四方赤良の余談集6

『四方赤良』

江戸日本橋新和泉町の銘酒「滝水」で有名な酒屋四方久兵衛の店で売る赤味噌や酒の略称と云われている。

 


四方赤良

名月の御覧の通り屑家かな・・・小林一茶

『其之 86』H23.7.1〜H24.1.1

ぶらっと小諸城へおじゃましました。

緑苔に覆われた黒い野面石の石垣、それとは対象的に咲き誇る桜の木々、 長野県小諸市 の『懐古園』(かいこえん)は、佐久地方の花見の名所として著名な観光地になります。ここがかつて江戸時代まで小諸城であったという事は多くの人が知るところでしょう。しかし、私も数年前まで漠然と懐古園=小諸城だと理解していましたが、『国指定重要文化財小諸城』を調査するにあたって、その考えは間違いであったことを知りました。

文化財の位置付けとして、国では小諸城の名称で登録していますが、その中の重要文化財の定義である「日本国にとって重要とされる建造物」としては、懐古神社が所有する明和3年(1766)建造の【三之門】と、 小諸市 が所有する慶長17年(1612)建造の【大手門】になります。三之門は懐古園の入城門として最も目立つ存在であり、かつ多くのパンフレットに掲載されているので、必然的にこの門より奥が小諸城と錯覚してしまいます。しかし、しなの鉄道を挟んで300m程離れた大手門を訪れた時、誰もが同じような疑問を抱きます。「あれっ、何故こんな場所に大手門があるのだろう?」、「移築したのであろうか?」。雑念を捨て素直に考えれば、ここまで小諸城内であったことに気付くことができます。こうした新たな疑問から生まれた発見をきっかけに、小諸城とはどのような城であったのか江戸時代の風景を求め、ぶらっと小諸を散策してみることにしました。しかし、どの場所が昔どのような場所だったのかを教えてくれる地図がないと不便でなりません。そこで下記へ用意しましたので、印刷等して見ながら下記余談を御覧ください。

ぶらっと小諸地図※(adobe pdf)

小諸城大手御門

まず歩く前に、城内・城外を含めたいわゆる『小諸』の全体的な地形を頭に入れておきます。小諸を造り上げたのは仙石越前守秀久になります。彼は天正19年(1591)相模国小田原城の北条征伐の功で、徳川家康の関東移封にともない空いた小諸5万石を豊臣秀吉より拝領しました。ここにはそれまで武田家が築造した戦国時代の小諸城がありましたが、仙石秀久は新しく整備された北国往還と城下町、さらに武家屋敷と城郭が一体(総構)になった近世的な城に整備しました。それはいわゆる縄張りというもので、今回は江戸時代全般に使用され続けた彼の築城術を広い視点で捉えてみることにします。近世的な城とは、堀と狭間の付いた城壁に囲まれた曲輪(くるわ)に構成された平城や平山城のことを指しますが、小諸城はこの種とはやや異にします。

余談にあたって再々多くの小諸城に関連した本を調べさせてもらいましたが、意外に大切な事が見落とされているように感じられました。それは各本の内容が、懐古園を中心としたやや観光的な要素に染まり、仙石秀久が縄張りした広義の小諸が紹介されていないという点になります。仙石秀久が縄張りした小諸の中で実はその要となるのが、地図右上にある本丸から1.1km離れた『天国山成就寺』になります。成就寺の標高は縄張りの中でも高い位置にあり、寺の東裏側には高さ20m程の不自然な小山があります。現在は墓地に利用され、高津屋山から続く尾根の先端のようにも見えますが、わずかに露出した地質を見ると、恐らく縄張りの際に人工的に盛った山だと考えられます。そしてこの山の北側を『中沢川』、50m程離れて南側に『松井川』という小諸にとって重要な河川が千曲川へ流れています。両河川をつぶさに観察していると、どうやら中沢川はこの成就寺付近で松井川に合流しようとしている力が働いているらしく、その力を成就寺と小山の存在によって妨げています。この2つの河川は小諸において天然の水堀の機能を要し、仙石秀久の縄張りにおいて、両河川が合流してもらっては困るのです。中沢川と松井川は、西へ流れ下るにつれてその距離は少しずつ広がり、堀を谷のように深くし、扇の端にあたる千曲川では約2kmも離れて合流しています。そして城郭はこの内に縄張りされ、成就寺と本丸を結んだ直線を軸に、ほぼ左右対称に城郭が連郭式に組まれました。

そもそも中沢川と松井川は、浅間山系の『黒班山』(くろふやま)付近を源にしていますが、太古の昔は今の川筋を流れていませんでした。 御代田町 から 小諸市 にかけて自動車で移動していると気付くことがあります。それは10〜30m程の田切(たぎり)と言われる連続した白い崖が田園や河川の周辺であちこちに見られ、おおよそ浅間山の方向から放射状に広がっています。これは1万年以上前に起こった浅間山からの大規模な火砕流が堆積し、たまたま他より凹化した地形の所を、長い年月にわたって雨又はそれが集合した河川が流れて土を削り、まるで爪で引っかいたような地形が造られたからになります。小諸もこの厚さ数十mの火砕流堆積物の上にあり、中沢川と松井川が流れる位置を少しずつ変えながら、千曲川に向って深く刻んだ田切を幾つも造り上げました。そこで少し疑問に思うことがあります。それは 小諸市 の耳取や平原の田切を見ると、千曲川から数km以上も離れている場所でも同じような比高で崖が延々と続いています。しかし、小諸では懐古園の周辺にしか田切が見えません。それは何故でしょうか?そのヒントが江戸時代の洪水にありました。寛保2年(1742)に戌の満水(いぬのまんすい)と呼ばれる江戸時代最大の洪水がありました。この時に浅間山麓の斜面が崩落して中沢川を堰き止め、やがて決壊して小諸城下に大量の土石流が流れ込んで甚大な被害を与えました。このような大量の土砂の流入が恐らく1万年の中で何度も発生し、深く刻まれた田切も上流ほど埋められていったと考えられます。そして戦国時代になって、埋められず残存していた利用可能な田切が堀、田切と田切の間の台地が曲輪として武田家に利用されました。恐らく小諸城下の本町や馬場裏町付近を掘ると、岩石が混ざった深さ数十mにわたる土石流の堆積した地層が、白い火砕流堆積物層の谷間から出てくるかもしれません。

小諸の田切地質拡大写真

こうした数多くの田切で刻まれた地形の中で、小諸には特徴的な傾斜があります。小諸は全体的に東から西へ、浅間山麓から千曲川に向って緩い傾斜が付いていますが、その中において地図紫線の「ヘの字」に通る北国往還は、馬の背のようにやや微高地を成しています。そして江戸方面から深い蛇堀川を渡って小諸城下町の与良町に入り、荒町を過ぎて松井川を渡り、本町− 中町 −市町を過ぎて中沢川を渡り、田園の中を上田藩領へ向うルートとなっていますが、ほぼ一貫して下りの傾斜となっています。 中町 では北国往還が鍵の手となって往来者に不便を与えていましたが、そこに立ち塞がっていたのが【鍋蓋曲輪】になります。小諸全体の地形の中で、そこだけが瘤のようにポツンと飛び出た地形を成し、江戸時代では城代家老の屋敷でした。小諸の縄張りとは、この北国往還の馬の背ラインから三之門と【筒井曲輪】付近に向って下り傾斜がつく地形となっています。かといって下の地形が丸見えといった程の急な傾斜ではありません。ただし、北国往還は江戸寄りの与良町や荒町付近ほど標高の高い位置にあたるので、現在の 小諸市 役所を中心とした行政区域は、筒井曲輪に向って急な傾斜を成しています。よってこの付近は、江戸時代の低い建物では屋敷内が上方から丸見えとなってしまうので建築物は何も構築されず、蛍が舞う段々の田園となっていました。

次に小諸を支配した小諸藩についてですが、皆さんは誰の領地だったのか知っているでしょうか。仙石越前守秀久が慶長18年(1613)に死亡して息子の兵部少輔忠政が継ぎ、後に徳川大納言忠長、松平五郎、青山因幡守宗俊、酒井日向守忠能、西尾隠岐守忠成、石川美作守乗政と関ヶ原の戦い以降102年間に8人を経て、ようやく元禄15年(1702)牧野周防守康重が1万5千石で拝領し、以後約170年牧野氏の統治となりました。仙石氏は5万石と佐久郡全域を支配していましたが、牧野氏の統治は縮小して享保2年『知行目録牧野家領地』によると下記のとおりになります。

佐久郡の内、市町、本町、与良松井、加増村、諸村、菱野村、 西原村 、滝 原村 、馬瀬口村、塩野村、根々井塚 原村 、塩名田村、森山村、平 原村 、山浦村、御馬寄村、桑山村、 蓬田村 、八幡村、望月村、望月 新町 、茂田井村、芦田村、山部村、藤沢村、塩沢村、細谷村、印内村、下之城村、大日向村、羽毛山村、島川 原村 、布 下村 、柏木村、耳取村 高15447石

小県郡の内、井子村、芝生田村、桜井村、大石村、藤原田村、南方村、狐塚村、 坂井村 、石井村、中丸子村、下丸子村、長瀬村 高3954石

外、4402石物成詰込高、13382石新田改出

以上を合計すると3万7千石となり、1万5千石の倍以上の収入があったことがわかります。何故これほどの破格の待遇が幕府によって行われたのでしょうか。牧野康重は本庄宗資の息子でしたが、越後国与板藩1万石の牧野家へ養子となり、13年後の元禄15年に5千石加増されて小諸を拝領しました。この時、本庄宗資の姉は将軍徳川綱吉の生母桂昌院になります。当然ながらこの伯母の力によって加増に特典を加算して小諸を拝領したことがわかります。また、そもそも養子先として牧野家が選ばれた理由として牧野成貞という人物が浮かび上がります。牧野家の本家は越後国長岡藩になり本庄家とは関係がありませんが、この初代長岡藩主牧野忠成の弟の息子が成貞になります。彼は早くから徳川綱吉の側衆となり、後に江戸幕府で初めての側用人となって徳川綱吉政権を支えていました。彼の親戚筋にあたる与板藩主牧野康道(長岡藩主牧野忠成の孫)に子がなかったため、桂昌院の意向もあって養子となったと考えられます。

さて、このような総体的な小諸のありようを頭に入れつつ、いよいよ巡ってみようと思います。

まず、小諸グランドキャッスルホテルと信州蕎麦の草笛小諸本店の間の小諸市道を西へ下ってみることにしました。左側に舗装された広い市営駐車場が見えます。ここは【陵神曲輪】と【二ノ丸】の間にあった【北谷】を埋めて駐車場にしたもので、戦後アメリカ軍が空撮した写真にはその美しい線形の陵神曲輪をはっきりと見ることができます。何の形に似ているかと考えましたが、ゾウリムシか足袋のように見えます。ここの料金ゲートを左に見ながらそのまま市道を下っていくと、【堀留谷】の谷底を利用した1本道が西にまっすぐ延びています。道の右手には閑静な住宅が並んでいますが、その背後にある連続した石積の上は、武家屋敷の【足柄町】になります。この足柄町自体も、堀留谷、【北横堀】、中沢川、【前堀】に囲まれた大きな曲輪で、キャッスルホテルの地下駐車場入口付近からしか容易に入ることができない構造となっていました。ここで○○谷ではなく○○堀という名の付くものがありますが、これは谷と違って縄張りの際に人工的に掘り込まれたものだと考えられます。そして浅間山から千曲川の東西に向って細長く刻まれた田切を軍事上利用するのに、途中で何箇所か分断すれば、簡単に曲輪を築くことができるので、南北方向に掘り込んだものが多いのが特徴になります。堀留谷を下っていく際、道の左手には足柄町の石積みとは対称に高さ4m程の田切の白い崖が連なっています。崖の上へよじ登っても、その向う側には【祢津谷】、白い崖、【地獄谷】と細い谷が陵神曲輪と並行して連続し、攻撃する際は何度も登ったり降りたりしなければ本丸に到達することができません。江戸時代の堀留谷は、そのまま千曲川に向って深い谷となって落ちていましたが、今は千曲川寄りほど完全に埋め立てられ、寅さん記念館の駐車場などになっています。そしてこの道に立ち塞がるように朱塗りの鳥居が目の前に現れ、その向うの台地上には鹿島神社が見えます。最早戦前生まれの人しか知らないのではないかと思えるほど年月が過ぎましたが、昭和24年までこの鹿島神社は駅前にありました。ちょうど小諸駅舎を出てタクシーが駐車しているロータリーのやや左向こうにビル群が見えますが、これが【鹿島曲輪】又は鹿島山と呼ばれた神社の境内でした。この境内には古墳もありましたが、石室の一部だけが現在の神社石段脇に移動させられています。古墳があるということは、昔から周辺より小高い地形であったのは間違いなく、仙石秀久が小諸城を縄張りするにあたってここの鎮守としたのか、それ以前からあったのか明治14年に作成された『郡村誌 小諸町』には「創建年月不詳」とあります。鹿島神社の祭神は建御雷神(たけみかづちのかみ)、『古事記』では諏訪大社の建御名方神に勝利して葦原中国を平定したという武神になります。

鹿島神社の境内は行き止まりとなっているので、参拝した後、境内から【北谷】の絶壁を下に見つつ先ほどの鳥居まで引き返しました。この鳥居の横には小さな懐古園の料金所があります。ここから酔月橋を渡って懐古園へ入ることにしました。酔月橋は観光用で、江戸時代にこの橋はありませんでしたが、橋上から地形が良く見えるので私にとっては最適です。まず入園料を払って、右下に僅か残存している祢津谷、少し進んで左手に残存している地獄谷、原形を残している陵神曲輪の最下端、そして小諸城の防御上重要な北谷の空中を渡って行きます。比高は30m以上あるでしょうか、とうてい攻撃に際して人間が登ることなどできる高さではありません。天嶮の要塞の印象を深く受けながら階段を上がり、一気に本曲輪へ到達しました。

本曲輪に入ると、目の前には桜の古木が立ち並び、花見で盛る馬場跡が南北へ一直線に延びています。本曲輪の外周は全て石垣で囲まれていたので、崖際の朽ちた石積に月日の経過を知らされます。まず酔月橋から本曲輪に入ってすぐ右へ進むと、【不開門】(あかずのもん)跡があります。この門は城が落城する際に脱出用として使用される門で、普段は通行を禁止されていました。現在は遊歩道によって石垣より高い位置を歩いて水の手展望台に行き、不開門を足元に見ることができますが、昔は石垣と石垣の狭い間へ埋もれるように降りて進み、左手奥の石垣にはめ込まれた不開門から出入するような構造となっていました。水の手には小諸城にとって貴重な井戸があったようですが、その存在を確認できませんでした。ここで行き止まりとなっているので、東の方にある二之曲輪へ向うことにします。途中右手には天正13年(1585)に完成し、寛永3年(1626)に焼失した3層天守閣の石垣があります。焼失以来天守閣は再建されることがありませんでしたが、城内で最も高さのある見事な石垣には目を奪われます。そして、藤村記念館の東側、左手の角には【荒神曲輪】と言われた神域がありました。天神菅原道真と荒神を祀っていた場所で城壁に囲まれていましたが、現在は地面にびっしりと苔が覆い、何も建つ物がないひっそりとした空間となっています。この本丸石垣前に【荒神井戸】があります。これは戌の満水の被害によって城内へ水が供給されなくなり、簡単に水が出ない土質を無理に深く掘って井戸にしたと云われています。ここを過ぎて鍵の手に右に折れると【黒御門】の前に出ます。この門の向うは二之曲輪、まず、門を通らず、反対の方へ進むと、【本丸】の御屋形がありました。黒御門から御屋形までは2列で舗石され、正面には唐破風の玄関、その手前の左には【屏重御門】があって、外から庭園へ直接入れる門となっていました。御屋形は対面所、広間、台所と藩主の居館になっており、その周囲は現在も残る高い石垣で囲まれていました。恐らく屋根より石垣の方が高く、これほど密閉された狭い空間に埋もれるように建つ御殿も珍しいと感じました。これは戦国時代末期となって射程の長い大筒が登場し、その砲弾に建物が打ち抜かれるのを防ぐ役目があったと考えられます。しかし今は江戸時代の建物は何も残っておらず、懐古神社の境内となっています。

次に本曲輪から二之曲輪へ移ります。先ほどの今は無き黒御門を開けると、目の前に【紅葉谷】に架かる【黒御門橋】があります。現在は紅葉橋とも言いますが、かつては算盤橋とも呼ばれていました。それは橋の主桁下に滑車が付いていて、非常時には本曲輪の中に引き込むことができました。しかし寛文2年の絵図面をみると5本の木製主桁には滑車がなく、現在と同じような太鼓型の橋となっています。太平の世が続くなかで構造を変更したのでしょう。平成15年に完成した現代の鉄筋コンクリート橋を渡って二之曲輪に入りました。昔は左に【北之丸】(今は弓道場)、右に【南之丸】があり、正面には【中仕切御門】があって、その向うは全く見えませんでした。南之丸は北之丸より3m程高く、北之丸が平屋建ての下台所に利用されていたのに対し、南之丸は【二之丸】と連携して【二之丸御門】を守る重要な場所となっていました。中仕切御門を通って進むと左手に番所、正面に二之丸、右手に二之丸御門がありました。南之丸と二之丸は同じ高さで、二之丸御門は両曲輪を渡るように築かれていました。また、狭い二之丸にはびっしりと建物が置かれ、藩主の下屋敷などに利用されていました。本丸から二之丸御門の前まではほぼ同じ標高でしたが、二ノ丸御門を過ぎると鍵の手に2回曲がりながら比高4m程の坂を下りて行く地形となっています。現在は左手に二之丸のりっぱな石垣を見ながら真っ直ぐ下りて三之御門へ進むことができますが、昔はこの石垣から突出した石垣があり前方を塞いでいました。この石垣の上には『水櫓』が建ち、三之御門を直接見ることができません。今は観光道に分断された水櫓の石垣が僅かに右手に残り、お蕎麦屋さんとの間へ降りて行くのが正規の道でした。江戸時代この急な道は坂道ではなく、枕木を40本程並べた階段となっていました。また現在の三之御門へ続く二之丸の高い石垣は昭和59年に復元されたもので、昔はもっと小さな野面石を使っていましたが、明治時代に北国往還を国道として改修する際に、与良や荒町付近の路肩の石として持っていかれました。

さて、ここから正面には料金所の向こうに国指定重要文化財三之御門が見えますが、ひとまず反対側のお蕎麦屋さんの前を通り、【南木谷】の方へ下って行くことにしました。南木谷を少し進むと、南へ反れて逆に登っていく不思議な道があります。これは現在その先に行くと動物園がある道で、細長い【籾蔵台】と呼ばれた曲輪となっていました。ここは城の米蔵があった曲輪で、米蔵は手前から本町と市町の蔵、荒町と与良町の蔵、そして御扶持米蔵と蔵を管理する役所がありました。小諸藩では1村又は数村毎に郷蔵を置き、そこに籾にて年貢を納めさせていましたが、城下町では籾蔵台に納めさせていました。城下町の領民は年貢籾を大八車に乗せて三之御門を通り、この坂を登って所定の籾蔵に納め、更には一部を金納とされていたので上野国松井田の米市場まで運んで相場に準じて金に換え、領主へその金を納めていたので大変苦労していたと言われています。意外にも小諸城下の周辺は一面田園が広がり、城下町でありながら実は農民が最も多く居住していました。籾蔵台の米蔵は明治25年(1892)小諸尋常高等小学校の校舎として袋町に移築されたので、現在動物園には蔵が1つも現存していません。しかし、ここからは北に深い木谷と本曲輪を見ることができ、さらに反対の南にも深い【南谷】が眼下に見えて非常に参考となりました。まさに陵神曲輪と対になる本丸の南側を守る要と感じられました。南谷には現在市営児童遊園地へ下りて行くアスファルト舗装の道が整備され、三之御門前の正面料金所脇から送迎列車に乗らず、歩いてこの舗装された道を進んでいくと、途中この付近の地形が良く分かります。ようやく遊園地に着いて周囲を見回すと、北から時計周りに、籾蔵台の白い崖、南谷、ほぼ切り崩された細長い曲輪の残骸(曲輪名不詳)、半分は埋められた【南三谷】、武家屋敷の【耳取曲輪】の西端、今は住宅が建つ【南四谷】を一望できます。最初に通ってきた陵神曲輪の方もそうでしたが、こちらも幾重に防護された堅固な天然の構えとなり、本曲輪を挟んでほぼ南北対称に縄張りされていることに気付くことができます。この南谷には城下で使用された汚水が流れる水路がありましたが、現在は見当たりませんでした。南谷の暗い谷底で飼育されているたくましい野鹿の群れを見ながら再び三之御門の前へ戻ります。門の手前右にかつての本丸御屋形を模したと言われる鉄筋コンクリート建ての徴古館がありますが、江戸時代にこの建物はなく、その向こうに屏風岩と呼ばれた崖が見えました。そして今はありませんが、三之御門から二之丸との間20m程には白壁が置かれ、北の陵神曲輪方面との往来を遮っていました。現在はここを自由に往来することができ、緩い坂を登って始めに出発した草笛の前に戻ることができます。懐古園を訪れる人の殆どは、市営駐車場に車を置いてこの坂を下って懐古園内に入場しています。しかし意外にも江戸時代に、この道は逆に下り坂で、北谷が食い込むようにこの白壁際まで続いていたことは知られていません。

ここで草笛の付近に立って周囲を見渡すと少し考える事があります。それは三之御門の北側にある【矢倉台】の存在で、小諸城はこの付近が弱点ではないかと思えるのです。草笛とその南隣の3軒で1つの小さな曲輪を成し、東が石垣、西が北谷の斜面(一部石垣)、南が三之御門の崖に囲まれていますが、北側からは容易に攻め入ることができました。ここを占拠すれば三之御門を真上から押さえることができ、その機能を容易に奪うことができます。仙石秀久が曲輪を切って【足柄御門】を造ったと記録にあるので、それまでは【三之丸】と地続きであったのを人工的に分離させて曲輪としました。ここには江戸時代中期まで2層の太鼓櫓が建ち、家来へ登城や時刻を知らせるなどの役目を果たしていましたが、後に太鼓櫓は三之丸へ移され、何度か改変されましたが結局は何の用途にも使われていなかったようです。かといって三之御門と足柄御門の片袖になる重要な曲輪なので、撤去することもできません。矢倉台の北側から容易に北谷の底へ下って二之曲輪や紅葉谷など本曲輪の側面へ取り付くことができたので、ここには長さ100m程の木柵が設置されていました(草笛〜市営駐車場入口ゲートを結んだライン)。この点について仙石秀久がこのような弱い縄張りをするとも考えられないので、史料が残っていないので何とも言えませんが、戌の満水の際にこの付近の谷は殆ど土石流で埋まったと云われているので、昔は驚くほど深い谷がここまで食い込んでいたのかもしれません。また屏風岩もこの時の豪雨で崩落したと云われているので、三之御門〜二之御門までの道は、両側を谷に挟まれた棒道のような存在であったと想像されます。

