四方赤良の余談集5

『四方赤良』

江戸日本橋新和泉町の銘酒「滝水」で有名な酒屋四方久兵衛の店で売る赤味噌や酒の略称と云われている。

 


四方赤良

西へちろり東へちろりあかつきの 明星の如き吾が身かな・・・真田信之

『其之 82』H20.2.1〜H21.6.1

 

 今から141年前のお正月・・・

 皆さんは堀 内蔵頭 直虎(ほり くらのかみ なおとら)という人物をご存知でしょうか?今でこそ堀直虎を紹介するHPや辞典が増えましたが、「説明」と表現するに相応しい程度の記載しかされず、彼の人間性を記したものが無いので、とても残念に思っていました。そこで今回の余談は、堀直虎という人間を通じて人の生死というものまで感じてもらおうと思います。

 

 堀直虎は文久元年(1861)11月6日、第13代須坂藩主として26歳で就任しました。須坂藩は大坂夏の陣以降、信濃国高井郡13村(須坂市、長野市)1万53石を治める外様小藩で、詰席は柳之間。直虎は病気の兄に代わって藩主となり、就任後間もなく藩内の粛正を行って巨頭体制を築きました。文久3年(1863)大御番頭に任命され、翌年に水戸浪士が筑波山で挙兵すると幕府兵を率いて討伐するように命じられましたが、若年寄田沼玄蕃頭意尊の指図などを不服として論争し、御役御免差控(謹慎)となりました。一方では慶応元年(1865)須坂藩の兵制を英国式に改変して新たな2小隊を編成し、古い武具を売却して新式銃や軍服を購入するなど開明的な面も持ち合わせていました。自身の事を「ストレートタイガー」と紹介したとの話も残っています。慶応3年(1867)12月5日若年寄兼外国総奉行に就任、そして慶応4年(1868)1月3日からの鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻った徳川慶喜に対し、1月17日何らかの諫言をして、直後に江戸城中で切腹した人物になります。

 彼は何を言って死んだのでしょうか?長野県史上、謎をもって死亡した人物と云われ、今もってその理由が定かでありません。

 今回の余談ではこの謎を解明すべく、歴史推理を試みます。

※推理を閲覧していただく際には、読み易くしてあるので必ず各古文書に目を通し、ご自分でも推理を楽しんでください。

Documentary evidence

 まず、始めに次の古文書をご覧ください。

 

巻1

1月15日より17日まで、老若その他役付きの者達が(江戸城へ)詰め寄せました。小臣微力の堀内蔵頭直虎は献言する機会を得たので、他の者達と同様に出勤し、国家の御為と心肝を吐き出しましたが、多人数の内に1人の同論もありませんでした。そこで堀内蔵頭直虎は慶喜へ直諫をしましたが採用なく、この上は(朝廷に対して)反逆の家臣には決して成りがたく、しかしながら例え反逆の徒になっても、(徳川家と)200余年来の君臣の恩義もあるので、人情として忍びなく、焦心苦慮して終に自殺しました。

(中略)

その後、徳川家にて病気の趣に取り計らうように指図があり、当藩江戸詰の者共がそのように取り計らいました。しかし、事実紛糾して、狂気または人数再挙などを徳川家へ勧めたと、意外の巷説もあり、万が一(朝廷の)御機嫌に触れては深く恐れ入り奉ります。その上、国家の為に臣子の分を尽くし死んだことに対して、もし浮説に誤られては(以下略)

 

 慶応4年3月10日   須坂重臣 丸山兵衛次郎

 

 これは『丸山兵衛次郎奏達願』と言われるもので、戊辰戦争で官軍が江戸城へ迫る慶応4年3月7日、須坂藩家老の丸山兵衛次郎が名古屋へ行き、その頃朝廷より信濃全国御取締役を朝廷より仰せ付かっていた尾張藩へ提出した口上書になります。口上書の主意は、堀直虎が江戸城中で切腹した理由を朝廷に弁明し、さらに直虎の弟へ相続を願うことになります。丸山兵衛次郎によると、堀直虎が心肝を吐き出し」「直諫」をして慶喜に進言したにも関わらず、世間では直虎が切腹したのは「狂気」又は「人数再挙(朝廷への徹底抗戦)を進言した為」との噂が広がっており、間違った噂なので信用しないでほしいと述べています。しかし、この古文書では「心肝」「直諫」の内容がどうも判然としません。辞典では「心肝」が【こころ、心底】。「直諫」が【相手の地位や権力などに遠慮することなく、素直にいさめること】とあります。よって、文全体から慶喜に対して「朝廷に従うように」いさめたと素直に想像することもできますが、具体的にはどうっだったのか書かれていません。

 このように2009年現在でもはっきりとしない直虎の諫言の内容について、死亡して2ヶ月も経たない時期から、「狂気」「人数再挙」「恭順」という3説が世間に生じていたことがこの古文書から判明します。それでは次の証言を見てみましょう・・・・

 

巻2

正月末に至る衆議沸々、日夜間断あるなく、諸官手を措くにところなし。ただ心裡に憂苦し、面に顕われ形に兆す。参政堀右京亮は善良の質、その煩と憂苦に堪えず、鬱々として面色はなはだ悪しく、外見漸く発狂せんとするが如し。予、諸参政に云いて曰く、よろしく注意すべし、と。某日、暁に到りて雪隠に入る。暫時にして一叫す。衆往きてこれを見れば、すでに喉を貫き、ここに死す。衆愕然たり。予諸官に告げて曰く、吾人もまたかくの如くなるべし。ただ遅速あるのみ。何ぞ死を促すの速かなるや、これにより諸官大いに沈着し浮躁の風止む。

 

 これは、有名な勝海舟が困難或いは非難を受けるような諸事を処理した顛末の次第を編んだ『解難録』になります。(注−堀右京亮{越後国村松藩主}とありますが、これは誤りで堀内蔵頭になります。)ここには、勝海舟が江戸城中で見かけた堀直虎の顔色が悪いので、彼の挙動に「注意すべし」と他の者達に助言をし、その数日後に雪隠で喉を突いたと書かれています。しかし、同じく勝海舟が記した『勝海舟日記』慶応4年1月の条には、「14日空議。参政堀、諫死。御用部屋に於いて自殺す」とあり、自分が書いたのに日付や死亡した場所に違いがあり、諫言の内容も全く記されていないので、信憑性に疑問が持たれます。ここでも謎が解けませんので、次の証言を見てみましょう・・・・

 

巻3

正月17日若年寄堀内蔵頭は、身要路に居て此難局を処理する力なく、御委任を全くすること能はずとて、遂に殿中に自刃せり、其意、死を以て幕議を恭順に定めんとするにありといふ

 

 これは渋沢栄一編の『徳川慶喜公伝』になります。直虎が死亡して50年近く経った1918年に刊行されたもので、記録として残る『宮中日記』『東征総督記』などの明治政府の史料を基にして作成されたものになります。ここには諫言の内容として「死をもって幕議を恭順に」しようとしたとハッキリ記されています。しかしこの内容については、3月10日に尾張藩の協力を取り付けた丸山兵衛次郎が(前記の史料)、4月3日に尾張藩の口添えによって直虎の弟の堀恭之進に相続させてもらいたいと上京して朝廷へ願い出ました。これについて内国局判事から「直虎の死因について疑問があるので調査をするように」と東征総督府参謀へ通達があり、これについて東征総督府は須坂へ勅旨を派遣しました。そして5月4日に調査の結果として「実に間違いなきこと、家督の儀も速やかに仰せ出られ」と内国局へ復命しました。これにより堀恭之進の相続が5月14日に認められました。このように朝廷サイドでは、直虎の諫言を完全に「恭順」と受け取っていることがこの史料から判明します。それが 『徳川慶喜公伝』にも反映されたとみることができます。

 この内国局の通達では、「混乱中にて事蹟不明」なので調査をした。「数万人中、未だ死諫等をもっての節義ある者を聞かず」と、諫言の内容がどうこうというよりは、諫言をして死んだことに意義があり、それを確認したので相続を認めたと書かれているように見受けられます。それでは次の証言を見てみましょう・・・・

 

巻4

内実、上様への御諫言についても、朝敵の御名を取ってしまった上は、大軍を誘率して京都へ馳せ登り、1戦にて有無を決められるよう再三再四上様へ諫言しましたが、上様からは御答もなく退座しました。右につき御自害と云々。

但し、大軍を御遊率して御上京と申される義は、従来朝命などと申しているが、万事御幼帝の叡慮より出されたものではなく、みな薩長土芸の姦賊どもより出た事はあきらかのことゆえ也。

ああ惜しむべきかな我が君の仰せ、空しくなって日あらず、諸々において戦争あり。徳川付きの諸侯は追々に在村、在国、江戸は武蔵野の原となり、官軍増長し、上様は恭順を終にしたまえば、水戸へ御落ち遊ばされ、これにより徳川家の脱走人が諸々に屯集し、官軍に向かって戦争止め時なく候。

東山道鎮撫使総督府岩倉大夫殿下向−右件々書類別に秘書あり。

(中略)

正月にあいなり、御自刃されたことについては幾重にも尊霊の思し召しのとおりに致したく心がけ、朝夕忘れる時なくいましたが、どうしてはばからんや鎮撫使総督府殿の御在所表へ下向の趣となって、官軍へ相争ってはならぬとの事にて、ひとつ先の先君の思し召しには相背いてしまうが、一時の策として官軍に随従するべきとの衆評の事に候。さりながら中野五郎太夫殿をはじめ竹中清之丞等の義士は、幾重にも先君の思し召しを継ぎ、徳川家再興を心に祈りおり候ところ、如何の事に候なり。

辰の年7月4日 用人     中野五郎太夫

          御納戸番頭 竹中清之丞

右両人へ切腹仰せ付けられ候

 

 これは『野平野平日記(のだいらやへいにっき)』と言われるものです。野平道正は堀直虎の右筆で、常に直虎の側にいてその行動や思想を知ることができた人物でした。その野平が日記で諫言の内容を「抗戦」とハッキリと書いたので、当然ながら多くの歴史研究者が直虎の諫言は「抗戦」であると主張しました。しかし、この日記が書かれた時期は、日記後半において『水戸江御落被遊候』とあり、徳川慶喜が水戸に移った4月11日以降の記事などと繋がるように書かれているので、一種の回想録のようなものとして後にまとめて書かれたものとみられます。先記の文後半に、中野と竹中が藩命で切腹させられたとあります。彼等は直虎の最も御気に入りの家臣であったと言われていますが、両者の手紙が旧幕府兵の手に渡ってしまい、須坂藩内の「恭順」姿勢を受け入れなかったとして切腹させられました。これに連座する形で野平も降格処分を受けたので、その鬱憤が詰まった文となっていることが判ります。それでは次の証言を見てみましょう・・・・

 

巻5

殿様御事、昨年の吐血によって、1月2日より病気で引き篭っていたところ、上様が12日暁に(江戸へ)還ったので、(直虎は)病気を押して登城しようとしました。医師をはじめ御役人一同で延引するように色々申し立てましたが、お聞き入れせず、上様が到着のうえは御機嫌伺いとして登城したいと、仕切って仰されて登城しました。それから引き続き16日まで登城のところ、16日には上様が御出になり、役人、老若はじめ一同が列席して大評定となりました。殿様の事、天下の大変について隠すところなく色々御諫言しましたが、上様は御不興で退席してしまいました。かねて御覚悟の儀によって、御大病と成られたが、実は御切腹の趣でした。それは御城の浴場でした。同役の方々が打ち驚き、直ちに上屋敷に知らせが来たので、役人方が残らず御迎えしたところ、殿様が大病とのことで、浴場まで駕籠を持参するように指図がありました。御側役の南保善右衛門、大野要助殿の両人が駕籠を浴場まで持参し、御乗せし、17日暁に退去しました。それより御年寄の口達によって剣持即日江戸を出立し、20日に到着となりました。それより夜中に御回状をそれぞれに知らせました。

 

 これは須坂藩士 浦野家に残る『御用並町方留』というもので、慶応4年1月20日に御広間席の剣持由左衛門が江戸から須坂に到着し、堀直虎の死を国元の藩士に告げるために作成した回状を写したものになります。「色々御諫言」とあり、やはりその内容を知ることが出来ません。しかし、堀直虎が血を吐くほどの病人であり、さらに切腹そのものの現場が浴場であったか判然としませんが、遺骸は浴場に置かれ、家臣がそれを引き取りに来たことが書かれています。勝海舟が「面色はなはだ悪しく」と記したのは、この理由によるものだったのです。16日の諫言と遺骸退去の17日については、1日ズレていますのでご注意を。それでは次の証言を見てみましょう・・・・

 

巻6

「速水は、昨日着いたばかりだという江戸の情報をおしえてくれた。(中略)譜代大名や旗本などは、慶喜に腹を切らせ、会津侯と桑名侯の首を刎ねることによって、これらの家の断絶を防ぐことを話し合っているという。速水は一橋(徳川慶喜)の隠居のことについては何も聞いておらず、現在そういうことを話題にするのは馬鹿げているという意見である。二月七日、若年寄のひとりの堀内蔵頭(直虎)が、腹を切ったという。堀は自分も後を追うからと、慶喜に切腹をすすめたがきき入れられず、その後自決したのだという。江戸ではだれもが堀を称賛し、慶喜もこれに見倣うべきだと言っているようである。」  

 

 これは『アーネストサトウ日記抄六』に収められてものになります。アーネストサトウは、イギリス外交官として幕末から明治初期における数々の記録を残しました。これはその一部になり、徳島藩大坂蔵屋敷留守居をしていた速水助右衛門がサトウを訪ねて語った内容だとされています。文中の西暦2月7日を陰暦に換算すると1月14日になります。これは『勝海舟日記』と同様の誤りをしていることから、何かしら情報網として関係があるものと推定されます。当時の徳島藩は鳥羽伏見の戦いの直後から官軍に加わっていましたが、その1月3日藩主に就任したばかりの蜂須賀淡路守茂韶の実母は、須坂藩士 又市秀方の養女でした。こうした関係からも、須坂藩主の動向は徳島藩にも気になるものとして記録に残ったものと考えられます。次に、『アーネストサトウ日記』に似た古文書が残っているので、証言として紹介します。

 

巻7

微臣不肖の身、恐れ多くも一策を願い奉りたく旨を(慶喜へ)言上する。徳川公しばらくしてからその策を問う。ここにおいて謹んで徳川家の御永続を真に請い奉る旨を申し上げると、なおその謀についてお尋があった。

「しもべの身命をなげうつことによって、天朝へ歎き奉る御免し(徳川家存続)を(天皇へ)願ってくだされ。同志も3、4の輩がいるのでその御首を受け取りなされ。なお他に4、5級の首を用意して天皇に差し出し、しかる後、御家銘を歎き奉るべし。しからば絶て果てた寛大な心で許す道も、これより起きるであろう。御命を御家に代えるべき時節が当来したと、思し召めされるように」と、言葉静に言上した。

 諸侯は色を失って一言の言葉もない。次第に(慶喜へ)間近に進むその勢に恐れ、給人が徳川公の退出を伺い、立ち上がろうとするところへ、(直虎が)飛び掛って懐刀をもって刺そうとしたが、数人に抑えられ、徳川公は慌てふためいて振り放ち、逃げたので遂に成し遂げられなかった。

 みな立ちまどったが、堀殿に近づく者はいなかった。心静に着物を脱ぎ、既に覚悟をして白麻の上下を着込んでおり、白鞘の短刀を持ち直すと、直ぐに自らの脇腹へ深く突き立て引き廻し、殿中を穢し恐れ入るの一言。血に染まり平伏して無言なる。

 田安公が頭の辺りに立ち寄り、声高に「あっぱれ良臣、忠義を感じるに余りある。義勇は日月をも貫くべし」と感賞した。

 

 これは真田宝物館蔵『片岡志道聞書』と言われるものになります。片岡源左衛門志道は松代藩士で右筆をしていました。世間の事象を書き留めるのが趣味で、この史料も2月1日に田安家の家臣である安藤三左衛門の聞き書いた物を、2月21日に書き写したものであると記しています。『アーネストサトウ日記抄六』の数行を非常に詳しく書き記したもののようで、読んでいても一種の物語のように感じます。「恭順」を主張した歴史研究者は、この古文書を根拠としました。しかし、文中を見ても「朝廷に対して降伏」とか「尊王」、ましてや「恭順」の言葉は全く見えず、単に「御家銘を歎き」、徳川家を存続させることを堀直虎が主張していることが書かれています。存続を願うにあたっては自分の他に3〜4人の首と、徳川慶喜の首を差し出すように言っており、これをひとえに「恭順」とすべきではないと思われます。

 

 このように、これまでの証言を整理すると、次のように分類できます。

  @「抗戦」「狂気」は偽りであり、心肝を吐き出したが、諫言の内容を書かず。

  A発狂しそうな様子であったとするが、諫言の内容を書かず。

  B「恭順」を主張した。

  C「抗戦」を主張した。

  D「慶喜へ切腹をすすめた」

 これによると、諫言の内容をはっきりと書いている「B恭順」「C抗戦」「D慶喜へ切腹をすすめた」の3つが存在していることが分かりますが、このままではこれまでと同様に謎が解けません。そこで、堀直虎がどのような人物であり、当時の状況がどのようであったのか、時代の背景を重ねることによって解決を試みてみましょう。

 

Episode1

 【堀直虎が若年寄に就任するまで】

 幕府は慶応3年5月頃からフランス公使ロッシュの提言を受け、幕政を五局体制にするとともに、これまで若年寄は譜代大名という慣例を破って、優秀な旗本や外様大名を採用することになりました。これにより、柳之間の下手渡藩主(福島県)立花出雲守種恭が若年寄に就任し(慶応4年1月10日には老中格会計総裁)、黒羽藩主(栃木県)大関肥後守増裕も若年寄に就任しました(後に陸軍奉行を経て海軍奉行)。このように200年近く日の目を見なかった柳之間諸侯にとって、幕府改革の中心的な役割を担えるという、初めてのチャンスが到来したことになります。大関増裕と立花種恭は堀直虎の従兄弟にあたり、彼等は情報を交換して、同様の思想を持って行動していたようで、それは幕府の政治と軍事における西洋化を目指すものでした。柳之間諸侯の三田藩主(兵庫県)九鬼長門守隆義は、「信州須坂藩主堀内蔵頭と結び、内蔵頭は若年寄、藩主は柳之間連合長となり大に勢力があり。幕府もこれを頗る頼みとし、幕末の混乱中に譜代諸侯の鑑と称する有様であった」と記録が残っています。また、江戸庶民による直虎のあだ名は「唐人堀」、大関増裕は「夷人だてする馬鹿の大関」であったと記されています。彼等は洋式改革にこだわり、幕政で様々な形での参画を目論んでいたようです。

 慶応3年10月14日徳川慶喜が大政を奉還しました。これにより堀直虎は、10月21日多くの藩主と同様に江戸登城を命じられました。そして武家伝奏の日野大納言より10万石以下の大名に対し「大政奉還によってこれからは諸藩の意見を聞きたい」との達しを受け、上京するように命令されました。これに対して直虎は、翌22日江戸詰の須坂藩士を上屋敷に集め、「徳川家は政権を朝廷へ返上したが、我藩は譜代同様の家筋で長い間幕府より恩沢を受けてきた」と、まず自分の考えを藩士に述べました。その後、2策を挙げて須坂藩はどのように対応すべきか討論させました。第1策は「朝廷に対して政権を徳川家へ再び復さなければ天下平治とならず、徳川倍臣同様の家筋なので、勅命を受けるのは恐れ多い、よって上京を辞退する」。第2策は「体の調子が悪いという理由により閉居し、その間に国元より家臣を呼び寄せて非常に備え、病気と称して上京の延期を申し、さらに名代を上京させる」というものになります。結局どちらも自分は上京しないと言っており、後者が採用となりました。

 今回の大政奉還及び上京の朝命等に対して、10月30日柳之間諸侯が集まり、内容は不明ですが6ヶ条を挙げ、どのようにすべきか進退を協議しました。さらに、江戸城において徳川慶喜の留守を預かる老中の稲葉美濃守正邦(淀藩主)に宛て、「私どもは百余年の徳澤を受けてきたので如何なる時変となっても犬馬の労をなし恩に報いたい」と、大政を奉還し征夷大将軍でもない1大名の徳川家へこれまで通り変わらず忠勤に努めることを述べました。  11月5日和歌山藩重臣が主唱して、江戸藩邸に柳之間詰の諸藩重臣が招かれました。和歌山藩士は「諸侯の家が今に存続できるのは徳川の恩であり、上洛に応ずることは、君臣の義を捨て徳川の恩を裏切ることになる」といった演説をしました。こうした考えは多くの大名に受け入れられたらしく、結局のところ全国274藩の中で上京に応じた藩主は10人に達しませんでした。須坂藩では第2策のとおり、11月16日重臣を代りに上京させる事を徳川家へお伺いを立て、ようやく11月29日に須坂藩士の中野五郎太夫を上京させました。 12月に入って直虎は、柳之間の土佐新田藩主(高知県)山内摂津守豊福と連署で、紀伊徳川中納言宛に文書を提出しました。ここでは「討幕の妄説を唱える輩は王政復古に異議をする者であり、しいては天朝を棄る論になり、返って天下両立の端を開いては、為にならず」なので、「これまで通り幕府にて政権を掌握して宸襟を安んじ」と述べています。徳川家もこうした直虎の忠誠に対して、12月5日若年寄兼外国総奉行に直虎を任命しました。  

 

Episode2

 【倒幕から切腹へ】

 その頃の京坂における情勢について、12月9日王政復古の大号令、その夜の小御所会議において慶喜が自発的に辞官納地(内大臣・二百万石を返納)をするように徳川慶勝(名古屋藩主)と松平慶永(越前藩主)から伝達することが決定されました。これによって翌10日徳川慶勝と松平慶永が、二条城の慶喜に伝達しました。その後慶喜は、翌11日松平容保や松平定敬など軍勢を伴って二条城から夜通し大坂城に退きました。

 一方の江戸城においは、慶喜が大坂城に退いたとの報告が到来し、12月18日老中稲葉美濃守が譜代諸侯を城中に集め、朝命(辞官納地)等を示して意見を聞き、土井利教と岡部長寛等9人をして急遽兵を西上させる方針を決定しました。そして20日征夷大将軍の辞職聴許及び大坂に退いたことについて、須坂藩を含む江戸にいる諸侯にも周知されました。23日稲葉美濃守等は、譜代諸侯の重臣を江戸城に召集して徳川慶喜の奏状を示し、各兵を率いて速に西上する事を命じ、兵制及び出動兵員数の録上を発表しました。しかし、25日庄内藩(山形県)への発砲事件を契機に、江戸市中で騒擾行為をしていた輩の本拠地である江戸薩摩藩邸へ庄内藩と徳川家などの軍勢が焼き討ちを仕掛けました。この報告が大坂に伝わるや、一挙に討薩の起爆剤となり、松平容保などに自重を促すが抑えきれず、ついに兵を率いて「討薩表」を天皇へ上訴することに決し、大坂から京へ向かって軍を進めました。慶応4年1月3日それを妨害する長州・薩摩藩兵と鳥羽と伏見方面において衝突し、戦闘が始まりました。

 1月3日からの鳥羽伏見の戦いは、旧幕府軍等の敗北濃厚の中で、慶喜は1月6日夜に、密かに大坂城後門より板倉伊賀・松平肥後・松平越中等わずか4・5人を随えて天保山に向かいました。その時、旧幕軍艦開陽丸が薩摩軍艦討伐で出航中のため、仏国公使の紹介状により米艦にて食事を受け、夜が明けて七日帰港した開陽丸に移動し、8日夜大坂を出港しました。そして11日に品川沖に投錨、12日未明に浜御殿に慶喜は上陸し、巳半刻に騎馬にて江戸城西之丸に入りました。 徳川慶喜が江戸城に帰るや、巳半刻に在府の旗本や諸侯を総登城させ帰城の理由を告げました。さらに、「後日の形勢によりなお西上の意がある」ことを諸藩に示し、庄内藩主酒井忠篤の江戸薩摩藩邸追討に対してはその功を賞してこれまでの忠勤を労いました。江戸城内における今後の対応に関する意見は、諸有司に至るまで、ほとんどが「抗戦」論であり、それを慶喜に強く迫まりました。旗本や諸侯は、慶喜に対して盛んに「抗戦」論を唱え続けましたが、その内容において際立った策も無く、いたずらに空議が続くだけでした。

 この時、登城した土佐新田藩主(麻生山内家)の山内豊福は、城内において徳川慶喜から土佐藩の支藩だとしてなじられ、多勢が唱える「抗戦」論に同調し、帰邸後主家である土佐山内家からの勤王恭順通告を受け、その板挟みにあって1月13日夜に藩邸内で夫人と自刃しました。これも又謎の死とされています。慶喜は既に戦う気などなく、天璋院(篤姫)に面会して退隠を願い、相続人について相談をしました。15日頃になると鳥羽伏見の負傷兵が続々と江戸に帰還し始め、「抗戦」派の巨頭といわれる小栗上野介忠順が、徳川慶喜じきじきに陸軍奉行並御勘定奉行を罷免されました。

 1月17日になって慶喜の恭順工作は具体的に表面化し始めました。まず朝廷への対応策として静寛院宮(和宮)、天璋院と協議の末、朝廷へ歎願するために女使を京都へ遣わすことを決め、文書の作成に取り掛かりました。17日の夕刻には総衆議において慶喜の「恭順」の方針が公に示され、これにて今後の方向性が確定しました。また、内部への対応策としては、夜半に芙蓉間で老中が列座する中、勝海舟を海軍奉行並に任命し、大久保忠寛等と「恭順」を推進していく役割を担わせました。このように1月17日は恭順斡旋の準備が具体的に起こされた日であったことになります。1月18日朝、徳川慶喜の恭順謹慎の意向が正式に決定したため、翌19日に西之丸へ登城するよう、1万石以上の大名へ通達がされました。 

 

 その時、堀直虎は1月15日から17日に登城しました。16日には「明日午後迄に参ること」と、刀部屋番に控える供の須坂藩士へ書き付けを渡し、自身は城内に宿泊しました。そして明けた17日に自刃しました。直虎の遺骸は1月18日駕籠にて赤坂今井谷の上屋敷に運ばれ、翌19日近くの種徳寺に葬られました。須坂藩は旧幕府の命令によって国元へ直虎が病気だと触れました。1月24日旧幕府はようやく直虎を外国奉行御免としましたが、若年寄職はそのままでした。2月15日には須坂藩士を呼び出し「内蔵頭の事、病気につき御役御免の願い差し出されたが、年若くそのまま養生致すよう」にと仰せ付けました。結局、直虎の死が曖昧な状況で、冒頭にも述べた家老の丸山兵衛次郎が上京することとなったのです。

 

Reasoning and Conclusion


 四方赤良のふみ

 

 堀直虎が自刃した日は、徳川慶喜が恭順決定を臣下に告げた日となります。15日の小栗上野介忠順の罷免なども合わせれば、17日以前から慶喜の「恭順」意向は直虎でなくとも感じ取れる筈です。この日に慶喜が「恭順」を宣言しているのに、直虎が「恭順」すべきだと諫言して自刃するのは何とも矛盾した話しになります。よって純粋な「B恭順」は有り得ません。

 次に「C抗戦」ですが、これは『野平』にしか書かれていないものになります。江戸城中において慶喜に対する「抗戦」主張はこれまで幾多もありました。それを直虎が命懸けで主張するのは今更といった感がありますが、17日に慶喜が「恭順」を示したので、それに反して最後の「抗戦」を諫言したと考えることもできます。これについて、次の「D慶喜へ切腹をすすめた」と一緒に考えてみましょう。

 『片岡志道聞書』の続きには「田安公から直の指図があり、殿中での急症吐血として毛布に包んで駕籠にて退出」とあります。須坂藩下屋敷女中の鈴木勝子さんが残した証言でも「18日早朝江戸城から公が病気につき退邸の急使が今井谷の上屋敷についた。・・・殿様の遺骸が毛布にくるまれ駕籠の中にあった」ことが述べられています。さらに須坂藩や幕府の対応が病気扱いとしている点も一致しています。真実を書こうが、なかろうが、他藩の関係無い者達が書き留めた内容には恣意がありません。特に『アーネストサトウ日記』が『片岡志道聞書』と同様に「D慶喜へ切腹をすすめた」を記した点が注目されます。ここで堀直虎は「百余年の徳澤」「徳川の恩」と記したように、生前から徳川の家そのものへの忠誠心が非常に強い人物でした。また、「天下両立の端を開いては、為にならず」「これまで通り幕府にて政権を掌握して宸襟を安んじ」と、幕府の存在ありきの朝廷に対する畏敬心も深かったと推察されます。これにより、有名な徳川慶喜追討の勅旨である「慶喜の反状明白にして、始終朝廷を欺き奉りし段、大逆無道、もはや朝廷に於いて御寛恕の道を絶え果て、已むを得ず追討仰せ付けられぬ」が、1月7日に当時の武家にとって史上最悪の言葉として天皇から発せられました。直虎がこれに反する「抗戦」を主張するはずもありません。戦って徳川家と朝廷の両者がこれまでのように存続できるのでしょうか?幕府と朝廷の両立、これを維持するには詫びて許されることしかありえません。それが成らなかった時にこそ最後の手段として薩長土芸と戦うのです。

