172)を最後に「相撲の節」は完全に途絶しました。

そして室町幕府の成立などによって朝廷の権力はますます衰え、相撲は公家から武士や庶民の娯楽となり、祭礼での相撲や寺社の建立費用を集めるための勧進相撲が京都を中心に行われました。勧進相撲は江戸時代になってからも各地で行われ、私的なルールで、荒くれ者が出場することから流血騒ぎが絶えなかったといわれています。そして、これらの弊害を無くすため、48手、土俵、年寄などを制度化した徳川幕府認可の公許相撲が江戸で開催されるようになりました。このとき吉田家は代々「相撲の節会」の故実例式を敬称し続けていたので、興行としての江戸相撲が始まったときに、その司家(つかさけ)に任命されました。このように相撲制度が確立すると、いよいよ江戸の相撲ブームが到来しました。全国各地の諸大名は、強い力士を召抱えることを自慢とし、こうした中で、寛政元年(1789)出雲国松江藩の力士として召抱えたれたのが、信濃国小県郡大石村(東御市)生まれの雷電為右衛門(関太郎吉)でした。

 

 相模国小田原での相撲興行に出場した無名の太郎吉は、対戦相手の大岩岩五郎の両腕を折ってその強さを示しました。しかし、これが仇となって大坂場所(難波新地)で東小結に初めて付け出されたのですが出場できませんでしたが、太郎吉の強さを認めた松江藩が8月に国元へ招き、8石3人扶持で召抱えました。そして、松江藩ゆかりの四股名であった雷電という名を授けました。彼の強さを紹介するものは世にたくさんあるので、ここでは雷電の相撲裏話をしたいと思います。下の文は雷電が生前に残した『諸国相撲控帳』という日記の一部(寛政6年)になります。

 

2月20日江戸出立、信州岩村田城下へ参り5日興行仕り候。売切55両定め申し候。それより信濃国諏訪参り、5日興行仕り候。3月10日初日、15日相済み申し候。この角力はんじょう致し申し候。それより信濃国大石村にて17日8日両日興行仕り候。はんじょう仕り候。

 

 当時の大相撲は、2月〜4月江戸春場所、夏〜秋大坂・京都相撲、10月〜11月江戸相撲のスケジュールで行われていました。大相撲の最中にお抱えの藩主や将軍からの招きがあれば、大相撲には欠場してそちらを優先しました。そしてこれら以外に空いた時期は、生活費等を稼ぐために地方巡業に出かけました。上文はその時のものになります。

 この時代の地方巡業の儲け方は大きく2つの方法がありました。1つは、その地方へ誘致したい勧進元が、力士と何日間で何両という値段を交渉し、力士へ支払い、勧進元は観客から入場料を取って利益を得るというやり方をしました。2つ目は、地方の世話人と呼ばれる者と、5分5分などで分け前を力士と決め、入場料や桟敷料をその決めによって分けるという方法もありました。岩村田は前者のやり方によって5日55両とされました。そのほか日記には、秋田横手3日40両、秋田大館5日60両、出羽山形2日45両などと書かれ、地方巡業の相場を知ることができます。日記には客の入りが悪くて「ふはんじょう」と書かれた興行もあるので、必ずしも成功したとは限らなかったようです。呼び込んだ勧進元は損をしたことでしょう。

 雷電は信濃国のどこで相撲をとったのでしょうか?、日記には坂木宿(坂城町)、中之条(坂城町)、上田城下、松本城下、飯田城下、小諸城下、八幡宿(佐久市)、飯山城下、中野(中野市)、海野宿(東御市)、須坂(須坂市)、小森(長野市)、寺尾(長野市)、善光寺、和子(上田市)とあります。比較的人口の多い地域で興行をしたのですが、やはり生家のある大石村を拠点としていました。大石村には幾度となく立ち寄り、酒代や建家代などを支払い、親孝行もしていました。この当時の興行は、金儲けを目的としたものだけではなく、五穀豊穣を祈って神社の境内で開催される神事の一環として行われるものもありました。中坪(伊那市)や荒町(小諸市)の八幡神社や海野宿(東御市)の白鳥神社などで行い、そのときに出場した70人余りにのぼる力士の番付が額として残っています。

 雨の降った日の興行は大変でした。ほとんどの土俵が屋根の無い場所で行われるので、雨が降ったら一大事でした。観客がひしめく中で、いよいよ土俵入りが始まったところ、突然の大雨で、力士と客があちこちへ逃げ惑い、相撲ができなくなってしまいました。入場料を払った客が「金を返せ」と迫り、勧進元が全て返したところ、偽の観客が大勢いて、半数にしか返せなかったという話を雷電が日記に書き留めています。残りの金はどうしたのでしょうか?