さて水櫓とは読んで字の如く、水の櫓の事ですが、何故このような名が付いたのでしょうか?それは二之曲輪と本曲輪に水がなかったので、水を供給する櫓が必要だったからになります。火砕流堆積層の小諸城は、水はけが良すぎて地下水が深い位置にあり、わずかに地表へしみ出た湧水を利用した井戸しかありませんでした。そこで、最初に仙石秀久の縄張りで要となるのが成就寺と説明しましたが、実はここから中沢川の水を取水して、水櫓まで引水していたのです。成就寺本堂の北側で取水し、境内を通って(今は寺の池に利用されている)本町へ向って流し、本町の大塚味噌醤油店付近で北国往還の道中央を流れて鍋蓋曲輪へ流れる水路と、分水して馬場裏町の【瓢箪池】(又は双子池)に溜まる水路に分かれていました。両水路は結局武家屋敷の飲用水に利用されて分水しながら、三之御門の前で合流して水櫓へ至ります。水櫓では木造の水車を組み合わせて水を櫓の2階へ上げ、そこから樋管にて二之丸石垣の中を貫通させて、二之丸へ通水していました。ここから本曲輪まではどのように通水されていたか絵図に描かれていないので不明です。水櫓の水車を動かす程の力となると、それなりの水量が流れ続けていた大きな水路だったと考えられます。このように成就寺は、中沢川と松井川といった水堀を維持するという防御機能だけでなく、生命を維持する重要な寺院だったのです。成就寺の門横にある説明看板には「城に就く寺」という意味からその名が付いたと説明されていました。城下町ではこの水路を御用水と言って別格扱いし、水番を設けて維持管理していました。

三之御門を出るといよいよ懐古園の外になります。出て左手は矢倉台の高い石垣と途中から白い崖が張り出して続いていますが、県道八幡小諸線によって三分の一が削り取られています。そして反対の右手には今も低い石垣が残っていますが、江戸時代にこの上に【花見櫓】がありました。櫓と言っても平屋建ての藩主休息所になります。そして、この花見櫓から三之御門を背にして前方に見える景色が小諸を知るのに問題となっている場所になります。そこには鉄道と一般県道八幡小諸線が高さ3m程の位置に大きく立ち塞がっています。実は花見櫓から線路の方を見て左手に【三之丸】、右手に鹿嶋神社及び藩庁、藩校のあった曲輪が構えられていました。その間は花見櫓から一直線に延びる【桜馬場】があり、ここに繁茂していた桜並木を見るのに最適であったことから花見櫓と名付けられました。今の大手駐車場付近には馬屋が置かれ、19匹程が飼われて、そこから馬を引き出して乗馬の稽古をしていました。この馬場からは三之御門が直接見えぬように、やはり鍵の手にズラされ、並行して馬場の南側には瓢箪池からの上水路、さらにその南に2m程離れて汚水路が流れていました。この汚水路は花見櫓の石垣下を抜いて三之門のすぐ右手の南谷へ落ちていました。先ほどは遊園地からの道程で汚水路を探し出せなかったので何も残っていないだろうと見に行くと、そこにはトイレがありました。これは偶然ではないと歴史の連続性を感じました。三之御門を後にして、鉄道の地下通路を通って小諸市観光交流館まで進みます。途中、今の小諸停車場ガーデンの花壇から駅舎の付近には、享和2年(1802)6代藩主牧野康長によって創建された明倫堂がありました。『孟子』の「庠序学校以て人倫を明らかにする所なり」を語源とし、明治5年(1872)には学制の発布にともなって小学明倫学校となりました。また、その西隣には藩庁が置かれ、 赤坂町 や耳取曲輪から来る者を見下ろすかのように石垣際に行政中枢機関が建てられていました。耳取曲輪側が入口となっており、評定所、勘定所、御用部屋、御会所がコの字状に置かれていました。その中庭の東向こう側がに明倫堂、藩主の菩提寺である泰安寺、そして鹿島神社と並んでいました。現在の小諸市観光交流館付近には鹿島神社への入口にあたる石橋が両水路に架けられていました。その石橋を渡って落差4〜5mの道を左手に曲がりながら坂道を登って行くと、そこには鹿島神社の境内が広がっていました。戦後米軍が撮影した航空写真には樹木が鬱蒼と茂る神社を小諸停車場前に見ることができます。しかし、昭和24年(1949)区画整理によって移転され、山は削平されて今はその存在を知る由もありません。何れにしても現在の小諸市観光交流館と停車場ガーデンの間にある市道は桜馬場で、今より3m程低い位置を谷底状に三之御門の左へ向って真っ直ぐ通っていました。

かつて道の小諸市観光交流館側には三之丸の高い石垣とその前面に馬屋があり、大手駐車場を過ぎると左に曲がる道があります。その先には仙石秀久が創建した唯一現存する建築物である大手御門が見えます。大手御門の左袖は三之丸の高い石垣で、右手も高い石垣となって、代々小諸藩の有力家臣の屋敷曲輪となっていました。この曲輪は東西北が石垣によって堅固になっているのですが、実は南が屋敷への入口で、木柵で仕切られていましたが緩い段丘となって容易に攻め入ることができました。鹿島曲輪とこの間が意外にも防御が薄く、ここが小諸城の2つ目の弱点となっていたと考えられます。ここで、寛延3年(1750)に作成された『諸番所御条目並家中勤役定』という史料が残っています。ここには門を閉じる時刻が定められていますが、小諸城にはどのような門があったのかも知ることができます。黒御門、二之御門、三之御門、市町口、柳町口、袋町口、赤坂木戸口、七軒木戸は酉刻18時、追手御門だけは戌刻21時、足柄御門、筒井木戸、大手木戸口、下町木戸は亥刻22時となっていました。これによると、まず町人地と武家地境と城の重要な門を最初に閉め、その後残りの門を閉めていたことがわかります。また、江戸時代では全ての町人地と武家地境には木戸が設けられ、城内外の出入りが制限されていたこともわかりました。

さて、大手御門前にある登喜和食堂の前を過ぎてやや急な坂を東へ上がると、南北に通る国道141号に出ます。明治以降北国往還が国道でしたが、昭和になって新たに造られた全く新しいこの国道141号の建設によって、地盤は3mほど盛り立てられ、このような急坂となってしまいました。そして国道141号に出て、わずかに右斜め下へ延びる狭い脇道があります。この鉄工所、揚羽屋の前を通り過ぎて 相生町 通りに至るこの60m程の道が、実は江戸時代の痕跡を残す道になります。この道を 相生町 へ向って進んで行く途中、右手数m上に鹿島曲輪が立ち塞がり、その途中でかつて松井川によってつくられたと考えられる田切によって、この曲輪も区切られていました。これが鹿島曲輪とその南隣の武家屋敷の境の谷で、今は埋め立てられて痕跡すら残っていません。何か残っていないかと探してみると、地下室になっているビルがありました。これはこの田切の谷の上にビルを建てるのに、埋めた軟弱な地質では基礎地盤とならないので、あえて地下室に利用して建築したものと考えられます(中国飯店夜来香付近)。ここで気をつけなければならないのが、 相生町 の存在になります。実は明治21年(1888)小諸停車場が開業した際に、江戸時代の道のままでは北国往還から停車場、そして鉄道による東京への物資の流れが不便であったため、荒町・【袋町】口から停車場を結ぶ真っ直ぐな道が新たに造られました。これ が相生町 の通りで、今は小諸駅から141号までが一般県道八幡小諸線、141号から北国往還までが主要地方道諏訪白樺湖小諸線になって、 小諸市 のメイン通りとなっています。武家地と町人地を結ぶといった複数のものが一緒になって成長していく意味の「相生」を採用した意図のとおり、この通りには次々と店が開いて、いつしか本町や市町より盛るようになりました。

現在の松井川(五軒町付近)

この江戸時代には存在しなかった道を視覚から消去し、「 相生町 交差点」を南へ渡って141号の歩道を10m程進むと右下へ下りて行く道があります(中央1番館ビルの裏へまわる道)。これも江戸時代の道で、坂道を下りていくと141号が如何に盛り立てた道であるか、その擁壁を見て理解できます。その道は、すぐに右へカーブしていくのですが、それは前面に川が流れているからになります。近付くと「ゴウゴウ」という水の音が聞こえます。よく見るとコンクリートに固められた景色の中に、幅3m程の川が勢いよく流れています。これは松井川になります。火砕流堆積物の上を流れていることからどうしても河底が削り取られてしまうので、河底にはコンクリートを敷設し、両岸もブロックで頑丈に固めていました。江戸時代にはこのまま真っ直ぐ千曲川へ下って流れていたのですが、今は人工的に左へ曲げて赤坂橋の下を通し、しなの鉄道の下を車で通り抜けできる暗くて狭い隧道がありますが、その横を抜けて千曲川の方へ流れ、再び旧河道に合流しています。この旧松井川と現在の松井川のルートに囲まれた六角形の部分に筒井曲輪がありましたが、今は半分が鉄道敷地となり全くその面影はありません。わずかに赤坂橋から隧道へ下っていくこの急坂が、かつての曲輪の高低差を表しているようにも見えました。かつて赤坂橋の北側には湿地のような池があり(赤坂1丁目1番付近)、この池を中心に、 赤坂町 と袋町の一直線の道がVの字に北国往還へ向って延びていました(両道とも脇往還へ接続するやや手前で鍵の手としている)。ここで中沢川と松井川に挟まれた区域外に、何故このような出丸を造ったのか少し考えてみました。地図を見ながら現地を見てみると、 相生町 通りの原田そば本店とかつ吉の裏に狭い道がありますが、ここに立つと松井川と 相生町 通りが50m程離れて高低差が3〜4m程に見えます。これにより中沢川に比べて松井川の田切はそれほど深くなく、敵が安易に渡れてしまう水堀の弱点を補うため、そのすぐ外側に袋町の武家屋敷を並べて障害とし、さらに敵を筒井曲輪へ誘導するために 赤坂町 を配置し、その両町の大きな空間に湿地を模した田を造って五軒町付近の防御機能を高めたのだと考えられます。通り難い田より、通り易い袋町と 赤坂町 の坂道を下ってきた敵は筒井曲輪の池で足元を奪われ、そこを曲輪から攻撃するといったなかなかの防御術だと感心しました。昔は土橋であった赤坂橋を渡って 赤坂町 の450m程の坂道(一般県道峰ノ茶屋小諸線)が一望できますが、形状としては今もほとんど江戸時代の道と変化ありません。そしてやや戻って袋町の道を進むことにしました。

かつて焼肉聚寿苑からが袋町で、両側には武家屋敷が延々と並んでいました。国道141号を渡ってJA佐久浅間小諸の渡り廊下の下を通り、スーパーツルヤの横へ進みました。スーパーとしては商売をするのに不利な場所ですが、小諸は明治時代に海産肥料商として開店した鶴屋発祥の地なので、敢えて営業を続けているのだなと感じました。明治時代の地図を見ると、本町の大塚醤油店の東隣付近に小さな「つるや」掛川菊之助とあります。これが発祥地で、今では長野県で最も盛る食料品販売店の1つとなっています。そのまま小諸看護専門学校を過ぎるとT字路となって直進できませんが、江戸時代では北国往還まで通れました。そこは現在の小諸郵便局の駐車場を通り抜けて火の見櫓に至り、そのまま直進して中栄紙店付近で鍵の手となって北国往還の荒町へつながっていたと考えられます。T字路の右手には古い 小諸市 立図書館と市民会館が見えますが、この前に「小諸学校跡」の碑がありました。

現在は直進できないので、しかたなく左へ曲がって小諸郵便局の横を通り、 相生町 通りを横断して小諸ガス横の狭い市道を【馬場裏町】へ向うことにしました。 相生町 を横断した付近、この下には昔も今も松井川が流れていました。道路には川の影響による舗装の凹んでいる部分も見られ、小諸ガスのビル付近に至るとゴウゴウと激しい水の音が響きます。しばらく進むと瓢箪池からの御用水が道を横断して城へ向っている筈でしたが、現在は単なる側溝が人1人通れるくらいの狭い市道とともに設置されているだけとなっていました。その右手に「島崎藤村旧」という碑があります。この碑の向こう側に見える広い駐車場、この奥が瓢箪池で、そのすぐ右側が松井川の濁流、反対に駐車場の左手前の一角には明治時代に小諸義塾で教鞭をとった島崎藤村の家がありました。その家があったであろうアスファルト舗装の上を歩いて行くと、道は左へ曲がっていきます。この道は大手御門の片脇にあたる屋敷曲輪にぶつかる直線の道で、左手が武家屋敷、右手に馬場が並んでいました。今は馬場にも建物が並んでいますが、その裏側に石積があって、一段高くなった所にも建物が並んでいます。これが本町の町人地で、この石積のラインが城外、城内の境となっていました。途中島崎藤村が使っていたとされる井戸が復元された小さな公園があります。時折子供が集まって手漕ぎで水を出して遊んでいました。その公園の横に南北に通る道があり、既に明治30年頃の地図には載っていますが、江戸時代にはありませんでした。その道を挟んで公園の反対側には明治14年(1881)に新築されたモダンな二階建ての小諸町役場があったので、本町と 相生町 を連絡する道として新しく造られたと考えられます。

そしてこの道をいったん右へ曲がって本町の北国往還へ出ることにしました。交通量が多くて歩くのには不便ですが、昔の街並みが復元されて想像の助けとなってくれます。この道の中央には海野宿のように水路がありましたが、明治天皇の行幸の際に邪魔だということで、明治11年(1878)に道両側へ水路を移動させられ、今は御用水も流れていません。北国往還を真東へ進むと正面に光岳寺の唐門が見えました。これが移築された足柄御門で、かつて三之御門北東側に石垣に挟まれた狭い空間を常に遮っていたことを思うと感慨深いものがありました。そしてこうした調査でないと気付きませんが、光岳寺の唐門の石段手前には松井川が今でも昔でも地下に流れていました。中沢川を挟んでこの光岳寺の北側一帯が六供(ろっく)と呼ばれる地区になります。現在の真言宗大国山成就寺からまっすぐ本町に向う通りの右側(中沢川との間)には、かつて地蔵院、花蔵院、明王院、円光院、円蔵院と成就寺の末寺がずらっと並んでいました。この6寺院が六供の名前の由来とも伝えられています。現在は住宅となって院は1つも残っていませんが、中沢川を挟んで曲がりくねった狭い道が縦横に通る地区で、かつての遺構が比較的残っている場所だと感心しました。成就寺は最初に紹介をしたので、ここで北国往還を引き返して真西へ下ることにしました。

本町の北国往還は両側に商家が並ぶ直線路で、その突き当たりにはかつて鍋蓋曲輪がありました。しかし、今は主要地方道諏訪白樺湖小諸線によって曲輪は南北に分断され、北側は削平されて全く遺構が残っていませんが、南側はやや道路より高い地形となってわずかに形跡が残っていました。そこで本町から国道141号に出て左に曲がり、すぐに西へ下りて行く狭い道があります。この地点にはかつて城内と城外をわける本町口木戸がありました。そして西へ下りて行く道の入口には番所があり、そこから浄斎坂と呼ばれた石段を螺旋状に下りて行くと大手御門の正面に出ることができました。しかし今は単に急坂をまっすぐ下っていくと、門の前に出ます。その際に急坂道の右手に、大手御門と向い合って石垣が並んでいます。これが鍋蓋曲輪の遺構で、高さは4m以上あるでしょうか、大手御門の屋根より高い位置に住宅が建ち、武田家が縄張りする以前から城とされてきたのも頷けました。江戸時代は城代家老の屋敷で、明治時代になって戸長扱所が置かれ、明治20年(1887)には小諸警察分署が置かれ、町人地に隣接しているので位置的にも重要な場所であったことがわかります。鍋蓋曲輪の南対面には三之丸の石垣が連なっていました。現在は大手御門の袖石垣が復元され、この高さで三之御門の方まであったとすれば相当堅固な曲輪であったと感じました。現在はその石垣の1割程度しか復元されておらず、削平されて三之丸があったことを知る人はほとんどいません。そのまま石垣の方向に沿って西へ進むと民営駐車場となって、わずかに南へ曲がって鉄道敷地にぶつかりました。その向こうにはスタートした信州蕎麦の草笛小諸本店が見え、目の前に見えるレールの付近に、先程の光岳寺に残っている足柄御門があって、そこを通って三之御門の前に至っていました。昭和までこの付近に踏切があって渡れたのですが、今は迂回して地下歩道を通っていくしかありません。こうしてようやく元の地点にゴールすることができました。

 

このように坂を縦横に行き来することによって、ようやく今では想像もつかないような工夫と景観を持った小諸城の総構を知ることができました。よく城に関する権威ある人の話を聞いていると「縄張りをみれば、造った者の性格がわかる」と言っています。仙石秀久とはどのような人物であったのか、自然が作り出した複雑な田切地形において、敢えて左右対称の構えを貫き、細かな細工を諸所に施して、いかに敵を撃退するのか思案のうえ完成させていることがわかります。小説などで紹介されているより、大胆であるが意外と繊細な人だったのかもしれません。

明治3年(1870)に小諸藩が弁官(明治政府の庶務雑政を処理する機関)へ提出した文章には次のようにあります。

 

当藩城の儀は元亀、天正の頃武田氏甲、信割拠の時、○爾たる山嶺に堡砦を築き、その後追々修繕を加え、遂に1区の城郭と相成り、今に至る迄依然罷り在り候。方今の形勢にては無用の長物と相成りその修繕費用もまた少なからず候間、今より往々廃撤に任せ右修繕費用をもって軍用に備え、かつ窮民賑恤の一端と仕りたく候、この段伺いたまわりたく候。以上

 庚午12月19日       小諸藩

 弁官御中

 

このように、明治維新の変革というのは突如として強大な意思を持った力が現れ、数百年をもって小諸の土台となっていた城郭に対して「無用の長物である」と述べるに至りました。やがて明治6年(1873)には小諸旧庁敷地と建物等の払下が行われ、主に敷地1773坪が金183円62銭5厘、建物(旧知事居宅、櫓門4ヶ所、櫓4ヶ所、土蔵4ヶ所、塀2ヶ所、石垣2ヶ所、敷石庭石5ヶ所、石橋1ヶ所、橋板1ヶ所、立木666本)が金433円92銭8厘5毛で高札の者に落札され、順次更地となっていきました。そして、それから私達が便利を追求し、開発、開発と目まぐるしく発展を信じて投資した中で、たまたま生き残ったものを今私達は目にすることができるのです。それがあまりにも少なくて誤解を与えたり、疑問すら浮かばない状態になっていることが残念で仕方ありません。今回はできるだけ多くの人に真の小諸城を知ってもらいたく痕跡を求めて歩き回りました。坂道を行ったり来たりと、これだけの距離を歩くのはなかなか苦労でした。皆さんも健康を兼ねて小諸を散策してみては如何でしょうか、その時、江戸時代が隙間から見えるかもしれません。

 


『其之 85』H23.1.1〜H23.7.1

 本日は何年かぶりに長野市松代(まつしろ)を訪れた時の話・・・から。

 秋空に紅葉が美しく映える穏やかな日のもと、最近ようやく修繕を終えた国指定史跡の真田邸や10年をかけて大規模整備を成し遂げた松代城跡をぜひ見たいと思い、心躍る気持ちで松代へ向かいました。まず車を停めた真田宝物館前から真田邸の方へ足を向けました。しばらく歩いて行くと、若い夫婦と思われる人達が熱心そうに写真を撮っているのが見えました。それは真田宝物館の南側壁面前に建つ銅像を背景に記念撮影をしているらしく、瞬間的にもしや!と思いながら急ぎその説明板を見ると、やはり「恩田杢民親(1717−1752)」と書かれていました。ここがかつて恩田杢(おんだもく)が居住していた上屋敷(791坪)で、何かの縁とでも言いましょうか、彼の人生を知る者にとっては感慨深いものが心の中に響きました。この付近はかつて松代城の大御門前に広がる大通りに面した武家屋敷、恩田家の隣家には「池田」家、近くには「祢津」「海野」「矢沢」「小山田」「望月」「小幡」「鎌原」「出浦」「大熊」家など、かつて戦国時代に真田弾正忠幸隆、安房守昌幸、伊豆守信之と共に戦い抜いてきた者達の名を見ることができます。そうした綺羅星の如く輝く家臣団の中で遅れながら中興の臣として名を残した「恩田杢」、この銅像を見ても彼の業績に対する現代人の敬慕はいまだに続いているのだと感心しました。日本全国の藩財政の精神論ともいうべきバイブル『日暮硯』の生まれた舞台がここにあり、そうしたことを現代のより多くの人々に知ってもらうため、今回の余談は敢えて恩田杢が生きた時代としました。

 信濃国最大の大名である松代藩は、元和8年(1622)より明治維新までの247年間、真田家10万石の領地でした。ここで余談を進めるのに真田家の歴史をある程度知っておく必要があるのですが、真田家が松代に移封した歴史などは多くの書籍等で紹介されているので本余談では省略致します。別頁御覧ください。

 松代藩の領地は水内郡(みのちぐん)之内87ヶ村39870石、更級郡(さらしなぐん)之内67ヶ村35138石、高井郡(たかいぐん)之内17ヶ村10062石、埴科郡(はにしなぐん)之ヶ24箇村14930石(寛文4年(1664))の4郡に及び、ほとんど現在の長野市と千曲市の都市部から山間部に広がる地域を支配していました。その広大な領地の中心が、真田家居城のある松代城下で、明治2年(1869)の『松代城下市中戸数・人員録届』によると、城下の総戸数1376軒、総人口5314人と善光寺門前とならんで北信濃の中核を成していました。そして色々調べていくうちに、『日暮硯』が生まれた歴史を知るには、松代がどうして松代として成立したのか?松代はどのような地面に腰を下ろしているのか?を知らなければ話しにならない事に気付きました。これが非常に大事なのです。

 