 『静寛院宮(和宮)日記』には、1月17日「午刻頃いよいよ朝敵とあいなり、追討使仁和寺宮」と書かれています。「朝敵」となったことは、江戸に着いて慶喜から発せられた『大樹公内諭ノ書』にある「叡慮を矯めて朝敵の汚名を負い」を見て、どの藩の者達も早くから知るところでした。そしてその後、慶喜追討勅旨と官軍の進発という現実が1月16〜17日に江戸へ伝わり、直虎も「天下両立の端」が始まってしまったことを知りました。これにより直虎は、1.恩ある徳川家を如何に存続させるか、2.朝敵となった徳川慶喜への憤り、を感じたのではないでしょうか。日本近世史の権威である笠谷博士によると、「武士道の規範は、滅私奉公・絶対服従ではなく、自立の精神を完成し、組織の繁栄を追及するものであった」としています。また「悪主・暴君があって、家中や領民が苦しめられ、諫言をも受け付けないという状況にたち至ったときには、家臣団はこの悪主・暴君を強制的に廃位に追い込んでいく(中略)、家臣団の手によるこの主君廃立行為が謀反や反逆としてでなく、正当行為として当該社会で認知されて」いたと主張しています。こうすると1月17日に徳川慶喜が「恭順」したいので謹慎すると、さしたる策も無く家臣に宣言しても、既に官軍が進軍してくるまで事態が悪化してしまっているので、徳川家がどうなるのか分かりません。そこで直虎は同志を募って「D慶喜へ切腹をすすめる」諫言をして、その首をもって徳川家名を守ろうとしたというのが真実だと思われます。須坂藩は110人程の家臣からなる藩でしたが、直虎が藩主就任の1ヶ月後に行った粛清では、切腹4人、永暇21人、藩籍除外11人に上る過激なものでした。これだけの事をやり遂げる人物であれば、徳川慶喜へ向かってこの様な事を言うのも納得できます。朝廷では尊王の深浅がどのようであろうと、「堀直虎が慶喜へ切腹をすすめ、それが受け入れられなかったので潔く切腹した」行為は、武士道として誠にあっぱれなので、「恭順」の鑑として何ら問題なく相続を認めたのです。もしその場に居た者達が堀直虎の事を後日他人に語れば、武士として自身の恥を上塗りすることになりかねないので、噂程度で語るしかなかったのです。『野平野平日記』の「抗戦」とは、直虎死後に「先君の思し召しを継ぎ、徳川家御再興を」とあるように、既に直虎が願ったこれまでどおりの徳川家中心の世が薩長土芸によって崩され、最早戦う以外に方法が残されていないと考えたことから書かれたと思われます。直虎は若年寄になる前から薩長土芸とは戦う運命であると考え、お気に入りの家臣達にそれを語り、彼等も心得ていましたが、天皇の意向として攻め寄せてくるとまでは予測していなかったのでしょう。そこで「抗戦」という方法の前段として、僅かな期待を持って存在する「D慶喜へ切腹をすすめる」という諫言を慣行したのです。

 

 直虎死後の2月21日、公家の岩倉具定率いる東山道先鋒総督兼鎮撫使の軍が大垣(岐阜県)を発って3月1日には下諏訪宿に入りました。これまで佐幕を唱えていた信濃各藩及び旗本まで盛んに勤王恭順活動を繰り広げていきました。しかし、「恭順」を申し出たが、逆に「遅い」と謹慎を申しつけられる藩主が多い中、須坂藩は朝廷から一切の叱責を受けることなく、藩主不在のまま飯山戦争、結城、小山、長岡、会津に出兵しました。この功績により更に多数の出兵を強いられた、松本藩や上田藩などの大藩より多い、松代藩に次ぐ信濃国で第2位の賞典禄5千石(永世禄)を得ることができました。これは全国的にみても結構な高石で、これにより須坂藩は禄高が一気に五〇%近くも増加したことになります。これについて須坂藩は、丸山兵衛次郎による朝廷への弁明によって『諫死の御感状』を得ていました。そしてその内容を見るに、須坂藩は相続と朝廷への恭順について、堀直虎の死を利用することにより成功したということになります。

 

 この推敲を書き終えて数日後のある日、ひょんなことから宮尾登美子『菊籬(きくまがき)』文春文庫という本に、山内豊福の死を題材にした『自害』というものが載っていることを知りました。短編なので書店での立ち読みで済まそうなどと安易な気持ちで手にしたところ、意外にもその内容に脳天から衝撃を受けました。そのまま購入して何度も読み返し、これまで堀直虎の事柄を調べて知り得たことを含めて、人の死というものに深く感じ入りました。これまで豊福との親交を記した史料を見た事はありませんでしたが、直虎は豊福の無二の親友として『自害』に登場し、物語を底で支える役目を担っています。これがフィクションなのか判りませんが、昭和37年に山内豊福の妻である典子の遺書が実際に発見されました。人間の命が染み込んだ文というものは、これほど心打つものかと驚きました。これは『自害』にも掲載されているので皆さんにもぜひ読んでもらいたいと思います。

 これまで余談を読んだ方の中でも同様の気持ちを抱く方もいるのだろうと思います。それは直虎たちのような人間も居たのだという事を知ってもらいたい。堀直虎と山内夫妻の生き様をえがいたドラマなどができないものかと願います。華やかな東京都の赤坂に、今でも本光山種徳寺(東京都港区赤坂七丁目)があり、そこに堀直虎は眠っています。直虎の母親は、駕籠の中の遺骸へ「よく死んでくれた」と語り、家臣一同の面前で遺書が読み上げられたとのことです。そして種徳寺住職の聞き伝えによると、「江戸城中から今井谷の屋敷に直虎の遺骸が下ろされ、凶事の知らせを受けた種徳寺の僧達が、戸板をはずして遺骸を引き取りに往き、寺まで運んだ」といいます。生めかしい史実を知ってしまった以上、東京都へ冥福を祈りに行こうかと思います・・・・

 


『其之 81』H20.11.8〜H21.2.1

 

 2009年NHK大河ドラマは、直江兼続(なおえかねつぐ)の生涯を描いた『天地人』火坂雅志 になります。これにより私達長野県人は、直江兼続=上杉の家臣=新潟県・福島県・山形県=遠い北の物語で関係無いといった、固定的な連想を抱いてしまいます。しかし、それは直江兼続が仕えた上杉景勝の歴史が意外に広まっておらず、その時に信濃国がどのように関わっていたのか、ほとんどの人が知らないことが原因となっています。実際に『天地人(上)』を読むと、その初回から信濃国が舞台となっていることに、多くの人が驚くことでしょう。今回の余談では、こういった点を詳細に語っていきたいと思います。

 

 はじめに上グラフを見てください。

 これは上杉景勝の時代に、貫高制から石高制へ改める際に作成された『上杉家 文禄3年(1594)分限帳』から算出したものになります(禄高 3千石未満は「その他」として省略)。「緑色」が大国但馬守(兼続の実弟で、以前は小国と名乗っていた)や甘粕備後守など越後国の重臣で、「赤色」が直江山城守兼続、「黄色」が信濃国の者達になります。これを見て気付くこととして、上杉家は越後国といった印象が強いのですが、上杉景勝の時代では25%程度が信濃国の者達で構成され、直江山城守を中心に越後と信濃の者がほぼ均等にバランスを保つ体制であったことに気付きます。上杉家臣の中でも直江は5万3千石と群を抜いていますが、No2は須田の1万2千石、No5で島津6千石と、他の上杉家の古参者を差し置いて重用されていました。「須田、清野、島津、芋川、市川」?と、聞いたこともないような人物が居並んでいますが、須田が須坂市、清野が長野市松代・東条・西条など、島津が長野市赤沼から豊野など、芋川が飯綱町など、市川が栄村から野沢温泉村などと、皆が現在の長野市より北にあたる地域の小土豪でした。彼等がどのような経緯で上杉家臣となったのかは、主に次の3つに分かれます。

@武田晴信の侵攻に対して反抗し、敗れて上杉を頼った者。

A武田と上杉の抗争に巻き込まれ、最終的に上杉へ降った者。

B武田・織田と仕え、織田信長の死後に上杉へ降った者。

彼等が歩んだ3つのルーツをまとめようとすると、それこそ真に直江兼続を中心に書かれた『天地人』の内容を表すことになります。

 

 遡ること16年前の、上杉謙信が越中国に出陣した際に作成された『上杉家中役方大概』天正5年(1577)において信濃諸将を探すと、御一門衆で「山浦源五」、御評定衆9人のうちで「島津玄蕃」、御奏者番4のうち「島津淡路守」、御組大将衆12人のうち「桃井主税助・高梨源太郎」、御番預衆8人のうち「岩井備中・井上将監」、御将足軽大将7人のうち「芋川勝八」、御先足軽大将16人のうち「市川惣四郎・栗田刑部少・清野高平」、御手眼預9人のうち「小田切半左衛門・諏訪部次郎衛門・清野市兵衛」、御長柄奉行6人のうち「大室源四郎・大滝土佐、清野因幡」、御大目付2人のうち「須田相模守」、御横目付6人のうち「岩井源蔵・西条全人」、道奉行2人のうち「栗林さふ助」と、最低21人を見出すことができます。さすがに御宿老や奉行衆は上条山城守や本庄美作守など越後国衆の者達で占められていますが、山浦国清(村上義清の子)が上杉一門の扱いを受ている点など注目され、その外の者達も評定や目付など中堅クラスの実務職に深く関わっていました。これにより、既に天文22年(1553)川中島の戦いから24年が経った謙信の時代から、信濃諸将が何らかの形にせよ、上杉家の家臣として深く利用されていたことが分かります。

 御一門衆として登場してくる村上源五国清については、実のところ詳細が分かっていないのが現状です。しかし通説によると、村上国清は村上義清(元亀4年1573死亡)の子でしたが、上杉謙信の養子の形式により山浦上杉家の名跡を継ぎました。軍役帳でも他の御一門衆を差し置いて上杉景勝の次に列記され、天正7年(1579)には景勝から「景」字を頂戴して山浦景国と名乗りました。景勝は上条入道宜順と山浦景国だけに「殿」を付けて呼んでおり、明らかに他の年寄や家臣達とは別格に扱われていました。このように、謙信時代に主力とまで言えなかった信濃諸将が、上グラフの景勝時代になると、より重要な地位(年寄など)へと上昇しています。それがどのような経緯でなったのか、歴史の中で見てみましょう。

 ※但し、上杉家の歴史については多くの情報が発信されているので、ここでは要点だけを述べさせてもらいます。不明な方は『天地人』を御覧になるか、他のサイト等を参照してください。

 

 @歴史編:

 天正6年(1578)3月13日上杉謙信が病没した時、時代が大きく変化していきます。謙信には実子が無く、跡継ぎも指名しなかった為、養子の景勝と景虎が争いを始めました。ご存知のように旧関東管領上杉憲政の居住していた御館(上越市、おたて)を中心に争われたことから『御館の乱』と言われる騒動です。これにより上杉家中は2分に割れ、信濃諸将も分裂しました。景虎側として、東条佐渡守(長野市)は春日山城下に火を放ち、飯山城代であった桃井伊豆守は守備兵を率いて御館に来援しました。その他、岩井大和守、岩井式部なども景虎側に加わりました。しかし戦いは次第に景勝側が優位となり、天正7年(1579)3月24日景虎は逃げ込んだ鮫ケ尾城(妙高市)で自刃しました。こうして上杉景勝が跡を継ぐことになりましたが、1年余という長期の戦闘で領地や兵を失うなど謙信以前より大きく弱体化しました。そしてこの乱の後に上杉家から氏名が消滅する信濃諸将が見られます。これは、乱で景虎に従って討死したり、領地没収となったり、さらには信濃国上杉領は講和条件により武田勝頼に譲渡されることになったので、信濃国に残留して武田家臣になった者達がいたためになります。

 御館の乱で、謙信時代の重臣を含めた景虎側の者達が多く消えたことで、上杉景勝を頂点とした新体制が生まれました。この時に初めて年寄(家老)となって頭角を現し始めるのが樋口兼続(天正9年に直江家を継ぐ)です。実績の無い20代の直江兼続が政権を手にするには、自分の思い通りになる軍事力が必要となりました。景勝に味方した上杉一門の上条宣順・山浦景国・山本寺景長の地位は重く、須田満親・竹俣慶綱・吉江宗ァ・吉江信景らの年寄の存在も大きいものでした。こうした中で直江兼続は、信濃諸将の力を利用することを考え、まず自分の妹と須田相模守満親(みつちか)の子を縁組させました。さらに直江兼続の実父である樋口惣右衛門尉兼豊が、水内郡で最も力を持つ泉弥七郎重蔵の娘を妻としたので、信濃外様衆の力を得ることができました。泉氏(又は尾崎とも言う)一族には、上倉・今清水・上堺・大滝・中曽根・奈良沢・岩井があり、ほぼ水内郡全域と千曲川を挟んだ高井郡の一部まで影響を及ぼすことができました。彼等は御館の乱の後に、武田勝頼への譲渡で信濃国に残留したり、信濃国の領地を失って上杉家臣となる者に分裂しました。そして上杉家臣となった泉一族などは、景勝や直江兼続の直参(上田衆、与板衆など)に吸収されるなど、多岐にわたって上杉家中へと浸透していきました。

 天正9年(1581)頃になると、加賀一向一揆を制圧して基盤を固めた織田信長が越中侵攻を本格化させてきます。戦況は悪化の一途を辿り、さらに上杉家の越中国防衛の要であった新川郡松倉城主の河田長親が病死しました。この危機に景勝は、越中国の五箇山一向衆と共闘して織田軍の侵攻を少しでも妨げようとして須田満親を送り込みました。須田氏(本家の井上氏)は鎌倉時代に親鸞へ帰依し、子や家臣6名を弟子にしてもらいました。そして修行を終えた彼等が戻って浄土真宗の寺院を高井郡内に建立するなど、300年以上にわたって一向宗との深い縁を持っていました。これにより越中国内の一向宗と上杉家のパイプとして須田満親は老練に働き、本願寺顕如(11世 光佐)や下間刑部卿法眼頼廉などと綿密に連携しました。しかし次第に越中国の今泉城や木船城を放棄しなければならない状況に陥り、魚津城を最後の防衛拠点として織田軍と熾烈な争いを続けました。

 天正10年(1582)織田信長が武田討伐のために信濃・甲斐国へ攻め入り、3月11日武田勝頼が自刃して武田家は滅亡しました。景勝はこの機会に武田へ譲渡した旧上杉領を回復しようと、泉一族の岩井備中守信能などを飯山方面に派遣し、上杉に従うよう各地の土豪を誘いました。武田に残留した泉一族などは景勝に詫びて復帰し、芋川越前守正親は誘いにのり、一揆(主力は北信濃の一向一揆とされる)を率いて織田軍の森長可と戦闘を繰り広げました。しかし海津城と長沼城を占領した森長可の軍は強く、しだいに越後国内まで侵入を許すようになりました。こうして上杉家は、西の越中国と南の信濃国から同時に攻め込まれて危機にありましたが、6月2日織田信長が本能寺で討たれ、森長可は素早く撤退を開始しました。これにより7月を過ぎると、続々と信濃諸将が上杉景勝に降り、謙信も成し得なかった川中島4郡を完全に制圧しました。一方で6月3日越中国の魚津城が織田軍の猛攻によって落城し、籠城していた山本寺景長・竹俣慶綱らは討死しました。これにより家中での直江兼続の力がまた強まったとも言えます。そしてこちらも織田信長の死を伝え聞くや撤退を開始し、柴田勝家が越前国に退いたため、魚津城・小出城は須田満親率いる上杉軍が占拠しました。

 上杉景勝は川中島4郡支配について海津城をその中心と定め、武田以前の村上氏による統治により秩序を保とうとしました。※各支配は下記のとおり。

高井郡 海津城(長野市)

山浦(村上)源五景国

高井郡 市川城(野沢温泉村)

市川左衛門房綱

更科郡 猿ケ馬場城(千曲市)

清野助次郎長範

更科郡 牧之島城(信州新町)

芋川越前守正親

更科郡 平林城(千曲市)

平林蔵人佑正恒

更科郡 稲荷山城(千曲市)

保科佐左衛門

水内郡 長沼城(長野市)

島津淡路守忠直

水内郡 飯山城(飯山市)

岩井備中守信能

 

 武田滅亡の際に飯山城を守備していた、武田家臣の市川左衛門、河野因幡守、大滝土佐守、須田右衛門大夫は進んで城を引渡しました。それにより市川氏は、武田氏から安堵されていた領地(千曲川東の飯山市木島以北)をそのまま認められました。また、降伏した屋代左衛門尉秀正(千曲市)は、かつて村上義清の重臣であった縁をもって「榊木(坂城町)3ケ村」を安堵され、山浦景国の副将として海津城二ノ丸に配置されることになりました。こうして信濃国上杉領は松本城を拠点とする小笠原貞慶、岩櫃城(群馬県)の真田昌幸と接し、両者が徳川家康に臣従していたので、初めて徳川家と対立するようになりました。この時の支配は山浦景国に全ての権限を与えるのではなく、あくまでも上杉家の郡司にすぎないというものでした。さらに長沼城の島津と飯山城の岩井も同様の郡司に任命されたので、その権限が及ぶ範囲は水内郡の河北(浅川か裾花川と推定)以南、高井郡(市川が郡司であった可能性が高いが不明)、更科郡、埴科郡であったと推定されます。そして郡司は領内の公事・夫役の賦課と徴収権を持っていましたが、基本的に武田統治時代と同じようにするよう命令が下されました。

 やがて天正12年(1584)山浦景国と屋代秀正が不仲となり、屋代は徳川家康の誘いを受けて、塩崎衆・室賀兵部などと荒砥城(千曲市)に立て籠もりました。屋代秀正は、上杉景勝が川中島4郡を制圧した時に、自身の荒砥城を対徳川に必要だとして上杉直轄(清野・寺尾・西条・大室・保科・綱島・綿内の交代在番)とされたので、元々不満を持っていました。徳川家康の後ろ盾を得た屋代秀正は、上杉軍の猛攻を2度耐え凌ぎ、撤退させました(後に落城して徳川に身を寄せ、徳川忠長の家老となります−小諸城主)。これにより上杉景勝は山浦景国を更迭して一族の上条宜順と交代させましたが、何らかの失敗があったとして更に天正13年(1585)6月須田満親を海津城主としました。徳川との交戦で一々越後国まで指示を仰いでいては対応しきれないとして、山浦景国や上条宜順の時とは違って、須田満親には全権が委ねられました。

一.4郡中の者、盗賊、逆心を企てるものがあれば、甲乙人によらず、すぐに糾明し、罪科の軽重について、流罪、死罪の沙汰をすること。

一.諸国境のことは勿論、大抵は相談すべきだが、そのほうの分別次第にし、越後国に注進しなくてもよい。

一.諸士軍役について、近郡の者は本軍役を2倍増に勤めさせること。

須田は徳川家に不満を持っていた真田昌幸と巧みに交渉し、上杉家に臣従させて真田幸村を人質に差し出させました。その後、裏切った真田を攻めようと徳川軍が上田城に押し寄せましたが、真田に撃退されました。これ以後は上杉・真田、徳川ともに豊臣秀吉の配下となり、その斡旋により両者の争いは終わりました。この海津城主更迭を契機に、一族の上条宜順は不満を持ち、豊臣秀吉に上杉家の人質として差し出されていた子の上条義真(上条宜順は能登守護畠山義隆の子で、上杉謙信の養子として越後へやってきて、景勝の姉を娶っていた。義真はその子)がいる京都へ出奔してしまいました。上条宜順は秀吉に相手にされず、最後に徳川家康の下へと行きました。

 こうして上杉一門で力のあった2人が消え、残った信濃諸将の支柱であった山浦景国も取り除かれたので、ますます直江兼続の力が強まりました。そして戦国時代では珍しい、複数の家老職を廃止した直江兼続1人による執政が開始されるのです。これまでの景勝−直江の政治手法を分析すると、それまで信濃国の領主であった村上、高梨、井上などに従っていた小土豪を、上杉家中の各所に取り立てて独立させ、領地を越後国に与えて旧主の力を上手く奪いました。さらに家格を重んじる世の中で、門閥や古参を失脚させて須田など才能のある者を抜擢し、その巧妙の軽重によって知行を与えていくところに、織田信長・豊臣秀吉の手法を見本としているように思われます。

 

 はじめにグラフで紹介した『上杉家 文禄3年(1594)分限帳』は、ちょうどこの頃に作成されたものになります。ここで「元信州衆」と注記されている家臣を抽出すると、川中島4郡の統治がどのようなものであったかが分かります。統治の構成は、信濃衆として19人(苗字は須田、西条、井上、寺尾、綱島、大室、夜交、尾崎、清野、平田、島津、芋川、市川、岩井、松田、小田切、保科)、その他に長沼衆、葛山衆、奈良沢衆、中曽根衆、塩崎衆、東条衆、牧野嶋衆、小布施衆、須坂衆、尾崎衆、屋代衆、上倉衆、岩井衆、井上衆、上堺衆、市川衆、猿ケ馬場衆、今清水衆、西大滝衆、福嶋衆、飯山衆などから成り立っていました。また、越後衆に29人、五十騎衆に1人が出仕していたので、上グラフにある赤の「直江山城守」部分にも信濃諸将が多くいたことを認識しなければなりません。

 

 それから13年間は平和が続きましたが、慶長3年(1598)上杉景勝は、豊臣秀吉より越後国・信濃国・越中国の領地に代わって会津若松城への移封を命じられました。新たな領地は加増となって「陸奥国の会津4郡(会津郡、河沼郡、大沼郡、耶麻郡)、岩瀬郡、安積郡、安達郡、信夫郡、白河郡、石川郡、田村郡、刈田郡。出羽国の置賜郡(長井郡ともいう)、庄内3郡(田川郡、櫛引郡、遊佐郡)。佐渡国」の120万1200石となりました。この移封により、川中島4郡などの信濃諸将も移ることになり、彼等も加増されて各地に配属されました。この時は、信濃国上杉領を武田勝頼へ譲渡した際に行われた残留は許されず、耕作する者以外は全て会津へ移るように豊臣秀吉の直命が下されました。

 

 ※主な信濃諸将の配置は次のとおり。

陸奥国 安達郡 塩之松城

山浦(村上)景国

6,500石

2.9倍

 

市川房綱

6,700石

2.0倍

陸奥国 会津郡 伊南城

清野長範

11,000石

2.6倍

陸奥国 白河郡 白河城

芋川正親

6,000石

1.3倍

 

平林正恒

3,000石

1.1倍

陸奥国 信夫郡 宮代城

岩井信能

6,000石

2.0倍

陸奥国 信夫郡 大森城

栗田刑部少輔国時

8,500石

 

陸奥国 岩瀬郡 長沼城

島津忠直

7,000石

1.1倍

陸奥国 伊達郡 梁川城

須田長義

20,000石

1.7倍

 上表のように、新たな上杉領の7城が信濃諸将に与えられました。家臣の石高は、No1、2と直江・大国兄弟が占めますが、No3は須田長義、No6は清野長範となりました。石高の増加率を見ると、山浦景国、清野長範、岩井信能、市川房綱が倍増して、これまでの活躍の程や直江の配慮が窺えます。

 既に須田満親は海津城で死亡(一説によると自刃とあり、謎)していたので、息子の須田長義が跡を継いで梁川城(やながわ)に入りました。また、直江兼続の妹を妻としていた須田右衛門太夫景実(満胤、右京大夫ともある)は、慶長2年(1597)に景勝のお叱りを受けて浪人になったとあり、その後の様子は不明です。しかし『米沢御引移後分限帳』寛永8年(1631)には須田右衛門500石 三番衆とあり、これは慶長19年に許された子の須田満統(みつむね)になります。

 岩井信能は景勝の信頼が厚く、会津3奉行の1人に任命されました。また、山浦景国はこれ以後史料に登場しなくなり、その後の様子は不明ですが、2代藩主 上杉定勝の時に、「別の者をもって山浦家を再興した」とあるので、既に死亡断絶していたと思われます。

 

 その後の慶長5年(1600)、上杉景勝は関ヶ原の戦いにおいて、西軍側として伊達や最上と東北で戦闘を繰り広げたので、領地を大幅に削られて今度は米沢城30万石となりました。新たな領地は、出羽国置賜郡(山形県)、陸奥国信夫郡(福島県)、陸奥国伊達郡(福島県)の3郡だけでした。新領地における米沢藩政は続いて直江兼続執政のもとで進められ、慶長6年(1601)奉行兼置賜郡代に元武田家臣の春日右衛門元忠、福島奉行兼信夫伊達郡代に河田平右衛門正親と信濃諸将の平林正恒が任命されました。慶長13年(1608)に春日元忠が死亡すると、その跡を平林正恒が引き継ぎました。平林は後に「直江兼続の後継者」とまでいわれ、兼続死後は与板衆の支配も行いました。平林は米沢城下整備の奉行にも任命され、二ノ丸の東に安田、北に岩井(信濃)、三ノ丸の東に清野(信濃)・中条、北に色部・須田(信濃)などの屋敷を、城を守るかのように配置しました。さらにその後の寛永10年(1633)には、清野長範と島津利忠が奉行に任命され、もはや武田侵攻から約50年近く経ち、江戸幕府の時代では信濃諸将が上杉家の中核となっていました。この頃の米沢藩の構成を『米沢御引移後分限帳』寛永8年で見ると、最高位の侍衆(高家衆)3人のうち清野周防守が3,330石で筆頭、1番衆に芋川備前守・市川土佐守・平林内匠・須田親衛・仁科越中守・夜交弥左衛門、2番衆に岩井大学・芋川弥一右衛門・小倉民部、3番衆に井上宮内・須田右衛門、4番衆に筆頭で島津玄蕃・須田相模守・綱島外記・大室右馬がいました。また、直江兼続と大国実頼も既にいないことから、藩内で最高禄は安田上総4,333石(2番衆筆頭)で、No4清野、No6島津、No7芋川、No8市川と並んでいました。上杉領の本城は米沢城となりましたが、その他に置賜郡の高畠城・掛入石中山城・荒砥城・鮎貝城・小国の5城があり、伊達郡に梁川城、信夫郡に福島城がありました。このうち梁川城は、北にある伊達正宗の白石城(宮城県)に対する備えとして重要で、会津若松城時代から引き続いて須田長義が城代を務めました。梁川城代はこれ以後、寛文4年(1664)まで代々須田氏が世襲していきました。

 

 参考までに現在のどの地が信濃諸将と関係していたのか判断できるように、彼等の知行地(300石以上)を紹介します。これら信濃諸将と由来を持つ地域は、現在の山形県南部にあたる米沢市、南陽市、長井市、川西町、高畠町などの米沢盆地になり、福島県では福島市、桑折町、伊達市など北部の阿武隈川流域でした。下表を見て分かるように、上杉家の信濃諸将は、米沢市域と福島市域にほぼ2分して知行地を頂戴していました。ほとんどが会津時代の3分の1に減らされていますが、江戸時代において大名の家臣で300石以上を与えられていること自体が優遇されています。石高の「3」という数字が多いのに気付きますが、何か縁起によるものでしょうか。

(誤字等ありましたらご容赦を)

清野周防守

3330石

置賜郡成田・塩野、信夫郡石茂田・高梨

島津玄蕃

2333石

置賜郡一本柳・竹森、信夫郡荒戸鳥・和田

芋川備前守

2273石

置賜郡馬頭・中田・川沼・矢ノ目

信夫郡鎌田・平沢新田・上名倉・山田・小嶋田・大森

市川土佐守

2133石

置賜郡尾長嶋・堀金・小瀬、信夫郡内湯・半田

須田相模守

2000石

置賜郡高梨・郡山・大塚・高豆冠

信夫郡山崎・五十沢

岩井大学

1081石

置賜郡川井・竹井・塩野

平林内匠

1000石

置賜郡山上、信夫郡渡リ

松木内匠

1000石

置賜郡梨郷・福田・草岡、信夫郡内

井上宮内

800石

置賜郡漆山、信夫郡漆川・岡本

芋川弥一右衛門

666石

信夫郡平沢・山田新田

綱島兵庫

550石

信夫郡島和田・瓦子・矢野目

須田親衛

500石

置賜郡鴨生田、信夫郡五十辺

仁科越中守

500石

置賜郡一漆・信夫郡大舟

須田右衛門

500石

置賜郡安久津・李山

岩井右門

500石

置賜郡口田沢、信夫郡内

大室右馬

333石

信夫郡庄野・瓦子

夜交弥左衛門

300石

置賜郡一漆・信夫郡八島田

 さらに彼等は、戦国武将の常識とも言うべき自らの菩提寺を移転させました。参考までに嶽林寺(上倉氏)、明智寺(今清水氏)、泉秀寺(大滝氏)、常願寺(中曽根氏)、東源寺(尾崎氏)、仏母寺(上堺氏)、常円寺(奈良沢氏)、金剛院(岩井氏)、その他に小菅神社や和光明神も信濃国から会津を経て、米沢へ移されました。米沢市に行くと、まだ続いているお寺があります。これも彼等の足跡を知る一つの指標ともなりましょう。

 

 以上のように、上杉家と信濃国がいかに密接であったか、お分かりいただけたでしょうか。今回、余談による調査に際して、米沢藩上杉家の歴史を知ろうとしたのですが、長野県内では各図書館や書店で全くと言っていい程関係書物がありませんでした。これでは一般の人達もその関わりを知ることができず、ましてやきっかけを得ることもできないので、多くの人に知られていないのは当然だと思います。それにより今回は『天地人』の放送にともなって余談としましたが、これを単に2007年に放送された『風林火山』の続編だと思ってもらえれば、すんなりと作品に入っていけると思います。残念ながら、放送では信濃国の者として真田昌幸と幸村が登場し、もしかしたら岩井信能と須田満親・長義が登場するか程度のものだと思われます。しかし、直江兼続の精神的な「義」という面を強調するだけでは番組として矛盾が生じますし、視聴者も飽きてしまいます。権力を手中していく歴史の本質に、信濃諸将が関わっていることを何らかの形で表現できたらと期待します。また、武田信玄と信濃国の関わりを、「侵略」=悪とするのか「英雄」=正義とするのか、NHKは『風林火山』の表現方法において、迷いを生じたていたと見受けられました。そして今回で『天地人』を選んだのは、その答えを正そうとしているのではないでしょうか。戦国時代では珍しい上杉謙信以来の気風。それを武田信玄より素晴らしいと認めなかった昭和の評価も終わり、正確な歴史が全国に知られようとしています。改めて上杉家には感謝する長野県人でした。


『其之 80』H20.7.12〜H20.11.8

 

 この川は何故ここを流れているのだろう?