 

 雷電は松江藩の1家臣だったので、地方巡業に出る際や治療のために温泉に出かける時でも藩の許しが必要でした。相撲好きの殿様が参勤交代で国元に帰る際にも付き添いを命じられ、松江でも数多くの相撲をとりました。現役中の雷電は、世間的には「雷電為右衛門」と名乗り、松江藩に対しては「関為右衛門」と使え分けていました。文化8年(1811)雷電は松江藩に対して「関為右衛門」の名で引退を申し出ました。これまでの実績を重く見た松江藩は、雷電を松江藩相撲頭取に就任させ、これ以後藩お抱え力士のまとめ役としました。

 右願いに依り、相撲捕り候儀、指し免し

 御相撲頭取を申し付く

  文化8年辛未年

  閏2月14日 仰せ付けられ候

 

 翌年、引退した雷電のために善光寺で引退相撲が行われました。60人余りの力士が参加し、堂庭にて7日間興行をしました。そして帰路、丹波島宿(長野市)にて真田幸専の御前相撲が行われ、雷電は全勝して花道を飾りました。

 

 雷電の出生地である大石村は、その名のとおり地面を掘ると大きな石がゴロゴロと出てきます。浅間山の西山麓に位置し、斜面には葡萄畑や胡桃畑が広がっています。日記中にもあるように、雷電は無類の酒好きでした。飲み比べでも恐ろしいくらい強かったようです。大石村にある雷電のお墓には、地元の石で彫ったのでしょうか、杯と酒樽を形どった大石が置かれています。日本のスポーツとして1000年以上歴史ある中に、信濃力士が江戸の真っ只中で生きたという歴史を紹介しました。今後、大相撲界に長野県出身者も活躍することを期待します。

 2007年は雷電が生誕して240年となります。現代でも昔と変わらず、春夏秋冬の4回ある本場所の合間をぬって、日本相撲協会が興行権を売り出しています。それを地方の資産家や企業が買い取って、地方巡業を行っています。今年は北海道富良野市が1日850万円で興行権を買い、22年ぶりに富良野場所を実現させたそうです。長野で実現できないか夢が膨らみます。


『其之 66』H18.3.15〜H18.6.1

 

 ニューヨークタイムズにも掲載されたせいか、近頃国宝の松本城に行くと、多くの外国人観光客を目にするようになりました。お城には年間17万人の観光客があると聞きますが、 駐車場に停まったバスから降りて、天守閣だけを見て帰るのであればたいして面白くないと思います。単体の城だけでなく、それを取り巻く 広大な城郭や城下町、さらには文化も観てこそ真の面白さを体感できるのではないでしょうか。前回の余談でお話した岐阜城下町が40年間の歴史だとすると、松本には260年間の歴史があります。これだけの年数をかけて人々が造り上げた城下町には、当然ながら濃密な歴史があります。

 松本城下町は、南北に約4.4km、東西に約0.9kmと非常に細長い形状をしていました。中山道の洗馬宿と善光寺平を結ぶ善光寺街道(北国脇往還)が松本城を東側に避けるように通り、その両側に町屋が張り付くように造られました。各町名は 道と道に挟まれた1区画ではなく、通りを挟んで両側が同町とされ、街道沿いの馬喰町・本町・中町・東町・和泉町・安原町の6町を軸に、枝状に分かれた伊勢町、飯田町などから成り立っていました。「どこが城下だったのか?」と、現在の地図を見ても明治以降の市街地にうまく取り込まれているので、ほとんど判別できません。そこで今回の旅談では、松本城下の南端から北端へ歩き紹介していきたいと思います。

 

 ここ数年、松本市の努力により古い建物が復元保存され、失われた旧町名も石柱で表示されるなど、散策にはもってこいの環境が整ってきました。松本城下の南端は、美ヶ原高原から流れてくる薄川になります。ここに架かっていた大橋(今の栄橋)を渡ると、両側に柵土塁と中央に木戸がありました。この木戸をくぐって本町通りが北へ約800mにかけて大手門まで一直線に続いていました。松本城下の東西南北の口 (西端の山家小路、北端の安原町に十王堂、東端の伊勢町に地蔵堂)には、茅葺屋根の小さなお堂が鎮護の関係から配置されていました。ここ南端の馬喰町(博労町)にも十王堂があり、今は隅に追いやられた石碑だけがビルの間でその面影を残しています。