 様々な書籍によると、「江戸時代に千曲川は松代城に接して流れていた」と解説されています。元々最初にこの地へ城を築き、城下発展の礎を造ったのは武田晴信でした。彼はこの地を「海津(かいづ)」と銘々し、「津」の字を採用したように千曲川によって城の防御機能を高めるといった目的だけでなく、水運を利用した物資運搬機能の「津(港)」としても重要視していたと考えられます。今ではとても信じられませんが、白黒写真でこの付近を帆掛け舟が航行しているのを見た事があるので、当時としては当たり前の戦略だったのだと思われます。そして城名に「海」と「津」を並べたことから、日本海へ侵出する拠点としての意味を持っていたとの研究もあります。このように千曲川と接していた松代城、しかし現在は近代に行われた治水工事などによって松代城跡から1km程も離れた場所を流れ、当時の流路を単に探そうとしても見つけ出せません。そこで別の角度から探ってみることにします。

 まず、下図にある長野県作成の『新版 長野県地質図Ver1(2010)』で長野市松代を見ると、興味深いことがわかりました。

 図の緑色で縁取られた部分が現在の千曲川で両端が堤防で仕切られています。千曲川はそこを左下から右上方向へ流れています。次に図中央やや右に濃緑色で表記したものが松代城跡になります。その両間の地質をみると、「nℓ(はんらん源-自然堤防)」が千曲川右岸に沿って広がっています。そして不思議なことに、それよりも山側(右下方向)に、「m4(はんらん源-後背湿地・湿原)」が細長く曲がりくねって延びています。そこを水色線でなぞり、宝暦12年(1762)の古図を基に若干修正すると、まさに千曲川の旧河道と思われる線が現れました。それは古い文献の記載とも一致する千曲川改修工事前の姿で、現風景からでは想像もできないような位置を千曲川が流れていました。この付近の千曲川の川幅は約50mと明治時代から現在まで変化していないと言われています。そこで上流にダムの無い千曲川の特性は江戸時代でもさほど変化するはずはないので、水色と緑線に挟まれた部分は、古来から洪水の度に水で浸る河原であったと考えられ、その小字名も「道島」とあります。

 次に松代城が立地している地形をみます。南東(図右下)から藤沢川、蛭川、神田川の3河川が松代城に向かって流れ込み、それを城下で凹凸状に整形堀割し、城の外堀としての役目を担わせ、その内に武家屋敷や町人家、寺社を置いていました。そして北と西には大河千曲川がまるで松代城にぶつかるかの如く流れ、天然の外堀として機能していました。この支流が千曲川とぶつかる地、それが松代城下であり、何十万年という長い年月にわたる千曲川への支流の流れ込みによって延べ膨大な土石が運ばれ続け、それが堆積し(付近のボーリング調査結果では、深さ30m以上腐植と細砂が混入した非常に軟らかい暗灰色の地質が重なっているのを確認しています)、結果その地質の上に城下が形成されたのです。また、新生代に海底から堆積岩が隆起し、それが松代城周辺の妻女山、象山、舞鶴山、皆神山、金井山となり、小高い山が平地に突き出たような地形をつくっています。この付近の千曲川は篠ノ井横田から東へ東へ寄ろうとする力が働いているらしく、そのために東にあるこれら山々にぶつかるように流れていました。まず川中島の合戦で上杉謙信が夜半に渡った「雨宮ノ渡」を流れ、妻女山一帯の岩塊にぶつかってその周囲をぐるっと巻き込んで東へ湾入し、さらに象山へぶつかって北上し、松代城の西側を通って東寺尾の金井山城跡の崖にぶつかって更に北上し、再び巻き込むように現在の農業大学の方向へ向かってまた曲がる、また曲がるといった、正にその名のとおり「千の曲がり」を実感させるような蛇行した川でした。図にもある松代城西に隣接する「清野」一帯は、北へ突き出る象山があるために支流から土石が運び込まれることがなく、松代城下よりも標高が低い湿地帯となっています。恐らく江戸時代よりもっと古い時代、後に松代城が築かれる付近に土砂が多く堆積していない時代には、清野の山際(図の象山左にあるm4)を千曲川が流れていたと考えられます。そして松代城下に支流からの土砂が堆積して微高地となるにつれ、しだいに千曲川も北へ移動し、江戸時代には図の水色線の位置を流れるようになりました。

 このように歴史の背景にはそこに存在していた地形が重要な要素となっています。千曲川の流れと松代城との関係がわかったところで、本題の歴史へと踏み込んでみたいと思います。

 

 図に書かれている赤点線は何でしょう?、ある大洪水・・・の被害を再び受けないように行った松代藩の河川付け替え工事による千曲川の新河道になります。その洪水とは寛保2年(1742)通称「戌の満水(いぬのまんすい)」と呼ばれるもので、今でも語り継がれる悲惨な洪水です。長野市赤沼に「善光寺平水位標」というトーテムポールのようなものが建ち、数多くの洪水高を標示していますが、やはりこの「戌の満水」だけが異常に高い位置に取り付けられ、もはや常識を超えた高さとなっています。ある辞典によると「江戸時代最大規模の洪水である。近畿地方から関東地方まで未曾有の被害を及ぼした」と書かれていました。

http://www.hrr.mlit.go.jp/chikuma/shiru/kouzui/kako/index.html

 それがどのくらいの洪水であったのか、当時の日記等から窺ってみようと思います。

 『松代町史』には、「7月28日2時ぐらいから雨が降り始め、29日雨が激しくなり、8月1日千曲川の水は刻々と激増氾濫し、沿岸各所の堤塘を欠損するに至った。山は抜け濁流は滔々として田畑を埋没あるいは流出させた。また、橋や家屋は押し流し、多数の人畜をも殺すに至り、その惨状は言語に絶するものがあった。夜に入ってその長雨が漸く止んだ。」とあります。またより詳しいものとして、洪水から恐らく数日の内に、領内村々の者達が奉行所へ被害状況を報告に参り、それを担当役人であった原半兵衛正盛が記録した史料が残っています。そこには戌の満水を自ら体験した日記風のものも載っているので、まずはそこから紹介します。

 

頃は寛保2年7月28日丑みつ時に、雨そ降り出し、29日降りつふらす。陰々としてうるさきのみなりし黄昏に及び、俄に篠を束ねて衝く如く風さえ混じえて降りければ、軒の沽滴砂石を流すか程こそあれ、八朔の戌の刻より千曲川満水に及びけるに、山々諸々崩るる音百千の雷かと驚き耳目けるに、水押し出し、沢々に溢れ、高浪打て押ける程に、刹那つうちに松代へ入り、御城を浸し、士農工商家屋へ水押入り、梁へ登り或いは家の棟へ破り出てまたがり居て、隣家の人と声を合せ、いかにいかにと云声のみにかまびすしく、哀れとやいわん、呼ばわる声きやうくわん大きやうくわん目前にありて、耳のふたとなる。馬は繋がれながらにして死す。家を流し或は半潰れ、流家留まるところをしらず。親子互いに救うとならず、漸く2日午の刻に至りて水落る。高き所に住居せし家々に皆人縁により或は手寄りを求め退きける。水落るといえども未だ高浪をわけ、長高き人の股わたりにて越しける者数を知らず。子供は男女に負われてあなたこなたあふとて肝を冷やし、涙を流してゆくもあり。女は水また深きてゆえ、ひこつりゆくもあり。かかる所に郷村より家を流し、或は流死櫛の歯を引か如く訴え出ること、筆乾く暇もなし。天変地変不珍といえども、此地においては人覚えず。いまさらの様に罵りあえり。或いは親流れ子残るもあり、子流れ親残るもあり、類門残らず流れたるもあり、残れる者は泪袖をしぼり、別れ惜しむ事筆におよばず。余すところの袖さえ潤せり。いわんや憂える人においておや、或いは器物を流し、或いは穀物を流し、当時の難義、農は田畑を流し、行く末いかが成り行かんと心を苦しめる多し。兼好法師か世か定めなきこそいみしけれと云いしも、耳にも入らざる時節となりしもおかし。この地においては前代未聞の有様はれは尓云。

 この時寛保2戌歳南呂十鳥 松代仕士 原氏正盛敬書

 

 

 上記に続いて被害状況が記されています。

 被害総村数188村、流家1755軒、潰家857軒、半潰302軒、流死1220人、山抜988箇所、本田新田水難61624石、その他に武家屋敷の塀や長屋が破損、筆者の原屋敷も塀20間が潰れるといった被害に遭っています。このように被害の第一報を「筆乾く暇もなく」書き綴ったので、後日の被害報告と多少の誤差はありますが、その酷さが伝わってきます。また、各村の中でも人家の被害(死者)が多い村を順に列挙すると次のとおりです。岩野村144軒流家(死者160人)、保科村78軒(7人)、東寺尾村75軒(1人)、上徳間村67軒(65人)、御幣川村58軒(46人)、西寺尾53軒(13人)、川合村51軒(81人)、小島田50軒(77人)、杵淵村46軒(63人)と、残り179カ村が続きます。

 次に参考となる史料が、洪水から3ヶ月が経って松代藩士小松忠左衛門が整理した『寛保2年信濃国水内郡更科郡埴科郡高井郡之内領地水損之覚帳』になります。これは寛保2年から寛保3年まで国役金の差し延べを願うために勘定所へ提出したものになります。本田・新田の被害状況がよくわかるので、松代城下近傍の村々を紹介します。

 まず、千曲川左岸上流側から横田村−小森村−東福寺村−杵渕村−西寺尾村の村々では平均68%の被害。また対岸の上流側から土口村−清野村−(松代城下)−東寺尾村−柴村と右岸の村々では平均93%の被害で、清野村と土口村では山抜けもみられました。その他、松代城下へ流れ下る支流の村々(東条村、牧内村、加賀井村、田中村、桑根井村、平林村、関屋村)では平均83%の被害で、山間部のためそのほとんどの村で山抜と川欠がみられました。こうした村々の中で最も被害が大きかったのが清野村で1313石という裕福な村が、たった52石を残すのみという恐ろしい結果が書かれていました。こうしてみると、千曲川の左岸側よりも右岸側の方に被害が大きく、それは左岸側は開けた川中島の平地が広がっているので水の逃げ場があるのに対し、右岸側は千曲川と山の間に村が設けられていたことから、行き場を失った水により多くの田畑を浸し、さらに背後の山が崩れたり、小さな沢から土砂が出たりといった2重3重の被害を被ることによるものと考えられます。次いで支流の神田川や藤沢川周辺でも被害が大きく、沿村を鉄砲水で襲いながら次々と濁流が下流の城下へ流れ落ちていき、すでに溢れた千曲川の水が城下を水没させていたので、合流した支流の水は行き場を失って更なる増水を引き起こしました。この災害による松代藩全体の被害は、原史料より減って39,595石とあります。その内訳として13,108石は山崩れと洪水により削ぎ執られ、或いは石や砂が入って荒地となるなど再起不能となった田畑(永引)。さらに2,926石は4〜5年のうちに復旧する見込みのある田畑で、残りの23,559石は本年のみ損毛となる被害を受けた田畑でした。こうして真田家は、本高10万石のうち約40%が寛保2年と寛保3年の2ケ年分の国役金未収入となりました。

 こうして原半兵衛と小松忠左衛門が纏めた史料から松代城周辺の被害を整理すると、千曲川から離れた上徳間村を除いて、被害の中心は犀川ではなく、千曲川沿いの村々であったことがわかります。小松史料では岩野村の記録がありませんが、原史料に「岩野村 田畑川欠砂入残り申さず」とあり、人家の被害が最大であることから田畑は全滅したのだと考えられます。そして岩野村を襲った濁流は、低地の清野村を浸し、松代城下を通って勢いよく金井山にぶつかりながら東寺尾村を潰し、強く跳ね返って勢いよく対岸の西寺尾村、小島田村、川合村を大きく削り取り、西から犀川が合流してくるので、その流勢によって東の保科村方面へ濁流が襲ったのだと想像されます。これにより「戌の満水」による松代藩領の被害の中心は、松代城の上下流付近であったことがわかりました。

 

 「戌の満水」が起こった時の藩主は5代真田伊豆守信安(28歳)でした。当時25歳で御城代にあった恩田杢はその城を守り抜くことができずに水没又は大破、松代城が水没する前に藩主は避難すべきだと進言し、前もって寺へ食料や衣服等を準備させたと云われる小姓の原岩尾。当然ながら藩主信安がその復興に抜擢したのは原岩尾の方でした。抜擢された原岩尾が最も目覚しく活躍した事としては、城下が再び洪水の被害を被らないように千曲川を付け替えることでした。

 いわゆる他の史料から「寛保の堀切・川筋付替工事」とでも銘々しますが、その普請奉行は納戸役に昇進した原岩尾。上図の赤点線に示したように現在の上信越自動車に沿って松代PA〜神田川と交差する付近(ほぼ上信越自動車道のルート)の約2kmを人力で堀切したことになります。現在のこの付近の比高を考慮して深さ2m程、幅は想定して20mで掘切したら単純に8万m3になります。当時の松代藩は人口12万人(天保年間調べ、村方約11万4千人、町方約5千人)だと云われているので、内少なくとも2000人程で1日掘削と運搬を800m3(私1人でも1日1m3ぐらいは掘れます)したら100日≒3ヶ月程度で完成する計算となります。そして1人1日手当金100文と昼飯代20文で従事したとすると、約2万4千貫(1両6貫文で計算すると概算で4千両)の費用を要したことになります。古来から被災者が多く出た災害においては、「御救普請」などと称して土木工事へ被災者を充て、その生活を救うという事が行われてきたので、単に千曲川を城下から遠ざけたというだけではなく、こうした狙いもあったと考えるべきです。

 この原岩尾による堀切・川筋付替工事については史料が少なく不明な点が多いのですが、満水から5年後に作成された『延享4年(1747)9月東福寺村古図』という貴重な史料が残されています。この存在により延享4年から堀切工事を開始し、さらに東福寺村の川欠高の増加(宝暦8年川欠58石→宝暦12年川欠587石=工事によって田畑が河原となったと考える)を根拠に、宝暦10年頃に完成したといった研究もあります。しかし15年間もかけて工事をしていたのでしょうか?先ほどの単純計算でも僅か2千人程で3ヶ月で完成してしまいます。さらに古図には計画の川幅14間(約25m)、惣長341間(約614m)と記載されています。たった614mでは東福寺村から松代城の北側まで届かないので、治水の本来の目的が達成されず疑問点が残ります。そこで延享の工事というのは、寛保の工事で築いた川筋全長2kmのうち、洪水等によって埋まってしまった614mを再度掘って復旧させた工事ではないかと私は考えます。原小隼人(岩尾改め)は延享元年(1744)10月に中老、翌年には勝手掛兼帯家老という松代藩の財政部門の最高責任者に任命されるという栄誉を授かりました。中老への昇進が堀切・川筋付替工事の功による出世とすれば、資金繰りの期間等も考慮して、寛保3年(1743)〜寛保4年に着工完成したとも受け取れます。

 東福寺村には『宝暦12年(1762)古図』も残っています。これには新旧両河川に水が流れているように色が塗られ、堀切の川幅も44間(約79m)と広がっています。この古図から延享に掘ったものが素堀であったので、流水によって川幅が広がったという研究があります。その可能性もありますが、私は寛保の工事は川幅25mより小規模なもので、氾濫などで残っていた川筋をつなげるような簡素な工事であり、4年程経ってその機能が失われるなどしたので延享4年に川幅25mで修繕又は機能強化し、さらに宝暦12年頃に79mに広げる強化工事をして、なんとか旧河に水が流れ込まないように努力をしたのだと考えます。この79mというこれまでにない潰れ用地が東福寺村の田畑の多くに該当し、川欠587石という結果を残したのでしょう(現在も東福寺、西寺尾は千曲川によって分断されています)。水の力というのは侮れないもので、基本的に元に戻ろうとする力が非常に強いのです。千曲川の流れは旧河へ戻ろうとし、松代藩はそれを止められず、記録によると文化5年(1808)に旧河口に杭を打ち込んで流入防止を試みましたが失敗、ようやく戌の満水から百年近くなる天保11年(1840)に成功しました。

 ここで注意しなければならないことがあります。それは多くの書物に「原が行った工事によって現在の千曲川の流れとなり、洪水がなくなった」などと書かれていますが、それは間違いだということです。先程から述べているとおり実際はこの後に何度も工事は行われ、近い年で宝暦7年(1757)と明和2年(1765)に再び大洪水が発生し、明治から昭和にかけても松代は次々と洪水に襲われています。さらには寛保の工事では赤点線のように現在の流路とは違っていました。

 

 概算4千両(万御小役の川役で百姓に従事させれば、これより減額となる)という工事金をポンと出せる余裕が松代藩に存在していたのでしょうか?

 当時の松代藩の財政状況を70年ほど古い寛文7年(1667)『拾万石御分限大積』によりみると、10万石の本田と新田を合わせて籾175,000俵の収入があります。ここから家中知行77,791俵、家中切米43,100俵、家中扶持12,800俵、馬飼料700俵、小遣(食料費や雑費等)3900俵、足軽雑用2,200俵の出費を引いて残34,500俵=金5千両程。その他に麻、漆運上、紙、川役銀などで金1千両の自由となる予算がありました。しかし、元文年間(1736〜41)になると松代藩の収入は激減します。理由ははっきりと解明されていませんが、これが元に戻ることなく、享保後期では田畑の27%前後が恒常的に荒廃や水損などにより収入となりませんでした。それがこの洪水により40%の被害に増えたので、単純に6000両×0.6=3600両ほどしか支出できません。そこに江戸藩邸費、藩主等費として米、大豆、藁、糠、薪炭、御肴、酒、青物、御菓子、木具、桶、塩、油、呉服、小遣金、屋敷破損、火消道具、猿楽金、乗物、茶碗、鍋、伽羅、美術品、祝言御用意などの御入目積額12110両を差し引くと完全にマイナスになります。御用金等で多少の減はあると考えられますが、毎年不足額6000〜8000両程が蓄えから消えていくか借金で補っていたことになります。真田家の古文書を見ていると、享保頃から急激に借金に関するものが増えていきます。「預り申す金子の事」として、八文字屋、銭屋、井筒屋、日野屋、羽二重屋などの名が何度も出てきますが、こうした恐らく江戸商人や他領商人からの借金は大抵踏み倒すことができないので、返済と借金を繰り返すような状態であったとみられます。既に寛保2年時点で松代城下伊勢町で酒造業を営む御用商人八田家(建物は国登録有形文化財)からの借金は21万両以上にのぼっていたと云われており、御目見のうえ給人格御勝手御用役という士分格の役職を与えるほど恒常的に頼っていたことが伺えます。こうした赤字財政のところに、未曾有の「戌の満水」による復旧費、被災領民への貸付などといった新たな出費が必要となりました。

 一般的にこれらに対する費用を早期に捻出する方法として、

 1.家臣の俸禄を減らす

 2.借金をする

 3.年貢と御用金を増やす

この3点しかありません。被災領民が多い松代藩では3が実行できず、1、2をすぐさま実行しました。

 家臣の俸禄を減らす方法として松代藩では、享保14年(1729)2月28日「半知借上(はんちかりあげ)」という制度を緊急措置として導入していました。それは知行百石以上では50%削減、それ以下では低減しつつ切米、扶持米の者まで削減するといったものでしたが、「戌の満水」によって、これが恒常的に実施されるようになりました。次の借金ですが、今度の貸し手は「幕府」になります。松代藩は幕府から1万両を拝借し、その多くを復旧費などに充てました。しかし、10年返済であれば翌年から千両ずつ返済していかなければなりません。こうして松代藩の財政は、復旧後も破綻状態にありました。

 足りないうえに足らずとなれば、半知と言わず更に棒引きするしかありません。「戌の満水」からそれが7年間も続くと、ついに家臣の不満が爆発しました。これが全国的にも珍しい寛延3年(1750)正月におこった通称「松代足軽騒動」になります。

 

寛延3年(1750)1月1日『日記』

御用部屋御席の衆御列座、5ツ半時(AM9時)御役人中御礼あい済み、今朝御足軽残らずめいめい詰場明退散、諸御役人の附人ならびに使番まで残らず番所詰場明下宿いたし候、今夜八ツ時(AM2時)より原小隼人宅へ三御奉行、宗旨改御吟味役、御普請奉行、道橋御改、御勘定吟味役、御目付、右御役人残らずあい招かれ、口上書1通宛差し遣わし候ように申し渡され、いずれもあい認め差し出し候、7時(AM4時)帰宅

 

 他国では通常10万石に400〜500人の足軽を抱えているのですが、松代藩では歴史的な経緯により1000人(『文久改正松代藩中高附』では御雇足軽30人を足して1077人の足軽が確認できます)の足軽がいました。その内300人が城下、残りが各村に居住し、村々の年貢から切米、扶持米として直に俸禄を受け取っていました。『嘉永7年(1854)御足軽後見住所帳 二月割番』の恩田靭負(ゆきえ、恩田杢の子孫)同心の部分では「後見 新馬喰町 繁吉 25才、西条村 三喜治18才、東十人町 亀三郎17才、西条村 市太郎28才 右之通御座候、以上、 中村富太郎 印」などと足軽の構成が書かれ参考になります。足軽は日常的に松代城下へ通勤しなければならないので、この史料から城下町と東条村、西条村、清野村、東寺尾村、関屋村など近隣の村々に居住していたことがわかります。他国のように半数の足軽500人であればおよそ1万両の俸禄を削減することができます。そうすれば先ほどの収支がほぼ均衡するので、理想は足軽半減、それができなければ俸禄を半分にすればよいことになります。俸禄を減らせば禄高が少ない家臣ほど困窮するのは必定で、その最下層にあたる足軽が遂に出仕を拒否する事態となりました。こうして足軽達が一斉に出勤を拒否したので上位の家臣達は腹立たしさとともにさぞ狼狽したことでしょう。足軽は門番、掃除、台所、お供、庭の手入れ、草刈、自身番、夜廻り、火消し、注進番、辻番、御触使、武具諸道具の手入れ、土木作業など実務を担っていたので、これを誰もやらないのでは行政機能がマヒしてしまいます。1ヶ月と過ぎ、藩と足軽の我慢比べが続きます。2月2日原小隼人は足軽の首謀者たる小頭75人を捕らえ、山岸文太夫以下20人に預けとする処分を下しましたが、如何ともし難く領内寺院から嘆願書が提出されると許しました。しかしこれでは問題が解決せず、ようやく7月13日に4月と5月分の俸禄を払うので足軽へ受け取りを命じました。この金について財政難の松代藩では用意できず、小諸荒町の祖助という人物に仲介をしてもらい、江戸川嶋屋茂兵衛から2584両を借りて支給しました。しかし、その返済も滞って何度も祖助から催促を受けることになります。