 あの山は何故断崖絶壁となっているのだろう?

 何故あそこは平地であそこは谷となっているのだろう?

 普段生活している私達の目の前に広がる景色に、ふっと疑問を持つとそこには大きな歴史が広がっています。

 

 長野県を南から北へ流れる日本最長の千曲川(信濃川)を上流へ進むと、南佐久郡小海町(こうみまち)、南牧村海尻(みなみまきむら うみじり)、海ノ口(うみのくち)という土地があります。子供の頃に「ここに大きな湖があったからという字が付いたんだよ」と聞かされました。20年程前にTV放送されていた『まんが日本昔話』に次のような話がありました。

「むかし、日本海にシャチにいじめられている鯨の親子がおりました。ある日、彼等は他の魚からこの川の上流に小海という海があることを教えてもらいました。そこにいけばシャチにいじめられることもなくなると思い、親子はこの川を上っていきました。しかしいけども海はなく、鯨の親子はしぶしぶ海へ戻っていきました。」

海のように大きな湖があった?そんなバカな話しがあるのかと、知識の浅い子供心に思っていましたが、最近それが伝説ではなく、真実だったと思えるようになりました。昔は数人が「湖だった」と主張しましたが、ほとんどの人達に信じてもらえませんでした。そしてこの伝説を実証しようと、昭和50年代頃から地質学、歴史学の分野で幾つかの私研究が行われました。激しい論争もありましたが、現在はほぼ湖があった事に間違いないと言われるようになりました。彼等によると、この湖ができたのは文献から平安時代の仁和3年(887)〜仁和4年(888)になります。『日本紀略』仁和4年(888)条「五月八日、信濃国大水ありて山禿れ河溢れる」とあり、これに対する太政大臣藤原基経の上書にもとづいて宇多天皇が出した詔書『類聚三代格』に、「今月八日信濃国山禿れ川溢れて六郡を唐突し、城慮地を払って流漂し、戸口波に随って没溺す。」とあります。一方『日本三代実録』では仁和3年(887)7月30日としています。信濃国で六郡を貫く川は千曲川しかありません。それでは、ここに書かれている「山禿れ」とは、どの山を言っているのでしょうか、研究者は口を揃えて八ヶ岳中央付近にある天狗岳(てんぐだけ)と稲子岳(いなごだけ)だとしています。確かに以前、八ヶ岳を登山をした際に、天狗岳2645m、稲子岳2351mの東側にある断崖絶壁には肝を冷やされました。ほぼ垂直の高さ300mはあろうかという崖がそそり立ち、岩ツバメが点のように飛び回っていました。

天狗岳から稲子岳を見る

 

あれだけの崖を形成するほど山が崩れれば、その直下に土砂が溜まっているはずですが、みどり池周辺までしか崩壊土が見られず体積が合いません。その他の土石は雨水なども混ざって当然下流に向かって流れたのでしょう。行き先は東にある千曲川。どの本を読んでも千曲川を埋めた土石は「下深山地籍(しものみやま、国道141号の海尻洞門付近)を埋めた」と書かれ、それは航空写真と地形図を見ると一目瞭然です。

 この頃の千曲川は、約1億5千年前のジュラ紀に海で堆積したものが隆起した東側山地と、約20万年前の稲子岳火砕流など八ヶ岳から流れて来た西側山地の間(地質的に弱い箇所、フォッサマグナ東端)を流れていました。そしてここに天狗岳と稲子岳の崩壊土石が流れ込み、その本流は現在の大月川筋を下って松原湖(この時には松原湖は存在しない)を通り、千曲川の下深山で東側山地にぶつかりました。そして勢いを弱めながら、北へ折れて二子池・鎰掛・馬流(小海町)、芦平・箕輪・土村・東馬流(小海町)を埋めて相木川を堰き止めました。到達した遠方ほど土石は少なくなりますが、地質学の本によると本流では径が数m〜400mの巨岩が流れ、現在の松原湖付近に30個以上の小山を形成しています。大小の土石は当然ながら激しい凹凸地形を残したので、そこに雨水が溜まって現在は松原湖と呼ばれる猪鼻湖、長湖、蛇池、ツボ池など多くの湖を誕生させました。これらの地域では古くから道路工事などを行うと、地面の中から炭化していない木片が多く出てきました。木がそのまま1本埋まっている所も多くあり、私研究や学会、大学などで放射性炭素年代測定が行われ、950±90年、849±83年、812±57年という結果を得たり、年輪年代測定で仁和3年(887)秋頃だという結果を出した研究者もいます。

 これだけの土石であれば、文献史料にも「戸口波に随って没溺す」とあるように、一部は土石流となって遥か下流の村々に被害をもたらしました。千曲市の更埴条里遺跡の発掘調査で、田圃の下に厚いところで30cmもある砂層が発掘され、さらにその砂層下からも条里遺構が発掘されました。この砂層下の水田から9世紀後半以前の灰釉陶器や土師器などが出土したことから、洪水は9世紀末に発生したものだと言われています。これと同様な発掘調査結果が千曲市より上流の坂城町や佐久市でも発掘され、大規模な洪水であったことがわかります。

 土石によって埋められた千曲川の上流は、しだいに水が溜まって湖のようになりました。この時に湖となった最も下流を「海尻」、上流を「海ノ口」と名付けられました。奈良、平安時代には、湖という言葉はなく、湖も海と呼んでいました。現在まで伝えられる日本中の多くの地名がこの年代から付けられていくので、宇多天皇にまで報告されたこの事件を、今の川上村や南北相木村の人々などが、土石の落ち着くのを待って現地を見て名付けていったのかもしれません。また、相木川に到達した土石は、ここでも川を堰き止めて別の湖をつくり出し、後の人々はここを「小海」と名付けました。郷土史研究などでは便宜上、千曲川のものを「南牧湖」、相木川のものを「小海湖」と呼んでいます。しかし、「南牧」とい言葉は明治になって作られたものなので、この時代の湖として付けるには少し疑問がもたれます。

 

 ここで問題となるのが、最近の研究でもこの湖がいつ無くなったかということが結論付けられていません。主な説を挙げると次のようになります。

@.887年秋に八ヶ岳が山体崩壊し、大月川岩屑なだれが千曲川を塞き止め、翌年の春に塞き止めた「南牧湖」が崩壊し、善光寺平に大きな影響を与えた。

A.888年梅雨に八ヶ岳が山体崩壊し、大月川岩屑なだれが千曲川を塞き止め、寛弘8年(1011)8月に「南牧湖」が崩壊して千曲川が溢れた。

 どちらの説も1理あるのですが、たった1年間存在した湖を基に地名が付けられたとは到底思えませんので、より後年まで湖が存在していたのではないかと考えられます。現存する史料に「海ノ口」という文字が最も古く登場するのは、『大徳寺文書』建武2年(1336)の伴野庄郷々村々御年貢存知分の事として「海野口63貫文」と書かれています。そして「海尻」が登場するのは戦国時代に武田信玄が活躍した1500年代となり、「小海」は『生島足島神社起請文』永禄10年(1567)に「小海宮内介高富」と、「海尻」と同様の年代に登場します。こうして歴史に登場してきた海ノ口、海尻、小海は、江戸時代以降は海ノ口村、海尻村、小海村として続いていくことになります。こうしてみると、「海ノ口」文字が出現する1300年代〜887年の約400年間が問題となるのですが、江戸時代になっても村として存在することから、人が居住する場所に付けられた文字、人が自己の土地を主張するのに地名を発生するのに付けた文字とすれば、一般的に名田の発生が11世紀以降となるので、西暦1000年頃までは人が住めるような土地ではなかったのではないでしょうか。そうするとAが正しいということになりますが、度重なる千曲川の洪水などの流水によって埋めた土砂も自然に少しづつ削られて少なくなり、寛弘8年の崩壊は下流へ甚大な影響を与えるような規模ではなかったのでしょう。実際に、現在の千曲川の状態を見ると、下深山付近で川底と段丘上平地との高低差(約100m)を頂点として、上流の海尻まで、下流の相木川合流点付近まで谷底のように深く掘れた川となっているのが分かります。突然の決壊によるものであれば、もっと広範に河岸が削られるはずですが、ほぼ垂直に弱い大月川岩屑なだれを削って流れているので、長い年月をかけて形成されていったものと推定できます。

 一方、初めて見た時には驚きましたが、武田信玄の頃(天文年間と推定されている)に書かれた佐久郡絵図を見ると、すでに「南牧湖」はありませんが、相木川の千曲川と合流するやや上流に「小海湖」らしきものがまだ書かれています。しかし、江戸時代以降の絵図からは湖が消えています。これにより、「小海湖」も「南牧湖」のように自然消滅していったのかもしれません。長年の湖の堆積により、小海小学校や本村、中村(小海町)の平地が形成されていきました。

 絵図に書かれた道路に注目すると、北から南へ延びる道は、今の東馬流(小海町)付近から山を越えて南相木村に出て、そこから大深山村(川上村)へ抜け、信州峠を通って甲斐国へ繋がっています。もう1本の道は南相木村から広瀬(南牧村)に出て、野辺山を通って甲斐国へ通じ、いずれも「南牧湖」と「小海湖」の付近を避けるように大きく東へ迂回していることがわかります。現在の国道141号とほぼ同様の川西を通る佐久甲州街道が整備されるのは江戸時代初期になってからで、人が容易に通れるような所ではなかったと考えられます。しかし江戸時代になっても、当時の技術では下深山を現在のようにコンクリートの洞門で通ることができず、八那池村(小海町)からいったん千曲川の河原へ下りて、下深山の断崖の下を岩を避けながら上下に通り、急斜面を上がって海尻村の集落へ辿り着きました。落石も多く危険で、洪水の際は八那池村から西の松原村へ上がって、松原湖のそばを通って海尻へ下りて行っていたそうです。

 

 後日、大月川岩屑なだれの範囲を再確認しようと、土石が東側山地とぶつかった付近を歩いてみました。千曲川より100m近く高い所を行っても、そこには3〜10mもある黒褐色の巨岩が田の畦、斜面、住宅の庭などに幾つも顔を出し、1m以下の巨石は石垣などに利用されていました。いずれも角が取れて転がった岩石であることが一目瞭然です。松原湖の湖水出口の下斜面にも点在し、やはりここも堰き止められたことによって出来た湖であることが確認できました。湖の底には大きな木が沈んでおり、釣りをすると頻繁に糸が引っ掛かることを思い出しました。黒褐色の巨岩が点在する範囲から外れると、とたんにローム層と呼ばれる赤土が広がっています。そこからは縄文〜弥生時代の遺跡が多数発掘され、一方の大月川岩屑なだれの範囲からは出てきません。


『其之 79』H20.4.1〜H20.7.12

 

 信濃人物スクランブルの最終章をお届けします。

 冒頭に書いた、「あまり知られていない」という言葉を本来は使いたくないのですが、現実に殆どの方が信濃の歴史を知らないので致し方ありません。しかし、これを読んで長野県にはこのような生きた歴史があった事を知ってもらえれば、郷土をもっと好きになってくれる人もいるでしょう。

最 終 章

^^^^^^^ 頭領として生きること^^^^^^^^

小笠原家史『笠大系』抜粋

 天正10年(1582)残暑の厳しい8月、私こと幸松丸(14歳)は、母の実家である都の日野大納言邸で生活していました。そしてある日、信濃国に行った父の小笠原右近大夫貞慶(おがさわらさだよし)から思いがけない吉報が届きました。それは祖父の小笠原大膳大夫長時(おがさわらながとき)が武田晴信(信玄)に信濃国の領地を奪われて33年、ようやくそれを奪い返したとの嬉しい便りでした。父上は祖父を裏切った筑摩郡(ちくまぐん)と安曇郡(あずみぐん)の元家臣を征伐するため、青柳城(筑北村)、麻績城(麻績村)、日岐城(生坂村)などへ出陣しているので、暫くは信濃国へ呼び寄せられないとのことでした。

 それから半年程が経った天正11年(1583)2月、信濃行きを今かと心待ちにしていたところ、突如家臣の丸田権六秀元と二木吉内吉為が都の私の所へやって来ました。そして私に、「徳川三河守家康公のもとへお連れするようにと、父上から命令されたと述べました。父上は今でも越後国(新潟県)の上杉弾正少弼景勝と筑摩郡境で小競り合いを続けており更に南の諏訪頼忠(諏訪郡)殿、敵対していた保科正直(伊那郡)など次々と徳川家康公に臣従したので孤立していました。家康公も本領復帰に力を貸したのだからと臣従を強く迫り、信濃守護職の家柄ながら三河者の臣下となることに対して真に不本意でしたが、今の力だけでは領地を守りきれないと判断し、承諾したとのことでした。こうして私はいわゆる人質として差し出されることになり、三河国の浜松城(静岡県)へ向かうことになりました。

 都を遠く離れるのは初めてになります。日野大納言様や本国寺住職など世話になった方々へ別れの挨拶を済ませ、見知らぬ東海道を東へと進みました。浜松城に到着するとさっそく徳川家康公と対面することができ、信濃国の中核となる小笠原家が従ったことで大変ご満悦でした。こうして小県郡の真田安房守昌幸殿と木曽郡の木曽義昌(羽柴秀吉に臣従)以外の信濃諸将が全て徳川家に従うことになりました。人質の私への目付役(監視)は、父上の信濃復帰に尽力してくれた徳川家臣の石川伯耆守数正殿でした。石川数正殿は、その頃岡崎城代を務めていたので、私は三河国額田郡岡崎(愛知県)で暮らすことになり、家臣2人を連れて岡崎町奉行を務める江戸右衛門七直定殿の屋敷に入れられました。日常は岡崎城下の外郭まで外出を認められ、大林寺に詣で、乙川(菅生川)で鯉釣りなどをして過ごしました。しかし外郭の北側にある信濃門を見ると、この門を出て伊那街道を北へ歩め父上の所に駆け付けられるなどと心穏やかでない日もありました。

 岡崎に住んで数ケ月が経った時、信濃からの使いで祖父の小笠原長時が2月25日に会津国で亡くなったことを聞かされました。同時に祖父の側室と、その娘である叔母も死んだとの事で、すぐに父上が殺害したのではと、苦い疑念を抱きました。殺したのは恐らく父上の命を受けた平林弥右衛門。父上の実母は、側室として飛騨国江間氏から嫁いで来た喜多姫で、父上は5男でした。本来は小笠原家の家督を継ぐ者ではありませんでしたが、兄達が相次いで病死し、先の天正6年に長兄の小笠原長隆殿が越中国外山(富山市)で戦死したのでが継ぐことになりました。話に聞く祖父の長時と、領国を奪われても未だに自分の血統を傘にし家臣や他国の者達を軽んじ見下し、結局は領民の心も掴めないような人間と聞いていました。そんな祖父父上は受け入れられず、信濃に来ては国が乱れる元凶になると考えたのではと、私は思いました

 翌年の天正12年(1584)2月、羽柴秀吉様と織田信雄殿が尾張国で合戦となり、徳川家康公は織田殿に加勢することになり、多くの兵が岡崎を出陣して行きました。家康公は小牧山(愛知県)に陣取って羽柴勢を次々と討ち取り、終いに和議となって引き揚げてきました。一方の父上は、家康公の命により羽柴方である上杉景勝の押さえを命じられ、麻績郷(麻績村)に本陣を置いて、川中島に小勢で攻め掛け、郡境の睡峠、篠木尾、猿峠、八幡峠などを無事に固めたと手紙で知らされました。私は2年もの間、何のお役にも立てず、肩身の狭い思いで日々退屈に過ごしていましたが、天正13年(1585)11月、私の部屋へ父上の家臣の葉山右京進真時と岡崎奉行の江戸直定殿が入って来て私に驚くべきことを告げました。それは「このたび石川数正殿と御館様(小笠原貞慶)が、秘かに徳川家康公の下を離れて関白羽柴秀吉様の臣下となることが決まった」とのことでした。ついては「岡崎を夜中密かに脱出し、都へ御同道願いたい」と、私に言いました。突然の事で「江戸右衛門七殿の落ち度にもなり迷惑がかかるので、納得がいかない」と返答しましたが、家臣の皆が脱出を勧め、江戸殿も「後のことは気遣い無用」と申されるので、都へ行くこと決心しました。そして手短な物だけを持ち、夜半に徒歩で屋敷を出ました。その後、既に出立していた石川数正殿とその家族の行列に追い付、石川殿の妻の実家である尾張国 米野(愛知県名古屋市)にある中川に逗留しました。次の日に中川殿が用意してくれた馬100頭に荷などを付け換え、一路都へ向かいました。我々が出奔した後に徳川家康公はすぐさま岡崎城に入って詮議に入り、江戸直定殿は捕縛され、翌年に三河国碧海郡冨永村において磔にされたと家臣から聞かされました。真に申し訳ないことでした。

  およそ3年余ぶりの都、家康公の追っ手もなく、私達は都で落成したばかりの聚楽第に無事到着しました。そして先に来ていた父上と共に関白秀吉様に謁見することができました。秀吉様は数ヶ月前の閏8月に、小県郡上田城の真田昌幸殿が徳川家康公に大勝し(上田合戦)、さらに父上が臣従の証として家康公支配下の高遠城主(伊那市)保科正光を攻めたことで大層満足していました。そしてお誉めの言葉を頂戴し、私に小笠原信濃守貞政と名付け、秀吉様の近習としてくれました。それから暫くして真田昌幸殿も関白秀吉様の配下となることが決まり、御子息で私とほぼ同年の真田左衛門佐信繁殿(真田幸村)が人質として聚楽第へやって来ました。私は真田信繁殿らと関白様の傍で日々努めていましたが、ある日秀吉様に声を掛けられました。「徳川家康が、背いたそなたの父を攻めるために井伊兵部少輔直政を大将にして甲斐国、諏訪郡、伊那郡の兵を率いて出陣したそうだが、小笠原貞慶は赤木山(松本市寿)という所に陣取って大勝したそうだ」と、嬉しそうに知らせてくれました。そして秀吉様の心は寛大で、今後は人質など必要ないと言われ、翌年の天正14年(1586)6月に信濃へ帰るようにと御暇をくださいました。こうして私は生まれて初めて信濃国へ行けることになりました。

 家康公の支配下である伊那谷を通ることを避け、美濃国から木曽谷を通って領内へ入りました。筑摩郡と安曇郡の中心地は薄川と女鳥羽川が合流する『深志(ふかし)』という地でした。父上は先年これを『松本(まつもと)』と改名し、職人や商人など多くの者達城下に集めていました。まだ昨年から本格的な城下割がされたばかりなので、建築中の商家や寺が多く、通りには木の香りが濃く漂っていました。新しく城南に設けられた上町、中町の通りには未だ人家が埋まらない所も多く、城はその通りの北にあり、本丸と二ノ丸から成る小さな構えでした。松本に到着した私はその二ノ丸の館に入りました。そこから見える山岳の夏景色は素晴らしく、天にも届きそうな壁のようでした。そして落ち着いたところで領内の巡察を行い、さらに帰国を感謝して各地の寺社を参詣しました。ある日、田川の脇を通ったところ、家臣から「この辺りが、南北朝の時代に小笠原貞宗公が功績により足利尊氏公から信濃守護を授かり、代々館を構えた井川(松本市)になります」と言われ、祖先の御導きに感謝しました。松本に着いて数日が経ったある日、父上は私にこれまで戦ばかりで教育をしてやれなかったことを詫び、小笠原家に代々伝わる糾方的伝(きゅうほうてきでん、弓馬礼法)をこの機会に授けたいと言いました。師匠は父上と、大叔父で刈谷原(松本市)城主の小笠原出雲守頼貞殿でした。小笠原頼貞殿は祖父の長時にも糾方的伝を授けたほどの人物で、老齢でしたが馬術の技は当代一流でした。父上からは家督を譲る日も近いかもしれないと言われ、日々研鑽しました。

 しかし、歯車が噛み合わないとはこの事のように、我が小笠原家の命運が傾き始めました。それは、私が松本に着いてから4ヶ月後の天正14年10月、豊臣秀吉様と徳川家康公の和睦が成り、大坂城で対面が行われて服属したことから始まりました。一方で隣国の大敵が無くなったので、これは喜ばしいことでしたが、やがて我等に暗雲をもたらす結果となるのでした。翌月になると、早速秀吉様と家康公の和睦の証として事が起こされました。それは、秀吉様の命により、私の宿敵である上杉左近衛少将景勝殿仲立ち、信濃国内で家康公に楯突いていた小笠原、真田、木曽が引き渡されることになりました。徳川家康公は天正13年に真田昌幸殿に上田で大敗し、今年になってから自ら討伐するために軍勢を率いて浜松から駿府城(静岡県)まで出陣していました。秀吉様は真田殿が家康公に易々と討たれるのを快く思っておらず、思案した挙句上杉景勝殿にその調停を命じ、私達3家が家康公の臣下なることで避けようとしたのでした。天正15年(1587)2月、一度は裏切った家康公の臣下に戻ることを恐れた父上と、不服な真田昌幸殿は、豊臣秀吉様に大坂へ来るように呼び出されました。仕方なく真田殿と松本で合流し私も一緒に大坂城へ行きました。その時に私は帰国させてもらったお礼として秀吉様に太刀と馬を献上して御挨拶をし、その返礼として過分な歓待を受けました。そして私は再び秀吉様の近習として大坂城に留まることになりましたが、父上と真田昌幸殿は秀吉様の命で、徳川家康様の駿府城かうことになりました父上は死も覚悟したそうですが、家康様は秀吉様の命なので慈悲の心で父を受け入れてくれたとのことでした。しかし心底裏切った父上を憎んでいるようで、父上は気が抜けないと常々私に申していました。

 それから暫らく経、秀吉様は小笠原家と徳川家康公の不仲を聞き、「家康と貞慶が不仲なのは存じているので、貞慶は隠居して貞政が家督を継ぐように」と、父上に命令しました。こうして私は慌しく12月に家督を譲られ、筑摩郡と安曇郡8万石を治めることになりました。しかし家康様小笠原家に対する怒りは消えず、秀吉様もその事を大変心配され、考えた挙げ句に家康公の息子である岡崎信康殿(織田信長の命により切腹して死亡)の娘を私に娶わせることにしました。そして更に小笠原を疎略に扱わないという誓紙まで家康様に書かせて私に寄こしました。天正17年(1589)1月、こうして私は安心して聚楽第を経って駿府城に赴き、家康様にこれまでの不義非礼を詫び、誠心誠意臣下の礼を尽くすことを誓いました。そして家康公は正式に小笠原家を許し、領地安堵状を下さいました。

 

ついては今度、その方の家督相続の儀、関白殿の御意であり、両郡の事は先規のとおり相違ない。よってこれからは軍役等を堅く申し付ける。そして忠をひき出し、信義を尽くすことが肝要である。謹言

  正月七日             家康

    小笠原信濃守殿

 

そして半年程が経って私の婚礼が正式に行われることになり、福姫は父の信康殿を亡くしていたので、いったん家康様の養女となり、その後伊那谷を通って松本城の館へ輿入れしました。

 

 天正18年(1590)、豊臣秀吉様は相模国小田原(神奈川県)の北条相模守氏政、左京大夫氏直親子を討伐することにしました。この時家康様も秀吉様の命により自領の三河、遠江、駿河、甲斐、信濃5カ国の兵を率いて出陣することになり、2月7日駿府城を出陣しました。私も1万5千石の軍役を命じられて松本から兵を率いて駿府城に到着し、榊原式部大輔康政殿と隊を組むことになりました。家康様は軍を3方から進める軍略を示され、我々は最も南ルートとなる三島(静岡県)まわりを命じられ、宮城野から明神岳の南を越えて相模国に入り、久野の諏訪原へと進軍しました。4月6日から小田原城の包囲を開始し、徳川家康公は酒匂川が相模湾に注ぐ河口に近い今井(小田原市寿町)という地に本陣を置きました。我々の隊は家康公本陣の背後の守りを命じられ、相模国大磯(神奈川県)の浜に陣を敷きました。武蔵野から小田原城に入ろうとする北条の兵が多数おり、浜辺などの間道で敵兵を待ち伏せしました。数ヶ月経った夏に、私は秀吉様の本陣である石垣山に呼ばれ、徳川諸将と共にねぎらいの言葉を頂戴しました。そして秀吉様はその場で私に褒美として自身の「秀」の字をくださり、この日から小笠原信濃守秀政 (おがさわら しなののかみ ひでまさ)と名乗ることになりました。

 私は福姫を娶り、義父となった家康様に心から仕えていましたが、この小田原の合戦で、未だに小笠原を嫌っていることを感じました。それは隠居している父上に対し、家康様から直に出陣の命が下ったのでした。こうして我が家は2軍を負担することになり、父上は私とは別行動で北国勢の総大将である前田筑前守利家様の軍に加わるように命じられました。父上は上野国松枝城、武蔵国松山城、八王子城などを攻め落としたと聞きました。小田原城が包囲されて7月、ついに北条は秀吉様に降伏しました。これにより私は家康様へ挨拶をし、松本城へ引き揚げました。

 この戦によって北条の領地は全て没収となり、翌8月に北条の没収領を含む関東8州が主君の家康様に授けられることになりました。そして、これに代わってこれまで家康様が所有していた領地没収となそこに含まれる私の領地も消えるこなりました。それを聞いた父上は酷く落胆し、「苦労の末に取り返した松本を再び奪われるとは」と嘆いていました。そして私は9月10日に修築中の江戸城へ呼び出され、その仮殿で下総国葛飾郡栗橋城 (茨城県五霞町、埼玉県栗橋町)3万石への移封を命じられました。私の力ではどうしようもなく、ただ命じるままに松本を去るしかありませんでした。秀吉様は我が領地が8万石であることを御存知だったので、家康様へ「小笠原信濃守へは本領分を与えたのであろうな」と聞きました。すると家康公は「この度はこれまでの倍にして3万石を与えました」と答えました。それは小田原の時に私へ命じた軍役1万5千石のことを言っているので、結局5万石も減封されることになりました。大きく領地が減ったので家臣を全て連れていくことができず、浪人となる者、在郷に居して農民となる者、他国に出士する者達がいました。その者達に深く詫び、私は栗橋城へ行きました。

 領地が利根川によって南北に分断されていたので、父上は私とは別に利根川を挟んで北へ1里離れた古河城(茨城県古河市)に入ってもらいました。栗橋城は古河公方、足利成氏及び足利氏満に縁のある古城で、北の利根川と周辺の沼湿地を堀とした小さな平城でした。長く廃城となっていたので荒れ果て、仮屋住まいをしながら修築を行いました。