 江戸時代初期まで馬市が開かれていたという馬喰町を通り過ぎると、長沢川という小川が本町通りを東西に横断し、ここに橋(明治に架けられた美登里橋の高欄が残っています)が架かってました。今でも深さが背丈ぐらいで幅が1m程の石積み川として、道路下を横断しながら松本駅の下へ流れています。ここが城下町としての第2防御地で、長沢川の北隣には振袖堀という池のような堀が道を挟んで両側にあり、そこに柵土塁と木戸や番所、高札場がありました。現在の松本シティーホテルの付近がその場所で、これも今は面影すらありません。ここを通り過ぎると、信濃最大の問屋街であった本町になります。町家8,000人と武家2,000人の台所を預かる米屋・油屋・穀屋、さらに他国と綿・肴・煙草の取引を手広く商った問屋がずらっと並んでいました。まず左手に松本町問屋職を代々受け継いだ倉科家の巨大な屋敷がありました。今の松本信用金庫がその場所で、脚夫が郵便を運ぶ小さな銅像が目印になります。他の問屋は倉科家の許可がなければ問屋業を商うことができませんでした。倉科家と道を挟んで反対に目をやると、天神小路という狭い道が真っ直ぐに延び、最奥に宮村大明神の鳥居が見えま す(今の松本神社)。そして倉科家から約80m大手門側に進むと、幕府や他藩からの使者を逗留させた御使者宿の今井家がありました(それ以前は現在の松本郵便局を50m程過ぎて右)。さらに進むと「中央2丁目」という交差点があり ます。この付近には江戸・京都・大坂・名古屋や領内村へ文書を発送した町飛脚の近藤家や松本藩の産物会所がありました(松本郵便局付近)。この交差点の角に、牛つなぎ石というものがあります。上杉謙信から武田信玄へ送られた塩を運んだ牛が繋がれたという伝説が残る石で、ここを左へ曲がると伊勢町で、野麦街道の起点になります。この場所で本町を横断する小川があります。昔はここに石橋が架かり、小川は伊勢町通りと一緒になって西へ流れていました。今はファッション街となってしまった伊勢町ですが、歩道にはその水をうまく利用した水路ができています。

 

 江戸時代、ここまで来ると目の前に巨大な大手門とその石垣がそびえていたと思います。昔はめとうた川と言っていた女鳥羽川が大手門の前を横断し、そこには大手橋( 明治に千歳橋と改称)が架かっていました。橋の上に立つと左手に六九町の厩と馬場、右手には幅25m程の惣堀が湖のように見えたことでしょう。 この六九通りが糸魚川へ向かう千国街道の起点で、その角には町奉行所がありました(長野銀行大名町支店付近)。右手の惣堀と女鳥羽川の間は、松が生えているだけの防御上の狭い土手で、今は縄手通りと言って昔風の屋台店が並んで賑わっています。縄手通りを惣堀に沿って約300m行くと松本藩の牢屋がありました。廃藩置県後に真っ先に埋められたのがこの辺りの堀でした。大手門より奥は城内で、町人のほとんどはこの中を見たこともなく、お城に呼び出された際に道が分からなくて困ったとの逸話が残っています。

 

  道を少し戻って、大手橋手前で本町通りを右に曲がると、中町通りになります。中町は女鳥羽川と平行な東西440m程の直線で、商家の他、大工、建具、畳、桶などの職人の家が連なっていました。現在は明治の大火を教訓にした土蔵造の家が多く残り、なかなか良い雰囲気を与えてくれます。金庫のように分厚い土窓で、壁材には漆喰が塗られていました。火がきてもそう簡単には延焼しないでしょう。 青空の下、観光客で賑わう中町通りの向こうには、美ヶ原の山々が連なって見えました。江戸時代この通りは突き当たりになり、桶屋と升屋 がありました。その裏手には、松本藩が防御上に配した本立寺、大昌寺などの寺院が、城下町の東側外縁に沿って連なっていました。今でも廃仏毀釈によって敷地が縮小されましたが、多くの寺 院が残っています。

 