 この騒動により寛延3年(1750)10月、かの原八郎五郎(小隼人改め)は御役取り上げとなり、そのまま兄の郷左衛門に永預けの処分となりました。しかしこの程度の騒動で「永預け」になるのは不可解です。別書物等によると、目を見張るような散財や、不正な賄賂、公金横領などが多数あったからと伝えています。そして、原小隼人が失脚する少し前の8月、こうした騒動が国許で起こったことを反省したのか、藩主真田伊豆守信安は新たな勝手掛を採用し、財政の立て直しを図ることとしました。田村半右衛門の登場になります。

 『長野県史 近世史料編』に『田村騒動記』と称した田村半右衛門の事が掲載されているので紹介します。はじめから騒動と書いてしまい誠に残念ですが、結果がそうなってしまったので致し方なしといった心境です。今回はどの程度現代語に訳すのか迷いましたが、可能な限りそのままとしました。少し長いのですが、ここまで詳しく紹介しているものはなかなか無いので、できるだけ御覧ください。

 

乱れは太平の根指と古言にあり。埴科郡県庄松井郷藤沢里松代は先年海津の城と申す。天文22年(1553)武田信玄公が取り立て、その後「松代」と号なり。元和8年信濃国小県郡上田城主が取り替えにて真田伊豆守様(信之)ご入部され、高10万石を拝領なり。そのみぎりより御勝手向き御富貴のところ、近代もってのほか御難渋にて高借財あそばされ候。なにゆえの事と聞き伝え候に、郡中の惣百姓年々違作にて困窮つかまつり候ゆえの事。これにより江戸御屋敷・御在所ともに・とりとり・へんへん・の御詮議止事ござなく候。この段はいかがさま御勘略よりほかあるまじく候と、惣御家中はじめ惣百姓諸人申す事、近国に隠れござなく候。

 ここに江戸神田町2丁目に田村半右衛門とて年60余りになる者ござ候。この者心に思うさま、なにとぞ松代御家へ了簡をもって御勝手役人となり、御上の御為と言い、御百姓の勝手我が身の為、かれこれよろしく一義に候か。最早思い立つべきと案ずる処に、江戸南部坂町に西窪又市と申す者ござ候。この人によくよく談事申すべくと折節参り、かの又市に内談ある事は「首尾ぞよけれ」、又市申すに「この義よろしく御了簡ござ候。されば渡りに船とはここの事、御身も我等も時を得たり。真田伊豆守様の御部屋殿は我が為には姪子にてござ候。この方へ申し含め、御前の御耳に入り申すべく候。左候えば、願いは時の間に成就せん、御心易く思し召さるべく候。殊に留守居役小松一学殿も内々御意くだされ候えば、先に貴殿の願いの事、一学殿へ申達すべく自分御屋敷へ参上つかまつり候。貴殿御帰りあれ、かし何さま御宅へ近日それがし参るべく候間、必ず御他行あるまじく候」と互いに礼儀を述べ、それより又市は御屋敷へ参り、小松殿へ右の品々申し上げれば、一学殿も若年の人にござ候えば、時に早速談合これ有り候。なるほどもっともの義に候間、同役中とひそかに談事申すべく、委細は近々に便り次第申し越すべく、その節遅滞なく御出待入り申し候。かの又市よろこびて我家へ帰り、じかに半右衛門方へ参り、右の挨拶くわしく申し候えば半右衛門大によろこび、「さて又市殿御身も運の開くべき時節に候」と、珍物名酒を調給高砂や四海波も寄りくると、神田2丁目の神徳は我ならんと奢太平騒ぎける。

 頃は延享3年(1746)9月中旬なり。今お初と大くせ物10万石百姓のかきんならんと、諸仏神は御推量あらん悲しきなりや。それより又市は昼夜小松殿の元へ参り密談あり。そのうえ又市かの姪子の方へ委細申し含め候。「されこの方はそなたの為には伯父なり、今般よろしく御事でき申す女子ながらもよく道理を聞かれよ。御身の事は仏神の御恵をもって、かたじけなくも10万石の御部屋様と諸人にあおがれ候事、生々のしあわせありがたく我等まで喜悦に候。御当家にいたり近年御不如意あらせられ候事、次に御百姓も年々衰え前後必至と行き立ち申さず、御勝手御勘略よりほかござなく候と日夜御詮議止時なし。これにつけてそれがし別懇の仁ござ候。利根発明の仁に候か、この者を御勝手役人に願い奉り候。御身よろしく御前の御耳に御入れたまうべく候。御承引のうえは御身も我等も役人も御為といえ、御百姓の勝手つのり申し候らえば10万石救いにござ候か。」ひとえに御申し上げ頼み入りと言いければ、御部屋方もさっそく得心なられ、「もっともに候か。御上の義は自らよろしく御取り成し申すべく候。御心易く思し召さるべく幾重にも申し上げいずれもの願い叶わせ申すべく候間。その節御悦喜ならるべく候」と相談これあり候。それより半右衛門・一学・又市3人は一身同心にてこの首尾ばかりを取り繕い、昼夜の隙もなかれけり。

 ようやく5年(1750)にして8月上旬に願いの通り田村半右衛門方へ御勝手役仰せ付けられ候。よって同心の者共悦事限りなし。この御役の事御留守居石河吉右衛門殿始終相談に御加わりならず候。この段よろしく仁と江戸八百八丁に評判これある田村儀、ほどなく御目見え仰せ付けられ、そのうえ御知行300石下し置かれおおよろこびつかまつり候。御前にて万端御聞あそばされ、事御郡中の義は申すにおよばず、日本古今の事まで巨細に申しあげ候えば、恐れながら殿様も御得心あそばされ候。

 その後田村儀、御留守居衆そのほか御定府方御家来衆・諸役人中御寄り合い御列座御詮議のうえ、半右衛門申しける様は、「このほど愚拙方へ御勝手役仰せ付けられ候。各々は頼み入り申し候。ならびに御家不如意につき、向後は古例を引き替え新法を申し付け候。御上意によりて面々さように思し召され候。」

 ここに湯本十学殿は元文3年御郡奉行仰せ付け候ところに、寛保3年まで5年にして御役御免、その後御普請方仰せ付けられ、その節江戸屋敷御普請につき田村半右衛門と時の口論これあり、小松殿の詫びにて事済み申し候。田村心に思う様これならて「郡代勤めるべき者ほかになし」と、又は十学殿郡代なされ候。田村工面をもって成沢新弥殿郡代取り上げ、八田競殿へ跡役申し付け候。

 左候えば御金の間に合わせ申し候にて松代へまかり越し、八田競殿に落ちつき申し候て、諸役人中に対面。もってのほかなる過言にござ候。「惣御家中御役人方、自分儀今般御勝手役仰せ付けられまかり越し申し候。これにより万事新法申し付け候。ことに御家中程儀おとけ申し候えば、4分の1程は御用立ち申さず候ほう事、我が手に掛かり払い申し候」と言い渡し候につき、惣御家中驚き難義千万この時と騒ぎ申す。そのうえ郡奉行方3人才覚として金100両宛、10人代官中へ50両宛、手代20人へ12両宛、割役方へ4両2分宛、勘定方23人へ40両宛才覚金申し付け候。違背に及ばず面々了簡をもって田村殿へ上納いたし候。これにより御家中御詮議なくそのまま差し置き申し候。この金700〜800両も取り立て申し候。御代官の中、綿貫五兵衛殿は上納これなく、その訳は百姓方より音物一切取らずと申し候。これにより金子才覚まかりなり申さず候と申され候。時は20日余まかり有り、江戸表へ参上つかまつり候事。

 山中3万石残らず2月上旬に成沢新弥殿、村々へ御廻村なられて一手に御支配仰せ付けられ、これにより惣百姓よろこび申し候。月々切金9月まで上納つかまつり候ところ、上納金残らず潰しおき申し候、御百姓一同に迷惑に存じ奉り候。

 同10月中御出役原小隼人殿御役取り上げ申し候。御郡中山里へ12月上旬に目安箱廻り申し候。村々願いの筋残らず書き入れ申し候。刻付きにて相廻し申し候。この義は御家中御地頭方にても非分の事を書き入れ申すべくと心得申し候処に、一切書き入れ申さず候。この目安箱を持ち2月上旬に江戸表へまかり上がり申し候事、御上の御前へまかりいで委細よろしく申し上げ、新法の勧め御領分百姓へ高100石につき付、給金3分宛差し出すべくと仰せ付けられ候。この金都合600両余にござ候。午の物成は半分は大豆納つかまつり候。残り表の分は未の2月に至り不足表又は御扶持方に相渡し申し候て、直段高直ゆえ向後御家中ならびに村方共に新掟に申し付け、費一切止め申し候か、この訳追って申し渡すべく候。

 翌日28日に松代参着、8月4日4ツ時村方御勘定所へ肝煎・組頭・長百姓・頭立1両人、小百姓2〜3人同道仕りまかりいで候と、10万石53ケ村へ御触れにつき、山里村々参上つかまつり候ところ、御郡奉行山岸文太夫殿・湯本十学殿・八田競殿・御職奉行矢島源右衛門殿・矢野式左衛門殿は病気にて御出座なし。御代官人・手代方・御勘定方御列座あそばされ候。田村殿は竹杖を突き入れられ候とは、諸役人残らず頭を下げ今日はご苦労千万にぞんじ候と申され候えば、田村答えて「各々大儀にぞんじ候。さりながら御役筋に相心得られべく候」と、左も大よふに相申し述べ候。後に郡方付け人中まかり出、村々役人・頭立・小百姓残らず相つめ候なりと仰され、皆々「かしこまり奉り候」と申し上げ候。その時田村半右衛門へ申し渡され候は、「村々役人とも大儀千万に候、今日召し呼ぶ事別儀にあらず、古例を引き替え万端新法仰せ出られ候かきっと恐れ入り奉り候。よりてお家に対し善悪2ツの訳を申し聞かさるべく候、疾と呑み込め百姓どもと、それがしは年々田畑耕作の影を身をもって妻子ともに身命を送る渡世ばかりを励み候事不届き至極候。これにより上納金は夢に覚え申し候なり。10万石に御未進金6〜7万両も相重なり候筋は何ゆえに借り候と申す。この訳立すは残らず鳥打へ引き出し首を刎ね候。大不忠者ども・盗人等返答致せ」と申しける。口上は大音上雷の百体も落ち来たり候ように申し付け候。かつまた御家諸役人どもも盗人の頭取つかまつり候。年々秋中諸作見分として駕籠や馬に乗り村方相廻り、百姓どもの振る舞い喰いにまかりいで候、不行き届き千万に候。そのうえ百姓の方より袖の下とやら賄賂とやら、又は茶筒と言って金銀を奪取年々金丈に応じて差し引きをつけくれ候事。去るによりて10万石の内2〜3万石も品々引き方これある候。これ御上をもって御不如意候。諸役人今は盗人の上目取り、向後はこれ仁か草履取り1人召し連れ村役人ともに案内いたさせ、奥山入り村までもまかり越し候か、よくよく心得あるべく候。@当年より新法にあり大検見だし申さず候。A宗門人詰め改め出し申さず候。B催促人取り立てに出し申さず候。そのほか一切止め事、これにより(A)高100石につき卵1つ宛出すべく事、玉子の目方10匁、村方によって玉子無く候はば代銭1つにつき4文づつ出すべく事。(B)御物成のほかに100石につき籾子15表宛出し申すべく事。これをもって品々御免あそばされ候。当一毛物成の義、夏中3分之1麦納、あい残り10月中代金上納つかまつるべく候。不納の百姓とも召し捕らえきっと御仕置きに申し付け、今般自分御拝領知行地百姓とも祝儀申し付け候。高1石につき鳥目10疋宛差し出す事。(C)樽・肴は堅く無用の事。(D)山中筋御百姓麻・長命菜・楮この分はこの方にて他国商人を引きつけ売り払い申すべく候。左候えば小百姓の勝手にあいなり候。よって御請けとして証文差し出す申すべく事。」

 哀れなりかや御家中役人中、田村半右衛門威に恐れ、顔色かわり魂を失い方角を忘れし風情は去りしとはば見苦しきしだいなり。惣百姓一同に言上つかまつり候は、「おそれながら前々より御情けをもって御百姓あい勤めまかりあり候ところ、今般15表増仰せ付けられ、なんとも迷惑至極御請け難しくつかまつり存じ奉り候。何分にも御用捨願い奉り候」と申し上げればもってのほか御叱りなられ、ぜひ御訴訟申し上げ候。「しからばまかり帰り惣百姓に申し聞かせ、そのうえ御請けつかまつるべく」と申し上げ、「左も候はば来る7日にまかりいで御受けつかまつるべく候」と厳重に仰せ付けられ、まかり帰り申す。

 大勢百姓途中にて談事申し候には、「とても御受けはまかりならず候か、7日には150人宛まかりいで御訴訟つかまつるべく候」と、10万石すべて同心つかまつり、5日に皆々まかり帰り申し候。6日1日の内に内詮議つかまつり候。もし御訴訟御承引これなくうえは江戸表へまかり上がり申すべく候と、御赦免なき上は田村貰い受け打ち殺し申すべく候と村々規定いたし候。自然仕損じ江戸表へ参り候には、白木錦に山中3万石御百石御願に参上つかまつりのぼりを立て参るべく候。松代にて牢舎にござ候て牢打ち破り、そのうえ八町を驚かしまかり出べく候と人々起証を言い交わし申し候。ただいま御百姓の運命の節なれば、所の明神氏神へ参篭つかまつり候。先祖の墓所へ参り、諸親類・妻子・子供よりの別れの盃を取り交わし出るばかりなり。もし村方において願いに除き申す者をは打ち殺せと規定つかまつり、未8月7日未明に我家をまかり立ち、松代差して急申し候。集まる処は赤坂川原清野にあい定め候。

 4ツ半時山中村方4〜5ケ村参り候えども、1人も不参候村々、途中より帰る者もあり、呼つぐもあり、ようやく8ツ半時山中村方つごうつかまつり候。不参の村方もござ候。所々様々の詮議にて「口上書をもって申し上げるべく」とて、村々1人にて書く人もこれなくにつき、1〜2字宛書き候えども不出来にござ候。ここに山中の内頭立者まかりいで、「私書く申すべく候。もし願い申し候て御仕置きに仰せ付けられ候はば何れもよろしく頼み入り申す」と願書半紙ばかり認め申し候ところに、60余りの年寄り申し候は、「御自分は如何思し召しなり皆々頼み無事を御書き呑み込み申さず候。さてまたもしいかが思し召し候なり今般は口上ばかりにてお願い申し候てよろしくござあるべく候。口上書は御無用ならるべく」と、おとなしく申され候えば、皆「もっとも」と答え申し、村山村の小百姓1両人参り、役人は不参候か我々はまかり帰り役人同道つかまつり候と船に乗り申し候時、大勢大音にて「不届きの者ども某は逃げ申し候。船人渡し申し候はば諸ともに打ち殺せ」と怒り候えば、この者も是非無くまかりあり候。

 もはや入日にござ候か、まかり立ち候と先手は馬喰町、後勢は赤坂川原この間1里ばかりござ候。大勢入り乱れ後先しどろにまかりなり、暮れ6ツ入り合いに4〜5ケ村山岸文太夫様へ参上つかまつり、一同に申し上げ候は「恐れながら先日御役所にて仰せ付けられ候御新法1割5分増の義、惣御百姓もうとう御受け申さず候。これによって小百姓ども御訴訟に参上つかまつり候。押し留め申し候えども一切聞き入れ申さず候。ぜひなく同道つかまつり候。なにぶんにも御用捨くだし置かれ候ように願い奉り候。」時に御奉行所御案に「明日御役所へまかりいで候、なにとぞと御聞きなされ」候えども山中「残らず」と申し上げ候。「早々まかり帰れ」と仰せ付けられ、ここに入り村方小百姓とも蓑こもにまき切りまなこを包み棒を突き、思い切りたる支度にて参り候。誰申すとなく新法を科につき行立申さず、これにより「ただいま田村半右衛門を乞うに参上つかまつり候」と申し上げ候。「すなわちこの口上破言の始まりにござ候こと、田村半右衛門殿いずかたにござ候なり。御目にかかりたく存じ候間、御指図くださるべく候」と申し上げ候。おおかたは同役方におられ候かと御定めなられ候につき、十学殿へ参り左のとおり申し上げ候。この方は知らず候と御定めにつき、八田競殿へ参り右品々申し上げ候えばこの方には居られ申さず、「いずかたにござ成られ候なり、御申し切りならるべく下され候」と言いければ、内より下役人3〜4人棒を突きまかりいで、「不行き届き千万の百姓ども、ここは御役所なりに、我慢千万くわんたひ過ぎたる奴原」とお叱りなられ候。そのとき小百姓は「我々は大勢お願いに参り候ところに棒打つは何事ぞ、そのものどもは定めて田村同前のがんとう人と見えたり、棒を奪いみじんに打て」と大勢大音上げて罵れば、下役人引き入り、そのとき上の御意には「田村半右衛門殿、この方には居られ申さず、明日御役所へまかりいでべく候」と仰せ付けられ候につき、されは八田嘉助殿方に田村居り申すべく候かまかり越し対面つかまつり候、先日の過言の返答つかまつるべく候と、先に酒店へ打ち寄せ、酒呑み申し代銭払い申さず候につき、しとめ打ち申し候。後日に承り候えば酒5〜6石も呑み申し候と評判つかまつり候えども、これは不実にござ候。「八田屋へ打ち寄せ申し候事、八田嘉助殿に御意えたく存じ候。今夜山中3万石の御百姓残らず参り候。今般江戸御屋敷より田村と申す曲者参り、貴殿御宿なられ候につく申し分ござ候。田村と申す大曲者は江戸八百八丁に余りたる盗人にて候。先に御役所にて申し付け候は、かたじけなくも大日本60余州開闢より以来、草木まで人民育の身命を送ると、天照皇大神宮の御影にてござ候ところに、向後参宮致すこと無用、借金等返済無用、そのほか親類縁者へ音信振る舞い無用、盗む等も随分つかまつるべく候と申し付け候、そのうえ御家御役人衆中様を盗人と申し候。百姓方へ非道なる過料申し付け候。ただいま対面にまかり出候。異義申し候はば打ち殺し申すべく候。日本一のあふれ者きっとお渡しならるべく候。左なくば貴殿家内押し入り払い出し申すべく候。」「田村よくよく聞け、過言のとおりならば天下一同の御禁札10万石をはづし候て申し付くべく候ところに、我慢千万言語道断に候」と、5〜6千人も同音に申し候事はすさまじき体にござ候。この人数酒呑みもうしたく候か「酒14〜15石も御借しならるべく候。今般江戸首尾よくまかり帰り候はば代金払い申すべく候」と言いけれども、酒は出し申さず候。「しからば敷物ねこお貸しならるべく候」と申し候えば、内よりねこ160〜170枚取り出し借り申し候事、田村まかりいで対面いたすべくと大勢大音上げ大騒ぎつかまつり候こと、天に響き地に鳴り渡り雷電の落ちるごとくにござ候。八田殿家内男女下人ども肝を消し残らずきごえに立つ。

 田村さすがの者なりども大勢に気をとられ是非無く土蔵へ忍び入り申し候。そのとき裏門より郡方3人御出なられ、田村半右衛門方へ御語りなられば、「さて御聞き候え、先日申し付け候事存あのごとく多勢押し寄せ候」、田村申すよう「不届きなり百姓ども、御上意なるにまかりいで、きっと申し付くべく候」と申しければ、そのとき「必ず御無用」としきりに押さえられ候。「貴殿対面なられ候はば大事にまかりなるべく候」と申され候。大勢なおなお強く申すにつき裏門より密に長国寺へ逃げ申し候事実まさにござ候。十学殿は百姓ども我慢によりて「騎馬にて乗り込み打ち壊さん」と申され候。この儀なるは入り乱れ申すべく、これまた山岸殿静められ候。惣百姓腹に居へ兼大破れ、松代八町を40〜50人程にて立番夜回りつかまつり候。百姓の内にて町宿または手寄りへ引き込み休み申すものどもをば打ち殺し、家中町宅にて伏せるもの1人もござなく候。この大事神にとおり候なり、天騒げ敷物淋敷まかりなりと独り言申し候。

 その夜4ツ半時御百姓申すに「各々今般御町へまかり出は、御町奉行様へお断りなくてはいかがにござ候なり。」「もっともに候」と7〜8人菅杢之進様へ参上つかまつり、右の次第申し上げ候ところに、「もっともにそうろうか、自分儀ただいま御月番祢津数馬殿へ届け申すべく候」と御意くだされ候。夜の9ツ時少々雨降り申し候とき、御町奉行御出なられ、「御百姓今夜願いに参り候こともっともに候。ことに雨降り候か用心つかまつり候。その夜8ツ時御帰りにまかりなり候とき、御百姓の内1両人我が宅へ参るべく候申し渡す儀これあり」と御意くだされ候につき、4〜5人参上つかまつり候。「明日御詮議に及び願いのままに仰せ付けくだされ候か、今夜静まり狼藉これなきようにつかまつるべく」と細々仰せ付けられ候。「ありがたく御意にござ候」こと。不参の村方は町宿詮議つかまつり夜中早飛脚立ち申し候。