 一方の古河城は、これまで130年間あまり足利家の居城として使われていましたが、足利義氏公が7年前に亡くなってからは娘の氏姫が城主となっていました。そこで秀吉様は姫へ新しく下野国喜連川(栃木県)に領地を与え、その後に我等が入城しました。古河城は西に渡良瀬川、北と東を渡良瀬川から引いた水堀、南を利根川に囲まれた要塞で、奥州街道と利根川・渡良瀬川が交差する交通の要衝でした。城の東側の水堀沿いには奥州街道が南北に通り、街道に沿って長細い城下町が形成されていました。 私は小笠原家の菩提寺が古河に無かったので、速伝和尚を開山として松本から畳秀山開善寺を古河城下に移しました。このように私は栗橋に居住して初めて理解できましたが、利根川の南北に城を構えることで、一方の城が攻められたら篭城して時間を稼ぎ、もう一方の城に援軍が駐留して容易に敵に対応できることが分かりました。3万石に落ちても、上杉や伊達など東北勢から江戸を守る防御網の重要な箇所を守備する婿将として信頼されていると感じました。

 

 天正20年(1592)1月、秀吉様が朝鮮に出兵するとのことで、徳川家康様は1万5千の軍勢を率いて肥前国名護屋(福岡県)へ行くことになりました。その一軍として私も同行し、兵2700人を率いて4月中旬に名護屋の呼子に陣を敷きました。そして家康様は名護屋城下の屋敷に移られましたが、湾を挟んで対岸の呼子の高台に別陣を置くことにし、私はその呼子の陣屋で過ごしました。今回は長い滞在になると考え、父上に栗橋城へ入ってもらい、古河城には小笠原山城守長継と春日淡路守道次に留守を預けました。留守中、父上は箱根山の早雲寺で修行した準叟和尚を招いて古河城下に竜興山大隆寺を建立しました。名護屋の陣では、多古(千葉県)の保科正光殿とお会いすることもありました。私達には遡ること10年前の天正10年、父貞慶の松本奪還に尽力してくれた藤沢頼親殿が保科殿の父である正直殿に討たれ、その弔い合戦として上伊那に火を放ち、高遠(伊那市)に攻め込んだ遺恨がありました。その後も徳川様を巻き込んで何度かいざこざを起こしましたが、今は同じ徳川旗下の大名として昵懇にさせてもらいました。

 翌年の文禄2年(1593)4月になると吉報が舞い込んできました。ようやく朝鮮国で仮講和が成ったとのことで、5月には朝鮮から続々と兵が引き上げてきました。こうして1年以上にわたる異国との戦が終わり、妻と共に栗橋へ帰ることができました。目出度いことは続くもので、6月には妻が万姫を出産し、翌年には長男の幸松丸が誕生しました。さらに文禄4年(1596)には春松丸が誕生し、私は家康様からも祝儀を頂き、従5位下上野介を授かりました。しかし5月10日、父の貞慶が古河城で亡くなり、城下の大隆寺に埋葬しました。享年50歳。これにより私は古河城へ移り、栗橋城は犬甘半左衛門久知を城代にしました。

 この頃から世の中は大きく動き始め、豊臣家における家康様の立場がしだいに大きくなるのを感じました。慶長2年(1597)には、太閤秀吉様が再び朝鮮国を攻めることを諸大名へ命じましたが、徳川家への出陣の命はなく、伏見城や大坂城に詰めて秀吉様の側で補佐していました。私は徳川様の命により、国元で城下の整備や城の改修などに従事していました。朝鮮での戦果は芳しくないようで、慶長3年(1598)3月頃から順次撤兵が行われました。巷の噂では太閤様の容態が悪いようで、8月18日遂に大坂城で亡くなりました。

 徳川内大臣家康様は、豊臣家における自己の立場を強めるために、諸大名との姻戚を進めました。慶長5年(1600)1月、その1つに私の娘である於万が選ばれました。まだ8歳でしたが、阿波国(徳島県)17万5700石の蜂須賀阿波守至鎮(はちすか あわのかみ よししげ)殿15歳に嫁ぐことになりました。小笠原家の祖にあたる長清公は、承久の乱の功績によって鎌倉幕府から阿波国守護職に任ぜられました。その後、室町時代にかけて代々阿波国を統治してきた家柄だったので、新参の蜂須賀家が阿波国を統治するのに格好の縁組だったのです。家康様は井伊直政殿に輿入れの責任を命じられ、まずは家康公の養女として万姫は伏見城に入り、その後に蜂須賀の家老稲田修理が迎えに参って大坂城の玉造口にあった蜂須賀家の屋敷に輿入れしました。家康様はひ孫にもあたる万姫に祝儀として阿波国内に化粧料3千石を与えてくれました。

 6月、会津国(福島県)の上杉権中納言景勝が豊臣秀頼様の上洛命令に対して従わず、それが謀反の扱いとなり、秀頼様の命によって徳川家康様が総大将として討伐することになりました。家康様は6月16日に大坂を出陣し、私も古河から7千の兵を率いて参陣することになりました。ここで私の信頼 してきた家臣(士大将級)を述べると次の者達になります。

犬甘半左衛門久知、小笠原山城守長継、小笠原源太左衛門重貞、二木勘右衛門政成、岩波平左衛門重直、古幡伊賀守、宮本又兵衛、二木九左衛門政之、征矢野甚左衛門宗常

 家康様は奥州街道を北上し、7月23日の昼前に私の古河城に入りました。諸軍勢は城中や郭外に充満し、私は城内の食糧を惜しみなく兵糧として差し出しました。昼の御膳では私が直に家康様へお出しし、その日は古河城内へ逗留しました。翌7月24日、家康様をはじめ全軍は下野国小山(栃木県小山市)に着陣し、武蔵守秀忠様はさらに進んで北の宇都宮城 (栃木県宇都宮市)に入りました。そして小山に伏見城から早飛脚が到着し、石田治部少輔三成、小西摂津守行長、安国寺などが大坂において謀叛を起こし、西国の大半がそれに加わったと伝えました。家康、秀忠様で評議の結果、西国に向かって出陣することになり、上杉景勝への備えとして、家康様の息子である結城少将秀康様に宇都宮城の守備を命じて本丸に入れ、私が二ノ丸、里見安房守義康殿が三ノ丸に入りました。西上した家康様は9月15日に関ヶ原で大合戦をし、大勝しました。私は暫く上杉勢の動きに変化が見られないことを確認し、結城秀康様の命によってその日の内に古河に帰城しました。

 今度の戦では合戦らしい合戦もせず、恩賞についてはそれ程期待していませんでしたが、慶長6年(1601)1月に江戸城に呼び出され、家康様より信濃国伊那郡飯田城5万石を与えられました。それまで松本を石川玄蕃守康長殿、飯田を京極修理大夫高知殿が治め、共に徳川家康様に従っていたので、まさか飯田を頂戴するとは思ってもいませんでした。今回は石川殿の移封はありませんでしたが、京極殿は丹波国宮津(京都府)に移封となり、一族代々の領地である伊那郡飯田という栄誉を受けることになりました。暫くして城受け取りの家臣を派遣し、私は3月に飯田城に入り、信濃国復帰を祝って再び信濃守を名乗ることにしました。この度は領地が増えて本国に帰還できたので、家臣共々非常に満足し、信濃国中の神社へ御礼に参り、遠方には代参を遣わして感謝の意を述べました。そして家臣の知行割りを行い、古河へ移る際に当家を去って苦労していた者達を探し出し、新たに領地を与えて再び家臣としました。それまで小笠原家の居城となっていた松尾城と鈴岡城は長い年月廃墟となり、鬱蒼とした森と化していました。領内には飯田城の他に、北に伊那郡箕輪の田中城(箕輪町)がありました。田中城は天竜川の河原にある方形土塁に囲まれた小さな平城で、藤沢頼親殿が討ち死にした福与城の眼下にありました。私の領地は南北に長いので、北の拠点として田中城にも家臣を多く置きました。また飯田城の北側に流れる谷川を深く掘り込んで城を堅固にし、近郷の松尾村から民を強制的に移住させて城下に松尾町を広げました。古河からは開善寺を飯田の上川路村へ移して蛮宿和尚を住職とし、『大隆寺も飯田へ移し、準叟和尚の弟子である要叔和尚を住職としました。また京極殿が行っていた領内を南北に縦断させる街道整備を引き継ぐことにし、家臣の春日淡路守信伴を作事奉行に命じました。春日は工事の手腕を発揮して速やかに完成させたので、領民は彼の功績を称えて春日街道と呼びました。旧領の栗橋と古河は、暫くの間幕府直轄領として私が預かっていましたが、慶長7年(1602)に上野国群馬郡臼井(群馬県)から松平丹波康長殿が2万石で移封となり、引き渡しました。この松平殿(本姓は戸田)は、後に松本藩主となり幕末まで治めることになります。

 

 父上も想像していなかった念願の信濃帰還を果たしてから10年間は、誠に平和で穏やかに生きることができました。

 これまで古河から江戸へは1日足らずで到着することができたのですが、飯田からは早くても4日は要するので、予てから江戸に屋敷を普請しようと考えていました。するとこの度、徳川秀忠様から和田倉御門の内(皇居外苑)に上屋敷を与えられることになり、屋敷を建造していきました。この頃になると、小笠原家は秀忠様から親藩並みの扱いを受けるようになり何かと厚遇を受けるようになりました。一方で時折、飯田の領内整備を行うために帰国しました。天気良い日には鷹狩りをしたりして過ごし、羽広山観音堂(伊那市)を建立するなどしました。翌慶長8年(1603)には、上屋敷が手狭なので家臣達を詰めさせるのに難儀し、下屋敷として本郷追分(東京都祢津神社の北隣)に土地を手に入れて屋敷を造りました。この時、秀忠様に呼び出されて「あそこは原野のような所で、上屋敷より遠くて不便だろう。代わりに近くに土地を与えるからそこに屋敷を普請するよう」と申してくれました。しかし私が「この辺りもしだいに繁昌して家が軒を連ねてきたので、いずれは町の中核となるでしょう」と答えると、秀忠様は御満悦の様子でした。またこの年、飯田城下に松寿山光久寺を建立し、阿闍梨良運を住職としました。この寺はこれまで松本にあって小笠原家累代の祈願所でした。しかし祖父が信濃国を去ってから衰退して荒れ果てていましたが、その後に父が松本に復帰したので修造して小笠原家の昌隆を祈らせていました。古河に移ってからも何度か呼び寄せて祈祷をさせましたが、この度は飯田へ移封となったので、松本から飯田へ移築させました。

 慶長10年(1605)2月、徳川秀忠様が将軍宣下のために上洛することになりました。私も上洛を命じられ、隊列の4番組となり、保科正光殿、諏訪頼忠殿と一緒に兵を進めました。秀忠様は一先ず二条城に入り、4月26日に御所へ入ることになりました。当日、私は束帯を着用して、7番騎馬諸大夫の後方に松平安房守信吉殿と並んで参内しました。この頃になると秀忠様直属の配下として常に呼ばれるようになり、私を信頼してくれてのことで誠に名誉でした。

 慶長11年(1606)正月、私は年賀の挨拶に伺う際に、将軍秀忠様から息子2人を連れて登城するように命じられ、幸松丸と春松丸を伴いました。そして幸松丸は叔父である秀忠様の1字を頂戴して忠脩(ただなり)」と名付けられて従5位下信濃守を賜り、春松丸は忠政(ただまさ)」と名付けられて大学頭を賜りました。これにより私は息子が信濃守を名乗ることになったので、さっそく小笠原兵部太輔秀政と名乗ることにしました。

 慶長12年(1607)、大御所家康様の孫にもなり、私にとってもかけがえのない妻が、看病の甲斐なく疱瘡で死亡しました。享年31歳。葬送の時に寂誉上人呑宿和尚を導師とし、飯田城下にあった慶林寺を修繕して峯高寺と改名して手厚く弔いました。私は落胆のあまり剃髪し、息子の忠脩に家督を譲りました。領地の2万石を自分のものとし、残りを忠脩に与えて家老の犬甘久知と小笠原政直を始めとした諸家臣を忠脩の附属としました。私の家老は二木政成、春日道次、小笠原政信としました。家督相続の件は幕府へ正式に届け出ていないので、他所の者は知らぬことでした。その後、9歳になった3男の虎松丸が将軍秀忠様に呼ばれ、真に名誉ながら幼年の家光様に付けられることになりました。この年、妻の叔父として関ヶ原以親しい間柄越前藩主(福井県)の結城中納言秀康様から秘蔵の太刀(伝 長谷部国重作)を頂戴しました。結城秀康様は北ノ庄を福井と改名されたので、私もこれに倣って秘蔵の太刀を『福井江』と名付けて、以後我が家の家宝としました。

 慶長14年(1609)2月、将軍秀忠様の命により、私の娘である千代が養女とされ、豊前国の細川内記忠利殿に輿入れすることなりました。細川忠利殿は細川忠興殿の嫡男で豊前国中津城を居城としていました。土井大炊頭利勝殿が総取締りとなり、3月中旬に千代姫は江戸を発って駿府城に入りました。そこで大御所家康様から「そなたの母が存命であれば、どれほど喜んだことであろうな」と話されたと後で聞きました。その後、駿府で5日間逗留してから、東海道を西へ進みました。行列は華美を極め、道中の領主は裃を着用して御迎えし、輿の先に立って領内を通過するまで案内をしました。伏見では松平三河守忠直様の御宅へ逗留し、そこへ豊前国から家老の長岡佐渡守が迎えに来ました。淀川の川舟は豊臣秀頼様から故太閤様の鳳凰丸をお貸しいただき、河口では様々な饗応を頂戴しました。そこから豊前国の迎え舟に乗って4月22日に竹田津に到着しました。ここで細川忠利殿が御迎えに上がり、24日中津城において婚礼が行われました。千代姫には豊後国日田郡に3千石の化粧料を与えられ、誠にありがたいことでした。

 その後は飯田と江戸を往来して平穏な生活を過ごし、慶長15年(1610)には将軍の御前で行われた謡始に出席し、松平信吉殿と対座して歌を詠みました。慶長16年(1611)には忠脩に続いて忠政までもが従5位下を賜りました。慶長17年(1612)になると忠脩も17歳となり、そろそろ私と同じように糾方的伝を教えることにしました。糾方的伝は、世々嫡子1人に限るものでしたが、忠脩が「10世以前の小笠原長基公の時に、嫡男長秀公と次男政康公に糾方的伝をした前例がある」と、忠政にも教えるように訴えました。これにより2人に糾方的伝を授けることにしました。政治面では田中城を廃して、そして伊那街道沿いの木下村に陣屋を建て、田中城に詰めていた者達の屋敷割りも新たにして、北地域における政治の中核としました。慶長18年(1613)4月には、島田村(飯田市松尾)の八幡宮(昭和24年に鳩ケ嶺八幡宮と改称)の宝殿を修繕しました。15代以前の小笠原長政公が正嘉元年(1257)に山城国男山八幡宮を勧進して建立し、松田左近大夫清祇を神職にしました。それから源氏である小笠原家は代々この八幡宮を崇敬してきました。

 宝殿の修繕が成った数ヶ月後の10月19日、松本城主の石川康長殿が、大久保長安の事件に加担していたとして改易になりました。身柄は豊後国佐伯藩(大分県)の毛利伊勢守高政殿に預けられました。私は松本の様子を良く知っているので、幕府から松本城の受け取りを命じられました。松本城は私が在城していた頃とは全く様相を呈して変わり、見事な黒光りの天守が聳えた巨大な城となっていました。さっそく兵を率いて松本城に入り、見事な本丸と二ノ丸御殿などに眼を見張りましたが、城を無事に引き取りました。そして幕府は飯田の領地を天領として私に預けたままとし、加増して8万石となって松本を与えてくれました。飯田城には光三郎福清を置き、番人、役人定めて光を補佐させました。松本城の本丸には忠脩を入れ、私は隠居しているので二ノ丸の館に入りました。そして開善寺を再び飯田から松本へ移し、住職は蛮宿和尚の弟子である筠州和尚としました。また峯高寺大隆寺も松本に移しました。さらに郭外の清水には向南山臨済寺を創建しました。

 石川殿の治世により、領内は以前とは大きく変わっていたので、差出検地を行って実際の石高を把握し、北国脇街道の整備や宿駅・伝馬制の設置を行いました。そしてこの年、石川康長殿の岳父で下野国佐野(栃木県)の佐野修理大夫信吉殿が大坂に内通していたとの罪で、私に預けられることになりました。既に亡くなっている佐野殿の父上である富田平右衛門知信殿は、豊臣秀吉公の直臣として石川数正殿を豊臣方へ寝返えらせた張本人になります。佐野殿の兄上である宇和島藩主富田信濃守知高殿が前年に改易されたので、佐野殿もいずれは改易になるのではと噂がありました。こうして幕府は、大御所家康様を裏切った過去を持つ石川、富田の血筋を消し去ることに成功しました。私も父上の命とは言え一度は出奔しているので、その一味とされないように注意すべきだとあらためて思いました。佐野殿は3名の家臣を伴って江戸から松本に移り、空いていた本町東にあった石川康長殿の家老であった渡辺金内長次の下屋敷に監禁しました。

 慶長19年(1614)2月、松本復帰の祝いとして安原山安楽寺、光久寺に寄進して本堂を修復し、忠脩は浅間郷(松本市浅間温泉)に大雄山法性寺を建立し、私の母の延寿院殿は成道山本立寺を建立しました。そして今度の松本復帰に配慮していただいた大御所様へ御礼するため、8月に忠脩を伴って駿府城の大御所様に拝謁しました。それから松本に帰城すると、ある母子が私に面会を求めてきました。母が言うには「岡崎の江戸右衛門七の妻です。小笠原様が出奔してから夫が処刑され、あれから食うにも困り生きてきました。その恩をお忘れでなければ息子を御願いします」と言いました。私はもちろん恩を忘れていなかたので、息子を江戸加兵衛と名乗らせて70俵を与えて家臣としました(その後、江戸加兵衛は100石に加増されて富永と改姓します)。

 このように関ヶ原以降の14年間、順風穏やかに暮らしてきた私でしたが、この年の冬が迫ろうとした10月から大きく揺さぶられようとしていました。大御所様と豊臣秀頼様が遂に戦を行うことになり、大坂城を攻めることになったのです。大御所様と秀忠様は大坂へ向けて出陣するととになり、私は松本城と中山道の守備を命じられ、忠脩は大坂への出陣を命じられました。忠脩にとっては初陣になります。初陣と雖も歴戦の犬甘久知、小笠原政直などが付いていたので安心していました。そして兵3300を率いて松本を出陣して行きました。忠脩はまず駿府城に入り、その後大坂へ向かい、河内国讃良須奈村(四条畷市)に陣を置きました。秀忠様の直属軍に編成され、大坂城を包囲していましたが、一度も実戦せずに10月19日和睦となりました。そのまま忠脩は大坂城の堀が完了するまで在陣を続けました。今回の戦の褒美として5男の虎松丸が従5位下壱岐守に任じられ、高井郡井上村(須坂市)5千石を賜りました。

 

 元和元年(1615)1月、忠脩はようやく松本へ帰国しました。しかし間もなくの2月25日、秀頼様が約定を破り、再陰謀があるとして再び攻めることになり、慌しく私に出陣命令が下りました。忠脩と忠政には松本城の守備が命じられたので、2人とも悔しがっていました。忠脩は飛脚をもって大坂表への出陣願いを出しましたが、江戸の秀忠公からのお許しはありませんでした。しかし、それでも忠脩は松本に残ることを残念に思い、将軍家の尊慮にも叶わないと思って独断で出陣することにしました。忠脩は犬甘久知、二木重次に留守を任せ、小笠原政直、島立員正を供に命じて出陣の用意をしました。忠政も負けじと同じく出陣する覚悟を決め、老臣の赤坂盛昌をはじめ渋田見盛直などを供に定めました。

 4月4日大御所様が駿府城を出陣して摂津国へ向かいました。4月10日には将軍秀忠様が江戸城を出陣しました。4月11日私も兵3,300人を率いて松本を出馬して大坂へ向かいました。私は3月に大御所様に謁見した時、密かに「摂津国の一戦に勝利した後、秀政に大坂城20万石を与える」と約諾を受けていたので、命を賭して戦う腹積もりでした。4月16日忠脩と忠政が密かに松本を出馬しました。私の軍は近江国を経て京都へ入り、20日伏見城に着陣しました。そこの陣所に忠脩と忠政も到着して潜んでいました。途中の宇治田原を通った際、流浪の父と母が逗留して私を産んだ宿屋の前を通り、今はこのような軍勢を率いるまでになったことを涙ぐんで感謝しました。

 翌日になって、将軍秀忠様も伏見城へ到着したので2人の出陣を再度願い出ましたが許されませんでした。そこで忠脩は決意し、秀忠様には内密に二条城の大御所様を訪ねることにしました。大御所様は4月下旬とは思えない寒気の日だったので火燵に当たりながら「信濃守ここへ参れ」と忠脩火燵に呼び寄せました。そして「そなたは何故軍法を犯して出陣したのだ」と忠脩に問いました。忠脩は「若気の故に松本に居るのは我慢できず、忠勇を尽くしたいあまりに参りました」と答えました。すると家康様は忠政も呼び寄せ「よく来たな、いつのまに大男になり」と喜悦の様子で言いました。その後、兄弟は大御所様に出陣を許されて御礼を申して退出しました。そして本多佐渡守正信殿通じて将軍秀忠様へ忠脩忠政推参のことを報告させてもらい、私は直に違法を深々と陳謝しました。

 4月28日、私と忠脩、忠政の3人共に伏見城を出て淀に到り、河内国飯森(大阪府四条畷市)に陣を置きました。大御所様と秀忠様は5月1日に大坂へ御動座する予定でしたが、京都所司代の板倉勝重から急な使者が到着し、大坂城に入っている密偵からの報告により大御所様が都を出たら洛中を焼き払う企てがあるとのことで、動座を延引しました。そして5月4日私は飯森から清滝峠(大和街道)越えて讃良郡須奈村(大阪府四条畷市)に陣を移し定めました。そこで榊原遠江守康勝、保科肥後守正光、諏訪因幡守忠恒、仙石兵部大輔忠政と備えを並べ、大和川を前にして陣を張りました。榊原殿とは小田原の時以来の御付き合いで、今回は御子息が出陣していました。そして我等5備には、将軍の命で藤田能登守信吉殿が軍奉行として配属されることになりました。藤田信吉殿とは初めてお会いしましたが、軍奉行となったからには、藤田殿の指図で動き、勝手に働くことを禁じられました。藤田殿は上杉景勝殿に仕えて武功を積み、近年になって家康様に召し出されて木曽郡に1万石を与えられていました。

 この日の内に、将軍秀忠様より阿辺野の敵に向かって合戦するようにとの命令が下りました。4月5日雨の中、秀忠様が伏見から須奈村に着き、家康様は二条城から河内国星田に陣を張りました。私はこの付近の地理が全く判らなかったので、東成郡阿辺野(大阪府大阪市)の地理を探索するために斥候を5騎出して念入りに調べました。そして夜半に前進して若江郡岩田村(東大阪市)に到りました。ここに私の陣の前に3町余の沼があり、春日などに命じて深浅を調べさせ、人馬の移動が自由なのを確認しました。4月6日晴、秀忠様から敵が出てきた場合は速やかに合戦してもよいが、城には無暗に近付かないようにとの命がありました。この日、木村長門守重成が城から出陣して若江郡若江村に出て、重成の弟である木村主計頭宗重が300騎余を率いて若江村の北である岩田村に現れました。私はこれを見て討ち掛かろうとしましたが、藤田信吉殿がこれを制し、「この敵は我等の敵にあらず。殊に備えの前に沼があり兵を進め難いので動いてはならない」と言いました。私は「近くに敵を伺って逃す法があろうか」と言い返しました。すると藤田が「この敵は是非に討つ敵ではない。ただその地形が不利なだけで、それを見定めてから攻めるものである」と言いました。このように言い争っているに敵が去ろうとしていので、榊原康勝殿に小笠原政信を使いに出して「小笠原はこれから敵へ攻め掛かる」と告げさせました。すると榊原殿も「もっとも」と同心し、兵に下知して進みました。しかし藤田が身を挺して押し留め、兎に角している内に木村勢は行ってしまいました。井伊掃部頭直孝と藤堂和泉守高虎は我等の備えより少し隔たった右にありました。この前に木村勢が長くなった隊列で通過したので、井伊と藤堂殿は一文字に討ちかかり、敵兵もこれに挑みましたが、終に討負かして木村重成(23歳)を討ち取りました。その首は井伊家の安藤長三郎が取りました。先ほど我等の前を通過して行った木村勢が井伊と藤堂殿に討たれているのを見て、私は急いで兵を進めました。しかし敵は散々に敗北しており、空しく陣所に帰りました。これはみな藤田の指図が悪かったからで

 即日、秀忠様から軍使の玉虫次郎左衛門が私の所へやって来ました。玉虫は「今日、城兵が小笠原殿の備えの前に近付いた際、何故討たなかったのか?これは必定、小笠原殿の意が城中に有るのではないかとの上意である」と問いました。私は君命を奉っておきながら、尊答する言葉が見つからず、誠に武名を汚してしまいました。意が大坂に有るか否かは明日その証を戦場で表すしかないと思いました。すると藤田が「今日の合戦は小笠原殿の落度ではありません。私は木村勢が小勢なので怪しみ、さらに備えの前に沼があり、その深浅を察している内に他に功を取られてしまったのだ。我の罪である」と答えました。玉虫はこれをことごとく秀忠様に報告しました。翌5月8日早朝、この件を調査するために、上使の日下部五郎八と建部三十郎がやって来て、その地形や荒田の深浅を検分し、私の落度が無いことを秀忠様に報告しました。

 

 渋川郡久宝寺村(きゅうほうじ、大阪府八尾市)は浄土真宗の寺内町として二重環濠に囲まれた要塞でした。奈良を経て大和川を渡河して大坂へ向かう途中にあり、陣所としては格好の場所でした。私は榊原殿などと久宝寺村の屋敷を陣所に定め、食糧や武具などを運び入れ、城攻めの準備を行いました。家康様は千塚 (大坂府八尾市)の陣に居り、秀忠様は道明寺(大坂府藤井寺市)の傍に陣営を置きました。今日、藤田信吉に押し留められ、心ならずも眼前の敵を討ちもらしたことは、真に残念で怒りがおさまりませんでした。その後、本多出雲守忠朝殿(忠妻の兄にあたります)が私の陣屋にやって来ました。忠朝殿は「この度のことは無念である」と、激昂しながら話し、この上は「明日は互いに討死しようではないかと語り合いました。忠朝殿は帰った後に自分の軍使を私の所へ遣わし、明日の戦闘の行動を打ち合わせしました。そして忠朝殿へ返書を送り、松本へも後の事を記した書状を送りました。

 7日早朝から出陣の支度をして将軍からの下知を待っていたところ、軍使の堀和泉守が私の陣に到着し、「将軍旗本の先手として合戦するように」との命令が下りました。そして用意が整ったところで、総人数攻め掛かるべしとの法螺貝が鳴り響き、陣を3段に編成し、久宝寺村の陣所を出ました。私は『荒波』という馬に乗り、桃形錆地に金箔の孔雀風の尾が左右に付いた兜を着けていました。忠脩は『碁盤』という馬に乗り、黒塗りの兜を付け、忠政は『香車』という馬に乗り、同じく黒塗りの兜を被っていました。私は馬上にて戦の最中に兜が脱げぬよう、兜を結んで余った紐を刀で切って落とし、酒を一献飲み干しました。大勢の武者の進む足音が地響きのように私の腹に伝わり、これから起こる出来事に心臓が大きく鳴りました。東成郡阿辺野の街道を進むと私達の前には毛利豊前守勝永、大野修理大夫治長、竹田永翁など大坂の精兵が待ち構えていました。私から見て左手に毛利、右手に大野が備え、その中間に竹田がやや前に出て備えていました。毛利と大野の前には堀溝が築かれ、その前には深田が広がっていました。毛利より更に左手の茶臼山には赤旗がなびき、陣取っていたのは真田左衛門佐信繁殿(真田幸村)でした。下野国小山で別れて以来、15年ぶりの対面でしたが、今は敵と味方。お互いに太閤秀吉様に仕えていた頃を思い出し、こちらへ攻め寄せて来ない事を祈るばかりでした。