 中町通りの突き当たりは今十字路にされていますが、そこを左に曲がって北に目をやると東町通りとなります。約650mもある城下最長の東町は、善光寺街道の旅籠の町として栄え、各地からの旅人が宿泊する木賃宿や旅籠の他、松本藩領内の村々から公用で城下にきた者達が宿泊する郷宿がありました。目の前には女鳥羽川に架かった大橋があり、そこを渡ってすぐ右手に山家小路が東へ延び、東端には十王堂がありました(今の女鳥羽川の清水橋手前)。 湯治で浅間温泉に向かう人々はここを通っていきました。逆の左手には大手門から続く縄手通りが女鳥羽川に沿ってここでぶつかります。中町に来た観光客のほとんどはここを通って天守閣方面へ戻っていました。さて東町通りを少し進むと小川が横断しています。そこから約100m進み、東町通りから左へ逸れると下馬出し跡があります。今は石柱しかありませんが、ここには武家地へ入るための木戸と番所がありました。下馬出しの木戸からは、島のように浮かぶ東門馬出しが見えたことでしょう。

 道を戻って東町通りの中間に、見通しを悪くするための鍵の手がありました。今は車の走行に支障となることから直線にされています。ここには東町大名主の萩原作左衛門の屋敷があり、東へは彼の名にちなんだ枝道がありました。女鳥羽川とこの鍵の手までが東町の旅籠街で中心でした。この先の東町は職人の家などと商家が混在していました。現在でも鍵の手付近を過ぎると、心なしか市街地から外れた寂しい印象を受けます。東町とそれに続く和泉町の景観は、中町と比べると昭和と平成の一般的な景観で、城下町という印象を全く受けません。残念に思いながら道を延々と歩いていくと、宝永寺参道が右手にあります。 善光寺街道はそこを左に曲がっていました。ここから安原町となります。安原町はL字型をした町で、約200m西へ進むと、さらに右 (北)へ約200m進みます。安原町の北端には広い敷地の十王堂と木戸がありました。ここまでが町人地としての城下町になります。近代の思想家である木下尚江の生家がこの東側にありました。安原町の先にも通りは続き、道に沿って萩垣根が並んでいたので萩町と名付けられた足軽の居住区がありました。その先は田畑や原野となり、善光寺へ向かう旅人は次の岡田宿を目指しました。

http://www.matusen.co.jp/street/menu.html

 

 南端からここまで来ると随分歩いたなという印象を受けます。町人地だけでこれだけの面積だったので、今回歩かなかった武家地まで入れるとその巨大さが実感できます。松本藩は7万石でしたが、他県において7万石でこれほどの規模を持った城と城下はない と思います。大久保長安が運んだ佐渡金で造ったなどとの疑惑伝説もあります。松本城下に住んでいた者達には年貢が免除されました。その代わりに伝馬役と人足役が課せられ、馬場の掃除や堀 と街道の掃除・補修などをさせられました。堀には大量のヘドロ等が溜まり、江戸時代に数回それを女鳥羽川に捨てたので、濁った水が日本海まで達したと云われています。最近の堀は綺麗になってきましたが、流れ込む川がないので少しずつ溜まってきています。再び掃除する時は大変な事でしょう。


『其之 65』H18.2.15〜H18.3.15

 

 

 信濃人が東山道・中山道を使って、1300年間以上都へ上る際に通過してきた岐阜。江戸時代だけでも延べどれだけの信州人がここを通ったことでしょう。隣県であるにも関わらずそれがどこを通っていたのか知られておらず、よく知人から「岐阜藩ってあったのでしょう?」などとも聞かれます。斉藤道三と織田信長の人気によって有名となった岐阜城が、江戸時代になってもその中心地であったと錯覚してしまう人がいかに多いかが分かります。インターネットが普及した時代になっても、40年余りしか歴史がない岐阜城ばかりが目立ち、それ以外の膨大な時代がどうであったのか情報が発信されておらず残念でなりません。そこで今回の余談は、数年ぶりの県外余談として実際に岐阜を訪問してみました。

 

 江戸時代、廃城となっていた岐阜城の城下町は岐阜町と呼ばれていました。信長が城下町として整備した岐阜町も、関が原の戦いで東軍に攻略されてから廃城となり、そびえたつ金華山(稲葉山)には石垣しか残っていませんでした。岐阜町からは家臣団の屋敷類が無くなって町屋や田畑となり、小さいながら20以上の寺社が残されました。岐阜町は金華山の西麓に位置し、南北1km・東西0.5km程の狭い土地で、北西は長良川に囲まれた岐阜城総構えの一部として守られていました。無防備である南には、堀が金華山から長良川までめぐらされていましたが、1800年代に全て撤去され現在はその面影すらありません。まずはこの堀跡から岐阜城下町を北へ歩み出すことにしました。