 田村嫡子左近義は、その日戸隠山へ参詣つかまつり候。田村の手付きにより売る商人共も8日の4ツ時八田屋よりまかり出、両人帰り申し候。明ケ7ツ時 山岸文太夫殿仰せ付けられ候は、「明日5ツ半時に御勘定所へまかり出べく候」と仰せられ、皆々かしこまり奉り候。朝飯つかまつり御役所へあい詰め申し候、職御奉行所の矢島源右衛門様郡方3人・十代官・勘定方手代衆残らず御寄り合いこれある候。御上意にいわく、「今般江戸表より御勝手役の田村半右衛門殿差し越され、万端仰せ付けられ候儀につき大勢まかり出候段、不届き千万に候。この度かしこまり奉り、後日に行立ずは御訴訟つかまつるべく」と御申し付けあそばされ候。そのとき惣百姓一同に謹みて申し上げ候とも「御用捨下し置かれず候はば、江戸表へ御願いにまかり出申すべく候。この度の儀においては御受け申すことまかりならず候」と申し上げ候。「しからば村役人ばかりにて神妙に願出べく候処に、惣百姓徒党つかまつり候儀不届きの至りに候。されまた半右衛門貰いたくと申すこと70になる者を何につかまつり候なり。」その時惣百姓申し上げ候は、「恐れながら御情けをもって御百姓あい勤め申し候ところに、今もって過料新法につき行立ち申さず。何分にも御容赦願い奉り候」、時に十学殿「もってのほか」お叱りなられ候。「百姓ども御上より今般御勝手役田村半右衛門差し越され候ところに、過料などと大勢まかり出、騒動の段不届き千万に候。かよう思い立ち候はば御領分において我慢に候。」十学殿大わらはになり仁王立ちになりてお叱りなられ候時は、鐘馗大臣かと恐ろしきこと限りなし、時に山岸殿御意なられ候は、「さて御百姓等、田村儀御前より差し越され候者を乞い申したくと言事やめ申すべく候、他の願いばかりつかまつるべく候」と申され候。その時大勢の者共「ぜひ貰いたく」と申し上げ候。「左も候はば願書2通につかまつるべく候」と仰せ付けられ候。「印判持参つかまらず候」と申し上げ候えども、「無判にて差上げ申すべく候」と御意遊ばされ候。表山中の内山田中村の者共は、「田村乞い申すべく事は私共は除き申したく」と申し上げ候ば、「その方中間にて相談あるべく」と仰せ付けられ候ときに大勢大に立腹し、「ただいま田村貰に除きたくと言う村方は何方にて候なり、まかり出申すべく」と大音揚げ呼びければ、ぜひなく一同にあいなり申し候。この事腰抜け者共諸人申し候。左も候はば願書2通につかまつるべく候と仰せ付けられ候。

 これにより願書にいわく、


恐れながら口上書願い奉り候御事

前々より御情けをもって百姓あい勤め候ところ、今般田村半右衛門様御出あそばされ、御新法仰せ付けられ行立ち申さず候。これにより御赦免下し置かれ候ように願い奉り候御事

一 午(1750年)先納金ならびに高懸金、巳(1749年)暮れより午10月まで高金上納つかまつり候ところに、田村半右衛門様当春御さしず下し置かれ候ように御書付御勘定にて御読み御聞かさせ下し置かれ候えども、今年も御さしず下し置かれず候ように先日仰せ付けられ、大小百姓迷惑至極に存じ奉り候御事。

一 当春中夫給金高100石につき3分宛て仰せ付け、3〜4年分程御上納つかまつり、これまた先例のとおりにござ無く迷惑至極に存じ奉り候御事。

一 当作毛御見分無くに御物成のほかに1割5分増仰せ付けられ、このだん御訴訟申し上げ候御事。

一 山中の儀は先年より金納の場所にござ候ところ、春中御蔵付渡り仰せ付けられ、これにより方々様より大勢御催促に御入り込みなされ、これまた難渋至極に存じ奉り候御事。

一 ただ今まで所々借金等返済およばず候よう仰せ渡され、これにより他領所に付く村々百姓御上納つかまつるべくようもござ無く候。迷惑至極に存じ奉り候御事。

一 御掟法の儀は古例のとおり仰せ付けられ下し置かれ候はば、ありがたく存じ奉り候。寛延4未年8月8日 昼時

右のとおり願書差上げ申し候、御郡奉行より御差図にて2通に仕り差上げ申し候事

肝煎

組頭

長百姓

御奉行所


(2通目)

恐れながら口上書をもって願い奉り候御事

一 別紙口上書をもって御願い申し上げ候とおり、今般田村半右衛門様御出あそばされ、品々御新法仰せ付けられ、ことに御百姓勝手にまかりなり博打・盗み等の義も苦しからず候につき、この分習い申したく候はば、江戸表へまかり出申すべく、御指南くださるべくの旨、先日御役所にて仰せ付けられ候えども、いっさい御法度の義にござ候えば惣百姓えごころつかまらず候。万端御百姓行立申さず候ように仰せ渡され、これにより田村半右衛門様を今般惣御百姓方へ下し置かれ候ように願い奉り候、以上

未8月      79ケ村           三役人

御奉行所


(御加筆)

田村半右衛門様申し請けたく存じ奉り候えども、「万端古例のとおりに仰せ付けられ下し置かれあり存じ奉り候」と御直し下し置かれ候事


右のとおり2通につかまつり差し上げ申し候ところに、矢島源右衛門様お叱りなられ候には無判と申し上げ、印判つかまつり差上げ申し候につき厳重に御意なされ、田原村平左衛門申すよう、「恐れながら午相場59表御情けにはござ候えども、上納金はお潰しおき、残表の分は方々様へお渡し俵にあそばされ候えば、もってのほか高直にてござ候。迷惑つかまつり候」と申し上げ候えば、十学殿「59表にはこの方が切り出し相増なすを高直と申し不堅者に候、何村申されるぞ」と厳しくお叱り、そのうえ平左衛門曲事仰せ付けられ候、この時一同に申し上げ候えば破れ申し候事後に矢島殿申され候は、「曲事はこの方の役筋にござ候ところ、貴殿の曲事御申し付けなされ候ところその意得ず候」と申され候につき、十学殿訳立たず掛かり合いにまかりなり、不首尾千万に相聞こえ申し候。曲事は御代官中の御訴訟にて埒あけ申し、三奉行中の御意にいわく、「御百姓ども今般の願い筋にて万事古例のとおり申しつけ候、田村半右衛門儀江戸表へ送り候間一切手出し申すまじき候事、某等は四方に伏勢つかまつり候と相見えたり。もし御領分の内にて手を出し申し候はば厳重に申し付け候。碓氷を越し存分につかまつるべく候」と御申し候。8日7ツ時不参の村方700人参り候に付き、大勢力を得申し候。同晩の5ツ時願いのとおり仰せ付けられありがたきしあわせと御請け申し、御役所をまかり立ち申し候。同9日の4ツ時乗り物1丁番増両人付き、侍両人先乗りにて御出なられ候事。ご用心と相見え鼠宿まで田村送りなられ候ところ実正にござ候、田村半右衛門儀一命を拾い早々に江戸御屋敷へ参上つかまつり、右の品々御上へ言上つかまつり候ところ、お殿様もってのほか御立腹あそばされ、その上自分又々在所へまかり越し1ケ村にて3人宛て召し捕り、打ち首に申し付けべく候と御上意仰せでられ候、御家老中および御詮議申し候。田村半右衛門申しよう「自分義又々在所へまかり越し御上意のとおりきっと申し付け候。各々さように御心得ならるべく」と申す時、望月治部左衛門殿ぜひ事と御挨拶なられ候、恩田杢殿は田村儀不届きの筋に存られ、御前へまかり出おそれながら申し上げ候。「今般田村半右衛門儀御在所へ遣わされ新法仰せ付けられ候ところに、御百姓お受け申さず候につき、又々田村御願い御上意をもって御在所へまかり越し、村々御役人おしおき仰せ付けられ候ところ、何分にも御赦免下し置かれ候はばありがたき存じ奉り候」と、思い切りたる御諫言なられ候。その上御承引これなく上は切腹と覚悟相極られ謹みて御願いなられ候。「御聞き済みなし下され候はばありがたきしあわせ、さもこれなく候はば御家に差し障り申すべく」と再三御申し上げなられ候えば、殿様ようやく御意もなく御思案のうえ時うつり、「左もありば望月とよろしく内談申し付くべく候」と御上意仰せ出され候につき、ありがたく御前をまかり立ち田村半右衛門方へ下され候へば、田村答えていわく、「是非御在所へまかり越し申し候」といさみ申すとき、恩田殿厳重に御叱りなられ候えば、そのとき田村半右衛門もぜひなき御暇給わり声も腕ものけはてて大きなたくらみが露顕せり、この大事は3万石の守護神のご加護、恩田杢様の一心にて事静まり申し候、殿様も御十分御百姓もしあわせ、上下共仏神三宝の御方便、今度の騒動さっそくに相済み重畳至極千代万歳の本意なり。諸人申す事隠れなき義にござ候、以上。

申10月

 

 

 ここに突如として登場する田村半右衛門という人物は何者なのでしょう?本文中からは江戸神田に住む60歳余の人物としかわかりませんが、『田村騒動記』には「田村出生の事」として、次のように書かれています。

 

貞享5年(1688)12月浅野・吉良両家老申し候、吉良家の家老に大野喜右衛門と申す者の子に喜多之助と申して、13歳にて流人つかまつり候。成長の後、悪盗にくみして江戸御尋ねにつき、安房・上総国にしばらく居住してその後江戸へまかり出、上州忍の阿部豊後守様へ相済み申し候ところ、不首尾にて退き、その後越後国糸魚川2万8千石の御家へ済み申し候えども、これも叶わず逃げ申し候。寛延年中松代へ済み候えども叶わず、宿縁難遁して翌2月先年御尋ね者につき露顕つかまつり、江戸表にて古名の大野又左衛門にて召し捕られ、70才にて老舎つかまつり、同7月牢にて病死つかまつり候。あさましくなり。死首さらしものなり、嫡子左近も江戸にて欠落つかまつり候と風聞つかまつり候。

 

 

 このように田村半右衛門は忍藩の阿部家と糸魚川藩の松平家で失敗しているにも関わらず、寛延3年8月真田家で御勝手役に採用のはこびとなりました。松代にとっては誠に不運としか言いようがありません。恐らく名前を変えて前歴を消し、藩主真田信安の側室の縁を頼って、これまで培ってきた経済の知識を披露して採用されたのだと考えられます。現在で言うところのテレビでよく見る経済評論家でしょうか。田村の財政改革というのは倹約を中心としつつ、まず家中の者達へ四分の一は不要であると人員整理の脅しをかけ、郡奉行100両、代官50両、手代12両、割役4両2分、勘定40両といった才覚金を出させました。また領内では寛延4年分として9月までに月々切金を先納させたところ、春になって前年分までの収入にしてしまいました。

 田村半右衛門は、このような僅かな金を積上げていくような地道な改革を行っていたのですが、寛延4年(1751)4月26日越後国高田で大地震が発生し、その揺れによって松代領内では潰家45戸、半壊32戸、死者12人、花之丸仮御殿が潰れるなど松代城も被害を受けました。その被害については、宝暦2年(1752)9月『御城御破損御修復御入料金』として600両を用意し、修復が完了した後の宝暦5年(1755)にそれを収支勘定した記録が残っているので紹介します。

 

金213両(二ノ丸塀、丸馬出塀、本丸御殿の屋根、櫓の屋根、二ノ丸曲輪、東不明御門より南の塀、茶屋の下枠)、金51両(城裏川除普請、花ノ丸中御門番所、西不明御門、花ノ丸中御門屋根、花之丸2階座敷)、金17両(作事小屋所向小屋1ヶ所、木挽小屋、花ノ丸印南馬場東の番所、花ノ丸塀、本丸東の御門際の櫓、二ノ丸御台所西の塀)、金67両(本丸御納戸、本丸御土蔵、本丸東西石垣上の塀)、金9両(本丸太鼓御門前の橋ならびに東不明御門前の橋、北不明御門の通塀3ヶ所、城裏中ノ水ノ手枠と閉め切り囲い、上ノ水ノ手閉め切り柵3ヶ所)

 

 

 享保13年(1728)春に松代城ならびに侍屋敷その他を焼失し、12月に幕府から金1万両を拝借(1730〜1739年の10年間、年千両返済)して再建。寛保2年に「戌の満水」によって大破し幕府から金1万両を拝借して再建。たった14年間の内に次々と損傷を受けるとは、誠に不運としか言いようがありません。今回は千曲川から離れた三ノ丸の被害は史料から見られず、本丸、二ノ丸、花ノ丸の被害が書き綴られています。もともと松代城には天守閣は無く、御殿、屋敷、櫓、門から構成された城でしたが、水流によって運ばれた土砂(または湿地腐植土)が堆積した軟弱な地質に建てられていたことから、城の全域にわたる石垣上の塀が倒れたり、多くの建物の屋根が破損したことが史料から伺えます。恐らく千曲川に近い部分ほど地質が弱く、城の西側にある「西不明御門」と「花ノ丸」の被害が比較的大きかったことからも伺えます。松代藩は9年前に多くの収入を失って未だ復興途中にある中で、さらにこれらを修復しなければならず、この後様々な問題が発生していくことになります。

 真田家は、この地震による復興にあたって5月に幕府へ被害を報告し、それにより11月に幕府から再度10年賦(1752〜1761)で3千両を拝借し、先の1万両に加えて返済が重くのしかかることになります。このような想定外の状況が発生したことにより、寛延4年(1751)5月に、御用商人の八田嘉助より5百両を預かりとして受け取ったり、その他領内の裕福な者達からも御用金を出させたと云われています。そしてこうした小手先の改革では埒が明かないので、ついに8月領内全村の肝煎、組頭、長百姓、頭立、小百姓を勘定所へ呼び集め、「新法」と称して新しい課税を申し渡すことになります。

 田村半右衛門は大勢の前で、まず百姓に対して未進金6〜7万両がある事を責めました。次に家中諸役人が年貢取り立て時に賄賂等によって2〜3万石も引いているので盗人と責めました。そしてこれからは大検見、宗門人改、才覚金の取り立てを止め、その他費やす事は一切しない代わりに、新法を申し付けると言い渡しました。その新法とは、1石に付き重さ10匁の玉子を1つ差し出し、玉子が無ければ代わりに4文づつ差し出す。物成のほかに100石に付き15俵差し出し、これによって他の品を免除する。物成は夏に三分の一を麦納、残りは10月中に代金で上納する。山中の麻等は他国商人を入れて売り払うと告げました。これを聞いた百姓は村へ帰って総ての百姓へ申し聞かせてから御請けすると答え帰村しました。その結果は、上記騒動記にあるとおり一揆となり、田村は松代城下で追い掛け回され、命からがら江戸へ逃げ帰りました。『田村騒動記』には載っていませんが、田村半右衛門は改革の一つとして宝暦元年(1751)に松代藩の年貢籾を円滑に換銀することを計画していたらしく、それを大阪蔵元の助松屋又右衛門に依頼し、越後国経由で船にて廻米をする手筈でした。しかし、この計画も自身が失脚したので自然中止に終わりました。

 こうして田村半右衛門は御役御免となり、翌年宝暦2年(1752)2月前科により幕府に捕縛されて牢死しました。そして原八郎五郎、田村半右衛門と立て続けに財政改革に失敗した藩主真田信安も4月に亡くなりました。そして田村半右衛門を推挙した側室について『真田家系図』によると、「室 江戸 鈴木又市女 蓮光院 宝暦2年12月29日依願賜暇」とあるように、真田家を追い出されました。この頃の全国諸藩は借金が20万両、50万両、80万両とかかえ、いずれも財政改革を行ったのですが、多くが失敗して一揆を発生させていました。松代藩もそんな中の1つとなったのです。そして、信安に代わって子の真田幸豊が13歳で藩主の座につきました。こうして名君と言われる彼の登場が『日暮硯』の始まりになります。

長国寺扁額 真田幸弘(幸豊)書

 私が『日暮硯』を初めて読んだ際に抱いた感想としては、常識的なものが書かれているだけで余談にするほどの本ではないといったものでした。単に現代語訳『日暮硯』を読んだ殆どの人が同様の感想を持たれるのではないかと思われます。ましてや多くのホームページで紹介もされているので、敢えて余談にする必要もないと考えていました。しかし今回、恩田杢の生きた時代として上記に書き綴られた歴史的な経緯を知った上で読む『日暮硯』は、まるで別の書物であるかの如く感想を持たせてくれました。彼がどうしてこのような措置をとったのか、どのような心境であったであろうか、情報として存在する『日暮硯』ではなく、生身の人間としての恩田杢の心を感じることができます。そして、現在の社会情勢や身近な自分の回りを振り返ってみても色々と考えさせてくれます。

 今回の余談をまとめる上で、多くの古今『日暮硯』を読み漁りましたが、ほとんどの物が小説と言えるような内容でした。子供でも読めるように判り易くしようとこのように書かれたと思われますが、そこから真実(1次史料等で確認)であろうものと、架空や想像話しを選別するのに大変苦労しました。ここで皆さんに『日暮硯』を掲載したいのですが、先程から述べているとおり、あまりにも多くの書籍などで紹介されているので、内容はそちらで確認いただき、こちらでは違った視点で踏み込んでみます。以下を読まれる前に、可能な限り原文又は現代語訳の『日暮硯』を読んでから御覧ください。私のお薦めは笠谷和比古著『新訂日暮硯』1991年岩波書店(ワイド版)です。

 

(日暮硯考)

 真田幸豊が藩主となってから5年が過ぎようとした宝暦7年(1757)夏、再び松代を洪水が襲い大きな被害を受けました。その時の被害を記した史料を見ることができませんでしたが、幕府よりまたまた1万両を拝借したので相当の被害だったとみられます。この被害を受けて真田幸豊は、ようやく藩の財政改革に力を入れる決意を固め、その責任者に選んだのは家老の恩田杢でした(延享3年(1746)11月に家老職拝命し、恩田靱負から恩田杢へ改名)。『真武内伝』によると「恩田之家 恩田越前守が沼田7人衆の内にあり、安房守昌幸の代に万人に勝る武名をあげ、前橋口永井坂を与えられた。また恩田伊賀守も7人衆の内にあって数度の覚えあり、今の恩田は伊賀守が末葉と云う。」とあります。この頃の松代藩の家老職は「矢沢」「小山田」「祢津」「望月」「鎌原」に「恩田」の6家などで、真田家の歴史を知るものにとって何故「恩田」?と少し考えてしまいます。それはこれまでの功績によるものもあったかもしれませんが、恩田杢民親の父親が海野氏からの養子であった事が大きな理由ではないでしょうか。海野氏は「祢津」「望月」とともに平安時代頃から小県郡と佐久郡を開拓した滋野三族と呼ばれる同族で、「真田」はその「海野」からさらに分家した家柄なので恩田家は真田一族になったことになります。さらに恩田杢民親が望月家から妻を迎え家老職家との密接な関係を築いたことも起因していると考えられます。『文久改正松代藩中高附』には、「高1150石 恩田靱負 足軽40人御預 本国上野 姓平 上屋敷大門前、下屋敷御城裏、香華院長国寺」とあり、恩田杢のお墓は松代の長国寺にあります。

 しかし末席家老で若い恩田杢を抜擢しようとしても、他の「老分の者ども(鎌原兵庫、祢津数馬、矢澤帯刀と考えられる)」が従わない恐れがあったので、真田幸豊は御親類の後ろ盾によって彼を抜擢することに成功しました。こうして恩田杢は宝暦7年8月に「勝手方御用兼帯」に命じられました。その際の『日暮硯』に「江戸御在府の砌、御親類家中参会の節」とある、助力した親類とは誰の事なのでしょうか?少し想像してみました。系図などから可能性のある人物を挙げると次の6人の内誰かではないかと思われます。政治の相談役として適当なのを考えると1〜3が妥当ではないでしょうか。

1.父の兄(伯父)にあたる大和国柳生藩主の柳生俊峯

2.父の兄(伯父)にあたる真田蓊信

3.父の弟(叔父)にあたる石見国浜田藩主の本多忠盈

4.自分の妹が嫁いだ下野国宇都宮藩主(肥前国島原藩主)の松平忠恕
5.自分の妹が嫁いだ肥前国平戸藩の松浦政

6.旗本の真田幸定(昌幸の弟の信尹を祖)

 ここで興味深い史料が残っています。宝暦7年3月朔日『殿様御領分御廻之事』とあるもので、藩主となった真田幸豊が前年の宝暦6年(1756)6月(松代着7月3日)に初めて松代へ入部し、参勤交代で1年が経って江戸へ帰国する前に、雪解けを待って領内を巡視したものになります。そこには4月1日昼休 桑原村→泊り 宮平村→4月2日小休 市後沢村→昼休 牧野島村→泊り 新町村→4月3日昼休 竹生村→泊り 鬼無里村→4月4日昼休 戸隠中院→泊り 上屋村→4月5日昼休 善光寺後町→泊り 布野村→4月6日昼休 小河原村→泊り 湯田中村→4月7日小休 小布施村→昼休 福島村→小休 町川田村→御帰城と行程が事前に領内の村々へ通知され、宿泊・人足・料理等が細かに決められました。鬼無里村に残った史料によると、恩田杢は作兵衛宅(鬼無里交差点の松厳寺側四つ角の家)へ宿泊することになり、従者34人を引き連れ随行中最大の人数となっています。この史料から、江戸において御親類へ恩田杢の抜擢を依頼するより以前のこの時期に、真田幸豊は恩田杢へ藩政を託すのを決めていたのではないでしょうか。百姓を大事にしたと云われる恩田杢は、ぜひ江戸へ帰る前に、藩主の目で領内の暮らしぶりを見てもらいたく建言し、道中藩政に関わる様々な話しを2人で交わしたと思われます。領内が広大なため全ての村を巡視することはできませんでしたが、一番始めに領内で最も荒廃していたとされる宮平村一帯を見させたのも鋭いやり方だと感心しました。

 

 『日暮硯』に書かれているように、恩田杢の財政改革も田村と同じ倹約でした。しかし両者には決定的な違いがあります。それは「痛みのない改革」とでも言いましょうか、旧来のあるべき姿の政治に戻すと言ったものでした。極度に出費を抑えるのは当然として、それを自ら率先して実践し、本来納まるべき年貢が確実に納まるようにするといった、いたって単純なものになります。けっして難しい経済学などはありません。それは子供でも考えそうなものと愚考してしまいますが、社会では子供でも大人でも人間1人が「このようにやろう」と言っても殆どの人は大抵耳を貸しません。現代の総理大臣が交差点などで、国民に向って「皆さん○○しようではありませんか!ぜひ協力を」と叫んでも、「そうだそのとおりだ」と言って協力する人がどれほどいるのでしょうか?そしてそれが自分の生活を脅かすものとなれば、選挙で対抗するといった世の中になってしまっています。江戸時代も同じで、改革をしようとすればそこに利害が複雑に絡み合っているので、大勢の協力がなくては到底無理なのです。そこでどのように人を諭すのか、その点が『日暮硯』の注目される部分なのです。

 恩田杢は田村半右衛門と同じように領内全村の百姓代表と町人、商人を集めました。そしてまず前回の改革では田村が嘘をついたので、今後は「嘘を一切言わざる」と宣言します。そして「嘘を言わずは、皆の為に悪しかるべきや如何」と問いかける方法を取り、恩田杢は実行したい内容を1つ告げた後に、必ず百姓へ反義語で問いかけて百姓にその善し悪しを決めさせるといった当時の社会としては珍しい方法をとりました。