 5月7日正午を過ぎた頃、我が軍左手の本多忠朝殿が毛利勝永と銃撃戦を始め、しだいに激しくなり、痺れを切らした本多忠朝殿が突撃していきました。すると、真田幸村殿が僅かな足軽を繰り出し、私の先陣左翼に襲い掛かってきました。そこで私は下知してこれを撃退して追撃させたところ、竹田永翁が待っていたとばかりに弓鉄砲を雨のように浴びせてきたので、白岩や森下などが討死しました。私は先陣がやや乱れたので、そのまま総軍を竹田永翁に向けて突撃させました。これによって竹田の陣形は崩れ、まもなく敗走しました。そして我が軍は勢いに乗って、備えを乱したまま堀溝を越え、毛利の背後に出ました。続いて2陣が堀溝を越えたところ、大野の手勢が2陣右翼へ討ちかかってきました。私はこれを見て、旗を手に取って声を挙げ、透間なく槍を並べて待ち構え、更に大野の後ろに陣していた敵の結城権之助と橋本十兵衛の兵が大野に加勢して来たので、敵味方入り乱れての戦いとなりました。暫く雌雄が決せずにいたところ、ここに毛利が私の左翼に討ちかかってきました。左右挟み撃ちとなり、私は槍でその敵を無数に突き伏せていましたが、本多忠朝隊が壊滅して、後ろからも毛利が討ちかかって来ました。そして終には槍が折れたので、馬上から飛び降り、従者の槍を取って敵を突き立てましたが、6箇所ほど敵の槍に突かれ、黒塗りの甲冑は真っ赤になっていました。しだいに呼吸が乱れ、膝をついて意識をほとんど失っていたところ、これを見て岩付治左衛門安勝と千野儀大夫正種が私の傍に来ました。そして次々と向かって来る敵を斬り、岩付は傷付いた私を肩に担ぎ、久宝寺村まで退くことにしました。途中、小笠原主水政信が9人程の槍に串刺しにされて宙に浮いているのが見えました。相撲好きで力自慢の政信までもがやられ、涙が止まりませんでした。千野はなおも来る敵を斬り伏せ、2町ばかり退いた所で今度は千野が私を肩に担ぎ、岩付は近付いて来る敵を斬り伏せました。どこを見ても周りは敵だらけで、何時しか大勢の敵兵に囲まれて退くことができなくなりました。しかし従者を多数連れた騎馬武者が私達の横を通り、それを敵が私達の味方だと思って退散していきました。再び敵中を3人で退いていたところ、伊藤、川手、岡村、渡辺などが私を追って辿り着き、周りを固めました。川手才兵衛近友は近くから板戸を1枚持ってきて、私をそこに乗せ、4人でそれを持ち上げてようやく久宝寺村の陣屋に辿り着きました。

 忠脩は毛利勝永の先手に槍を持って討ちかかっていたところ、毛利の旗本が忠脩の後ろを遮り、襲い掛かってきました。忠脩は必死に勇戦して敵兵を多く突き伏せましたが、なおも敵兵が左右から来て槍で忠脩を突きました。敵の勢いに押されて忠脩の周りには味方が誰もいなかったので、助ける者もいませんでした。忠脩は馬から落ちたまま動きませんでした。享年22歳。敵兵は忠脩の鼻を削ぎ取ると、それだけを奪って去っていきました。やっとのことで原四郎兵衛雅綱、志津野金兵衛宗知などが敵を斬り抜いて忠脩の所に辿り着き、志津野が遺骸を肩に担いで久宝寺村の陣屋へ退きました。

 忠政は馬に鞭打って戦場を駆けていました。僅かに渋田見縫殿助盛直、横川佐野右衛門正吉が従い、浅香覚兵衛正信、牧野弥次左衛門重信、原治兵衛吉久後を追っていました。忠政は槍を持って頻りに働き、縦横に敵を追い立て、馬煙を立てて後方の従者を見返すと、深入りしすぎて背後は敵だけでした。忠政は「何を!」と言って、何処までも討って通り、直に城に乗り入ろうと馬を蹴り立てて進むところに、城兵が群がって突き掛かって来ました。忠政はその中に突撃して行き、敵兵を大勢突き伏せました。その間に敵が横から急に来て、忠政を槍で突いたので落馬しました。槍が折れたので、馬手指を敵に投げ付け、刀を抜いて斬りました。そこに高い所から敵が槍を持って飛び掛り、忠政を強く突きました。そして小堀に落とされて危ういところに、横川が忠政の上になって楯となり、渋田見が敵を斬りました。その他の従者もようやくやって来て敵と戦いました。そして忠政を引き立てて退こうとするところに、敵兵がまた大勢来て、渋田見や浅香などが我も劣らんと働き、命限りに斬って勇を振るいました。さしもの大勢も追い立てられて退散し、忠政を肩に掛けて危うい所を退きました。忠政は途中で私と忠脩の事を尋ね、「深手ですが引き退きました」と何れの家臣も答えるので安心して退くことにしました。戦場から少し遠く離れましたが、7箇所に大きな傷を被り、従者も数度の戦いに心底疲れて陣所に引き取り兼ねているところに、浅香が「敵の馬を奪い取って来ます」と言って敵中に走って行きました。その後、原平七宗利が馬に乗ってやって来たので、その馬に忠政を乗せました。すると浅香も奪った馬に乗って飛び来て、前後左右を固めて久宝寺村の陣所に帰りました。横川は数箇所の深手を負っていたので動くことができなくなり、途中で戦場に残りました。忠政は陣所に着くと、さっそく平林加左衛門を呼び、横川を連れ帰るようにと命じました。平林は急いで尋ね行き、横川に逢って、よくよく介抱して陣所に連れ帰りました。

 秀忠様の馬前に参上して、私と忠政の深手を御覧になり、忠脩の戦死を上覧しました。甚だもって御感歎の御気色のようで、さっそく施薬院宗伯を久宝寺村の陣所へ遣わし、「よくよく手傷を治療すべし」と命じられました。別して忠脩の事を御痛み思し召されるとの仰せで、誠に有り難いことと思いました。そして、陣所に戻って暫くして私は息を引き取りました・・・・。南無阿弥陀仏

 

 5月7日、寄せ手が一同に総攻めして大坂城は落城しました。その夜、家康様は茶臼山に陣を移し、秀忠様は岡山に陣を置きました。1人生き残った忠政は、その夜に久宝寺村を出て都へ行き、油小路通一条下る町に到着し、商家を宿にして医師を招いて手傷を治療しました。これは春日道次が1人で取り計らったことです。

 5月8日、家康様は大坂から二条城へ帰陣しました。この日、家臣が相談して私と忠脩の遺骸を京都において火葬することにし、亡骸を輿に乗せて久宝寺村を出ました。京街道を北上して河内国茨田郡牧方まで進んだところで、ここに関所がありました。守備していたのは遠山土佐守景直、知久伊左衛門則直、大島茂兵衛などの兵でした。彼等は信濃国の者達だったので、小笠原の旗印を当然見知っているものと思っていました。しかし関番の奴僕我等に狼藉を仕掛け、大坂の落人が夥しく通るので、番兵が上下ともに騒ぎ立て、あるいは刀を抜き、あるいは槍の鞘を外して、何を言っても聞き入れずに討ちかかって来ました。原四郎兵衛雅綱がこれを糾明しようと番所に行こうとしたところ、番兵が後ろから斬り掛かり、原の家来がその番兵を槍で突きました。番兵が群がって斬り合いになり、家臣の百束と沢井が死に、多くの者が手傷を負いました。兎に角している内に番兵は味方だと見届け、互いに静まり返りました。亡骸の輿は無事に関所を通ることができ、誠に不慮な出来事でした。夜にようやく都に着き、紫野玉室和尚に焼香を頼み、条の焚坊にて両遺骸を火葬にしました。その遺骨を伊藤市兵衛景重が器に納め、家臣等がこれを護って条に赴き、滑谷を経て、その夜は近江国鏡ノ宿に泊まり、信濃へ帰りました。牧方の騒動を聞いた蜂須賀至鎮、関番衆に立腹して家康様と秀忠様へこの事を告げました。これを本多正信殿、板倉勝重殿などが調べて、遠山、知久、大島の家老3人は切腹となりました。

 7月17日、忠政は伏見城にいる秀忠様に呼び出され、私の遺領8万石を相続することになりました。また二条城の家康様からも同様の仰せ付けを受け、熊皮の投鞘の直槍を頂戴しました。幕府から預かっていた飯田は保科正光殿が職務を引き継ぐことになり、その他の預地も美濃国泳ノ城主千村平右衛門良重殿に引き渡しました。8月7日には松本城下の埋橋の原野で葬儀を行い、臨済寺宗玄寺と改めて私を埋葬しました。そして私と共に戦死した小笠原政信、二木政成、本多政次を私の墓の左右に埋葬しました。同じ日に忠脩を法性寺に葬送し、島立貞正を墓の右に埋葬しました。

敬具

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 世間は大きな石高大名だけ知られ、小笠原家のような大名はあまり有名ではありません。NHKのドラマでは小笠原長時がバカ殿のように演じられ、如何にもそれによって滅んだかのように放送されています。それは小笠原長時以後の話題が『余談』のように表に出ず、江戸時代も領地が各地に散在していたからではないでしょうか。たとえ名を知っていたとしても、何処に領地を持っていたのか知らない人が多いと思います。大坂夏の陣の直前、小笠原秀政に徳川家康が耳打ちした「20万石」の件はどうなったのでしょうか?小笠原家は、戦国の世終わろうとする時に、父と嫡男が相次いで討死するという珍しいケースを経た家になります。その為に恩賞親族へ分割されて相続されることになり、夏の陣以後の小笠原家の石高を表すと次のようになります。

忠脩の2である信濃守長次は、播磨国揖西郡竜野城を与えられ、後に豊前国下毛郡中津8万石(上毛郡、宇佐郡。この血統は後に廃絶し、播磨国安志藩(あなしはん、宍栗郡、佐用郡、赤穂郡)1万石として僅かに生き延びます。

○大坂夏の陣で生き残った忠政(後に小笠原侍従忠真と改名は、播磨国明石郡船上城(美嚢郡、加古郡、加東郡)を与えられ、将軍秀忠の命によって明石城(城下町は宮本武蔵が設計)を築城しました。その後、豊前国企救郡小倉15万(京都郡、上毛郡、築上郡、田河郡、仲津郡)

秀政5男の壱岐守忠知が三河吉田4.5万(後に、唐津藩)

秀政6男の松平丹後守重直が豊後国国東郡高田3.7万

 

これにより、小笠原家は秀政死後の数年のうちに、合計31.7万石の大名までに飛躍し、口約束であった20万石は達成されたことになります。30万石の大名と言えば水戸の徳川家や萩の毛利家並みでした

 元和元年に松本で生まれた忠脩の2男長次は、寛永元年に叔父の忠真(忠政から名を改める)に伴われ初めて将軍秀忠に拝謁しました。その時に血筋で言えば長次の系統が嫡流となるので、播磨国揖西郡竜城(兵庫県龍野市)6万石並びに、父と同じ従5位下信濃守を賜りました。更にその後、将軍家光の代には豊前国下毛郡中津城(大分県中津市)8万石を賜りこの時に家光の命により長次が小笠原家の正統となりました(小倉藩は分家)中津の8万石という数字は、祖父秀政が8万石であったのに倣ってのことで、将軍家の配慮が如何に深かったかが感じられます

 小笠原家の転封先が何故?播磨国で後に豊前国と推移していったのか疑問が湧きますが、その理由は濃い血縁関係によるものになります。まずは小笠原秀政の妻が岡崎信康の娘だということは先にもお話しましたが、桑名藩主で徳川四天王と称えられた本多忠勝の息子である本多美濃守忠政(大坂夏の陣で討死した本多忠朝は弟)の妻も同じ信康の娘でした。そして、忠脩の妻は本多忠政の娘だったので、両娘が産んだ子供同士が結婚したことになります。彼女は長次を産み、忠脩が大坂で死んだ後は、弟の小笠原忠政の妻ともなりました。本多忠政は播磨国飾東郡姫路城主だったので、そこに隣接する明石と竜野が小笠原家に与えられました。更に九州の豊前国は細川家の領地でした。先にも述べたように、細川忠利の妻は小笠原秀政の娘になります。細川家が肥後国熊本城に転封となると、その後釜に小笠原家が選ばれたという訳です。

 

 このようにして、私の人生は幕を閉じましたが、父上、保科殿、真田殿のような生き方もあることを知りました。人間は大海原に沈んだ針に糸を通す程の稀な確率で産まれてくるだと聞いたことがあります。そして産まれてからも多くの人間に支えられ、様々な道が用意されているのが人生です。その人生はその子供に引き継がれ、脈々と続いていきます。あなたもその途中を歩んでいるのですね。


『其之 78』H20.2.1〜H20.4.1

 

 「左衛門佐(さえもんのすけ)」

 これが誰のことなのか知っている人は余程の戦国好きなのでしょう。わからない人の為に、ここへ真田左衛門佐と付け加え、さらに真田左衛門佐信繁(のぶしげ)、最後に「真田幸村(さなだゆきむら)」とまで言えば、誰の事なのか殆どの人が理解できる筈です。純粋に真田幸村に関する本としては現在50冊以上あり、小説にしても10冊以上の人気ぶりです。さらには徳川家康などの本にも必ず登場するので、知らぬ者はいないほどです。意外に知られていませんが、これら諸書の根本となっているのは『真田家御事績稿』という江戸時代の史料に遡ります。 これは松代藩の8代藩主真田幸貫(ゆきつら)が、始祖以来の事績について雑説が多く、虚誕の少くないのを知り、これらを淘汰して真実を後世に伝えるため、藩老の河原綱徳に命じて編纂させました。河原は編纂に6年、仕上げに3年を要し、ようやく天保14年(1843)12月23日に藩主へ献上しました。現在はその黄表紙本正続73冊が伝わり、真田家の歴史を細かに知ることができます。古い諸書や演劇などは、この黄表紙本やそこに収集されている史料そのものを基にして作られ、更に時代が経った近年は、それまで作成された諸書を参考に、内容が脚色されて小説などになっています。この『真田家御事績稿』の中に「左衛門佐君伝記稿」 という記載があり、真田幸村に関係する諸史料が収集されています。その内容は驚くことに、150年以上前のものにも関わらず、小説家が余計な手を加えなくてもそのまま面白い話題が集められています。

 

 これまで当たり前のように真田左衛門佐の生涯を小説やテレビなどで知っていた人は驚くかもしれませんが、関ヶ原の戦いで破れて九度山(和歌山県九度山町真田庵)へ幽閉される前の様子は実のところ殆ど分かっていません。それは史料が無いからで、大まかな生涯は下記の年表になりますが、生誕年について永禄11年だという説もあります。実兄の真田伊豆守信之が永禄9年生まれなので、それ以前には遡れないという訳です。年表で永禄10年としたのは、「左衛門佐君伝記稿」に書かれていたので採用しました。実はこの「左衛門佐君伝記稿」にも、九度山以前の左衛門佐の事象は殆ど記されていません。

 

永禄10年(1567)、生誕

天正13年(1585)、上杉家の人質、大坂城へ出仕

            (この頃から慶長5年まで大坂周辺に住居)

文禄 3年(1594)、大谷吉継の娘を娶る

慶長 5年(1600)、上田にて徳川秀忠と合戦、九度山へ幽閉

慶長19年(1614)、大坂入城、冬の陣

慶長20年(1615)、大坂夏の陣にて討死

 

今回の余談では九度山以降の話になりますが、「左衛門佐君伝記稿」を誰にでも分かり易いように現代語訳して紹介します。長く古めかしい文体ですが、読むとその内容に惹きこまれます。真田幸村という人物がどのような人であったのか、人の手が殆ど加えられていない古い史料から感じ取ってください。

※訳にあたって、理解できるであろうと思われる古語文体はそのまま使用しています。

 

慶長16年(1611)

〜 九度山幽閉 〜

○北窓鎖談○父の真田安房守昌幸は病気が重くなった日、左衛門佐を呼んで問うた。「この末、天下はどのようになると思う?」。左衛門佐は答えた「今しばらくは静かですが、行く末は必ず東西の戦となりましょう」。安房守は「それがしもそう思う。もし万が一そのようになれば、そなたは東に従うか、西に与するか?」。左衛門佐は答えた「恩顧があるので西に従います」。安房守は「東が勝つか、西が勝つか」と問うた。左衛門佐は答えて「東をもって西に臨むのは、誠に大石をもって鶏卵に落すようである」。安房守は言った「そなたが西に従うのであれば、必ず一方の大将を承るべし。しかし、そなたが言うようであれば、西に従っても何の功もなく、ただ恩義のために身を致すのであれば、自殺して死ぬようなものである。西に与して勝つための計略はあるのか?」。左衛門佐は答えた「それがしもその様に思いますが、計略が浮かびません。願わくば大人数を率いたいものです」。安房守は激怒して言った「そなたの努めであろう、教えるに足らない」。左衛門佐は恐れて退き、敵を防ぐ策を思ったように得ることが出来なかった。

 父の病の間、何度か伺って策を乞うたが教えてもらえず、左衛門佐が日夜思いをこらして考えたが、宇治(京都府)、瀬田(滋賀県)の橋を落として出張る方法しか浮かばず、例え橋を落として出張っても、いたずらに討死して益がないことを知っていた。左衛門佐は「もし大人数の東を防ぐ策があれば、願わくば策を残して、それがしを用いて秀頼公に忠義を尽くすことをしたら如何でしょう」と、再三計略を乞うた。安房守は「そなたに教えても合点がゆくまい。それがしもこの事を多年考えて、ようやく一策を得ることが出来た。宇治、瀬田の橋を落すことは3歳の小児も皆知っている。例えそなたに教えて防いで戦おうと、誠に大石の鶏卵である。ただそれがしの一策というのは、そなたが一軍を率いて青野か原の真ん中に陣を取って敵を待つことである。これより他に東を防ぐことはできない」と言ったので、左衛門佐は「広い野原の真ん中に100倍の大軍を左衛門佐の一軍で防ぎ戦うのは、いかなる陣法なのですか?」と聞いたところ、安房守は怒って「それだからこそ努めて教えるに足らないのだ」と言い、とても不機嫌となったが、左衛門佐は更に合点がいかなかった。父の病中の戯言とも思ったが、他の行いは正しい。それにしても父の計略の深い仔細もあろうと肝膽を砕いて思案したが分からず、再び父の前に跪いて畏まり、その仔細を尋ねた。安房守は笑って、「この策はそれがしも合点もいかない策だから、そなたにも分からぬだろう。源大将家康は智が深い大将なので、戦おうとする時は、必ず先策を定めてから進む者である。争いが起これば西軍が宇治、瀬田の橋を落として出張ることは、兼ねてから予想しているだろう。敵将がかねてから思い設けている図に出れば、東軍は旗を動かしてから日を急ぎ、道を倍にして進み来るのは、大波が湧き返るごとくである。日も経たずに馳せ付けて戦を交える者には、その鉾先に当たってはいけない。故にそれがしの策は、孤策をもって広い野原の真ん中に出迎えることである。家康が如何に明智といえども、真田が青野の原に打ち出ていることを聞けば、思いがけないことなので、いかなる計略であろうか考えるだろう。もしかしたら味方の中に内応の者があるのか、またこの広い野原において戦を交えるのに、何か西軍の利となることがあるのかと不審に思い、疑うだろう。家康が一疑を生じれば、例え江戸を出ても、その事に合点がゆくまでは、みだりに戦はしまい。或いは自ら病気と称して途中に滞在し、道に15日も20日もかかるだろう。そしてその隙に細策を入れて仔細を探ろうとするだろう。その時に天下の人が、東軍の旗が動かないのをみて、どうした事かと思うだろう。そして、病気などと言って進まねば、天下の人も疑うだろう。天下の人が疑えば、古い太閤恩顧の大名が多いので、万一味方に通じる人も出るだろう。その虚に乗じて、いくつも策があるだろう。この策はそれがしも合点がゆかない事なので、家康も合点がゆかないだろう。尋常の事では、家康の心は我より先を読んでいるので、その英気に当り難いことを教える。兵法の彼を計り我を計るの術、この理なきにしもあらず」

 

慶長19年(1614)

〜 九度山脱出 〜

○武林雑話○真田左衛門佐は父の安房守昌幸と同じく高野山九度山へ配流さていた。父昌幸は慶長16年(1611)に九度山において病死し、左衛門佐は独りで九度山に住居していたが、大坂御陣の初めに秀頼公より大野修理亮治長の奉行から御頼みがあり、大坂の城へ籠もることになり支度をした。紀伊国(和歌山県)の主である浅野但馬守長晟(あさのたじまのかみながあきら)より橋本峠の村辺の百姓に下知があり、「もし世上が騒動になれば、真田左衛門佐は大坂へ走り込む事があるので油断しないように」と触れた。高野山門主ならびに衆徒中よりもその旨を九度山の村々へ申し付られけた。真田はこの危機を察し、九度山辺の橋本峠橋谷等の庄屋や年寄をはじめ百姓残らずに、「御馳走を振舞おう」と触れ廻し、残らず九度山の宿所へ呼び寄せた。仮屋を設けて数百人をならび入れ、様々な饗応をし、酒を出して上戸も下戸も論ぜずに酒を与え、みな酔って寝た。百姓は前後も分からないようになり、左衛門佐は時に百姓が乗って来た馬どもにヒシヒシと荷物を付け、妻子を乗り物にのせ、上下100ばかりの人数で弓鉄砲を前後に仕立てて紀ノ川を渡り、橋本峠へ向かった。その道筋の百姓どもは残らず九度山に集まって酔って寝ており、百姓の村々には女童さては小百姓ばかりしかおらず、真田はそこを槍や長刀を抜き身にし、鉄砲に火縄を挟んで通ったので誰も止めようがなく、九度山に寄り合いした百姓どもはこれを知らずに沈酔し、その夜は真田の宿所で寝た。夜明けに醒めてみれば真田の宿所には1人もなく、雑具までも取り払って跡形も無く、さては出し抜かれたと思い、東西に尋ねたが、昨夜通った真田なので追い付きようもなかった。皆々は己の家に帰って尋ね、留守の者どもが言うには、「昨日の8つ時分(午前2時頃)に真田殿と奥方が子息達を連れ、馬どもに荷を付け、弓鉄砲を押し立てて河内国(大阪府)の方へ向かって行った」と聞き、百姓どもは頭を掻いて後悔したがどうしようもない。

 左衛門佐は元々剃髪して伝心月叟(でんしんげっそう)と名乗る山伏の様であった。大坂に至り、大野修理亮の玄関において案内の奏者が出て来て「山伏は何方より来たのか?」と言った。左衛門佐はさっと手を突き「大峰辺り(和歌山県)の山伏になります」と御祈祷の巻数を差し出し、「大野修理殿にお会いしいたい」と言った。奏者番はこれを聞いて「殿は御登城して御留守なり」と答え、「こちらへ罷り通られよ」と番所の脇へ左衛門佐を呼び、大野の帰宅まで待たせた。御目見えするまで待っていると、若侍が10人ばかり寄り合って左衛門佐の刀脇差の目利きをしだした。1人の若者が左衛門佐に向かって「和僧の刀脇差を見せられよ」と言った。左衛門佐はそれを聞いて「山伏の指刀は犬脅しのためなので中々お目に懸かれないのですが、刀の悪しきは元来知れているので、御慰めばかりにて」と差し出した。若者どもはそれをスルリと抜いてみれば、出来格好は申すに及ばず、刃の匂い、鋼の光が兎に角言うに及ばず、「さてさて見事也」と褒めた。他の若者も左衛門佐を見て「山伏が良い刀を指しているな、脇差も見せられよ」と抜いて見るに、これも見事で言い様もなく、さらに中小身の銘を見ると、脇差は貞宗、刀は正宗とあった。中小身の見事さは言うばかりでなく、皆々は怪しんで「そなたは如何様只者ではないな」と言う所へ、大野修理亮が城より退出して帰ってきた。奏者番は「玄関にて御目見えしたまえ」と左衛門佐を引き、具に出るのを見て修理亮は手を打って「これはこれは」とばかりに左衛門佐の前へ来て手を突いて畏れ、「近日お越しと承っていましたが、早速の御出満足です。直ぐに秀頼公の御耳に達しましょう」と、その旨を城へ申し遣わした。すると左衛門佐は書院へ通されて御馳走に限りがなかった。豊臣秀頼公からは「遠方から早速走り参ったことは満足であり、定めて旅宿が不自由であろう」と黄金200枚、銀子30貫を下され、修理への与力を重ねて仰せ付けとなった。これを聞いて先程の大野修理亮の玄関の侍どもは皆興を冷まし、真田は心立て可笑しき者なので、後々まで彼等どもに逢うと「刀の目利きは上達したかな」と言うので、皆々赤面したとのこと。

※左衛門佐に従った者は、青柳千弥、三井豊前、高梨采女(真田大助の家老)

〜大坂入城〜

○仰応貴録○真田篭城の件が聞こえ、早馬によって徳川家康公へ御注進した。家康は上聞に達するや否や、直に御出になって御聞き、「真田篭城と申したが、親か子か?」と御尋ねられた時、戸に手を懸けていたが、戸がガタガタと鳴り、震えている様子であった。「親は病死、子の左衛門佐になります」と申し上げたところ、少し落ち着かれた。これはよくよく真田にお気遣かわれていると見えた。

○幸村君伝記○秀頼公の御前へ新古老若の諸臣が召集され、軍略の事を尋問された。先に大野修理亮が申すには、「去る慶長5年の関ケ原合戦の時、家康の出馬が殊の外遅かったため、諸大将が気を屈した。ここをもって愚意をめぐらせるに、家康は聞くとことによると臆病の大将である。よって上方(京都・大坂)の蜂起が夥しいと聞けば大いに仰天し、たとえ兵を発しても世上の様子を調べ、東西南北の諸大名の心を窺い見るのではないか。我等は臆病神の覚えぬうちに早速茨木城(大阪府)を攻め落として後を心安くし、人数を京都へ差し向けて洛中を焼き払い、板倉伊賀守勝重(京都所司代)を討ち取り、近国の城々を攻め落として猛威を振るおうではないか。自然に諸人は大坂へ随うであろう。」

 古参大身の者がこれに異見を持たないので、左衛門佐は新参老輩の左右を見ながら修理亮へ言った。「大野殿の申されるところに一理あるように聞こえるが、それは麁簡荒増の思慮と思う。それを言うには、前将軍家康は臆病の大将殿で、関ケ原へ進発が遅滞したように、この度も緩怠するように見受ける。これは智が足らないのではない。今度の軍は関ケ原に比べてはならない。その故は、関ケ原の乱は日本の諸侯を東西に分け、将軍に従った諸士の中にも石田治部少輔三成と心を合わせた者がおり、或いは逆徒の親類縁者も多くいたが、異変をなして或る隙を伺って日和見する者が繁く多かったので、しばらく猶予したのだ。それがしの兄伊豆守の家人が、父安房守にこの事を語って聞いたところ、家康の智恵深遠が不測なる事を感心した。これを臆病と了簡するのは雲泥万里の隔たりである。 おおよそ往昔の源頼朝の治世の時より諸国の劇乱や一揆が起こる時、兵を動かすのは軽いをもって善としてきた。今の家康、秀忠はこの術をよく明察している。ことに慶長の乱が静謐の後は、天下の大小名は両将軍の威勢に恐れ、平相国入道清盛が世を掌に握ったようである。仁道をもって諸侯を愛し、下民を育み、上下はその恩を荷い、徳を戴いて帰服する事、誠に信厚である。よって今は何を疑い、何に恐怖するのか、軽く兵を発して速やかに征伐することが必要である。これを味方が緩々とし、宇治 や瀬田を越えられると敵に気を呑まれる。侮ると甲斐はなく、合戦の必定は難儀となるので、よくよく御思慮あるべきである。」

 両意見は区々として一決ぜず、そこに後藤又兵衛基次が進み出て言った。「どちらが是非か、とにかく真田とそれがしに御人数を12万預けてくだされ。宇治、瀬田に馳せ向かい、石部宿よりこの方を焼き払って東国勢の居所を安くさせず、橋を焼き落とし、船をことごとく砕き破り、或いは夜に敵の陣中へ間者を入れておき、種々の雑説を言わせ、或いは夜に敵の陣中を騒がせ、心易くさせないようにしよう。例の短気な東国勢に必要な退屈の心付けである。また木村長門守重成殿か大野修理亮殿のどちらか1人が洛中へ馳せ向かい、板倉を攻めるべし。即時に追い落とすことができなくても、対陣して合戦を拒んでおれば、宇治、瀬田の味方が後を易くして大軍を引き受けるといえども勝利を得るだろう。また、大和口(奈良方面からの入口)へは明石掃部助全登と長曽我部盛親などを遣わせて押えさせ、また茨木城を7組の衆の内1人か2人に人数を付け、また主馬殿、豊前殿の内1人に7手の衆の内1両人を備えて大津(滋賀県)へ出張し 、堀を掘って土手を築き、柵を設けて塀を塗って陣を備え、大坂城中の衆と共に遊軍となって戦う。そして弱い方へ助勢し、諸方の兵根強く、枝盛んにして、東国勢がなんと勇を励まそうと、長距離を経てきた人馬なので、疲労して働きは自由でない。このように計れば利があるだろう。とにかく東国勢が宇治と瀬田を渡りかね、数日を送り、戦に難儀と聞けば、中国西国の内に必ず変が起きて敵に属した心を通じる者もいるだろう。たとえ宇治、瀬田を越えられても、無理に難所を越えるので敵兵はいくらか死亡するであろう。味方で討たれる者は少なく、宇治、瀬田を引き退き、大津において再び挑み戦う。そしてその利をも失えば大坂で篭城し、初めより一城に頼って引き篭もるのは余りに甲斐ない事である。」