 古代の官道として整備された東山道は、この岐阜町と長良川を挟んで北を東西に通り、中山道は岐阜町から2kmほど南の加納という地域を東西に通っていたので、両道とも岐阜町を通過していませんでした。これを南北に結ぶように街道が通っており、岐阜道とも御鮨街道とも呼ばれていました。岐阜町はこの道の他南北2本と東西3本の網目状の道を中心に構築されていたことから、古い街並みに期待して歩いて行きました。町の入口には高札場跡の表札が立ち、さらに真っ直ぐ北上すると本陣跡がありました。現在はレトロなお蕎麦屋さんとなっていましたが、周辺の建物は濃尾地震の火災や、開発によって面影はほとんど見られませんでした。しかし小字名からは、信長が清洲城下から商人や職人を移住させてつくった米屋、竹屋、白木、材木、茶屋、木挽など職業を思わせる町名が残っています。岐阜町の右手には高さ100m以上におよぶ金華山の崖が延々と続き、戦時によくこの様な急峻な山を攻めたことだと関心させられます。慶長5年(1600)、現代でいう彼岸の頃に、織田信長の孫である織田秀信が守る岐阜城は山内一豊らに攻められ、壮絶な戦いによって落城しました。その19年後に岐阜町は尾張藩領の一部となり、尾張藩は岐阜町が飛び地のために岐阜奉行所を置きました。その奉行所は、関ヶ原の戦い直後に美濃国を支配した大久保長安が屋敷を構えたと云われる旧北屋敷と、その南にあった南屋敷を合わせたもので、周囲には金華山からの湧水を利用した小さな堀が築かれました。奉行所跡の末広町付近を散策していると、幅1m程で深さが背丈ほどの石積水路が今でも残っていました。

 奉行所の少し南に稲葉山の由来ともなった有名な伊奈波神社(江戸時代の絵図には因幡神社とある)があり、その神社の入口に善光寺という寺があります。甲斐国の武田信玄により信濃国の善光寺から阿弥陀如来像が持ち去られ、信玄は甲府に新しく善光寺を建立しましたが、武田家が滅亡すると今度は織田信長が奪い取って如来像をここに祀ったので、ここに善光寺があります。信濃との縁を思いつつ詣で、奉行所跡をさらに北上していくと、いよいよ織田家臣団が居住していた屋敷跡に入っていきます。岐阜市立歴史博物館に分かり易い模型があり、それによると池庭付き塀囲い屋敷がずらっと並んでいます。柴田勝家、丹羽長秀、前田利家、羽柴秀吉などが授かった屋敷がここにあったと考えると、戦国ファンでなくとも感慨深いものがありました。ただどの家臣がどこに住んでいたのか特定されていないことが残念でなりません。唯一、織田信長居館跡が金華山の裾野に発掘されていますが、本当に午前10時過ぎにならなければ陽がささないこの日当りの悪いジメジメした場所に信長が住んでいたのかとても疑問でした。織田家臣団の屋敷跡の南端に常在寺という今は小さな寺があります。斎藤道三の菩提を弔っている寺で、この寺の前を東西にはしる道は岐阜城の大手門に至る重要な道でした。関が原の戦いで山内一豊らが攻め登った場所がここになります。ルイスフロイスが信長の案内で馬にて登った道もここなのでしょう。

 