 『日暮硯』にある改革の内容とは次のものになります。

@.主君に関わる費用は削減しない

A.家臣の俸禄は全額支給する

B.総ての贈答品、賄賂を禁止

C.足軽による年貢催促廃止

D.地方普請、諸役(雑税)廃止

E.先納、先々納廃止

F.御用金廃止

G.これまでの年貢未進分は無かったものとし、今年から未進ないようにする

H.これまでの先納、先々納は無かったものとする

 上記について、これまで足軽等へ賄賂、接待などで要していた費用に少し足せば年貢になると言い、これからは月割上納とする。

I.これまでの御用金は無かったものとするが、子孫に何かあれば助ける

J.役人の不正等について書き出して提出すること

K.博打での商売禁止

L.神仏をよくよく信仰すること

以上について家臣、百姓達へ諭し、役儀が勤まらなければ恩田は切腹すると言い、改革するのが良いか?、自分が切腹するのが良いか?、ここでも百姓達へ選ばせました。これまでの勝手役と比して恩田杢の改革が如何に易しいことか、百姓と商人は「有難き事なり、誠に闇の夜に月の出でたる心地、胸の曇りも晴れて、これより行末安楽になるべし」と悦び承知しました。これにより借金は消え、今年から年貢が高どおりに納入されてくることになります。それでも赤字なので倹約にて応じるといったものでした。『日暮硯』は物語となっているので、実際にはどうだったのか、下記に貴重な史料が残っているので見てみましょう。

 

里郷の分

御郡中村々近年たびたび旱損、水損、作毛不熟かたがた及び困窮のよしにつき、追々御手充ての品もこれあり候えども、さる夏水損ゆえ秋作までも不出来べっして難義の旨、かつまた去年中まで上納御金取り立てならびに籾蔵付け渡し催促等の失脚、その他品々内証(財政状況)難渋の筋これあり由あい聞こえ候。これにより当寅の年より籾渡し御入料辻ならび大麦納その他品々別帳割付候とおりあい心得申すべく候。もっとも右御入料籾残りの分代金に積月割金納に申し付け候こと。

1.右村切籾払いの分、御家中御切米ならび御扶持方渡しとも、申し渡し次  第御蔵屋敷へおい納め申すべく候こと。

ただし大麦納も右同様御蔵屋敷へあい納め申すべく候。

2.御飯米の儀、納方俵こしらえ等の次第につき、御百姓方難義の筋これある由、これにより割付あい改め、御手充てとして今年より御在所御入料の分は一重俵差札なしにて、升目ならびに中札は前々のとおり吟味いたす、御賄所へあい納め申すべく候。もっとも江戸出しの儀は納方前々のとおりあい心得申すべく候、右につき江戸出し御用ならびに御在所御入料の分引訳、別帳に割付申した渡し候。

3.万御小役、諸運上銀前々御定めのとおり、ただし薪、藁、御入料のとおりはあい納め、残り候分ならびに萱とも御定め値段をもってこれまた金納にあい結び、別紙のとおりその村金高月割上納申し渡し候。

4.御蔵屋敷御賄所品々納物、ならびに納捨物等まですべて御免なし下し置かれ候間、小百姓までとくと申し含むべく候。

5.右月割上納金定日のとおり厳重あい心得、御勘定所へ村役人持参上納いたし、支配御代官受取切手取り置き申すべく候。もっとも月割御年貢上納御相場の儀は、その年10月中買い次ぎ御立値段をもって差し引き勘定あい極むべく候、このたび格別の御情けをもって右のとおり御手充て仰せ付けられ候うえは、御厚恩のほどよくよく勘弁つかまつり、月割定日のとおり遅滞なく上納いたすべく候。


(以下内訳、万御小役の細かな指示)

一.綿、荏、大豆納割付前々のとおりあい心得べくこと

一.薪、藁御入料の分、前々のとおりあい納め申すべく候、あい残り御定値段をもって代金に結び入り申し候

一.萱御定値段をもって代金に結び入り申し候

一.御領所高崎銀(高崎までの人足代に相当する銀)、二十八匁夫銀、夫給金、麻運上、紙運上、漆運上、鉄砲役、川役、締役、網役、犬銀(藩主が狩りに用いる犬の食費)、熊革役、給所高崎銀 右は前々のとおりにて月割上納金へ結び入れ申し候

一.追鳥雉子(生きたまま雉を納める)、漆実 右は前々のとおりあい納め申すべく候

一.郡役人足ならび前々差し出し来たり候伝馬人足は、ただいままでのとおり差し出すべくこと

一.道橋御役の方へかかり候御用の品々、ただいままでのとおりあい心得べく候こと

一.舂大麦、小麦、柄蕎麦ならび挽抜、小豆、大角豆、ごま、芥子、稗挽抜、もろこし、粟、黍、からし、こぬか、渋紙、細引、菅筵、藁筵、麻、麻柄、ねこ、菰 右の品々納物ただいままでの御年貢、御小役をもって御指図下し置かれ候ところ、御手充て納方こんど御用捨なし下し置かれ候こと。

一.くるみ、玉子、山芋、菜、大根、干菜、草ほうき、古ねこ、○俵、唐辛子、草ふし、藁灰、よもぎ、せうふ、粰蔓、柏の葉、盆花、すす玉、荒ぬか 右の品々ただいままで納捨物これあり候ところ、御手充てとして今度御用捨なし下し置かれ候こと

 

右のとおり御手充てとして3ケ年間書面のとおり申し渡し候、上納の次第厳重あい心得べくものなり

 寅 二月

 

 

 上文5のとおり、実際に3年限りで月割金納が行われました。これは年貢を金納にさせると、秋に各村が大量の年貢籾を一度に換金して藩へ納めることになるので、取引の都合上混乱が生じたり、相場で足元をみられたりして、結果として未納する村が出るといった悪循環を生んでいました。そこで月割にすることによって、小額の換金を年内に分散して行うことができたので、まさに百姓にとって都合の良い納め方でした 。この手法が百姓に受け入れられ、月割金納は明治維新になるまで続けられます。そして上文1より、切米と扶持米が御蔵屋敷へ納めるよう命じられたので、足軽の俸禄は蔵屋敷から直に支給されることになりました。これによって足軽が村々へ催促に行って接待や賄賂を受け取る理由もなくなったので『日暮硯』BCが実行されたことがわかります。次に、上文3及びその下文内訳のように地方普請は廃止されず、諸役は「御蔵屋敷御賄所品々納物、納捨物等」が全廃(上文4)されただけで、その他諸役は殆ど廃止されませんでした。しかし綿など指定したわずかな物品以外は月割金納に代えられて百姓への便宜を図っています。これは年々多岐にわたって種類が増え続けていき複雑となった諸役の内、特に必要のないものを廃止し、整理したという意味だったのかもしれません。

 『日暮硯』ではG年貢未進を帳消しにするとを言っていますが、これも実施されませんでした。現代の行政では信じられないことですが、松代藩の財政が混乱した根本的な原因として、収支を把握していなかったという点が指摘されています。過去数年の実績から今年はこの程度の収支であろうという雑把な大見積を作成し、年が終わって実際の収入額、実際の支出額については、各役職さらには個人が所有する断片的な帳簿に残されるにすぎず、これらを統合して整理した財政の全体像は把握されていませんでした。そこで恩田杢は、これまでの収支決算書を作成するように命じ、順次整備していく中で死後の宝暦13年(1763)に享保15年(1730)以降全ての決算書が完成し、以後松代藩の財政管理の方策として継続されていくことになります。さらにこれまで個人が所持するなどしていた帳簿の管理方法を改め、引継の徹底や勘定所に付属する御蔵に整理し保管させるようにしました。そして、決算書が作成されたので、これまで各村がどのくらいの年貢未進をしていたのか細かに把握できるようになりました。そして宝暦8年(1758)12月になると、寛延3年(1750)から宝暦6年(1756)までの『品々御未進年賦御割合一紙』を作成し、年貢未進分の回収について各村へ通達しました。回収にあたっては未進分を御本納、御越石、御飯米の3種類に分類して分かり易いようにし、年限を定めてそれより古い未進は「前々潰体分」として切り捨て、残りの未進は30年以内に何としてでも全額金納させるようにしました。納入にあたっては月割上納とはせず、その年の11月に一括納入させる方式とし、『日暮硯』にも「にくき奴原、寸々にしてくれてもあきたらぬ者共」とあり、恩田杢の年貢未進への厳しい態度が伺えます。その一方で上文2のように、百姓へ無駄な手間難渋をかけることのないように細かな配慮もしていたことが伺えます。代官綿貫五兵衛支配分の返済を例として以下に未進への対応について載せます(両以下省略)。

【未進金】:124両(御本納)+4両(御越石)+37両(御飯米)−38両(前々潰体分)=127両

【返済金】:1両(初年賦)+4両(3年賦)+20両(5年賦)+37両(10年賦)+65両(30年賦)=127両

 未進の村はどの程度あったのでしょうか、享保15年(1730)〜宝暦6年の27年間を整理した史料が残っているので、それに基づいて未進が多かった村を見てみましょう。最も多かったのは宮平村 (旧 大岡村 )1292両、続いて根越村(旧 大岡村 )1011両、和 平村 (旧 大岡村 )848両、入山村(旧芋井村)682両、二ツ柳村(旧篠ノ井市)681両、岩草村(旧七二会村)677両、大 原村 (旧 信州新町 )624両、 青木村 (旧 中条村 )602両で、領内全村総額が25875両でした。この8村の未進がとりわけ酷く、残りの村々は以下減って数十両、又はゼロといった状況でした。未進の傾向としては上記の二ツ柳村が入っているのみで平地部の里郷は全体的に少なく、山間部の山中と言われていた村々の未進が多かったことがわかります。旧 大岡村 がベスト3を独占している点について、今後も研究する余地があると思われます。

 恩田杢は年貢未進に対する厳しい態度を表す一方で、『日暮硯』にある言葉を引用すると「不慮の災難に逢ふるにて、耕作も存分ならぬ故、収納少なき事なるべし。さぞさぞ難儀なるべし。甚だ不便千万。気の毒なる事なり」といった村もあることを承知していました。そこで恩田杢はこうした村に対して、「難渋村御手入れ」という政策を行いました。松代藩は数人いる代官に1人当り数村を担当させていましたが、年貢未進が深刻な村には「難渋村御手入れ」を導入し、「佐藤軍治懸りあい御勘定」などと勘定役1人を指定して管理させ、その村の復興を図りました。勘定役が具体的に実施した政策は、藩から拝借金を与えて商人などへの借金を精算させ、その利下げ又は無利子化、又は長年賦の返済に軽減にする。村の借金を極力させないために抵当の無い借財には村役人が加判することを禁止させるなど借財の管理を強める。出人足を免除して荒地の開発を優先させる。金納を籾納に変更するなど村の裁量に任せるなどの復興策を行いました。

 恩田杢が就任した宝暦7年の洪水により、幕府より拝借した1万両は災害の復興に充てる一方で、こうした難渋村へ貸し付ける元金として利用しました。難渋した村が借金をしてまた難渋をしていく悪循環を断つために、これまで村が松代藩以外の者と取り交わした借金をこの貸付金によって精算させ、賃借関係を藩へ一元化させました。 宝暦8年2月には1397両を領内村々へ無利子5年賦で貸付、さらに3月には1042両を年利13%6年賦で追加貸付をしました。こうした方法をとれば村も借金に怯えることなく耕作に励むことができ、復興すれば藩の収益も上がるので両者にとって誠に都合の良い方策でした。このように『日暮硯』Gの年貢未進の帳消しの実態とはこのようなものなのです。

 こうしてみると、『日暮硯』に書かれた改革は、ほぼ話しのとおり実行されたとみることができるのではないかと私は思います。平易で読みやすい『日暮硯』は江戸時代から多くの人達に写本され、全国各地へ広がり、各藩の財政再建へのテキストとして用いられていきました。江戸の本屋には財政再建集のような集積本が発売されていたらしく、その中に『日暮硯』も含まれていたと言われています

 

 話しは変わりますが、今でもこれを書いたのは誰だ?といった論があります。

 『日暮硯』の最後の方には次のような文があります。「右の正しき事の条々、杢殿の帰依僧某上人の直噺伝え承り、感歎の余り、日暮し硯に向い、ここかしこ聞き覚えしところ、反古の裏に書きつけて、伝えるものなり  馬場正方」、さらに松代町公民館が所蔵する本には「宝暦11年(1761)冬之初」と書かれていたので、作者馬場正方は、この時代の馬場氏である「馬場広人」という人物であると昭和まで信じられてきました。しかし、昨今では天保から安政年間(1800年代前半)に藩主の近習役を勤めた者で馬場茂八郎正方(高160石)という名が一致する者がいて、彼ではないかといった論が主流となっています。例えそうだとしてもこの馬場正方も単に写した者の1人にすぎず、結局は筆者不明となって結論が出ていません。私の推理としては、まず本文の序文に「宝暦5年の頃」とあるので、「頃」を見ぬ振りしてそのまま恩田杢が勝手掛に任命された年が宝暦5年とされていたのがそもそもの間違いになります(実際は宝暦7年)。そして本文中後半に「御役去年迄中五ヶ年なれども」の文があるので、逆算して宝暦10年の翌年の11年だと、数多くいた写本者の1人が、勝手に解釈して記したのだと考えられます。それをまた何者かが写し、いつしかそれが多く出回るようになったのだと推測します。その他で書写年代の古いものが文化2年(1805)になるので、恩田杢が亡くなった宝暦12年(1762)からそれほど経たない1700年代に、松代藩士以外の者によって『日暮硯』が書かれたとみられます。恩田杢が死んだ後、ある何かしらの出会いの時、懐かしむかのように松代城下の僧侶(大英寺住職との論あり)が他国の者へ熱く思い出話しを語りました。それがあまりにも素晴らしい話しだったので、持参していた捨てるような紙に日時をすぎるのも忘れるほど夢中に書き綴ったのでしょう。

 このように他藩で改革の手本とされたので、この改革は成功に終わったのでしょうか?『日暮硯』の本文には「御勝手も直り、御金も夥しく出来候事、私欲がましく事なく、難渋者を救い、上を大切にして忠義を尽くし、困窮無ように慈悲を元として行われし故の大徳なり。実に有難き事なり」と書かれ読者に満足感を与えてくれます。『日暮硯』を題材にした小説のような解説本を見ると、いずれもこれを真に受けて「財政再建に成功した」などと絶賛して書き、これがために『日暮硯』の本来持っている主旨を歪め、とても危険だと感じました。

 そこで『日暮硯』とは一歩離れて、本来の目的である財政面の復興はどうだったのか恩田杢が死亡した翌年の古文書が残っているので、下記に紹介します。

 

年来御勝手不如意に付き、御家中とても連々勝手向き及び困窮いたすべく難渋段、御気の毒に思し召され候。これにより先だって仰せ出され候えども、なおまた今年より来る亥年迄5ケ年の間、左のとおり仰せ出される条、吉凶とも万端無益の儀これなくよう心がけ厳しく倹約いたし、取り続き御奉公あい勤め候儀専要の事

(中略)

未(宝暦13年)八月

右は祢津大炊殿御渡し成り候

 

 このように死後も相変わらず財政難は続き、祢津が「お気の毒」とまで家中へ言っています。そこで恩田杢が宝暦7年〜宝暦12年の5年間実施した倹約をさらに延長することにし、宝暦13年(1763)9月1日〜明和4年(1767)の5年間に行うことを家臣へ触れました。ここには上文(中略)箇所に様々な倹約の内容が述べられていますが、恐らくこれは恩田杢が実施した倹約令と同様のものと考えられます。その内容とは、衣服は絹紬か木綿とする、他所や江戸ではこれまでと同様の服でよいが、領内では綿服としてよい、音信贈答いっさい無用、婚礼の節寄り合う者は従兄弟までのほか5〜6人までとする、平日親類その他に出会うの節は1汁1〜2菜と軽くする、召仕はなるべく減らすなど、『日暮硯』で恩田杢が家族とのやりとりで申したことと似ている内容が記されていました。所詮1汁1菜などは物語を面白くさせる創作だと思っていたのですが、実際にこのような事までやっていたのかと驚かされました。そして、恩田杢死後の数十年が経った村々の史料を伺うと、「恩田様 御無尽 3両」などと出費が書かれ、恩田家を軸に多くの百姓がお金を出し合って藩のために出資していたことがわかります。さらに有名な天明の大飢饉の際、天明4年(1784)山中の百姓が一揆を起こし大挙して松代城下に押し寄せたとき、百姓の地京原村(旧中条村)清助が申すには「恩田杢様仰せられ候とおりに御定め成し下し置かれ候はば、別段御願は御座無く」と言っています。死後22年が経っても、百姓にとってそれほど理想的な政治だったことがわかります。このような百姓達の姿をみると、恩田杢の仁政が後々まで大きな影響を与えたこと、恩田家は倹約をはじめとして藩への惜しみない出費を続けていたことが考えられ、大変微笑ましく感じられました。

俗名 恩田氏民親墓(長野市松代長国寺)

 『日暮硯』で恩田杢は、「先ず五ヶ年この役儀相勤め候つもり故」と語っていました。ここで恩田杢は宝暦7年8月に「勝手方御用兼帯」に命じられ、宝暦12年1月6日46歳で多くの者に惜しまれて亡くなられました。それは年切りで5年を全うした正月に亡くなったことになります。上記のように彼の死後も松代藩の財政難は続いており、だとすると・・もしかしたらといった考えが浮かんできます。家族、親類への縁を切ると言ったまでの覚悟を考えると、命を賭けていたことは確かです。何れにしろ先人達が失敗したにも関わらす、恩田杢の実行したことは松代藩を大きく変えました。そしてそれを土台に、後を託した義弟の望月治部左衛門によって明和3年(1766)頃からようやく財政復興の兆しがみえてきました。

 恩田杢の事を長々と調べて私がホッとした瞬間です。戦国の勇真田家といえども、江戸の世では1行政機関となり下がり、このような苦労をしていました。それを影ながら支えた人達、この歴史を感じて自身を顧みたり、これからの行政や企業の有り方に一考取り組んでいただけたら幸いです。最後に、余談を書き終えた後、再び松代を訪問し、長国寺にある恩田杢の御墓(長野市指定史跡)をお参りさせてもらいました。雪の中に佇む宝篋印塔が質素でありつつ、何故か芯の強そうな堂々とした雰囲気といった印象を与えてくれました。「空風火水地」と刻まれた石塔に、法名の玄照院鉄扇道関居士。故人の徳を表す道号が「鉄扇」という、死後250年近く経って彼の強靭さを私に魅せてくれます。

 この改革に命を懸けた恩田杢民親殿の忠勤に敬意を表します。

 歴史を想像しながら歩く松代、ワクワクします。ぜひ松代を訪れてください。


『其之 84』H22.4.24〜H23.1.1

 ある日友人から、「神奈川県平塚市にある三島神社に、狛犬ならぬ人魚の形をした狛魚があるが、その由来を知らないか」と聞かれました。私にとっては遠い他県の事なので、ほとんど知識が無くて困惑しましたが、少し興味もあったので調べてみることにしました。すると、三島神社の祭神は大山祗神(おおやまづみのかみ)と事代主神(ことしろぬしのかみ)だということで、平塚から遥か離れた愛媛県大三島に祀られて、記紀神話に山の神として登場する大山津見神が祭神だったことで驚かされました。そもそも三島神社は、伊豆国一宮である三島大社の末社になるので、愛媛→伊豆→平塚という遥か昔の分祀の流れが組み立てられるのですが、何故敢えて平塚の地に祀ったのか?と少し疑問に感じ、太古の時代からそこに住んでいた人々が何を崇めながら生きていたのだろうかという観点から思考してみました。

 平塚の地、現在はその名が失われた「大住郡」(おおすみぐん)を、太古の昔から潤してきた水は、そこに住んでいた人達の命の根源となってきたことでしょう。その水の源に大山祗神と関係があるものがないかと、地図を辿ってみることにしました。すると、「花水川」という比較的大きな川が平塚市と大磯町の間で相模湾に流れ込んでいました。そしてその上流に目をやると、「大山」1252mの山と、その麓に「阿夫利神社」(宗教法人名「大山阿夫利神社」)という文字があるのに気付きました。この読み方も知らない神社が、私と石尊大権現との最初の出会いであり、多くの歴史視野を広げてくれることになりました。それでは、何故この神社が信濃国と関わりがあるのか、本日の余談へ参りたいと思います。

 

 神奈川県の人々にとって、「阿夫利神社」を「あふりじんじゃ」と何気なく読むことができるかと思います。そして、初詣や登山を兼ねた参拝など、今でも多くの人々に親しみをもたれています。しかし、上代国語の研究成果による『万葉仮名一覧』によって読み仮名を確認すると、古くは「あぶり」と読んでいたようで、色々調べていくと明治時代になって「あふり」と読まれるようになったことがわかりました。

 はるか昔、大和朝廷の東国遠征が行われるまで、ここに住む人々は西側の人々から蝦夷と呼ばれていました。そして、その言葉は現在のアイヌ語と類似していたと云われています。そこで「アブリ」=「アンヌプリan-nupuri」であったとして、直訳で「ある・山」、意味としては「川がある偉大なる山」などという位置付けで存在していたのではないかとの研究もあります。大住郡と余綾郡では(平塚市・伊勢原市・秦野市・大磯町など)、多くの縄文・弥生遺跡や古墳が発見されているので、古くから花水川上流域に人が住み、彼らが毎日のように偉大なる山を目にしていたことがわかります。鬱蒼とした森の間をぬって流れる川の上流に、美しく恐ろしい偉大な山が聳えるのが見え、当時の人々にとってはそれが神そのものでした。ある研究には次のようにあります。「神というものは、これを信仰する特定集団ごとの神である。地域社会の神であったり、一族一家、同族団ごとの神であったりしてきた」。よって村や山麓などに祭祀場としての屋形が祀りの度に仮屋として設けられ、「アブリ」と呼んで崇めていたと思われます。山から水が湧き出てそれが集まり、やがて海まで流れるという現象は、太古の人々にとって不思議な事でした。やがて弥生時代になって農耕が始まれば、その山は生活の源へと飛躍し、風や雲などの自然現象もこの偉大なる神による所業だと信じられていきました。古代の人々にとって山は恐ろしい所であるという基本思想があるので、そこに足を踏み入れればどのような怒りを受けるかはかりしれません。よって現在のように山頂・山腹に阿夫利神社が祀られていた可能性はありません。やがて地方に仏寺建築の刺激が広まると、仮屋としていた「アブリ」の祭祀場に、社殿を建築して常設するようになりました。その場所は未定ですが、私の想像では、「川がある偉大なる山」という意味を表すのであれば、大山から流れ下る大山川(鈴川)が谷から出る場所(子易や石倉)付近が、最初の社殿位置ではなかったかと考えています。いずれにしても大山の近く、且つ山が遠望できる適所に建物を置き、そこで崇めるという行為に至りました。これが神社としての阿夫利神社の始まりとなったのです。