 それを聞いた修理亮は「宇治、瀬田において戦うというのは如何かな」と言った。

 左衛門佐は答えた。「兵法には、先する時は必ず人を制する事珍しからず。また篭城というのは、国中の境目の取り合い、或いは援軍の願いがある時は篭城に利がある。今度の合戦は日本国中の兵を一箇所に集めて敵を受ける戦なので、心は千兵万卒ともに一致し、戦場を所々に打ち出し、千変万化して敵を疑わしめ、或いは計策して敵の中を避け、戦をしないで敵を降し、敵を殺行すれば勝利は得難い。おめおめと一城に引き篭もるのは、敵に気を呑まれ、謀略されるばかりでなく、何れの国の誰人が味方に属して労兵を助けて救うのであろうか?、終には矢種玉薬が尽き果て、糧米も尽きて兵力は哀れとなり、或いは降参し、或いは内通や反忠によって落城するであろう。また宇治、瀬田でよく防戦して東国勢が大河を渡れずにして数日を送れば、その間に近国はもちろん中国、四国、西国までもが秘かに使者を遣わし、関東勢は宇治、瀬田を渡りかねて軍が難儀に及ぶことで、太閤恩顧の輩は折を見て何それがしは大坂に降らんという約があり、誰なにがしは裏切りしようと誓状を遣わすであろう。誰々が近いうちに入城するとの内通書等と密語天言の雑説を広めれば、人の心は移り易く欺き易いものなので、心を変える大小名は多く、突然に世の転変が出来るのは目前である。究極に小勢をもって大敵に当り、かつ勝利を得ることは、大河を隔てた難所により策を計り、謀計を用いて合戦をするのが最良である。この地の利を得て、1人は尋常の20人に対し、帷幕の内に廻らす計略は勝利を千里の外に決し、先ず勝って後に戦うのが実理と言える。しかるを僅か2里足らずの一城に頼って篭城する程の無謀の兵に誰が味方しようか。

 宇治、瀬田で一戦を決せば、長距離に労した東国勢は寒気に向かって水を渡る時、半途にしてこれを討つ。そして3〜4町退いて堅く備え、所々に兵を置き、戦が半ばとなった時、敵の後を襲い討てば後陣が騒ぎ立て、先陣は混乱し、後陣は途に迷って利を失うであろう。その時に奇正の備えをもって急に勝負を決する。寒気に向かって川を渡る兵が水より上がる時、気を発するがゆえに手足ともに熱くなるものだが、3〜4町程行くときは総身手足ともに冷え、弓矢を携えたり、刃棹を握る事ができなくなろう。ここに馳せ合わせて戦えば一定の利を得るであろう。この様に計って身命を捨てて戦い、とにかく味方の利がない時は、この城に立て籠もり、5度も10度も打ち出て、或いは夜討や夜込に敵を脅かし、命の限りの合戦をし、ぜひ運命が尽きて叶わない時は快く自害するのが勇士の面目である」と、憚るところなく申すと、諸将は皆もっともと同心した。

 ここに小幡勘兵衛景憲は、甲斐国武田家の小幡山城入道の末である。徳川家康に奉公していたが、今年になって御勘当を蒙り、京都において蟄居していたが、密かに京都守護の板倉伊賀守と伏見城代の松平隠岐守に次の相談をした。「それがしは将軍の御勘気をこうむり、この地に在住する社幸である。これによって秀頼の味方に属し、城中の密謀を随分と聞き出して一々知らせましょう。また大坂方に吉事となる方策については、心の及ぶ程に言い妨げ、両将軍家への忠節としましょう。けれども証人がなければ、拙者も敵とされるので、願わくば後日の証人に立ってもらえられば篭城して計略をしましょう。」と言い、2人とも「証人に立とうと」答えたので、小幡は歓んで篭城することになった。城中では、この小幡勘兵衛は武田家より出た兵法の達人であり、弁舌も明らかな人なので、秀頼卿をはじめ多くの者が尊敬し、起請文を書かせて評定所に加わえていた。大野、木村、渡辺等は皆心を許し、この評定にも末席に列していた。

 小幡勘兵衛が進み出て申すには、「それがしは貴賎の者で、諸将歴々の方が御計略を長く申したので遠慮があるが、心の及ぶ所を申そうというのは秀頼卿の御為であり、各々方の権威を恐れて愚意を述べないでいて、後日に議を受けられなくなるのも無念である。それがしが申す処に利があれば用い、用捨ならば多分に任せよう。先に一歩下がって考えると、諸将の謀略は詳しいが、敵によっては逆となってしまう利ではないか。その理由として前将軍家は数度の合戦に馴れ、武功は誰も及ばない。さらに野戦や川を隔てた合戦の心や利をよく計り、敵の多少と剛臆とを見切り、虚実を察して討つのは、あたかも神変を得たようである。既に姉川、小牧、長久手、関ヶ原の合戦は、全て小勢をもって大軍を押し潰す事、人の及ばない所を得た大将である。よって大野修理殿の申されるとおり、聞き驚いても動転しない大将なので、今度も急な発向はないだろう。願わくは要害に篭り、数年が経ても容易に落城はしない。その内に何らかの異変があり、変が出来れば計略は幾らでもできる。美しい古より宇治、瀬田を隔てての防戦を考えた場合、先の治承に源三位入道頼政が、宇治川を前にして防ぎ戦ったが、平家の方より足利又太郎忠綱が先陣となって川を渡った。頼政親子3人や渡辺党をはじめとして義を重んじ、命を軽んじて防ぎ戦ったが、一戦に利を失って自害した。また元暦に源範頼と源義経が上洛した時、源義仲の家人である今井、樋口、楯、根井等が宇治、瀬田に馳せ向かって合戦したが、佐々木、梶原、畠山等が真っ先に川を渡り、義仲は終に討死した。その後の承久3年6月、後鳥羽院御謀反の時、北条義時が東軍を引率して上洛した。官軍数万は宇治、瀬田に向かって防戦したが、芝田吉六、佐々木信綱、中山治郎、安藤兵衛尉等が先陣して官軍を追い散らし、天皇を取り奉った。このように度々宇治、瀬田において防戦があるといえども、勝利を得た者はいない。この度は日本国中の勢を尽くして寄って来る所に、橋を焼き落として防ごうとしても、敵は八方から攻め寄せてくるので、後より崩れてなかなか助かる者はいない。また大津辺りに要害を構えて所々に兵を伏せ、計略で討つのは叶うまい。板倉、松平の両士は兼ねてから近江国(滋賀県)に忍を入れ、将軍の御上洛の警護に備えていると聞き届いている。よって味方の兵はいたずらに敵のために殺され、多からぬ兵をここかしこにおいて失えば、敵に気を呑まれるだけでなく、残る味方は敵を恐れ、秀頼公に志を通そうと思っている輩も、ことごとく敵に属すので、よくよく御思案されるべきである。」と言った。

 左衛門佐が申すには、「 景憲は武田家にて代々の謀臣の末孫で、殊に兵法の達人であるので、申す趣は一々利にある。我等は愚案短才の身として賢慮に背くように思えるが、古より宇治、瀬田において防戦し、勝利を失った戦は参考にならない。その理由として、古と今とは合戦の仕方に相違が多く、往古は弓のみで鉄砲がない。太刀と長刀のみで槍がない。槍がたまたま有るといっても、太刀、長刀を用いるのと同じようである。今は鉄砲と長槍を数多く備えるので、籠城の攻め、小川険阻を隔てる防戦、平場大軍の合戦、野軍や小競り合いに至るまで、その手段は古今格別である。ついては川を渡る戦は古では利が少なく、今は勝利が必然であると、父安房守が常に語っていた。この理を小幡殿にもその他の諸将達は明白に理解し、よくよく智慮を廻らしてもらいたい。」と申したが、修理亮、内蔵助等は愚案に落とそうとした。城を離れることを嫌っているようで、小幡の言葉のみを信じて、左衛門佐の計略を取り上げる者はなく、評議が決まった。このように景憲は終にこれぞと思う謀略を一度もしたことはなく、たまたま味方の吉事を言い出す人がいれば、色々と言って妨げただろう。この様なことをも見聞しないのは、よくよく盲耳暗智の大坂衆である。

 

 11月12日、軍勢が方々から近づいて来たので、大坂にて軍評定があった。左衛門佐が申すには、「将軍が天王寺に着陣して備えが未だに定まらないうちに、逆寄せして不覚を討とうではないか。10にして7、8は勝利であろう。」

 大野修理亮が言った。「それは5百〜1千、2千人の私軍ではその様な手段に利を得ることもあるが、これは天下分け目の合戦である。日本の勢を敵に受けて戦うので、初度の合戦にもしも利を失えば、城兵が気を屈して、今後の合戦が悪くなり、ただ危なげない。堅固の城郭に引き篭もって敵を欺き、近々に引き寄せ、心易く射伏せ討ち伏せて戦うべし。難所の1人は平地の20人に対するという先哲の言葉なり。」この様に申したので、7手の番頭も同意した。

 左衛門佐が重ねて申した。「敵味方が同程度の軍ならば、公私の区別はもっともであるが、日本一州の大軍を敵に受けて小勢をもって戦うので、尋常でない合戦をしなければ万に一つも勝てない。古法の先賢のいわれも、合戦の道は不意を討つのを良しとする。」と言ったので、後藤、明石、長曽我部、大井豊前、仙石豊前が言葉を揃えて「この義、もっともである」と申したが、一向に篭城とのみ議定した。難所の1人は20人という古語も、前日の軍評定の時に左衛門佐が申したが、その時は宇治、瀬田までの出張を恐れ、または小幡の弁に言い掠められて用いられず、今更その古語を引いて、「それは我が軍にあらず」などと言うのは、ことごとく愚蒙と臆病者のなすところである。

 徳川家康は同17日に法隆寺を出立し、住吉に御陣を張った。申の下刻から大雨が篠を突くように降っていたので、東国勢は殊の外油断していた。とにかく家康公は天道に恵まれ、大坂方の天道に悪い業であった。

 

〜大坂冬の陣〜

○幸村君伝記○城の四方の攻口の分担があった。左衛門佐は城の西南を任された。そこには玉造口から少し隔てた所に小高い山があり、この所の四方に塀を掛かり廻し、酒楼を揚げて要害とし、真田左衛門佐は人数5千の他に信州より馳せ上がって来た手勢180人を入れた。その従軍には、伊丹周防守正俊、平井七郎兵衛保則、山川帯刀賢信、北川次郎兵衛宣勝、伊木七郎右衛門遠雄がいた。左衛門佐がこの出丸を固めるときに、私兵を本国の信州より遣わし、この地において新たに兵を召し抱えなかったので、殊の外無勢であると言われた。これによって後藤又兵衛か明石掃部を召されて加えるようにとの評定があった。左衛門佐がこの事を山川帯刀に語るには、「評定で我等が微勢をもって出丸を堅めることを頼り無いと申し、後藤か明石か両人を召し加えるようにとの評議があった。我はこの両人の心底を察するに、第一にその身は不行儀で、しかも他人の善を嫉み、悪を歓び、己の意地を立て、侫奸が甚だしく、謀略を妨げ、合戦の駆け引きの邪魔になると考えている。各々はどのように思う」と、家臣に異見を問うた。

 山川帯刀の甥である北川次郎兵衛が言うには、「この出丸の事は普請の初めから真田丸と号し、諸人の耳に触れている。これを辞して他人と守るのは、諸人の思惑であり、言い甲斐が無い。なまじ我慢偏執の大勢よりは、衆議一味の小勢をもって一戦の雌雄に運のほどを見て、討死してこそ後代までの名聞冷敷なろう」と申せば、左衛門佐はいささか心意に服して、この儀を可として「1人で堅めることを請ける」と申した。

 

 12月3日未の刻、徳川秀忠が左衛門佐の堅めた出丸の近辺を巡検し、要害の躰、その他の持口は殊のほか守り密にして透間なきを上覧し、兵に「攻めぬように」と仰せ出た。寄手は加賀筑前守、即ち前田利常が下知して出丸の前に堀を掘って小山を築き上げ、竹束を付け寄せて鉄砲を打ち込もうと用意した。その隙を見て城中から石火矢大筒を連打ちに撃ったので、毎日手負いや死人が50人、30人に及んだ。

 出丸と東軍との間に笹山(篠山)があり、左衛門佐は日毎にこの笹山へ足軽を遣わし、鉄砲を撃たせた。筑前守の侍である奥村摂津守という者が、往昔の隅山小宮山の事を思い出し、従軍に向かって云うには、「この大坂城というは天下に並びなき名城にて本城は天より釣りたる如く、砦や出城までも究竟の堅固なれば日本国中の軍勢おおよそ40万余騎といえども堀石垣の1つも破る事をできないだろうが、いざやこの笹山の敵を我等が勢にて追い払ん」と申せば、皆が「もっとも」と同意し、潜かに従軍の手勢を引率し、笹山に押し寄せ、鬨の声を揚げたが、敵が1人も無かったので手を失い、引き退こうとしたところ、左衛門佐がこれを見て手の士1人を塀の上に登らせ、大声を上げて敵を呼んだ。「只今この笹山に向かって鯨波を上げたのは加賀の軍勢とお見受けした。その笹山に失念し、兵の1人も置いていないのは予ねてから知っているが、全て追鳥狩のためなのだろう。平常はキジ、ウサギの類も少しあるけれども、この間各大軍にて打ち囲み、昼夜騒動いたす故、深山幽谷へ逃げ入ってしまった。案内者に従ってお疑いなく退散したまえ。ただし、することもなく退屈だろうから、この出丸をひと攻めして御慰めしたら如何か。ここは信州の住人真田安房守の次男左衛門佐と申す浪人が固める所になるので、はかばかしくは無いが、田舎の斧鍛冶に鍛えられた矢の根を少々用意してあるので、それぞれ重い物具のさねをも試して御覧」と欺き嘲笑した。

 すると加賀の軍勢の中から逸る雄の若武者どもが、このまま無念でいられようかと、ヒシヒシと走って欠堀とも云う土手切岸の上に登り、塀を引き破ろうとすると、城中より弓鉄砲をつるべ懸けて雨が降るように撃ち、塀越えには石を落としたので、奥村の兵は始めの負けん気と違って悉く撃ちすくめられ、いたずらに兵をいくらか撃ち殺された。城内の者共は矢や玉薬を使って手に隙が無いが、口々は透のあるままに、「信濃山家の狩人か、キジ狩には角こそ撃て、イノシシ狩りにはウサギこそ撃て」と嘲り笑って撃ち倒した。それ以外の寄手の者がこれを見て、一度に笑う声がしばらく鳴り止まなかった。奥村は口惜しく思ったが、続いて助ける味方は無し。駆け入って討ち死にという様もなければ、辛い命を拾うことを能々してようやく元の陣へ引き揚げた。 前田筑前守は殊の外に立腹し、軍法に背いて抜け駆けし、あまりに見苦しい振る廻りして敵味方に笑われ、我々まで恥をかかすとは言語道断の曲事として、奥村を勘当した。

 12月4日卯の刻、その朝は殊の外に霧が深く、暗夜の如くなので城中でこれを知る者はいなかった。左衛門佐はとくとこれを知って弓鉄砲を配り、静まり返って敵の矢頃が近いと思い合図を待った。夜明けになって霧の晴れ間から見れば、加賀、越前の先勢どもが稲麻竹葦の如く近々と付いて鬨の声を上げて急に攻め付き、押し破ろうと堀に飛び込んで次々と塀に付いた。これを予てから用意しておいた方1間の出し塀ともに矢狭間多く、程よく切って置いていたのを突き出し、横矢を思うように撃ったので、兵ども1人も残らず撃ち落されて上々に重なり死んだ。堀は悉く平地のようになり、足場が良くなったので大勢が死人を踏んで攻め付けたが、城内は矢束を解き 、玉薬を継ぎ、隙もなく防いだ。

 左衛門佐に指図されて伊木七郎右衛門は良く馳せ廻って諸軍を下知した。敵はあまりに強く撃ち立てられ、耐えかねて人数を引き揚げようとしたけれども、弓鉄砲に撃ちつけられて途方を失い、背をくらませて的に懸かり居たるところに、鹿毛の馬に乗って母衣を付けた武者が陣中を乗り回し、引き纏いて退却させた。冬の陣に敵の討死したる5分の4分はこの時の死である。

 

〜 和睦 〜

○幸村君伝記○12月10日和睦の事で、大坂城中から織田有楽の家来と大野修理亮の家来の村田吉蔵と米村権右衛門が、将軍の御陣へ行った。

 同15日城中にて和睦の相談があった。何れも詮議が区々しているところに、後藤又兵衛は、「今度の篭城については、故秀吉公の御恩が深き諸大名を頼みとするとの思し召しと仰せられていたが、皆々は昔の厚恩を忘れ、義を失い、与しなかったうえ、使いの侍を殺し、或いは捕らえて返さず、御返答した者は1人もいなかった。城は並なき堅固だが、兵糧、玉薬は限りがあるのもので、月を数えて尽きるものである。後詰の頼みもなければ、重ねて兵糧を入れ、玉薬を用意すべき手段はない。何時を期し、何に頼って度々 と手を変え、様を変え、関東より和を乞うてきたのを御承知するとは何事であろう。上下の者どもが不審を立てていることを申し上げる。」と言った。

 左衛門佐が言うには、「又兵衛が申し上げるのはもっともである。篭城の事は最善と申し上げるとおり、兵は心を1つにして防戦し、堅固に持ち固めるといえども、援軍の頼みがなければ終には落城すべき道理は決然である。しかるにここに比べて諸方の持口に心を付けて見るに、殊の外色が悪しく見える。なかんずく南北の持口を敵が急に攻めれば、色を変え、後足を踏み 、落とし方を求めている。ことに織田雲正寺頼長は白吹貫の旗指物を三度も品替えした。まるで計略でも有るようである。推量したところ、白吹貫は人に目立つ印なので敵に見知られ、後難を恐れたのだろう。また去る5日に藤堂和泉守高虎が豊志口を攻め、柵を破り、敵が門塀に付いた時、城中の女子供までそれ相応に石を運び、玉薬を継いで馳せまわった。その剋は既に危うく見えるが、極寒に諸人が大汗を流して働き、片唾を呑んでいても、この持口の総大将である雲正寺は、昨夜より体の調子が悪いと寝所に入り、夜着を被って遊女どもを集め、頭を打たせ、手足を撫でさせて伏せていると承った。大将がこの様なので、士卒が勇をなすべきがない。既にこの持口は藤堂のために攻め破られるように見え、近隣の持口の諸将は、自分の持ち場を差し置いて、雲正寺の手を救おうと寄り、しばらく戦った。このような人は敵なのか、味方なのか?この雲正寺は織田有楽斎長益の子息なので、秀頼公の一門であり、一方の大将である。戦においては諸将をもって金鉄よりも重く、磐石よりも堅くしなければならない。ましてその余りを、今の分にできなければ落城は遠くないだろう。敵方より和睦の申し入れがあっても久しく計略がないので、先に一旦の害を避け、世の有様をも御覧有るべきとなるなら、この和を なだめる幸として速やかに御許容あれ」と言葉を放って申し上げた。

 座中も一同に左衛門佐の申すところがもっともと申し上げた 。有楽と修理は元から和平の事を歓んでいたので、終に和睦の首尾が整った。行く末の吉凶は知らず、万歳楽を唱えた。

 

○武林雑話家康は大坂を立ち去る前に、真田隠岐守信尹(真田昌幸の弟)を御使いにして、真田左衛門佐へ仰せ遣わした。真田隠岐守は「秀頼への合力心を翻し、味方になれば信州にて1万石を下さるとの上意なり」と言った。左衛門佐はこれを承り「上意の趣は有り難いが、左衛門佐の事は関ケ原一戦で敵となり、その罪科によって九度山に蟄居し、山賊の躰であったところに秀頼公より召し出され、備8千余の大将に仰せ付けられ、何より忝なく思っているので、心変わりの儀はありません」と申した。この旨を申し上げると「それならば、重て信濃国一円を与える」と仰せ出た。隠岐守がこの旨を重て申し聞かせると、左衛門佐は大いに怒って「忠儀に軽重はなし、禄の多少によるものではない。一度秀頼公の御扶持を請けた上は討死と志している。さりながら、もし御和談に成っても領知の望はなく、貴殿の合力を請けて関東へ奉公しましょう。合戦がある内は大坂にあって討死する条であり、重て上意の御取次は無用とされたい」と申し切った。

 

○翁物語○城内の衆も城外へ徘徊した。ある夜、真田左衛門佐は真田河内守信吉(兄の真田伊豆守信之の息子)の陣へ来た。河内守は若年といえども真田家の総領である。左衛門佐は久しく浪人し、高野山に居住する間に人前での趣きもどうかと見えるようにな ったが、河内守の叔父なので座上に直って申した。「御辺が4才の時に対面して後、今夜初めて会うことができた。思いのほか成人し、器量骨柄は世を越えて覚えたとみえ、伊豆守殿が年寄りになっても気遣いはないだろう。伊豆殿にも久しく顔を合わせていないが、さぞ年寄りになったろう。拝顔したいものだ」と語った。

  真田内記信政がその時座敷に出れば、「舎弟の内記です」と河内守が紹介し、顔を見て会釈して頷いた。左衛門佐は総領の河内守とのみ話して内記とは話しをしなかった。河内守が、「それにしても、この度は思いもよらず参会できました。城より遥かに離れ、思ってもいない地形に砦を構え、さぞ心遣いしたでしょう。もし和睦にならなければ取り壊されないので、和睦になって幸せでしたな」と言った。

 左衛門佐は、「御辺が言うとおり、この度は砦をこしらえた。しかし天下一同の戦いで、どのようにして叶えることができると申すのか。さりながら砦が取り壊しと決まったので、形のごとく辛労なくては、すなわち取り壊される事はなかっただろう」と返答した。しばらくして盃が出て、矢沢但馬、木村土佐、半田筑後、大熊伯耆の久しい者共4人を呼び出し、年久しくして逢えたと喜び、酒を呑んで左衛門佐は城内へ帰っていった。

 

 

慶長20年(1615)

〜 大坂夏の陣 〜

○滋野世記○慶長20年3月、秀頼卿は再び大坂城へ篭ることになり、4月26日から合戦が始まった。

○幸村君伝記○大野修理亮、吉田左衛門佐、森豊前守、伊木七郎右衛門、渡辺内蔵助、大谷大学、明石掃部助、長岡与五郎、小倉佐左衛門その他都合2万ばかり、5月6日の早朝に打ち出したが、先手の大将である後藤又兵衛が討死して、味方は敗軍した。大坂方の諸将は何と思ったのか、一戦にも及ばずに引き取った。真田は引き遅れて静かに退いた。3町ほど後に伊木七郎右衛門が真田の赤旗3本を押し立てていたのを見て、初めに敗軍した先手の軍兵どもが、あちこちより馳せ集まった。真田はしばらくここに陣したが、東軍勢がこの道筋へ寄らずに脇道に行ったので敵に会えなかった。真田左衛門佐と山川帯刀、植木六右衛門、真田の郎党である青木清右衛門の4人は、危ない所に踏み上がって相手を待ったが、どうにも敵は敢えて襲って来なかった。この間に真田の軍兵が遅れて馳せ来たところに、伊達陸奥守政宗の軍兵が真田に突きかかり、敵味方が入り乱れて戦った。この時明石掃部助の組の小倉佐左衛門が、敵の大将らしき者と一番に槍を合わせ、敵兵を追い立てれば、大坂勢は気に乗って、「それ!敵軍に討ち勝てる」と、攻鼓を打って攻めた。これを見て初めに真田と別れ々となった大坂勢の北川次郎兵衛、丹波河内守、鎌田兵部、片岡清九郎以下の敗軍の士を集め、かれこれ67騎が敵の横合いに突き入れたので、正宗の先手は敗北した。大坂勢はどこまでも跡を追って行ったが、伊達の大軍備を立ち待つところに行きかかり、進退の途を失って討死と思い定め、馬より下り立ち、槍を隙間なく並べて構えて待っていたところに、真田の一手の渡辺内蔵助が進み来て、しばらく戦うが、内蔵助は痛手を負って引き退いた。敵も如何と思ったのか引き取った。真田左衛門佐、植木六右衛門、岡田丹波、前田主水、南部左門、山川帯刀、北川次郎兵衛、丹波河内守、鎌田兵部、片岡清九郎、徳原八蔵、木曽長次郎、津田監物、守町庄右衛門以下は必死に戦おうとしたけども、東国勢は猶予して戦おうとしなかった。その理由を尋ねるに、初めの合戦に東国方の軍兵である神保長三郎以下が正宗の陣所の脇へ崩れかかるのを、伊達の先手が鉄砲にてことごとく撃ち殺し、槍をもって突き伏せ、味方をいくらか討ったので、東国勢はこれをみて、正宗が裏切りをしたと叫んだ。諸勢は正宗を疑って進まず、正宗も初めの合戦で手負いが多かったので猶予して進まず、互いに睨み合って時を移した。

 大坂勢は評定をし、ここに日を暮らすことは無駄である。ただ大坂とこの間を敵のために切り取られないように、東国勢を突き崩してから大坂に入ろうとなった。皆もっともと同意し、人数を二手に分け、くじ引きで前後を決めようとなった。そこで左衛門佐は「いやいやくじ引きには及ばず、しんがりは我等がしよう」と言ったので、「我々も踏み留まって討死しよう」と言った。明石掃部助がこれを聞いて、「人々がその様に言うのであれば、いつまでも事が行えない。明石掃部助が一番に引き取って、真田殿の望みであれば、後に留まって、来る敵があれば追い払い、遮る敵があれば我々が蹴散らして通る。」と言ったので、二手に分かれて動き出した。一番に掃部、その後に段々と軍を班した。真田はただ一人留まった。諸軍勢は5〜6町引き取って、工藤市郎右衛門を真田の陣に遣わし、「早く引くように」と申し送った。左衛門佐はこれを聞いて、「未だ敵の位置が非常に近く、もし敵が来たら味方は難儀するだろう。もう2〜3町引き、その後に我等も退く」と返答した。人々はこれを聞いて、真田はややもすれば己の武勇に自慢して、諸人を蔑如する事奇怪なので、この上は以前の評議を破り、面々が存分に留まって働こうとなった。明石が申すには、「真田の申すところは過分であるが、武勇を好むのは本意なり。悪しく思わないように。秀頼公の御為なので、早々に引き取ろう」と言い、真っ先に退き、諸軍勢も掃部に従った。その後、姉尾平三郎を真田に遣わし、「早く引き取るように」と言った。左衛門佐は陣を払い、その勢を二手に分けて静かに退き、その様子は合戦において甚だしかった。大坂勢は真田を妬んで怒ったが、東国勢の評するには、真田殿の退口は誠に思い切った有様で抜群だと感心した。

 左衛門佐は茶臼山において大野修理亮に向かって、「千場に在陣する明石掃部助を急いで堺道を経て旗を捲かせ、茶臼山の下の南に出陣させ、ここにおいて上道から戦わせる。そしてこらえかねて将軍の旗本から近習を出させて彼等と一戦し、よく合図を見合わせて旗本へ突きかかり、しばらくして勝負を決しようではないか」と言った。大野は同心して、軍勢を茶臼山を後ろにした南に向かって備えを立てた。伊木七郎右衛門は小勢といえども、この備えに並べた。その後、左衛門佐は伊木を伴い、茶臼山の上に登って東国勢の備え立てを見分していたところ、毛利豊前守の軍勢がやって来て、茶臼山の東に備えて足軽を出し、激しく鉄砲を撃った。左衛門佐は毛利へ使いを送り、大野との約諾の事を告げて、「同時に軍を発すべきである」と伝えたところ、毛利も「同心する」と、その使者に告げた。しかし「鉄砲を止められるべし」と2度伝えたが毛利は聞かず、左衛門佐は大いに怒って、毛利に直接伝えると言って、馬を馳せて制したが、毛利は「もっとも」と受けながら、結局足軽を倍に増やして鉄砲を撃ち続けた。とにかくしている間に、東国勢は充満して、左衛門佐は牙を噛んだが、どうしようもなかった。

 左衛門佐は今日を限り運の勝負と思い、諸将と密談して互いに「秀頼公の御馬を出し、必死の合戦に運を天に任せてもらいたい」と秀頼に諌めた。この約を堅くして待つところに、家康は例の御計策によって、和融の事を申し入れた。城中には、高い山や深い淵とも頼る木村をはじめ数多くの勇士が討たれていたので、諸兵は気を屈し、秀頼公も御母堂も力を落とし、弱みを突かれ易い折柄だったので、本心を迷って秀頼公の御出馬もなく、味方の評議もことごとく相違していたので、世の中今はこれ迄となった。左衛門佐は伊木をはじめ従軍の兵を招いて、「いつ迄もこのままいられようか、いざ死出の旅路の用意をしようではないか」と伝えたところ、皆は「もっともなり」と言い、思い々に用意をした。左衛門佐の鎧は緋色で、兜は白熊付鹿の抱角で、馬は日々秘蔵していた河原毛、鞍は木地金の六連銭の紋を書き、紅の厚総を掛けていた。左衛門佐の従軍には、真田与左衛門、御宿越前守、江原左近、多田藤弥、大谷大学、名島民部、長岡与五郎、槇嶋玄蕃、藤掛土佐、本郷左近、早川主馬助、福富平蔵、渡辺内蔵助、伊木七郎右衛門、総人数1万余、茶臼山の坂上に陣取った。寄せ手は松平越前少将忠直である。度々の合戦に馴れた老功どもが数多く仕えて、若い者共を指図していた。東国勢は殊に大軍なので、大坂方はここかしこにて押し隔てられ、討たれる者の数は分からないほどであった。左衛門佐は、味方が悉く敗走し或いは討たれても、少しも気を屈っせずに、真丸になって馳せ破り、馳せなびき、縦横に当たって火花を散らし、揉み立てられた。この時、家康の御先手が敗北して旗本へ崩れていったので、本陣も傾き始め、2度押し迫った。しかし大軍は凌ぎ難く、将軍の運は強く、終に大坂方は敗北して、残った者も討たれ、左衛門佐も討死した。

 左衛門佐の首は、松平越前少将の家臣西尾仁左衛門が取った。西尾は初め何処の馬の骨の首か知らなかった。首実験の時、真田左衛門佐と札を付けた首が数多くあったが、西尾が得た首に鹿の抱角の兜があったので、左衛門佐の首と定まった。家康は真田隠岐守信尹に確認を求めたが、隠岐守は「左衛門佐の首とも思えるが、生命替わっているので、確かと見定め難い」と申し上げたところ、家康は御機嫌悪しくなり、「例え生命替わったとしても、何故分からないのだ、憎くらしい者の言いようではないか。さてさて憎い奴め」と言った。この時まで真田隠岐守は御目見えが良かったので、帰陣の後は家康に取り立てられる様子であったが、この事により、散々悪しくなって、終に取り立てはなかった。左衛門佐の法名は好白。

 西尾は直参旗本にされることになり、家康の御前へ召し出された。「殊の外御褒美を取らせる」と言い、更に「真田はどのようであったか」と尋ねた。西尾は「誰とは知りませんでしたが、十文字の槍を持って、前後左右を突き立て、八方に当り、土煙を立てて突き回っていました。宙を駆け、電光の激しい雷の落ちるようで、人間業とは見えませんでした。拙者は良い敵と見て、大坂城方のひとかたならない大将とも見え、馬や物具が他の者と違っていたので、粉骨を尽くして打ち合いました。真田は数度の戦で大勢に出逢い、体力が衰え、それがしが新手となったので、秘術を尽くし、終には討ち取りました。」と申し上げた。家康は御機嫌が良くなり、西尾は御前を退出した。

 

〜 真田左衛門佐の家族 〜

 以上、真田左衛門佐信繁(幸村)の記述でした。左衛門佐が大坂で討死し、家族はどうなったのでしょうか?徳川家へ刃向かった者として、現在でも左衛門佐と妻の遺骨が眠る墓所は不明です。

 諸説ありますが「左衛門佐君伝記稿」によると、幸村の子供には次の9人がおり、「真田左衛佐の妻女が紀州伊都郡(和歌山県)に忍んでいるところを、浅野但馬守が召し捕り幕府へ差し出した。彼女らは秀頼公より賜った黄金57枚、来国俊の脇差を所持していたので、没収して将軍へ献上したが、但馬守へ下された。」という記述があるので、正室の大谷刑部少輔吉継の娘、側室の堀田作兵衛興重の妹、または娘の誰かが捕らえられたものと思われます。その後、彼女らは「赦され削髪尼となす」と書かれていました。

(信州生まれ)

 名不明

石合重蔵道定の妻

 於いち

九度山にて早世

 於梅

伊達家 家老片倉小十郎の妻

 あくり

蒲生藩士 蒲生源左衛門郷喜の妻

(九度山生まれ)

 大助

大坂夏の陣で自害

 於しよふ

不明※石河備前守の妻?