 信長居館跡付近からも岐阜城に登ることができます。大手道と違ってかなり険しいので2時間以上を要しますが、長野県とは違った広葉樹に囲まれた景色を堪能しながら登ることができます。登っていて気付いたのが、岐阜城は1つの巨大な岩盤の上に建っているということでした。チャートという火打石にも使われる岩石が隆起した山で、濃尾平野の平らな大地にこの山だけが隆起しているのが不思議でなりません。江戸時代に金華山には建物が無かったのですが、その理由は尾張藩が直轄する御山となり、一般の立入がきつく禁止されていたからになります。御山は尾張藩主の狩猟場となり、80匹程の鹿を仕留めたとの記録が残っているので、当時は相当の深い緑に覆われた山だったと思われます。現在は国有林となって自然が保護されています。狩猟の際に城下の常在寺は藩主の御休息所となり、長良川での鵜飼も楽しんだと云われています。ようやく金華山の尾根まで出ると、観光に整備された岐阜城の案内ルートに入ることができます。岐阜城郭を説明する掲示板が尾根に沿って立ち、それに従って登ると当時は黄金に覆われていた天守閣に到着します。ここから岐阜城下を見渡すと、岐阜町の北端に長良川に沿った外堀が今でも洪水から守る堤防として活用されているのが見えます。そこと長良川との間には濃尾地震から生き延びた中河原村の古い街並みが残り、ここには長良川の上流から舟などで下ってくる材木などの役銀(税)を徴収する尾張藩の役所が置かれていました。現在はその看板しか残っていません。江戸時代の岐阜町は主要な街道から外れていましたが、水運の拠点であり、さらには周辺域の米を売買する会所があったので、城下でなくともかなり賑わったことでしょう。

 

 天守閣から一望する景色は、ほとんどの城では味わえないような広い景色を提供してくれます。徳川家康が岐阜城下から関が原に出陣する際に渡った舟橋はこの辺りにあったのであろう、遠く伊吹山や信濃国との境である恵那山まで清々しく見ることができました。


『其之 64』H18.1.1〜H18.2.15

 

 

 世界的な規模で止まることなく動き続ける経済、この「経済」というあまりにも漠然とした言葉はどのように生まれたのでしょうか。様々な説がありますが、中国の東晋時代(300〜400年)の文献に「経世済民」と書かれているのが最も古いと云われ(国を治め民を救うという政治的なことを表します)、江戸時代になって儒学者がこれら中国の書に記されていた「経世済民」を略して「経済」と使用するようになりました。そして明治時代になるとこれに英語のeconomyがあてられ、現在私達が使用している言葉となりました。

 ここに登場する江戸時代の儒者というのが、太宰春台という人物だと云われています。春台については教科書にあるような「太宰春台が経済録を書いた」という短い文だけでは人も経済録の内容も分かりません。数年前の大学入試センター試験の問題に、太宰春台が書いた『経済録』の問題が出題されていました。もしこの問題に答えられなかった長野県の学生がいたとしたら残念でなりません。何故なら長野県生まれの偉人だからです。余談では春台がどういった人間であったのか述べたいと思います。

 

 太宰春台は延宝8年(1680)に信濃国飯田城下で生まれました。父は飯田藩士の鉄砲組頭200石で、武道の師範で槍と鉄砲の名人であったと云われています。春台の血筋は、戦国時代に平手政秀という織田信長の守役をしていましたが、荒れる信長の行状を諌めるために切腹した人あたりました(春台の父はひ孫)。春台が9歳の時に、父の太宰言辰が殿様の不信をかって改易となり、家族は無禄となって江戸で暮らすようになりました。太宰言辰は飯田を退去する時に、無念から槍を立てて堂々と出て行きました。春台は父が浪人で苦しい生活の中でよく勉強し、ようやく自分の仕官の口を探し出して15歳で出石藩(兵庫県)の小姓頭に採用されました。しかし尊敬する母が病死し、自分も精神的に病がちになったので出石藩を去り、京都大坂を放浪するなど不遇な時期を10年余りにわたって過ごしました。

 春台の青年期は、私達が教科書などで元禄文化と呼んでいる時代で、流通経済が大坂を中心に発展し、様々な学芸や文化活動が盛んに行われていました。学問においては京都に伊藤仁斎、江戸に荻生徂徠という2大儒者(古学派)がおり、幕府や諸藩では彼等の思想を政治に取り入れるなどして文治政治というものが行われていました。春台はこの2大儒者のどちらかに弟子入りしようとそれぞれを訪ね、結局32歳で荻生徂徠の門下となることを決意しました。春台は門下生の中でしだいに頭角を現し、自分が住んでいた紫芝園にも門人が入るようになりました。玄関に家宝の槍を掲げ、毎月3、8、10の付く9日間に門人の教育を熱心に行いました。享保13年(1728)師の荻生徂徠が死亡すると、完全に独立して『経済録』を刊行しました。その他『経済録拾遺』『産語』『聖学問答』『論語古訓』など数多くの書物を残しました(多くの書物が飯田市立図書館に保管されています)。そして延享4年(1747)68歳で死亡し、天眼寺(東京都台東区谷中)に葬られました。遺言で葬儀の際にはあの槍が再び立てられました。