 延喜5年(905)〜康保4年(967)に編纂された『延喜式』の神名帳に、相模国大住郡 国幣小社 4社(他に前鳥神社、高部屋神社、比比多神社)の内の1つとして「阿夫利神社」(その名の初見)が記載されているので、その起源については確実に平安時代中期まで遡ることができます。さらに、『延喜式』はそれ以前の天長7年(830)に施行された『弘仁式』、貞観13年(871)施行の『貞観式』(両式ともほぼ散逸)を集成し、一部を追加するなどして作成したものなので、さらに平安初期または律令制国家の成立期(700年代)まで遡る可能性もあります。そもそも太古の時代から全国には数多くの在地の神が祀られていました。そこに大和朝廷が中央集権国家の形成を目的として、在地の神々を統制するという仕組みができあがり、ついには『延喜式』へそれら在地の神々の名が書き残されることになりました。「阿夫利」の文字は、『延喜式』以外に江戸時代以前の史料では確認できませんが、延暦17年(798)に、僻遠の地にある社には、国司が祈年(きねん)祭に奉幣することが定められたので、鎌倉時代頃(全国的に応仁の乱の頃に廃絶との説あり)に守護が現れ、国司の力が有名無実となるまでは、阿夫利神社が国によって維持され続けていたと考えられます。大住郡には相模国府(『和名類聚抄』に「於保須美、國府」とある)があったとされ、特に大山川(鈴川)が谷から出る扇状地一帯(大山―石倉―上粕谷−下糟谷のライン)は、相模国でも有数の古墳や遺跡を有す地であり、古代からの政治的中心地であったことが容易に想像されます。『延喜式』4社の内、前鳥神社が字 四之宮、比比多神社が字 三之宮という住所に現存しているので(隣接郡の寒川神社が一之宮、 川勾神社が二之宮)、残りの高部屋神社(現在は字 下糟屋)と阿夫利神社(現在は字 大山)は、相模国全体としての神ではなく、国府近辺の特定な地域社会が崇めていた神という可能性が高いことになります。現在の大山川は、歌川・金目川・鈴川・大根川などの幾多の支流と複雑に絡み合い、最終的に花水川となって相模湾に流れ込みます。しかし、縄文時代には現在の平塚市街地は海でした。それが相模川や花水川による長年の土砂堆積によってしだいに海岸線が南へ後退し、場合によっては両河川が一緒に海へ流れ出ていた時代もあったと想定されます。それから数千年を経ても平塚市街地は湿地帯や氾濫地域であったので、人が住めるような所ではなかったと考えられます。そうすると、その外縁に遺跡が多くあるのは必然で、暴れ川やその源たる山を鎮めるために、大山川が谷から出る扇状地一帯に住む者達の特定な神として祀られていたと考えられます。

 平安時代も終わり頃になると、この地は糟屋荘という荘園の一部(『安楽寿院領諸荘所済注文』に記載)で、糟屋氏の一族で大山に拠点を置く大山氏が支配していたと云われています。この時代は地名を姓とするので、偉大なる山の麓において人が住む地域を、「阿夫利」でなく「大山」と呼んでいたことがわかります。そして『吾妻鑑』の元暦元年(1184)に「相摸國大山寺、免田五町、畠八町、任先例、可引募之由、今日下知給」と書かれ、「阿夫利」という名が歴史上から消えて、初めて「大山寺」の名が登場します。ここで平安時代の寺院については、中国で寺院の所在地を示すためにその寺院の所在する山名を冠するのを模し、山の名を寺名としていました。これらの寺はのちに寺号が定まっても、その所在を明瞭にするために山名を山号として寺名に冠して使用しました。「比叡山延暦寺」もその1つで、最初は山名の「比叡山寺」と呼ばれ、最澄没後から暫くして「延暦寺」が下賜されて「比叡山延暦寺」と呼ぶようになりました。これにより、「大山寺」というのは「大山」という名の山にあったから呼ばれた名だということが分かりますが、寺号を朝廷から下賜されることはなかったので、そのまま「大山寺」が寺号=山号とされていったと考えられます。また、「大山寺」の読み方については、現在「おおやまでら」と読んでいますが、この時代は『吾妻鑑』を見ると「大゛」「山の横にセン」とあるので、「だいせんじ」と読んでいました。これにより、誰も近づかなかった偉大なる山中に、寺院が建立されるという新たな時代に入りました。

 

 大山寺は現在も麓から女坂を登って阿夫利神社下社に辿り着く途中にあります。大山寺の創建については、天平勝宝7年(755)に東大寺初代別当の良弁が開いたとされていますが、この開基については信憑性がないと、殆ど否定されています。しかし、明治12年(1879)阿夫利神社本殿(上社)を山頂に建築する際に、地中から藤原期の「双鳥蝶草木文鏡」(径11.2cm)、「常滑焼壷」(和鏡はこの中にあったという)が出土しました。時に日本では、永承7年(1052)から「末法」という、仏法が衰えてあらゆる悪が永久に横行するという恐ろしい時代に世の中は入ったと信じられていました。相模国のある為政者が、救いを求めて恐ろしい山へ入ることなどできよう筈も無く、代わりに修行によって特殊な力を得た者に祈りを託して山頂の地中に埋めたと考えられます。恐らく経典も壷の中に入っていたと思われますが、高価な鋳銅製経筒ではなかったので、腐って無くなってしまいました。他の寺で発掘された国宝の経筒には、「息災延命、旡病平安、現世安穏、後生善処、法界衆生平等利益」を願う文字が残されていたので、同様の願いがこの山でも込められたと考えられます。ここで現在「阿夫利神社」にある昭和57年に製作された案内板には次のようにあります。

 

 阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人達の心のよりどころとなり、国御岳・神の山としてあがめられてきた。山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいる。

 山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代(紀元前約1000年頃)の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っている。

 

 この土器片については、表土に埋められてあったとされ、その上に盛土をした形跡が指摘されています。これについて、修験者が珍しい宝物を土に埋めて祈祷する作法によるものとされ、縄文時代に山頂へ置かれた土器ではないという研究があります。そもそも紀元前1000年〜平安時代中期までのものが何も発掘されないのに、縄文時代から信仰が続いていると考える事にも疑問を感じます。

 こうして平安時代後期に、為政者が山の神を鎮める力を持つ者に帰依し、寺を寄進し、以後 大山寺としての歴史が始まりました。それでは大山寺の創建について、ヒントを与えてくれる享禄5年(1532)に裕賢坊乗真の手によって書かれた『大山寺縁起絵巻(大津本)』を写したものが現存(最古の縁起)していますので、下記を御覧ください。

 ●<原文をやや修正加筆>

 

おおよそ当山の由来を尋ねるに、思うに神代の昔に行者が先に来て、未分の嶺を踏み分けると云う。その後、人皇42代文武天皇のとき、慶雲年中になって当国相模の国司太郎太夫時忠と申す人、外には仁義を専らにし、内には信心の常を怠らず、家繁昌して快楽に限りなしであった。しかし、よわい40歳をへても家を継ぐべき一子がなく、常々これを嘆いて三宝(仏法僧を尊ぶ)を祈念していた。ある時、時忠は妻の北ノ方を呼び、「私は楽に余るといっても、いまだ代継を持たないのは、如何したことか」と言った。しかし、女の身として子なきは、非常に罪深き前世によるものかと互いにくどく悲しみ、哀れであった。時忠が救いを求めたのは、いずれも菩薩の悲願は疎かにできないが、二求両願の悲誓に如意輪観音が1人優れていたからであった。如意輪の願に「もし私の誓願大悲中、一人不成、二世願我堕虚妄罪科中不還本覚捨大悲」という。しかしこの悲願に逢おうと、自ら如意輪の尊像を造立して香花を供え、夫婦ともに礼拝賛嘆して申す、「我たとえ前業の罪ありとも一子を授けたまえ」と信心を凝らした。

ある夜の夢に、何処からとも知らない御年八季ばかりと見える老僧が、香の衣袈裟をめし、左の御手にはかせ杖を突き、右の御手には一巻の経を持ち、夫婦の枕に立ち寄せて、彼は御経を与えて「この妙典は弥勒菩薩なり」とのべた。これを開いて見れば、すなわち法華経の第であった。「かくなり我はこれ霊山の釈迦なり」と現に告げて消えた。夢に驚いて北ノ方に語れば、自らも同じような夢を見たと言った。さては願が成就せりと喜びの色を催した。

 実に年月を経ずして1男をもうけたが、夢想のごとく、誠に仏菩薩の化身のようで、形相は凡人とは違って見えた。父母もろともに寵愛すること、もっともねんごろであった。そうこうしているうちに、国中の者共が国子の御子が産まれたと、貴賎上下が参り集り、程々の宝物を捧げ、祝うことあわただしかった。しかし楽は極まって悲しみが生じることもあるという。生まれて70日と申すに、乳母が若君を抱き、花園に出て愛おしんでいたところ、思いもよらず虚空より金色の鷲が飛び来たり、若君を掴んで何処ともなく消えてしまった。天に魂が離れ、地に倒れたように父母は嘆き、命も今は危うく、萬方に人を馳せて尋ねたけども、思いいよいよ増すに、嘆きは深かりしままに、佛神三宝を祀り、我が命を取りたまえなどと申していた。

 その頃、大和国奈良の都の東山の辺りに、覚明上人という顕密碩学の沙門1人がいた。ある夜夢を見た<当来導師の弥勒菩薩が、この所に来臨して仏法をひろめ、大伽藍を造立した>。そこで夢が覚め、早くに深山へ入って見回ると、大きな杉があった。その枝の間から子の泣き声がした。怪しんで立ち寄って見れば、金色の鷲が人の子を抱いて巣の中で育てていた。にわかにこれを奪い取ろうとすると、鷲が身をなして全く得ることができず、先々坊へと帰った。

 さる間、覚明上人が持尊の不動明王に祈念申すには、我が夢で見た事が誠であったのは、この子の五体を全て帰させ給えとのこと。17日熱誠を凝らしてかの木のもとへ行くと、何処からともわからず猿が1つ来て、かの子を抱いて上人にたてまつった。これを受け取って見ると、錦の産衣を着ていた。裏に誕生の年月日を記してあった。これにて父母のある事を知った。何四州へ父母を尋問したが、その左右なし。しかるに上人がこの子を撫養するのは偏に父母のようであった。にわかにその名を金鷲童子(こんしゅどうじ)と申した。

 かくて月日を経るほどに、金鷲童子は19になった。1文を受けては他文を知った。故に文筆は世にならぶ人はいなかった。実も佛菩薩の化現と覚えける。それから上人御年80となって御臨終した。金鷲童子はそのとき金鼓を鳴らし、往生を進めると、西に音楽を発し、光明赫奕として三尊が来迎した。上人は西方に向かって弥陀の定印を結び、称名の声鮮やかにして浄土の素懐を遂に給う。心も言葉も及ばれず。

 その後、金鷲童子は上人の御為として、自ら執金剛神(しつこんごうしん)の像を造り、本尊として御足に五色の糸を掛けて、引き動かして礼拝の度毎に唱えていわく、「聖朝安穏、天下泰平、興隆仏法、利益衆生」と祈った。信力かなって御足より五色の光を放ち、王宮を照らした。帝はこれを怪しんで、勅使をもってかの光のさす所を尋ね見れば、今の金鷲行者のもとに尋ね入った。勅使は問うた「如何なる由あってこの光は王宮を照らすのか」。金鷲行者が答えて申すには、「興隆仏法の志あれども、我が力にては叶いがたし、天皇の威光を勅みたてまつり、大伽藍を造立し、仏法を修行せんと思うなり」と申した。勅使は帰ってしかと申し奉れば、帝は大いに叡感ましまして、急ぎ金鷲行者を召され、勅定するには「朕も大願ありといえども、未だにその師を得ず。金鷲行者を師となすべし」と仰せくだされけるので、行者とみに出家して良弁僧正と申した。さるほどに時の権威と云い、また仏法修行の人と云い、広い世をもちいるに勝れたので大仏殿を建てられた。東大寺と号す。すなわち良弁は別当に定まって華厳宗の濫觴これより興った。

 されば大夫時忠は、北ノ方に向かって「我これ嘆きやまずして、はや命も絶なん。いざ家にて嘆き死なんよりは、身を捨て、命を限りに尋ね見ん」と仰せける。もっとも然るべしと、夫婦ともに尋ね見んと仰せける。もっとも然るべしと、夫婦ともに家を捨て郎従に別れ、珍宝を忘れて出給ひけるもの哀れなれ。彼は常の如く失う子にあらず。不意に鷲来て執たれば、定めて山林の巌石の岨などに有らん。人の畔にいないかと、里を尋ねる。悪蛇鬼神の住処も問わず、谷の底険しき岩を伝い、我が子に会わんと嘆かれる。仙術にあらねど、昼は草の葉の露を舐めて命を助かり、夜は岩根を枕とし、苔を敷きて臥すに、年月日時の幾回も過ぎるを知らず、山々谷々を分け歩き給いけるものいたはしけれ。かように心の及ぶ所を尋ね廻り給わずと云事なし。

 ここに奥州と坂東の境に奥隈川という川があった。遠き都の空、両国のはて迄も行く人は、この川を渡らなければならないので、いざここで暫く尋ね聞こうと、その川の渡し守に身をついやした。昼は世の中に憂き目を見慣れ、竿疲れを養う杖とさだめ、夜は菅薦の恨めしきこの身ながら、竹の柱に覆い通して夜露の気をのがれ、住むのは哀れであった。もっとも往来の人にこの事を尋ねたが、云う事は「知らず」とのみ申すだけだった。ここにても多くの年月を送って甲斐もなければ、渡し守をも留まり給ひけり。

<時忠泣く泣くかくなん。みどり子にあぶくま川を渡れども>

 それより東山道を経て、信濃国より出、昔住んだ相模油井の里へ帰ったが、築地は崩れて跡もなく、門はあったが覆いはなし。慣れた所であったが、更に心も留まらず、ただ涙より他はがまんできず、よってここに居る事もならないので、ここより花の都へ赴くことにした。さても夫婦は、相模油井の浦をも出て、駿河、遠江、尾張、伊勢路、近江路を足にまかせて行った。日数積もって木津川や淀の渡りに着いた。便船に乗ると、渡し守が申すには「あなた達の有様は世に捨てられた人にあらず、如何様にものを尋ねるのは何故であろう」と申した。時忠が述べるには「仰せのごとく我は坂東相州の住人であったが、一子をもうけて僅かに70日の内に、鷲のために取られ、その行方を知らず。今生にて今一度逢うことを願い、このように漂い続ける也」と語れば、渡し守が言うには「当時、奈良の都聖武天皇の御師、東大寺の別当良弁僧正と申す人、鷲の巣の内より取り出した人と聞いているが、もしこれ汝の御子か?」、それを尋問して細かに教えてもらえば、これを聞いてから心さわぎ胸つぶれて、船より急ぎ上がり、奈良の都へと尋ね入った。

 程なく都へ入り、かようの事や候と申したが、児法師など驚きあきれ笑い「聞き苦しい事を申す者かな、そこを出よ」と言い、ののしる間、かくのごとく子細を重ねて問うに及ばず、哀れこの別当の御坊に直ちに御目に懸かりたいと思ったが、耳に聞き入る者も無ければ、力及ばず門外に出た。

待ち設ける近い所、夫婦は年来の疲れにより心身苦労していた。されば大仏の南大門の側に、わずかなる竹をたてて、薦を張って臥せていた。それに比べ良弁僧正は御加持のためと、日々参内していた。御帰りの折節、不思議やこの老人方より光を差し、僧正の御車を照らした。良弁怪しく思い、かの老人に向かって「これは何処よりの人でしょうか、また何故おられるのか」と問えば、夫婦の人は涙を押さえて言うには「我は相州の住人大夫時忠と申す者也、一子をもうけ幾回経ずして鷲のためにとられ、その行く末を聞かんがために、家財官職を捨て、迷い歩く程に、はや40年に成る。今は年だけ筋力も疲れ、露命も消えようとしている。願わくば上人、我等を哀んでもらいたい」と申すので、良弁は重ねて聞いた「さてその子にはどのような印がありましたか」。翁が言うには「その子の脇の下に3つの黒子があり、像3星のようである。また産衣に錦を仕立て、同じく誕生の年月日をその裏に起こした」。上人は「その年月日は如何」。翁は「慶雲2年乙巳4月15日也」と語った。さては疑うところもなく「誠に我は御子である。親でございます」と、手に手を取って嘆いた。

 夫婦の人はひとえに夢現とも言い難く、先達はただ涙であった。かくては人目が如何と、我が御車に2人の親を載せ、先の御坊へ入り参らせ、この年月の旅疲れを労わった。貴賎がこの有様を見て、皆が感涙に袂をぬらしたとのこと。この事が都に隠れることなく「さる頃に衰えた翁媼2人あり、我が子に会おうと嘆くのを聞いて、良弁僧正の父母であった」などと言い合うのを、帝が聞こし召し、勅使を仰せ下されば、父母がいらっしゃるとのこと、その聞こえあり。急ぎ連れ立つようにとのことでしたが、ただ無官の身として昇殿することになるので、とやかく言うことなく冠を下された。良弁もあい共に参内した。

 さる程に、帝の御叡覧あって、始から今に至るまでの事ども、勅問にまかせて一つ一つ申せば、天皇をはじめ公卿殿上人にいたるまで哀れを感じた。されば昔のごとく相州の国司とすると勅定を下した。すなわち吉日を選んで御帰国の用意をした。良弁もともに御下向したいと奉聞した。帝の勅定があり、おおよそ天下に有智高徳の人たりといえども、僧正を興隆仏法の師につき思し召す処に、御下るのは許さないと也。良弁かさねて吾が生国と言い、仏法をもひろく通し、衆生をも利益して、にわかに上洛するべきを勅答願えれば、天皇聞こし召し、すみやかに上洛するのであれば下国を許すと仰せ下された。さる程に父母もろとも2度相州へ御下りあり目出度い。ほどなく相州、鎌倉油井の里へ着いた。国中の貴賎喜悦限りなく、様々に賀したまわる事少なくない。いにしえに住んだ屋形の跡に甍をならべ、郡庄村里おもいにわけられ、我もわれもと参れば、にぎやかであった。

 ある時、僧正が国民に問うには、「この国において如何なる奇特な所があるか」。土民が申しには「ここに1つの不思議な社があり、これより西のあたって大なる山あり、その頂上より光さし、安房・上総・当国の3ケ国を照らす事常々なり」と申した。さては奇特のことなり。さらばかの山に分け登ってみようと仰せれば、そばの人々が申すには「この山は極めて高く、険しく、大木が茂って巌石そびえ、蛇魔悪鬼狐狼野干の住むところなれば、すべて人間の入るべき所にあらず」と申した。良弁が述べるには「さにもあれ苦しからず、国中を催して登るべし」と仰せであった。さる程に吉日を選び、国中の者共上下をきらわず催すべしと仰せであった。日限が定まれば斧鉞鍬鎌などを持って、皆々かの山の麓へ参り集まった。

 良弁僧正が先達して、高山へ登るのに、茂る大木をなぎ倒し、険しい巌石を掘りきわめて登り、今の本宮に着いた。そのようであったが、常々光さすところを三丈ばかり掘れば、不思議やその中より金色の石像があらわれた。そなわち不動明王の尊体なり。これを拝む国民、皆々目くれ心消して倒臥した。されども良弁は御加持をあたえると、元のように甦った。良弁僧正は明王に向かい、再拝して申すには「願は霊託を示したまえ」と。忝くも明王が託して述べるには「我は霊山の釈迦如来の付属を請うてこの山に住む、おおよそこの山は天竺崇岳山南宗廟が欠け飛び来たりてこの嶽となった。常にこの山に臨みあって法をひろめ、衆生を利益するなり」と霊託あり。良弁また明王に向かって申すには「そのようであれば御形相を模して、末代の衆生に利益しよう。もし誓願が空しいのであれば、1の瑞相を見せてもらいたい」と清浄心をなせば、かの山の南にあって大きな槻木があり、1つの枝が人の切り折れたように木の根元へ落ちるかと思えば、空に飛び上がって、今の金堂の前に落ちた。良弁これを御依木として明王の尊像を模し、一度斧を下しては3度礼拝をなしたが、いまだその相が極まらず、今の形相の御身より血出させ給ひける間、さてや斧を留めた。

 さて今造り立てている尊像の御前に、良弁は37日行をして明王に申す「実に仏法繁昌し、また現世未来の衆生を利益するならば、その想いを顕したまえ」と祈誓すれば、49院が忽然と現れた。良弁これを見て感歎して肝に銘じ、いよいよ信心をいたした。また明王の霊託に、昔釈尊法華を説いたとき、多宝佛または十方の諸佛地より現れるとは禮文に見えるけど、今回のあたり49院が現れることは、みな僧正の信心深いことによる。されば来代までこれを聞き伝えて、我が山にして信心するものは、現当悉地を成し就くし、臨終の時は都卒の内院(弥勒の浄土)に生ずること疑いあるべからずと明王偈を説いた。

さてまた当山金堂の乾の谷に巌崛があった。その下に1つの池があり、泉の端に僧正が17日行をすれば、池の中から1つの大蛇が現れて申した「我は当山の守護、霊蛇大王なり。我久しく荒神となって、五濁にそみ、法性に迷ったため、このような蛇身を受けた。今その上人の法施にあずかって、都卒の内院(弥勒の浄土)に生じた。これ以後はこの山に跡を垂れて寺院を守り、衆生をはかろう」と偈を説いた。

 これによってこの山は、信心をいたして参る衆生には即利生を与え、臨終の時には浄土へ引導する。不信心にて三宝をして、名利を構えて懈怠する輩には、しなわち罰を与え、心を起こすようにするであろう。良弁が申す「この山は極めて高く冷水なし。一筋の流水現れたまえ」といえば、巌崛の頂上より水を落とした。今の谷にある滝はそれなり」