 於かね

 大八

京都にて早世

 上表から於梅が何故?伊達家の片倉小十郎へ嫁いだのか不思議に思いますが、「左衛門佐君伝記稿」には次のようにあります。「伊達陸奥守正宗の御家老片倉小十郎の妻は真田左衛門佐の御娘であり、大坂の合戦後に滝川三九郎一積より片倉へ遣わした。このことが公儀へ知れて、御詮議となり、三九郎は知行を召し上げられて浪人となり、京都へ行った。この三九郎の妻は真田安房守の娘であるので、片倉の妻は姪になる。これによって三九郎は御目付を勤めることになり、この筋目によって片倉家は六文銭を紋とした。先年、松代藩主の真田幸道が伊達家の屋敷へ足を運んだ際に、片倉沖之進と申す者が六文銭の御紋付きの着物を着ていたので、尋ねたところ、片倉沖之進より仔細を申し上げた。」とあります。しかし、真田左衛門佐の子供達のその後については、幸村と同じく様々な話題があり、どれが真実なのか分からなくなっているものもあります。とにかく江戸時代に書かれた最も古い部類の史料の1つを紹介させてもらいました。

 

 左衛門佐達が居住していた九度山の屋敷について、大坂城の合戦から100年以上が経ち、村人達に語り継がれている物語が「左衛門佐君伝記稿」に残っています。

 

 九度山は九度村の上にあり。惣名は真田屋敷と言う。畑の地名に東厩、家老屋敷、御台所などの名がある。今は善名称院という真言寺を建て、地蔵堂の所は安房守昌幸の居間跡であり、5社の宮がある。

 稲荷大明神、天満宮、住吉大明神、金毘羅権現、当地の地主権現一翁廟所(昌幸を祀る)はこの西にあり、7尺四方の玉垣の内で、高さ2尺の石垣の上に3尺の碑がある。後ろにある大木の松は安房守が自分で植えられた木である。

 大坂御陣がおさまり、真田屋敷は庵室まで悉く焼失した。そうしたところ、土地が九度村の角兵衛という者の所有となり、所々を畑に切り開き、自分の住居もここに移そうと普請を計画したところ、胸が痛んで倒れてしまった。夢に安房守が昔の姿で現れ、甲冑を着て弓矢を脇に挟み、馬上に凛として睨んでいた。夢心に角兵衛は大いに恐れ、平伏して、拙者の住居を御屋敷へ移そうとしたから怒っているのだと思い、取り止めにし、安房守を当地の地主権現と崇め奉ると約束した。しばらくして夢から醒め、大いに恐れて、早速御宮を建てた。

 

 

 

〜 おわりに 〜

 現在、左衛門佐の手紙が幾つか残されています。そのほとんどが九度山に幽閉されていた時以降のものになります。そこからは、幸村が鮭と連歌を好んでいたらしく、真田好白という名前も使っていたことが分かります。また、幽閉の身でしたが、浅野但馬守長晟から毎年50石の合力米を支給され、九度山の浦の川淵(真田淵)上下5町の間を遊山所として出歩く事を許されていました。家臣16人とその家族や使用人が九度山に従い、彼等の屋敷まであったようですが、父の真田安房守昌幸が慶長16年(1611)に死亡すると、ほとんどの者が沼田や上田へ引き揚げて行きました。

 

 おわりに、同じく『真田家御事績稿』に収集されている、真田幸村の人間性を感じさせる有名な手紙(小山田家文書)を紹介します。

 

 お伝えしたいことがあるので、一筆申し上げます。さてもさても今度、思いもよらないことから合戦となり、我々も大坂城へ参りました。奇怪と推量されたことでしょう。ただし、まずまず無事に済み、我々も死なずにすみましたこと、お目にかかって申し上げたいです。明日はどのようになるのか分かりませんが、今は何事もありません。小山田主膳殿にも再々会いましたが、こちらが取り込み中のままで、心静かにお話しできませんでした。こちらは何事もありませんので、御心易く居て下さい。詳しく申し上げたいのですが、この者が急ぎ発たなければならないとのことで、早々に書きました。かさねてお手紙差上げます。かしく

  1月24日      左衛門佐

    村松へ

 

 真田幸村の姉に村松殿という人がいて、彼女は小山田壱岐守茂誠に嫁いでいました。小山田茂誠は武田家滅亡後に真田家の家臣となり、大坂冬の陣では茂誠の子である小山田主膳之知が東国勢である真田家の兵として従軍していました。この手紙は彼に託されたものとみられ、和睦となって沼田(群馬県)に帰陣する際に慌しく渡された手紙だと言われています。

 その他に残る真田幸村直筆の書状を読むと、九度山へ幽閉されていた時の何とも言えない心情が伝わってきます。それは、ここでこのまま朽ち果てていく惨めな幸村が想像できますし、逆にそれが徳川家などへ悟られないようにした演技ともとれます。しかし40代にして白髪交じりで、歯も幾つか抜けていたとの様子。どうあがいても身が立たず、この世で生きていた絶好の証しとして、不本意ながら大坂での死を選んだのでしょう。

 この余談を書きながら、小学校の時に池波正太郎『真田太平記』を夢中で読んだことを思い出しました。春になったら上田城の花見にでも行こうかと思う。


『其之 77』H20.1.1〜H20.2.1

 

 本年も長野県の歴史をご堪能ください。

 さて、さっそく新年最初の余談とまいります。今回は、文献史料が少ないことから発掘される毎に歴史が変わり、自身が不得手と考えていた古代史の分野へと足を踏み入れます。その中でも未だにはっきりとしない信濃国成立について、その中核となる古墳時代に焦点をあてることにしました。教科書などには「弥生時代」「飛鳥時代」と分類されていますが、この時代にも古墳が築造されていたので、広義的には両時代も古墳時代に含まれます(弥生時代は後期)。作成にあたっては、これまで発表されている諸研究の矛盾を解消するとともに、諸説を分析して新たな説を展開することにより、今後読者の卒業論文や研究材料となるのを狙って仕上げました。それでは長野県の古墳時代を紹介します。

※注意:古墳の大きさを示す数値は、測り方によっても違い、古墳数も研究者や数えられた年代によって違うので、あくまで参考としてください。

※注意:諸研究では「○世紀後半」や「前期前半」などと表記していますが、試みで西暦表示 (10年単位)しています。よって文献からの確定年とは違って誤差が10年程度生じている可能性があると考えてください。

 『日本書紀』巻第7の大足彦忍代別天皇(景行天皇)を読んでいた時、ある文に衝撃を受けました。

景行天皇40年の記

「日本武尊曰、蝦夷凶首、咸伏其辜。唯信濃國、越國、頗未從化」

 

 ここには日本武尊(やまとたける)が蝦夷(えぞ、えみし)を平定したが、ただ越国と信濃国が従わないと書かれています。これまで蝦夷といえば東北地方を指しているものと思っていましたが、信濃国が蝦夷だった時代があったとは驚きでした。それから数百年経った同じく『日本書紀』皇極元年(642)に、「越辺境の蝦夷数千人が帰服」とあり、その頃になると蝦夷との軍事境界線が新潟県北部(または山形県)まで北上していたことを物語ってくれます。その6年後には越後国に「蝦夷に備えて磐舟柵をつくり、越と信濃の民を選んで柵戸」としました。柵戸(きのへ、さくこ)とは、平時は砦で農業を営み、外敵が押し寄せたときには武器を手にして戦う屯田兵のようなものだったと云われています。やがてこの蝦夷境は更に70年程を経て秋田県や宮城県より北へ達することになります。

 しかし 日本武尊より以前でも『日本書紀』崇神天皇11年に、「四道将軍を東国に派遣して平定した」との記載があり、崇神天皇48年には「豊城命に東国を治めさせ、上毛野君と下毛野君の始祖となった」ともあるので、この頃既に畿内→岐阜県−長野県−群馬県−栃木県にかけての地域は、大和朝廷の影響下にあったと考えられています。さらにそれを裏付けるものとして、平安時代に編纂された『国造本紀』に興味のある記載があります。ここには、三濃前国(岐阜県)→科野→須羽(諏訪)→上毛野(群馬県)→那須(栃木県)の順で、開化天皇から景行天皇の間に、誰々が国造(くにのみやつこ)を賜ったと書かれています。以上のことから整理すると、日本武尊が長野県に入った頃は科野国造がおり、反乱する可能性のあった蝦夷と呼ばれる人々と共存していたことになります。その後、成務天皇5年諸国に詔して国郡に造長(みやつこおさ)を任命し、山河を境として国県を分けたとあります。これにより現在の長野県内のいずれかの範囲で、科野国造やその他集団の勢力範囲が定められました。そして時代は古墳築造へ本格的に突入していきます。

 

 『日本書紀』、『古事記』には、歴代天皇在位年数や崩御年記されていますが、これを西暦に換算するとある問題に遭遇します。それは先に記した日本武尊の時代を年数のはっきりしている天皇から逆算すると西暦110年頃となり、中国の歴史書から正確に判定できる卑弥呼の時代239年頃より100年以上も前の事象となってしまいます。『日本書紀』は養老4年(720)に完成したもので、そうすると600年以上昔の事柄を記していることになり、現在の私達が戦国時代の頃の国史を書くという恐ろしく不正確なことに相当します。100歳以上存在していた天皇もおり、初代の神武天皇から第9代開化天皇までの天皇は実在しなかったとする説もあり、多くの研究者が年数の変更などを試みています。その方法としては、つぎの代表的なものがあります。

@在位年数を平均して各自に割り当てる。

A干支年から推定する。(丁酉→397or457など)

B在位年数を比率で再配分する。

@の研究を元に上記事象を西暦に換算し直すと、崇神天皇の事柄が340年頃、日本武尊(景行天皇御代)が370年頃、成務天皇が390年頃に想定されていますが、私の想像ではこの研究でもズレが+−50年相当は生じていると思われます 。人間が等しく同じ年数を生きているわけはなく、発掘結果と照らし合わせても矛盾が大きいので@は採用できません。そこでABや中国史料を交えて修正している研究があるのでそれを引用すると、崇神天皇が290年頃、日本武尊(景行天皇御代)と成務天皇が335年頃となります。今回の余談では、これを参考に最近の研究を関連付け、次のように長野県の古墳時代を展開しました。

 

 弥生時代が終わろうとする頃、長野県には千曲川流域に「赤い土器のクニ」、松本平と諏訪湖のクニ、伊那谷のクニの3勢力が土器の分布から存在していたと言われています。その後、ここに北から北陸地方の土器が長野県南端へ、南から東海地方の土器が長野県北端へ運ばれ、東日本一帯で大きな繋がりがあったことが分かっています。ある研究によると、「3世紀前半、東海、北陸、関東など東日本各地では、前方後方形墳丘墓が盛んに営まれ、東日本各地における地域性の顕著な弥生土器が土師器に転換するのは、基本的に濃尾平野を拠点とする勢力の影響によるものである。これらのことから東日本では、濃尾平野の狗奴国(くなこく)を中心に、関東までおよぶ広大な地域に狗奴国連合とも呼ぶべき政治連合が形成されていた可能性が大きい」としています。そして、卑弥呼の晩年、邪馬台国と狗奴国の間に争いが始まり、「この争いの帰結は、その後の状況から邪馬台国側の勝利に終わった」とされます。

 そして崇神天皇の西暦290年頃、四道将軍が東国に攻め込み、その後「神八井耳命孫 建五百建命(たけいおたけのみこと)」が神野国造(文献上の初見)に定め賜わりました。その理由として『国造本紀』には「既にして初めて橿原に都し、天皇の位に即き、勅して其の功能を褒めて国造に寄さしたまひ、其の拒逆者を誅して、また県主(あがたぬし)を定む、即ち是れ其の縁なり(中略)」とあります。後の西暦478年、有名な宋へ朝貢した倭王武の上奏文には次のようにあります。「昔より祖禰躬ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧處に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国・・・」。まさに四道将軍を含めた大和朝廷による蝦夷 (拒んで逆った者)征伐の歴史を指しています。さらに『日本書紀』神武天皇に、「えみしをひたり、ももなひと、ひとはいへどもたむかひもせず」と、蝦夷は強い兵だというが全く抵抗しなかったと書かれています。大和朝廷は蝦夷を征伐すること以外を考えなかったのでしょうか?、後の718年『養老令』には次のようにあります。「辺境の国司は蝦夷に対して、饗給、征討、斥候」とあり、大和朝廷の意向を「拒む者が誅」されたのであって、蝦夷の出方によっては飴と鞭を使い分け、生かされた蝦夷もいたようです。

 四道将軍が攻め込んだ頃に築造された東日本で最も古いと言われる古墳が松本平にあります。弘法山古墳66m(国指定史跡)と呼ばれる前方後方墳で、美しい松本平を一望できる山頂にあります。この古墳からは朝鮮半島の楽浪郡(らくろうぐん)で5枚が出土した、獣帯鏡と呼ばれる鏡が埋葬されていました。『漢書』には紀元前1世紀に倭人が楽浪郡に朝貢していたとの記録があるので、約400年間にも及ぶ朝貢関係の中で賜った鏡がここに存在していることになります。楽浪郡は313年に滅亡したので年代の目安にもなり、大和朝廷に派遣された将軍の墓所ではないかと考えられています(東海地方西部の土器が出土していることから、そこから出兵した軍とも云われています。また前方後方墳の発生地を東海地方とみている研究もあります)。その将軍がどのような目的で派遣されたのかを説明している研究は、今のところ拝見した事がありません。しかし多くの発掘調査から、弥生時代後期に県内各地で繁栄していた集落が、この将軍の派遣と同時期に殆ど消え去ることが判明しています。これにより将軍の目的がこの地域に住む蝦夷の征伐であったことが推定できます。いずれにしろ弘法山の近在では、中山36号墳という中規模な円墳築造が続いてから忽然と途絶えました。

 その他県内には同じ前方後方墳(前方後方形周溝墓5基を除く)が10基存在し、その分布を示すと善光寺平3、中野地域1、飯山地域3、飯田地域3基になります。いずれも松本平で古墳築造が途絶えた後の300〜340年頃のもので、さらに数十年遅れて東北地方の米沢市(山形県)や会津市(福島県)まで前方後方墳が造られるようになりました。また前方後方墳は新潟県の新潟市や三条市など信濃川下流域にも築かれ、善光寺平→中野→飯山→三条と軍団が信濃川を下って行ったことが予想されます。前方後方墳の分布は弥生のクニとも一致しているので、まさにこれらを狙っていたことが分かります 。しかし善光寺平の集落だけは壊滅と言えるような大きな減少がみられないことから、弘法山の科野国造に降伏(従順)したのだと考えられます。これは善光寺平の古墳の規模が30〜40mと弘法山より劣っていること、弥生時代後期からの前方後方形周溝墓の継続とみられる同地域での前方後方墳の築造が理由になります。

 しかし弥生の集落を壊滅させて、広大な長野県にたった50〜100戸程度の人間がやって来ても、それは全体でみると散らばる点にしかすぎません。当然他の大部分の地域に散住する蝦夷の人々の中にはそれに従わない者もおり、天竜川流域にかけての日本武尊の再軍事遠征もそのような理由から行われたと考えられます。千曲川流域で5基の前方後方墳が築造された頃、飯田地域では代田山1号墳(前方後方墳61m)が造られました。科野国造の弘法山と代田山の古墳は、大きさがほぼ同じなので権力の差はそれほど無かったかと考えられます。この頃、日本武尊の軍が通過したと云われる天竜川流域に、景行天皇(335年頃)の命によって須羽国造が置かれました。普通は誰でも須羽とあれば現在の諏訪地域を考えますが、この頃の諏訪に大型古墳は1基も無く(前方後円墳は6世紀後半の下諏訪町青塚古墳67m1基のみ)、代田山1号墳(上伊那の前方後円墳は6世紀後半の箕輪町60m1基のみ)に最初の須羽国造である○○大臣命が埋葬されたと考えられます。270年以上後の聖武天皇の頃に、『続日本紀』の養老5年(721)「信濃国を割いて諏方国を置いた」、天平3年(731)には「諏方国は廃されて信濃国に併合された」という出来事がありました。これは須羽国造という前例があったからこのような事が行われたとも想像できます。その後、飯田地域でも代田山2号墳42m、北本城古墳35mと中規模な前方後方墳の築造が続いて途絶しました。このことから須羽国造はたった数十年(又は3代)で途絶したのではないかと考えられます。そして、それを待つかのように善光寺平で県内でも最大規模の前方後円墳が造られていきました。


 弘法山古墳に被葬者が埋葬されてから50年程が経った西暦340年頃に前方後方墳は造られなくなり、それに代わるようにこれまでない規模の大型古墳が善光寺平で築造されました。前方後円墳の森将軍塚古墳98m(国指定史跡)になります。古墳には三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が埋葬されており、もしもこれが約100年前に邪馬台国が魏国から賜った本当の鏡であれば、卑弥呼と関連する国によって派遣された将軍になりますが、その真実は永遠に明かされません。県内の研究論文では、「森将軍から始まる埴科郡の土口→倉科将軍塚→有明山将軍塚古墳の4代と、千曲川を挟んで同年代に造られた更科郡の姫塚→川柳将軍塚→中郷古墳の3代のものを合わせた7代埋葬者(研究推定350〜490年頃)がこの一帯を支配し、これが後に推定650〜690年頃の科野評(郡の前身)の成立につながった」とされています。しかしこれは間違いで、2000年以降の分析などにより姫塚と中郷は切り離され、他の古墳年代にも修正が加えられ、森将軍→川柳将軍93m→倉科将軍73m・有明山将軍32m→土口67mが一連の関係ある古墳だと判明してきました。さらに『日本書紀』と整合させようとすると450年を越えることに関してどうも不一致だと感じていたところ、これら5基の築造年も修正されて350〜440年頃と言われるようになりました。また、ここで注意しなければならないのが、この頃は5代の前方後円墳だけが築かれたのではなく、中野(中野市)の高遠山55mや七瀬双子塚61m、埴科(長野市若穂)の和田東山古墳群50m前後(大室18号、大星山2号など含む)、さらには方墳ですが上田平の大蔵京35m(上田市)と続く中曽根親王塚古墳52m(東御市) が造られていたことを知らなければなりません。

 それまでの善光寺平は、千曲川と聖川が合流する地域(長野市南部〜千曲市北部)を中心に、湿地帯に多くの田が作られていました。このことから当然それにともなう蝦夷も多数居住しており、この物資と人を支配するために、松本平ではなく「赤い土器のクニ」を母体とした善光寺平へ拠点を置いたと考えられます。科野(神野)国造 建五百建命の祖父である神八井耳命は神武天皇の第2皇子で、これは善光寺平に皇族を頂点とした科野国造が君臨したことを意味します。西暦335年頃の成務天皇4年「国郡に君長なく県邑に首渠のないため、今後は国郡に長をたて県邑に首をおき、各地の有力者をとって国郡の首長にあてよと詔された」と『日本書記』にあります。これにより首長(国造)に森将軍塚から始まる4代(有明山将軍は倉科将軍とも重なり、古墳規模も小さい事から恐らく違う)がなり、蝦夷とみられる前方後方墳以来従う中野地域と水内地域(善光寺平北部の地附山古墳)の系統を引く埋葬者は、国郡の長か県首(県主)に任命されたのだと考えられます。ただし、方墳築造だけを許された上田平における異質性の謎が残ります。あくまで推測の域を脱しないのですが、上田平は後に小県郡と、郡名に「県(あがた)」の名残を残します。また後に述べますが科野国造の領域とは違った要素を持つ地域になるので、上田平は県主に任命され、前方後方墳時代と重ならない前方後方形周溝墓だけが造られた佐久平も、この県主の領域であったとみることもできます。こうしたことからこの約100年間は、「各地の有力者をとって」とあるように、善光寺平の南部を中心に、北は中野地域から南は佐久平までを支配する連合体のような国家が存在していたことになります。よってこの頃は、科野国という国があったのではなく、数人の国郡の長や県首(県主)の中で、弘法山の系譜を引く最も有力な善光寺平の長が科野国造という位に任命されていたという程度だったのです。これらの古墳からは、いずれも内行花文鏡などの鏡が発掘されていることから、「鏡」というのは大和朝廷を通じて科野国造から与えられた国郡の長か県首(県主)の印だったのかもしれません。ただし高遠山古墳からは鏡が出土しておらず、森将軍よりも古いと言われることから、 国郡の長や県首(県主)の任命が行われ始める前に亡くなった被葬者と推定されます。また前方後方墳ではないかとの説もあり、地形図の見方によっても前方後方墳に見え、方墳の四隅が長い年月に雨風によって削られた可能性もあります。

 

 やがて450頃になると、善光寺平の大型古墳の築造は忽然と終わり、代わりに天竜川流域の伊那谷南部にあたる飯田地域(飯田市)で築造が始まりました。ある研究によると「この終焉は善光寺平の勢力が大和朝廷の攻撃を受けて屈服し、郡(評)の前身とも言われる県主などに堕ちたためである」と主張しています。しかし、「西暦430年頃から100年間、日本は寒冷期に入った」と言われるので、北部の善光寺平から飯田地域へ国造が移ったのではないかと考えています。森将軍塚から始まる善光寺平で造られた大型の前方後円墳の周りには、その後100年以上にわたって無数の小型方墳や小型円墳が築かれました。これはこの地域における森将軍塚の系譜を引く者達の権勢が落ちたことを意味しています。

 480年頃になると諏訪大社上社を見下ろす山上にフネ古墳(方墳20m)、松本平に桜ケ丘古墳(円墳30m)、上田平に王子塚古墳(帆立貝51m)、佐久平に北西ノ久保古墳群(方墳35m他円墳)、善光寺平に中郷古墳(前方後円墳53m)や越将軍塚古墳(円墳32m)、須坂に八丁鎧塚古墳(積石円墳23m)、中野に金鎧山古墳(円墳21m)などが築造されました。これらの地域にはさらに数基の中小規模の円墳や方墳が築造され、先に権力の象徴として与えられた鏡は、各地の古墳に埋葬されていました(盗掘によって確認できないものもあります)。ただし中郷古墳は50m級の前方後円墳なことから、この古墳の被葬者の時までは国造の血族など有力な者が残されたか、この古墳への埋葬をもって飯田地域へ移住したとも考えられます。さらに、百済人や高麗人の墓所として知られる積石塚古墳が造られていくのもこの頃で、善光寺平を取り巻く水内地域の地附山古墳群、埴科地域の大星山古墳群と大室古墳群などが代表的(中野地域、松本平、上田平、佐久平にも存在)です。このように上田平、佐久平、松本平、諏訪地域などの、これまで古墳の築造が無かった地域に変化がみられることから、科野国造が飯田地域に移るのと同時期に、これら各地にも人間が分散していったのだと考えられます。

 現在、長野県各地に県(あがた)地名が13箇所残っています。ある研究によると、それが県主の所在であったと言われ、その分布を見ると松本平、 安曇地域、諏訪地域、上田平、佐久平で、伊那谷には1つもありません。そこで私は、科野国造は雪が多く寒冷で穀物収穫量の少なくなった善光寺平を出て、寒冷の影響の少ない伊那谷を直轄として畿内との連絡に便利な御坂峠に近い飯田地域を本拠にしたのだと考えています。残った伊那谷以外の地域には、先にも述べた古墳を築造した国郡の長か県首(県主)の勢力があり、科野国造を頂点に各々が独立していたと考えられます。また、この分布を別の見方からすれば、科野国造と共に伊那谷に移住した長 (首)も、自身の勢力地に僅かな人数を残し、穀物を伊那谷へ輸送させるなど支配力を残したのだと考えられます。

 奈良県の藤原宮跡出土の木簡「科野国伊那評□贄」(650〜700年)からは、更に200年以上経たないと科野国という国が成立していたことを証明できません 。しかし飯田地域に科野国造と国郡の長や県首(県主)が移っても、それは彼等の前方後円墳がほぼ同じ規模なので、変わらずに単なる連合体にすぎなかったと考えられます。飯田地域に移った科野国造の古墳として候補に挙がるのが、桐林にある前方後円墳の兼清塚古墳63m(飯田最古で県宝眉庇付冑が埋葬されていた妙前大塚古墳は円墳なので否定)になります。先程も述べた任命鏡としての二神二獣鏡、画文帯神獣鏡、四神四獣鏡、内行花紋鏡の4鏡が埋葬されており、その後飯田地域で大量に造られた前方後円墳の先駆けとなる古墳でした。このように西暦450年頃に行われた科野国造の移住は、ほぼ長野県全域の主要な平地を有力者が掌握するきっかけになったことが分かります。

 

 西暦520年頃になると長く続いた寒冷期は終わり、西暦580年頃に科野国造は再び善光寺平へ移りました。また、この頃を境に前方後円墳は造られなくなり、飯田地域だけの特殊性は殆ど薄れ、県内の各盆地へ分散するように小規模の方墳や円墳が100基単位で築造されるようになりました。全国的にも十数万基ある古墳の99%が、この西暦500〜690年頃に造られたと言われています。『日本書紀』天智天皇5年(666)に「以百濟男女二千餘人居于東國」と、百済人2千人余が東国に住むことになったとあります。この頃の人間の動きは再び千曲川流域へ 戻っていき、佐久平や善光寺平では数百〜千戸を超える新たな住居が各所で造られるようになりました。こうした百済人も含む多くの民の移住が国策として進められていたのだと考えられます。そして時代は大化の改新を経て、律令国家への道を歩んでいきます。 ※このあたりの話しは後ほど補足します。