 

 春台はどんな性格の男だったのでしょうか、彼の内面を窺わせるような記事を載せてみました。春台が書いた『赤穂義人録』という書に次のように書かれています。

 「赤穂侯は、ちょっとした怒りに耐えないで殿中で人を傷つけた。これは大きな不敬だからその身は死んで国を除かれたことは自業自得である。しかし吉良氏が赤穂侯を殺したとするのは間違いだ。神祖家康の法では人を殿中で殺した者の罪は死にあたる。しかし赤穂侯は吉良氏に傷つけただけである。それなのに幕府は赤穂侯に死を与えた。つまりその罪は重すぎる。だから赤穂侯の家来達が怨むべきは幕府ではないか。赤穂城をかたく守って後継者を立てることを願い、もしそれがだめならば城を背にして幕府の使者と戦い、力が尽きたら城に火をつけて死んで何が悪かろう。良雄らはこの道を知らないで手をつかねて城を明け渡してしまい、あとになってからお門違いの仇討ちをやっている。室鳩巣でさえ間違ってこれを義だと言っている。」

 私達が良く知る赤穂浪士の討ち入り事件について春台はこのように考える人物でした。これを書いた春台は書いた当時から昭和の時代まであらゆる批評家に非難されました。しかし文を見るからに、太宰春台という人物は世相や情けに踊らされず、物事を法などの根拠によって順序だてていく論理的な思考を持っていたように思われます。どちらかというと現代の弁護士にでも向いている人ではないでしょうか。春台について書かれた本には、「その性格は礼儀作法を重んじ、几帳面な性格であった」と必ず書かれています。儒者どうしで何かの論題について述べる場合、春台はできるだけ具体的な例を挙げ、聞く者に対してそれがあたかも本当に正しいかと思わせるような才能があり、逆にそれを危険だと感じる儒者もいました。有名な平田篤胤は「春台は今時の漢学者が、鬼神の如く恐れる儒者である」と述べています。また春台は、古い言葉を単に覚えてそれを誇示することを嫌い、実践することこそが大切だと考えていました。年をとって荻生徂徠に入門したので、言葉だけで実践が伴わない徂徠を批判する春台の文が残っています。

 

 荻生徂徠の弟子として春台が力を入れて取り組んだのは、和歌や漢詩ではなく経世済民の学でした。その弟子ということから徂徠の思想が強く反映され、著書の『経済録』『経済録拾遺』には朱子学以前の儒学を尊んで孔子・老子・孟子などの事柄に強く影響されました(現代では信じられませんが、自分が主張する事について孟子などの言葉を幾つも代用して述べています)。この2冊は幕府や大名の財政難を救済することを目的として書かれたもので、これまでの儒者が唱える農業重視一辺倒や夢物語ではなく、適地適作、適地適産、交易、税、貨幣、物価、相場、銀本位制、富国強兵の事などが主張されました。その他に、そもそも経世済民というのが政治的な意味が強いことから、武士や藩の政治的な欠陥を指摘し、その改善策もこの書で示しました。先に書かれた『経済録』では考えに迷いがあって何を主張しているのか分からない側面が多々ありましたが、それから15年後に書かれた『経済録拾遺』では整理され、説得力のある立証がなされるようになりました。本は爆発的に売れ、今で言うところのベストセラーになり、この時に春台が使った「経済」という意味と文字が、後々の人々に受け継がれていきました。

 

 春台は『経済録』の巻7に「百工は国の宝なり、古より国家を経営する人は百工を招来することを務とす」と書きました。先日、竹中経済産業大臣が似たようなことを発言していました。資源に乏しい日本では、安い労働力を提供できる国とは違い技術力を高めていくしかないのでしょう。結局経済というものは、内容が複雑になっただけで根本は400年前と何ら変わっていないのではないでしょうか。2006年も株価や信託の熱狂振りや、外国との貿易摩擦など多様な経済の中で私達は生きていかなければなりません。近代になって日本へやってきた西洋の経済学も春台の説と大して変わりはありませんでした。明治時代になって富国強兵など日本の経済学の礎となった春台の書をぜひ一度読んで役立ててみて下さい。

.....四方赤良”

四方赤良余談6

其之83以降


四方赤良余談5

其之82以前


四方赤良余談4

其之76以前


四方赤良余談3

其之71以前


四方赤良余談2

其之63以前


四方赤良余談1

其之52以前


四方赤良余談

其之38以前


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