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 以上、『日本書紀』を中心に 古墳時代を紹介しました。

 長野県内の古墳は開発で破壊されたり、天災で失われたり、形が変わってしまったものもあり不正確ですが、ある研究から引用すると大小全部で3,100基以上あると言われています。その内、千曲川流域1,900基(61%)、天竜川流域980基(32%)にのぼります。また古墳の副葬品として貴重な鏡については千曲川流域23枚(28%)、天竜川流域60枚(72%)と逆転します。そして円墳より造るのに労力を要し、有力者が埋葬されたと言われる前方後円墳にしても千曲川流域19基(42%)、天竜川流域26基(58%)となり、いずれにしても両地域で90%以上を占めています。また天竜川流域の古墳からは日本でも有数の馬骨や馬具が発掘され、短甲と呼ばれる鎧や鉄剣も数多く出土していることも特徴の1つになります。

 これまで古墳だけから史実を探ろうとする研究には自ずから限界がありました。しかし、その後文化財保護法の制定により埋蔵文化財調査が各地で行われるようになり、多くの調査結果から古墳以外の視点でこの時代を推測することができるようになりました。しかし、長野県内で「遺跡発掘調査結果」、「古墳」、「文献」の3類を交えた研究は殆ど無く、これまでの後2類による研究では、1980年代と2000年代で50年以上も古墳の築造年代が前後したケースが発生する始末でした。これにより今回の余談作成においては、その研究毎の整合と、矛盾の修正に大変苦労させられましたが、3類によって長野県内の古墳時代をより詳しく見ることができました。次にその詳細サンプルとして、飯田の古墳時代を中心に紹介します。

 

 

 古墳時代を考えるには、「弥生時代後期、どこにどの位の人間が住んでいたのかを」知らなければなりません。ある日突然に古墳時代が始まるわけはないので、その発生する要因となった時代背景を把握しなければ、歴史の方向を見誤ります。県内でその軸となるのが善光寺平と飯田地域で、科野国成立過程をみるには善光寺平以外の地域の状況を知らなければなりません。そこで天竜川流域の飯田地域に着目しました。

 弥生時代後期の飯田地域には、現在の伊賀良付近(アップルロード〜鼎(かなえ)) と、市を南北に分断する松川以北の飯田駅〜座光寺(ざこうじ)付近に集落が集中し、その他全域にも集落が拡散するなど、ほぼ現在の中心市街地と重なった地域に生活していました。しかし、弘法山古墳が築造され、須羽国造が現れた西暦300年頃を境に、これら集落は忽然と消滅しました。松本平や佐久平でも同様の傾向で全滅と言っていい程の状態です。しかし古墳時代の人骨は殆ど原形が判明できないほど風化してしまうので、発掘調査から戦闘の痕跡などが確認できません。可能性を示すならば、それまで住んでいた蝦夷人は、上毛(群馬県)や越(新潟県)など新天地に後の柵戸のように連れられたか、畿内へ奴隷として連れ去られた事も考えられますが、減少した分の増加が見出されないことから殺害とした方が矛盾がありません。どの位減少したかというと、発掘された竪穴式住居数だけでみると95%以上減となります。しかし全滅した集落が多くある中で、座光寺の恒川遺跡だけは規模を大きく縮小して、それから80年近く経った380年頃まで生活痕跡がみられるので、代田山1号墳(松尾)の被葬者である須羽国造は座光寺を拠点にしていたと考えられます。

 須羽国造が途絶えてから50年間近く、飯田地域における人間の生活痕跡は閑散としていましたが、日本が寒冷期に入った430年頃を過ぎると科野国造が多くの民を率いて善光寺平から移住して、集落が増加していきました。新たな集落は川路(かわじ)を中心とした地域で、閑散としていた座光寺の恒川遺跡にも再び人が集まり、鼎(かなえ)には拠点となる集落が造られました。これによって弥生時代後期の50%程度まで回復しました。これらの箇所については、発掘調査によって明らかにこれまで住んでいた者達とは違う集団の集落だと言われています。しかし鼎の中心となる大集落はこれから100年程経って突如姿を消すので、座光寺〜川路の天竜川沿いの集落とは違う性質の一団ではなかったかと言えます。古墳に関しては、桐林(きりばやし)にある前方後円墳の兼清塚古墳63m(けんせいづかこふん)が早く、続いて座光寺〜川路の南北10km以内(東西0.5km程度なので5km2以内)に30〜80m級の前方後円形古墳が集中的に造られました。 これは5年に1基築造されるようなペースで、ここに住む人々が延々と古墳に使役されていたことが予想されます。通常、首長が約5年毎に次々と死亡することはありえないので、ある研究では「少なくとも8つの小規模な地域集団の長が、ともに同じような政治的位置についた」としています。そして、飯田地域の古墳は3〜5代の連続する系統が幾つかに分けられることも報告されているので、これらの説を総合すると「科野国造に従って他地域の長も、寒冷によって移住してきた」と考えることができます。また、ある研究によると「これは大和朝廷の有力な諸豪族から、それぞれ送り込まれてきた集団である」と主張しているものもありますが、その根拠が示されていません。8程度の集団を推定すれば、善光寺平の科野国造、高井地域(中野、須坂)、水内地域(地附山、飯山)、埴科地域(松代、若穂)、上田平、松本平、佐久平などになります。これを裏付けるには、各地域と飯田地域の古墳を今後比較検討することが必要になります。

 その後、鼎と川路の集落はさらに肥大化して弥生時代後期に匹敵する興隆をみせるようになり、松尾には新しい拠点集落が造られました。この頃の古墳からは馬歯と馬骨、馬具が著しく出土していることから、多くの研究者が飯田で馬の飼育が行われていた可能性を指摘しています。ある研究によると、馬が埋葬されていた土壙(どこう、単に土へ開けた埋葬穴)が全国192基発見され、その内長野県で41基 (全国の21%)、内飯田では28基(全国の15%)が発見されています。その内26基が座光寺と松尾だけから発見され、全て440〜490年頃のものと推定されています。篠ノ井遺跡群(長野市)では中部地方で最古となる380年頃の馬歯が発見されており、既に蝦夷集落を壊滅させた集団が、馬を用いていたことを推定できます。また古墳に馬具が埋葬されていた数を見ると、群馬県300、福井県270に次いで長野県は240基となり、その内飯田地域は93基になります。上郷別府の宮垣外遺跡10号の馬骨は牡馬11歳前後ですが、ただでさえ小さな木曽馬より小柄であったようで、当時の馬がどのようなものであったかを知ることができます(飯田市立上郷考古博物館蔵)。

 平安時代になると、朝廷に収められる馬の半分は信濃国産でした。その前身ともなる「牧」 のようなものが、この時代から存在していてもおかしな話しではありません。『日本書紀』天智天皇元年(662)に「牧を置いて馬を放つ」とあり、500年代での存在に可能性を与えてくれます。さらに『大宝令−厩牧令』からどのような 「牧」であったかを参考にすると、「毎日上馬に栗1升、稲3升、豆2升、塩2斤。11月上旬からは乾草、4月上旬からは青草を与える。乗馬に堪え得る牧馬は軍団に渡して兵馬に用いる」とあります。また「厩に附属する馬戸を設け、馬戸に附属する正丁は200囲(周長600尺)、次丁は100囲、中男は50囲の草を調達する」ともあり、座光寺〜川路に住む集落の人々が「牧」に使役されていたと考えられます。何故飯田で馬の飼育が行われたのか疑問が湧きますが、次のように考えられます。馬の飼育場は天竜川沿いと考えられ、これらの地域には後の条理遺構が無く、当時から良田と言えるような水田がありませんでした。そこで馬に稲を踏み荒らされず、さらに東西を天竜川と段丘崖に挟まれ、南北に幾つもの支流が形成した谷が走り、ある一定の広さをもつ丘陵地のもとで、馬の移動を容易に制限できたから適地とみなされたのだと思われます。「牧」の位置をもう少し具体的に推定すると、継体天皇の頃の畿内における「牧」は淀川水系の氾濫原にあったと云われています。これをこの地域で探すと、座光寺(松川、土曽川合流点)、松尾(毛賀沢川合流点)、川路(久米川合流点)の天竜川沿いに広い氾濫原がありました。また、これら支流は頻繁に土石流をおこし、天竜川合流まで流れて荒涼とした石原の風景が広がっていたと思われます。

 この馬を埋葬するという行為について『日本書紀』大化2年(646)に興味のある記事があるので紹介します。「凡人死亡之時。若経自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或為亡人蔵宝於墓、或為亡人断髪刺股而誄。如此旧俗、一皆悉断。」ここには、「おおよそ人が死亡した時、若い人は首をくくって自ら殉死し、或いは人を絞りて殉死させ、及びあながちに亡人の馬を殉死させ、或いは亡人の為に宝を墓におさめ、或いは亡人の為に髪を切り股を刺して偲びごとす。この如き旧俗を一に皆悉くに断めよ。」と、孝徳天皇の命としてあります。この1文から、馬を古墳に埋葬することを禁止するとともに、生きている人間を殺して埋葬していたことが分かります。長野県の古墳時代に大きな人口増がみられないのは、多くの人間が古墳の被葬者と共に埋葬されていたからかもしれません。この文は近代になって学者が名付けた有名な「薄葬令(はくそうれい)」と言われるもので、実際に「薄葬令」という名の令があったわけではないので注意してください。この文の前には、人を疲弊させる古墳築造を「悪習」とし、位に応じて大きさを制限する命令も書かれていました。それだけ人民を強制に使役していたとみられ、森将軍塚古墳の築造には延5万5千人使われたと云われています。

 

 そして継体天皇の西暦530年頃になると、全国に馬具が普及していきました。この頃から580年頃まで、松尾に築造された前方後円墳は代田獅子塚61mを最大に8基になります。竜丘(川路含む)では塚越1号72mを最大に10基となり、帆立貝式や円墳なども加えると、この地域に20〜50m級が更に7基以上造られました。さらに、これまで松川以北に大型古墳は造られていませんでしたが、座光寺(上郷含む)に雲彩寺74mや高岡1号古墳72mを最大に5基の前方後円墳が築造されました。そして円墳になりますが、座光寺の畦地第1号墳からは銀製長鎖式耳飾という珍しい物が出土し、戦前の研究では「国造家の治所がここに存在していた」と報告されています。そしてこの座光寺は、奈良時代になっても飯田地域の中心であり、伊那評衙を経て伊那郡衙(伊那郡の役所)になったと推定されています。これまで各長(首)が築造できた古墳が30〜40m程度であったのに、飯田地域で60m以上の前方後円墳が造られたのは、馬によって大和朝廷からその権利を認められたのかもしれません(又は継体天皇への軍功か?)。しかし通説では「国造は大和朝廷支配下の6〜7世紀頃、全国に設定された地方官である」(それ以前の旧国造とは別の目的を持った初期官僚制度の国造と考えられる)と言われるので、各長(首)の飯田地域への集住と、その後に彼等への国造任命が一斉に行われたため、その位に応じた古墳築造が行われた可能性とも考えられます。

 やがて550年頃を過ぎると人口が半減し、人々は温暖化によって暮らしやすくなった北方へ移って行きました。そして580年頃になると約150年ぶりに科野国造が善光寺平へ移住し、飯田では川路、松尾、座光寺にわずかながらの集落を残して再び人間の生活痕跡が殆ど無くなりました。これは西暦290〜340年頃と同程度の減少で、鼎にあった大集落は消滅しました。飯田の前方後円墳は先にも挙げたように多数築造されましたが、現在ほとんど6世紀後半に推定されています。しかし、この人口減少は人間を多数要する古墳造りと相反しないことから、6世紀後半でも580年頃にあった減少以前までの築造と逆に確定することができます。この減少は既に国造の治世が確固たるものとなっていたので、征圧など攻撃的なものが原因ではなく、科野国造に従って千曲川流域へ移っていったと考えるのが自然です。

 また、この頃どのようなルートで都と繋がっていたのか興味が湧きます。そのきっかけとなるのが、飯田地域の西側方面の遺跡や県内の峠遺跡になります。西暦300年頃、他の地域と同様に須羽国造によって西側山麓の弥生集落も姿を消しましたが、この頃から御坂峠(岐阜県境)〜雨境峠(北佐久郡立科町)〜入山峠(群馬県境)において、石製模造品(せきせいもぞうひん、石で何かを真似た物)という遺物が用いられるようになりました。これにより既にこの時代から御坂峠ルートによって岐阜県や群馬県を繋ぐ流れがあったことになります。それから150年間近く飯田地域の西側方面で人間の生活痕跡は見られなかったのですが、450年頃から科野国造が飯田地域に移ると、飯田の西玄関にあたる阿智地域や西側山麓(伊豆木、大瀬木など)に小規模な集落が造られるようになりました。この頃になると石製模造品が祭祀道具として佐久平、善光寺平、松本平からも顕著に見つかるようになり、飯田地域を中心に長野県全体(木曽を除く)が1つの連合国家として成立していた根拠の1つになると考えられます。それから580年頃になると、阿智地域や西側山麓の集落は忽然と消えました。しかし700年代に大宝令・養老令によって東山道が定められるのと同時期に、その路線上である阿智地域や西側山麓の集落は再び現れました。これは、科野国造が善光寺平に移ってから、伊那谷は新潟県や群馬県へ向かうただの通過点に過ぎませんでしたが、律令の整備に伴って再び人間が配置されていったことを示しています。

 そして西暦580年以降の飯田地域における人口減と連動するかのように、今度は伊那谷北部(箕輪町)、諏訪地域、松本平、善光寺平、佐久平など県内各地で大きな集落が現れ、それに伴ってこの地域で古墳が造られるようになりました。ある研究によると小さいもので数mとなりますが、伊那谷北部では180基、諏訪湖の周囲で95基、松本平で60基以上、佐久平で240基、善光寺平で1000基以上の古墳が造られたと言われています。飯田が西暦580〜700年に閑散としている中で、千曲川流域はさらに数百戸以上の集落が次々と造られていきました。

 記録によると、ちょうどこの頃の欽明天皇(571年崩御)と敏達天皇(585年崩御)の時に、科野国から天皇の周囲で働く舎人(とねり)が朝廷へ差し出されました。彼等は宮殿の名を取って欽明天皇では金刺舎人(かなさしのとねり)、敏達天皇では他田舎人(おさだのとねり)と呼ばれました。派遣した科野国では、都にいる彼等を養うための民(部)が選ばれたと云われています。そして後の律令制定により、中央との繋がりを持つ彼等が信濃国各郡の郡司大領(郡の長官)として登場してきます。下に『信濃史料』から朝廷との繋がりがみられる信濃国の事象を掲載しました。

 

大化元年(645):拝東国等国司

和銅元年(708):従5位下小治田朝臣宅持為信濃守

和銅7年(714):従5位下佐伯宿禰沙弥麻呂為信濃守

天平3年(731):従5位下巨勢朝臣又兄為信濃守

天平18年(746):従5位下物部依羅朝臣人会為信濃守

天平19年(747):信濃守佐伯大成、橘奈良麻呂ノ謀反ニ座シテ任国ニ配流セラル、従5位下坂合部宿禰金網為信濃守

天平勝宝4年(752)筑摩郡司大領外正7位他田舎人国麻呂

天平勝宝7年(755)、「から衣裾にとりつき、泣く子らを置きてぞ来ぬや母なしにして」国造小県郡他田舎人大島

天平宝字元年(757)、忌部宿禰鳥麻呂為信濃守

神護景雲2年(768)、信濃国牧主伊那郡大領外従5位下勲6等金刺舎人八麻呂

宝亀4年(773)、小県郡跡目里ノ人他田舎人蝦夷

宝亀5年(774)、従5位下石川朝臣望足為信濃守

貞観4年(862)埴科郡大領外従7位金刺舎人正長

貞観5年(863)諏訪郡人右近衛将監正6位上金刺舎人貞長賜姓大朝臣並是神八井耳命是苗裔なり

 

 これにより「国造」から「国司」へという制度改変を大化の改新からとすれば(通説では天武朝と推定される)、それ以後に任命された信濃守=信濃国司は、直接信濃国と関係のない従5位下クラスの朝廷の人間が数年単位で任命されていたことが分かります。ここには掲載しませんでしたが、国司の次位「信濃介」も同様で、貞観5年にある科野国造一族の金刺舎人などは郡司までにしか任命されませんでした。こうしてみると、大化の改新〜大宝律令施行(〜702年)により、古墳築造や殉葬人馬など、これまで各地の国造が持っていた権利が廃止され、朝廷を頂点とした中央集権国家が成立したことが分かります。上表によると、古墳時代に科野国造が在所した伊那(飯田地域)と埴科(善光寺平)の郡司大領に金刺舎人が任命されました。律令の選叙令には、大領は「性識清廉にして、時務に堪える者」で「複数の候補者があって才用が同じならば先に国造をとれ」と規定されていました。また、飯田地域に君臨していた時の勢力範囲であった諏訪も金刺の治める所で、ここではしだいに諏訪大社と関わりを持っていくようになります。あくまで推測ですが、大化の改新以後に「諏方評」という、現在の諏訪郡と上下伊那郡を含む古来からの領域があり、大宝令によって諏方郡と伊那郡に分割されたのかもしれません(『隋書』国造120が、『延喜式』などでは590に増加しているので、国造領域が幾つかの評(郡)に分割・削減されたという研究がります)。

 また宝亀4年に「他田舎人蝦夷」という人物が出てきますが、『蝦夷』研究によると、過去に蝦夷から朝廷に服属した一族には「蝦夷」や「毛人」という名が付くそうです。そうなるとこれまで他田舎人は郡司なので、金刺舎人と同様に科野国造の一族だと安易に論じられてきましたが、他田舎人は古墳時代(恐らく崇神天皇の290年頃)に科野国造に服属した有力蝦夷(大和朝廷が言うところの大蝦夷か)であった可能性を挙げておきます。他田舎人が科野国造の一族だという説は、史実を反映した部分もありますが偽系図と言われる阿蘇神社蔵『阿蘇家畧系譜』類だけに根拠を置いているので(ここから他田舎人が伊那郡と関わりがあったという異説がありますが、他の史料には全くありません)、信憑性がありません。上表の史料から、大宝律令成立期に他田舎人が治める所は小県(上田平)と筑摩(松本平)であり、科野国造が在所した伊那(諏訪含む)と善光寺平(埴科、更級)以外の地域になります。あくまで推定ですが、科野国造(金刺の祖先)を「有力者をとって国郡の首長」とし、蝦夷の他田舎人の祖先はそれになれなかった県首(県主)だったと考えられます。そして、西暦480年頃小県地域から筑摩地域に進出して力を持ち始め、飯田地域に居住した頃に国造となって、570年頃には舎人を出すほどまでに成長しました。金刺舎人に続いて出していることから、両者は対抗していた可能性が考えられます。なお、天平勝宝7年にある「国造小県郡他田舎人大島」は、上田平に初めて律令制度に準じて造営された信濃国府に居た者であると考えてしまいますが、国司は別の者(坂合部金網か)がいて、通説では「国造は大化の改新によって郡領となった」とあるので、「小県郡司大領の他田舎人大島」と表現するところを簡略して国造と記載したのだと考えられます。

 話しは戻りますが、西暦580年以降の各地における人口増は、単に飯田地域からの移住者だけでは数の説明がつきません。西側からの移民もさることながら、朝鮮半島からの移民も多数いたと推定されています。既に500年頃から善光寺平東部の埴科(若穂、松代)、高井地域(須坂、中野)に百済人が多く住んでいました。百済は660年に滅亡したので、それ以前から日本と朝鮮半島の交流が深かったことが分かります。その他に高句麗の668年滅亡などにより、伽耶人や高句麗人(高麗)の移住も考えられます。後の『日本後紀』延暦18年(799)年には次のようにあります。

 

「信濃国の人、外従六位下ケル真老、後部黒足、前部黒麻呂、前部佐根人、下部奈弓麻呂、前部秋足、小県郡の人、無位上部豊人、下部文代、高麗家継、高麗継楯、前部貞麻呂、上部色布知等申す。己等の先は高麗人なり、小治田、飛鳥の二朝廷の時節に帰化来朝す。それより以還、累世平民にして、未だ本号を改めず、伏して望むらくは、去る天平勝宝九歳四月四日の勅に依って、大姓に改めんことをと。真老等に姓を須々岐、黒足等に姓を豊岡、黒麻呂に姓を村上、秋足等に姓を篠井、豊人等に姓を玉川、文代等に姓を清岡、家継等に姓を御井、貞麻呂に姓を朝治、色布知に姓を玉井と賜ふ」

 

 これにより推古天皇の西暦603年から100年間に、高麗人が科野国に移住し、さらに朝廷より位を賜っていた者までいたことが判ります。そして、それから50年以上経った天平勝宝9年(757)、彼等は日本姓に改姓を願い出て完全に帰化しました。このように広い長野県の各地に、長年にわたって海外からの移住者が定着し、西側からの移住者を含めて、各郡(評)の集合体としての信濃国が実質的に成長していきました。また、この文が信濃国=科野国と、小県郡に分けて記載しているところに、先に書いた金刺と他田の2大勢力の存在を強く感じさせてくれます。

 

 長野県ではこの頃の国府がどこに置かれていたのか長い間論争となっています。最も古い説では「筑摩」、次は「上田→筑摩」とあり、最近は「埴科→上田→筑摩」と言われるようになりました。しかし、これまで述べてきたように、西暦300年頃は善光寺平の科野国と飯田地域の須羽国の並立があり、450年頃からは飯田地域に科野国がありました。長野県の歴史では国府の位置問題とともに、「いつ、現在の長野県と同じ程度の規模に相当する科野国が成立したのか?」という問題がよく論じられています。それはこれまで述べてきたように、科野国は多くの勢力が集まった連合体の1つにすぎず、それが国として纏められたのは大化の改新以後(大宝律令)によるもので、朝廷の権力による強制的な制度改変にともなったものでした。

 飯田地域から移った科野国造は何処に居たのでしょうか?、その候補となるのが埴科郡の屋代(やしろ、千曲市)です。『日本書紀』推古15年(607)に、「国毎に屯倉(みやけ)置く」とあります。屋代遺跡群から発掘された大型掘立柱建物群がそれに該当するとみられ、さらに鍛冶や紡錘工房、科野国最大規模級の集落も発掘されました。発掘調査の考察では、孝徳天皇〜天武天皇初頭(645〜680年)にかけて政治体制の整った施設が造られたことを論じています。この件に関して「埴科と更科はこの頃に科野評という1つの領域であった」との説がありますが、私も両郡に別れるのは上田に国府が置かれる西暦700年前後ではなかったかと考えています(それ以降の屋代遺跡群の施設は埴科郡衙)。そして和銅6年(713)『続日本紀』にある「畿内七道諸国の郡郷の名は好字を著けよ」のように、この頃までには、恐らく科野国から信濃国という字に改変されていたと考えられます。いずれにしろ、この地域で科野国は終わり→信濃国の上田国府(小県郡)→信濃国の筑摩国府(松本平)と国の中心が移っていくのだと確信しています。そして、未だ発見されていない筑摩国府の推定地は、松本市の県町(あがたまち)になります。こうしてみると、金刺と他田の争いは、国府の位置でみる限り他田一族の勝利となったようです。国造から成長した郡司大領は、任期の短い国司と違って、終身官であることから在地で大きな力を持っていました。他田は朝廷との繋がりを太くし、国司を巧みに取り込んで信濃国の官僚のトップとして君臨していったのです。

 近年、上田市に現在ある国分寺の北で、国府の外周堀と思われるものが発掘されました。屋代で掘立柱と竪穴式住居に居住していた国造は、上田では四角に整形された堀や塀に囲まれた瓦葺の建物を造ったと推定されています。この遺構はまだ発掘されていませんが、これまでの成果から現在の国分寺本堂の北側一帯が最も有力だと思われるので、今後の発掘に期待します。また、創建当時これより南にあった国分寺(しなの鉄道付近)に使われた瓦には、「伊」「更」の文字が刻まれていました。これは伊那郡と更科郡が瓦の費用を負担した印だと云われ、実際には埴科郡の土井ノ入窯跡(坂城町)で焼かれたものになります。他田の領域ではなく、金刺の領域に瓦の製造を一手に負担させた謎が出てきますが、邪推をすると「権力を持った他田を介した国司命のもと、技術集団を多く保有していた金刺に、瓦や金具類の製造を使役させたのではないか」、または金刺が5〜6位であることから「官位を得るために進んで貢献した」とも考えられます。

鎧塚1号墳出土の帯金具(須坂市)

 

 以上で2008年の幕開けにふさわしい、信濃国への成り立ちの道しるべを照してみました。ここでさらに面白い文があるので、新年にあたり紹介します。

 

 推古天皇10年4月8日、信濃国の人、若麻績東人(わかおみのあずまんど)、上洛し下向の日、この仏を伝え奉る。自ら負いて下る。時の京は大和国高市郡小治田宮なり。路地の宿々に敢えて背を離さず国々の司々これを聞き、彼に感じて宿り毎に免田す。本国の麻績村に下り着きて寺を造り、据え奉る。41年礼拝供養す。皇極天皇元年、時の京は大和国高市郡明日香川原宮なり。長老の東人、水内の宅の庇にこの仏を渡し奉り、即ち草堂を作り、居し奉ること既におわりぬ。夙に仏を見奉るに見え給わず。驚きて宅に還るに厳然として庇に有り。宅を改めて寺を作る。善光寺これなり。

『伊呂波字類抄』鎌倉時代

 

 『善光寺縁起』では本田善光にあたる主人公が、ここでは若麻績東人(わかおみのあずまびと)になっています。若麻績東人は推古10年(602)に仏像を持ち帰って、麻績村に寺を造りました。それから41年後の皇極元年(642)に、一族の長老となった東人は水内の宅に仏像を移して、これが後の善光寺になったと記載されています。若麻績東人は、麻を紡ぎ麻布を織る科野国造配下の麻績部だったと云われています。奈良時代の長野県で麻績郷は、伊那郡(飯田市座光寺)と更科郡(麻績村)にありました。伊那郡ではこれを根拠にした不捨山如来寺別名の「元善光寺」があり、初詣は境内が埋まるほどの大賑わいです。推古10年といえば、飯田地域から善光寺平に科野国造が移住した直後の時期で、その両所に麻績があるのは、科野国造が移って職業集団である幾つもの部も連れられていったからと考えられます。そして、屋代の遺跡からは大量の麻種が出土しました。このことから水内郡に造営された善光寺の土地は、麻績東人の自宅があった場所になるので、可能性を示せば、この付近の善光寺創建当時の土層より下からは、麻種が多く出土するかもしれません。

 

 以上、新年の余談としました。

 長野県における古墳遺跡の整備は、森将軍塚と弘法山古墳の2基や大室古墳群を除いて大変遅れています。歴史的な位置付けがしっかりとされていないので、その価値が県民に知られておらず、説明を受けても感動(反応)が無く、存在すら知らない人がほとんどです。多くの古墳には木が生い茂り、毎日その脇を通っていても山なのか古墳なのか区別がつかず、それが古墳だと知る人も殆どいません。以前「長野県に古墳なんてあるの?」と疑っていた知人に、飯田市や長野市の古墳マップを見せたところ、「こんなに古墳があったのか」と、大変驚いていました。一般的な長野県民にはこの程度の認識しかなく、多額の税金を使った発掘調査や保存の結果は、ほとんどが報告書などを作成して終わりとなってしまい、真の意味が達成されていないのが現状です。最近は多くの開発が行われても、人手不足から発掘調査が追いつかず、せっかくの調査チャンスを見過ごして開発許可を出してしまっている本末転倒のケースも多くあります。名神高速道路を京都方面へ向かっていると見える滋賀県東近江市の木村古墳群、単なる円墳57mでさえ美しく復元され、見る度に羨ましく思えてなりません。長野県の古墳は約1300〜1600年の時が経つ間に多くが消滅しましたが、辛うじて国県や市町村の史跡に指定されて生き残っている古墳もあります。まだ山中に埋もれている古墳もあることでしょう。今後は良い活用方法を研究し、保存利用されていくことを望みます。

 中世以降になると支配者の影響や自らが生きる為に、甲斐、上野、美濃、越後など周辺国から移って来た者もいますが、これらの国も信濃国と類似した古墳時代を経てきました。江戸時代にこうした人の移住は殆ど固定されたとみられ、やがて現代の私達の流れに繋がっていきます。こうしてみると、私達の祖先のルーツを漠然と想像すると、多くが縄文時代からの系譜を持つ者ではなく、古墳時代に中京や畿内方面からやって来た者達であったということになります。昨年、中野市で出土した銅弋と銅鐸を地中に埋めた人々(の末裔)、どのような運命を辿っていったのか想像しながら楽しんでください。では

 

・・・・・四方赤良

四方赤良余談6

其之83以降


四方赤良余談5

其之82以前


四方赤良余談4

其之76以前


四方赤良余談3

其之71以前


四方赤良余談2

其之63以前


四方赤良余談1

其之52以前


四方赤良余談

其之38以前


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