 しからばこの山の一々の奇特、不思議の瑞相生身の佛菩薩を目の当たりにし、利生を与えること、昔から今にいたるまで現証なり。誠に日本第一の山たるもの。総てこの山の眺望は朝にすぐれている。東は万郷が晴れて、3千世界を晴れの下に踏む。南は海が漫々として隙もなし。西は滝水が青々と流れて龍門を隔てる。北は百山が重なって空を頂く。霊山は浄土に異ならず。金堂の前より始まり、四面の廊下、鐘楼・経蔵・三重塔に至るまで、明王の霊前をもとに諸佛あまた立つ。49院の坊中は甍をならべ、軒を重ねたり。三密修行の鈴声は隙なく、一夏九旬の仏前に供える水は絶える事なし。座禅入定の床の上には一理の観念を凝らし、学問修行の窓の前には顕密の修練をはげます。誠に出離解脱の霊地なり。

 さてまたこの山を雨降山と号する事。その雨といえば、春は千草万木を悦ばすことをもって花の父母とし、夏は民間に降りて賎が早苗を植える頃にこそホトトギスも更に声を惜しまない。秋は残暑の気を打って五濁の塵を払い、冬は時雨て山に錦をしく。かれこれ神変皆雨の奇特による。また阿夫利山というのは、雨ふり山を唱える万葉書である。信心深い輩に福貴を授けるので、大福山とも申す。そういうわけで石尊権現の御山を雨降山と号し、木像明王を阿部利山というのも、みな真草を分けたるいわれ。これをもって明らかなり。こうして月日を経るほどに、良弁この山にいること3年に及んだ。

 衆徒詮議していうには「我が山はこれ日本第一の寺なり。しかし香花燈明の便もなし。また学問修行の渡世なし。三密暁行の水を如何にして汲むか、さらに当時繁昌興隆仏法のため、さらに衆徒住む山のため、かたがた公家へ奏達しよう」と議定した。よって当山の法体一々の奇特を都へ奏達すると、天皇は大いに悦んで安房上総相模の3カ国を寺領すべきの綸旨を下された。すなわち詮議して49院の坊領に配分があり、いよいよ寺院繁昌し、仏法王法ともに盛んにして、天下泰平国土安穏なり。ある時に明王良弁に託して知らせるに「日本国の大天魔はみなことごとく我が眷属とせり。天下乱れ、国土穏やかならず、風雨水火の難あらん時は、我が山にて信心を致し、祈祷をなさば、災難をすみやかに減じ、国土安穏にすべし」と御誓願あったとか。

この時享禄五辰歳菊月十三日●

 

 

 まず始めに、「縁起」というものは、寺社が布教のため、霊験利益譚を中心にして制作したものだと理解しておかなければなりません。さらに縁起に絵を入れるというのは、字が読めない人々にも理解できるようにと布教の対象を広げています。

 『大山寺縁起絵巻』の最後には「享禄5年(1532)に書かれたものを貞享元年(1684)に傷みが激しいので写した」と書いてあります。これらから、『大山寺縁起絵巻』は室町時代から遡ること800年余前の話を纏めたことになり、伝説・逸話の域を脱していないことが判ります。まずこの『大山寺縁起絵巻』作成の基になったのは、弘仁13年(822)頃に完成したとされる『日本国現報善悪霊異記』の上巻第9「幼児が鷲にさらわれ、他国で父に会えた話」の「鷲」、中巻第21「土で造った神像の脛から光を放ち、不思議なことがあり現に報いのあった話」に登場する金鷲行者の「鷲」を一致させ、その金鷲行者が=良弁だとした『東大寺要録』に収録されている「根本僧正」になります。「根本僧正」は嘉承元年(1106)頃に作成されたと云われていますが、ここに良弁の出自を相模国と書いてあることから、大山寺が『大山寺縁起絵巻』を制作する格好の材料となりました。「根本僧正」には大山寺のことは全く書かれていませんが、『大山寺縁起絵巻』では「根本僧正」+良弁が相模国に父母と帰郷、不動明王の霊験譚、霊蛇大王の霊験譚、その他繁栄ぶりを追記して文を組み立てたのです。さらに『大山寺縁起絵巻』の最後には、単に旧本を写すのではなく「愚意を交え、且つ元亨釈書を使った」とあるので、貞享元年で文を編集したということがわかります。元亨釈書は元亨2年(1322)に編纂された高僧の伝記を纏めたもので、良弁の出自を「近江国、一説に相模国」と書いていますが、さすがに近江国は採用されなかったようです。また、金沢文庫所蔵の徳治2年(1307)頃の古文書に「大山御参詣候し之條、殊悦入候、彼御縁起一巻借進之候」とあるので、これは現存している縁起とは違った内容の「縁起」とも考えられますが、恐らく「根本僧正」と大山寺を一致させたような内容のものが既に纏められていた可能性はあります。その他に、相模国大山に関する縁起として、『相州大山仮名縁起』、『山王縁起』、『明王太郎来由』、『相州大山縁起』、『大山寺縁起』が知られていますが、『大山不動霊験記』という寛政4年(1792)に制作されたものには、第3巻第24話に、「信州ノ傳右衛門 石尊ヲ信ジテ疝気ノ病平癒セシ事」という根井村(佐久市)における霊験譚が記載され、この頃には信濃国まで信仰が広がっていたことを窺い知ることができます。

 

 このような、伝説的な「縁起」を何故前掲したかと申しますと、大山寺は近代まで数えられないくらい多くの人々に篤い信仰を受けていたこと、今では知ることができない近世の大山寺の様子を伺え知ることができるからになります。それまで、縁起にある「この山は・・・蛇魔悪鬼狐狼野干の住むところなれば、すべて人間の入るべき所にあらず」とされ、人の近付くことのない山でしたが、仏教の全国的な流布によって仏僧が禁断の山へ率先して分け入るようになりました。そもそも仏教の山岳観は、須弥山が象徴しているように、非常に高い山は1つの曼荼羅だと考えられています。したがって、山岳に入るということは仏の世界に没入することになり、ある一定の条件を満たした修行者は、仏・菩薩の世界に没入するために山に入って修行するということが行われるようになりました。

 現在の大山寺には、神奈川県の有形文化財に指定されている木造不動明王坐像があります。それは文化財の説明に「平安時代後期の特色を示し、全体の繊細な表現は12世紀中葉の作と思われる」とあるので、末法に入った頃に創建とほぼ時を同じくして本尊とされたとみられます。そして別の縁起によると、「大山寺は、文永の頃に鎌倉へ下向した真言宗の学僧である願行房憲静(のちに泉涌寺6世 東寺大勧進職)によって復興され、願行は蒙古降伏の秘法を修する目的で大山に登り、百日間の難行苦行に入りました。師である意教房頼賢から与えられた一体の不動明王を前に一心不乱に祈ると、目の前に憤怒の形相をした恐ろしい不動明王が姿をあらわし、なおも祈りをつづけると、鉄造不動明王はパッと目を見開いたとい云います。これに感涙した願行は、この時の不動明王の姿を模して、2体の鉄造の不動明王像を鋳造した」と云われています。その1体が大山寺の本尊である不動明王像(国指定重要文化財 鉄造 不動明王及二童子像)になります。これにより、大山寺創建時からその本尊は不動明王であり、祈りの対象が「阿夫利」の神ではないことが分かります。しかし果たしてそうなのでしょうか?これはとても重要な事なので、もう少し考えてみたいと思います。

 そもそも何故?「川がある偉大なる山」で不動明王を尊崇するようになったのでしょうか。不動明王とは「この大明王は大威力あり、大悲の徳の故に青黒の形を現じ、大定の徳の故に金剛石に座し、大智恵の故に大火焔を現じ玉う。大智の剣を執っては貪瞋癡を害し、三昧の索を持しては難伏のものを縛す」という恐ろしい姿をし、さらに「常に火生三昧に住し、炎々たる猛火の中に安住して、諸々のさわりやけがれをやきつくし、怨敵、魔群をうちくじき、又身をていして奴僕となって行者の供養を受けて昼夜これを守り、よく行者の菩提心を成願せしむる」ものとしているので、修行者の手助けをする仏と位置付けられています。その方法として、修行者と不動明王は同化し、「その力を借りて災厄の原因となる荒神地神などの御霊神を祀り込めることによって災厄を止めさせ、さらにこれを福神として、依頼者の生活を守護させる」とされているので、その目的は不動明王の力を借りて「川がある偉大なる山」の神を鎮め、下界の人々に福をもたらす事だということになります。そして本尊の不動明王の脇にいる二童子(制吁迦(せいたか)童子・矜羯羅(こんから) 童子)が、実際にその手助けをするのです。

 ここでさらに重要な記事があります。『吾妻鑑』建保六年(1218)に「天台末寺大山寺神人」とあります。まずこの頃の大山寺が天台宗であったことがわかります。天台系修験では山を法華経の霊山浄土であるとしているのですが、「縁起」には時忠の夢に現れた老僧が持っていた妙典は弥勒菩薩であり、すなわち法華経の第であったとしているので、まさに天台系の思想が込められています。大山寺が天台宗であったのは西暦1600年頃までなので、「縁起」が作成された時期に納まります。次に「神人」=「神官」がいたことがわかります。約600年間「阿夫利」の文字が現存する文献等には記載されていなくとも、大山寺には神を祀る者と社が存在していたことになります。これにより、大山寺の不動明王と、「川がある偉大なる山」の神との関係が存在していたことが明らかとなりました。江戸時代になってもこの社は存在し続け、古文書等から「石尊社」(せきそんしゃ)又は「本宮」・「石尊宮」などと呼ばれて大山山頂に鎮座し、全ての大山信仰の根本となっていました。そして神仏習合の観点から、この神は「石尊大権現」と呼ばれ、やがて信濃国へも信仰が広まっていくことになります。

 その後の大山寺は、中世室町時代の南北朝の動乱から戦国時代にかけて、恐らく自己防衛のために武装集団の拠点のような山へと変貌していきました。偉大なる山の力によって下流の人々へ水の恵みを与えるといった超自然的な信仰から、いつしか為政者のために祈祷、調伏をすることが主体となってしまったようです。『大山寺縁起絵巻』の最後には「天下乱れ、国土穏やかならず、風雨水火の難あらん時は、我が山にて信心を致し、祈祷をなさば、災難をすみやかに減じ、国土安穏にすべし」と書かれています。こうした大山寺が元のような信仰の山へと戻るのは徳川家康の介入によります。

 ある研究によると、慶長10年(1605)「徳川家康、大粛清に着手。これにより修験勢力を一掃して山内居住は25口の清僧に限定させ、宗旨を天台宗から古義真言宗へて転宗させる。以後、下山を命じられた修験者を中心として大山門前町が形成される(『徳川実紀』)」とあります。しかし実際には『徳川実紀』にこれと同じ記載はなく、その他の古文書にも見当たりません。『徳川実紀』に大山寺が登場するのは慶長13年(1609)「大山八大坊實雄杉原三束。先八大坊 一束五本」からで、同じく13年の古文書に「大山寺実雄碩学領之事」として57石が家康から与えられ、翌14年(1610)に「関東真言宗古義諸法度」の古文書が大山寺八大坊へ通達されているので、実雄の存在と転宗があったことはわかります。また、同じく14年の同日に大山寺の掟が家康から八大坊へ布達され、「1.前不動より上は、永代清僧結界の地、堅く相守るべき事。2.以前妻帯ならびに山伏在家居住の屋敷は、別当八大坊より清僧の分申し付けるべき事。3.十二坊に前々より付来諸檀那ならびに山林諸堂散銭等、一物相違なく清僧進退なるべき事」とされたので、慶長10年に全ての改革が1度に行われたのではなく、慶長14年にかけての数年間にわたって順次行われていったと考えられます。

 この実雄という人は、鶴峰八幡宮又は相模国八幡村(平塚市)の成事智院住持の別当で、高野山遍智院頼慶の推挙により大山寺へ学頭・住持として入山しました。ちなみに『徳川実紀』には、日蓮宗の日経と浄土宗の廓山が、江戸城で宗論をした際の聴衆人として実雄の名が見えます。徳川家は大山寺を関東の高野山祈願所として位置付け、大山寺を高野山の末寺としした。八大坊とは大山寺を支配する十二坊の筆頭で、他に宝寿院、養智院、橋本坊、大覚坊、上之院、授得院、常円坊、実城坊、中之院、喜楽坊、広徳院がありました。その他に13人の衆徒がおり、合わせて25口が定額の清僧として幕府から認められたのです。そして寛永10年(1633)『関東真言宗古義本末帳』に、約600年以上の時を経て「アブリ」という文字が再び登場(史料上2回目)します。これは江戸時代になって大山寺に山号が付されて「阿部梨山大山寺」という形式名が確立されたためで、その後も「阿夫利山大山寺」とも記されるようになりました。こうして「阿夫利」と「大山」が繋がるのを待つかのように、この山の爆発的な信仰の広がりが始まります。

 

 ある研究には「関東一円やその周辺部にまでおよぶ広い範囲で多数の大山講が成立するためには、大山信仰を意欲的に布教し、信者を組織化する宗教者がいなければならない。それをつとめたのが、御師であった」とあります。ここで大山寺の御師が史料として初めて記載されているのが、寛文3年(1663)になりますが、既に慶安元年(1648)には幕府が江戸町人の派手やかな大山詣りを戒めているので、この頃には登拝を促す者達が存在していたとされています。この御師について、「慶長の粛清によって下山した僧の多くは御師となり、不動より下の地域に宿坊を営むことになる。宿坊を経済の面から安定させるために御師は全国に散り、大山の霊験あらたかなるを布教した。村に街に、職業分類で見ても農家、商家、職人仲間と幅広い。講を組織し、大山不動の祭礼の6月27日から7月17日までの20日間は、年中行事として定着させるための檀家廻りが、活動のうちに大きな比重を占めるようになった。天明6年(1786)の「大山寺社魂丸裸」によれば、大山寺修験36坊、脇坊24坊、柴焼山伏、惣御師、新御師など127名とし、列挙している。大山寺最大の庇護者は、徳川幕府である。それは、とりもなおさず、公認の参拝施設と目され、布教活動を後押しされたことを意味する。一方、庇護者からの直接的寄進は、八大坊を長とした十二坊に限定されていた。だからこそなお一層、山外の布教活動に熱がこもった。」と、本やホームページなど至る所で説明されているのですが、下山させられたのが1610年頃なので、御師が史料として現れる約53年間は何をしていたのでしょうか?その説明がされていません。これについて私見ですが、単にこの間の史料が無いという理由ではなく、静岡県の秋葉大権現のように、江戸町人を魅了する何かのきっかけがなければ、如何に多くの御師がいようともこれ程の信仰を集めることはできません。私はそのきっかけが「春日局」の存在ではなかったかと考えています。元和9年(1623)徳川家光が将軍に就任すると、乳母であったお福(春日局)がその御礼に大山を詣でたとの逸話があります。さらに寛永16年(1639)、荒廃した大山寺の社殿修理に、徳川家光が造営料1万両を下付し、寛永20年(1643)の大山寺落成祝賀式では、代参として春日局が大山寺へ派遣されました。江戸町人の大山詣りを戒めた記事は、これからわずか数年後の事なので、天下一の乳母となる福をもたらした山の神として信仰を集めるようになったのではないでしょうか。こうした誰もが認める霊験をきっかけに参拝者が急激に増加し、彼らを山へ迎え入れる体制が確立していく中で、さらに多くの登拝を促すために御師が増加していったのでしょう。大山への参詣を他国の例からみると、旅費の他に講の奉納金が7両、坊入(御師の坊への宿代)1人あたり1泊1分、御師の家族へ2朱、料理人や下働きの者達へ700文、本尊初穂200文、まき銭200文、半紙水引30文などの費用をかけていたので、講中が御師の重要な収入源であったことがわかります。御師は講中を財産のように大切にし、参拝者が遠くから訪れた際は自身の宿坊を宿舎とし、参拝の一切の手配を行いました。まるで現代の旅行添乗員のようです。さらに毎年暮れになると、裃姿の礼装で供に挟箱をかつがせて各地の講をまわり、暦などを配り歩いて信仰の繋ぎとめに努めていました。

 ちなみに天保12年(1841)に作成された『新編相模風土記稿』には、当時の大山の様子を次のように紹介しています。

 

●大山 一は雨降山と呼び、又阿部利山或は大福山・如意山等の名あり。当国諸山の中、最も高嶺なれば大山と称せるなり。江戸より18里余、登凡3里、山足は当郡及び愛甲郡の衆山に続けり。山麓より坂本の地22町を登り、前不動堂に至る。此所より左右に登る山路2条あり。右を男坂と云、左を女坂と呼ぶ。男坂を登る事18町にして不動堂在。堂前楼門の下右に折する山路を日向越と云。又堂の左方に路あり。是を蓑毛越と称す。頂上に登る時は堂の背後左方にあり。凡28町を擧て石尊社に至る。

●石尊社 当山の本宮にして山頂にあり。延喜式神名帳に載せし、阿部利神社是なり。祭神烏石楠船尊神躰秘して開扉せず。本地仏十一面観音。坂本村観音寺境内に置。

 

 

 この記事から「川がある偉大なる山」には幾つもの名があったことがわかります。@阿夫利を文字って雨が降る山なので雨降山、A万葉からの呼び名である阿夫(部)利山、B大きな福をもたらすので大福山、C願いが意の如く叶う如意山。ようするに、江戸時代では古来からの自然信仰に、願った福をもたらす山として位置付けられていたことがわかります。また、「阿部利」の「部」の文字から、江戸時代になっても変わらず「アブリ」と呼ばれていたことがわかりますが、新たに「阿夫利(阿部利)」=「石尊」であるという認識が示され、「川がある偉大なる山」が石に降臨する神へと変貌していました。

佐久市望月瓜生坂・・・大応院跡(年代不明)

 

 ところで何故?「石尊」として信仰するようになったのでしょうか。それは、人間が現れるより遥か日本列島誕生の時代、大山周辺は海の底でした。そして海底火山などから噴火したものが堆積して、長い間に緑色がかった石に変成しました(第三紀層)。地質学では、このような緑色の凝灰岩をグリーンタフと呼びます。その後、伊豆半島が本州にぶつかって富士山が形成され、その余波が東側にも及び、丹沢山系の大山も隆起して形成されました。そして、伊豆半島から富士山にかけての火山から灰が降り続け、赤いローム層が大山をはじめとした丹沢山系に堆積しました。しだいに大山の山頂では、雨風の浸食によって部分的にグリーンタフが露出したと考えられるので、石尊の名前の由来は、山頂にあるグリーンタフではないかと考えられます。現在の大山各所に露出している石を観察すると、緑色の粒が混ざったような石を数多く見ることができます。修験者が山頂に到達した時、広がった頂上のどこに神がいるのか考えさせられたと思います。そしてちょうど人の目を引く奇岩があり、修験者はそこに神が降りると信じたのではないでしょうか。そこを神が降臨する磐座(いわくら)と崇めるようになり、鎌倉時代にはここに社殿が築かれたと考えられます。こうして古代からの山全体の神を尊ぶという信仰が、江戸時代になってその頂上にある石を尊ぶという信仰に変化しました。

 現在の大山山頂には阿夫利神社奥社があります。その中には御神体の雨降石があると云われていますが、一般人は拝謁することはできません。しかし、奥社に入るくらいの石であれば左程大きいものではないと思われます。また、『新編相模風土記稿』にはさらに重要事項が記載されています。それは江戸時代では『古事記』に登場する「烏石楠船尊」(とりのいわくすふねそん)が阿夫利神社の祭神であったということです。「烏石楠船尊」は大山祗神と野稚神が山野を分担して産んだ神とされ、「川がある偉大なる山」=「石尊大権現」=「烏石楠船尊」=「十一面観音」という形態が確立され、その神に願うには大山寺の「不動明王」の御力をおかりしなければならなかったのです。ここで注意しなければならないのは、現在の阿夫利神社の祭神が「大山祗神」なので、この頃と神が代わってしまっていることを理解しておかなければなりません。

 

 これほど信仰を集めた大山が、何故?現在私達がその存在を知らないような状況に陥ってしまったのでしょうか。先ほどから「明治時代に創設された阿夫利神社」、「神が代わった」などと述べましたが、明治維新に残された『手中明王太郎日記』からその答えを余談したいと思います。慶応4年(1868)閏4月23日明治新政府から八大坊に次のような申渡状が届けられました。

 

阿夫利神社石尊宮ならびに諸社の件について、今後は八大坊の支配を差し止めとした。式内の社が僧侶共によって支配される事は出来ず、式内分は神主に定め、銘々上京すること。

 

 

 この通達により、1610年頃から始まった八大坊の支配が終焉をむかえました。そしてさらに、明治元年(1868)に発布された「神仏判然の令」という12の法令によって、平安時代後期から約700年以上の長きに渡って信仰を集めてきた大山寺の歴史が終わりとなりました。その内の重要なものが下記になります。

 

1.今般諸国大小の神社において、神仏混沌の儀は、御廃止になりにつき、別当社僧の輩は、還俗のうえ神主社人の称号に転し神道をもって勤仕すること。もし差し支えあり、且つ仏教信仰によって還俗の儀を不得心の輩は神勤めを止め、立ち退くこと。

 

1.中古以来なにがし権現、或いは牛頭天王の類、その他仏語をもって神号を称えた神社が少なくない。何れもその神社の由緒を委細に書き付けて早々に申し出る事。

1.仏像をもって神体としている神社は以来改める事。

付いては本地などと唱えて仏像を社前にかけ、或いは鰐口梵鐘、仏具等の類を置いているものは、早々に取り除く事。

 

 

 これがいわゆる廃仏毀釈と言われるもので、全国でおこった惨劇が大山でも繰り広げられることになり、明治2年6月大山寺の立ち退きが始まりました。

 

6月19日少し雨、然るところ大堂不動尊御一新につき、昼九ツ時までに女坂来迎院へ御座所替、但し大山町人町内にて5人づつ触込、上下子安村信心て出る。上粕谷村同断、伊勢原村三十人出。人足世話方市丸屋五兵衛升屋治助両人。喜楽坊を除き当大山役人は1人も立わず、町人百姓にて。八ツ半時より大雨に成る。

 

 

 こうして、鎌倉時代に願行房憲静によって鋳造された大山寺本尊の不動明王は、大山近郷の百姓や町人に担がれ中腹の末寺であった来迎院(大山寺の僧侶や御師の墓所がある寺)へ移されました。大山寺を取り仕切っていた十二坊では、喜楽坊の他に誰一人立ち会う僧侶はいなかったとあります。最初は小降りだった雨も来迎院に移された頃には大雨になり、まさに雨降の山を物語った内容となっています。その後、「神仏判然の令」にのっとり、大堂、本地堂、鐘楼、仁王門、桜門、経堂、宝蔵、前不動堂、供僧十二坊、脇坊六坊などの建築物もことごとく取り壊されました。土地についても、大山寺の跡地、旧別当八大坊上寺下寺寺地、所有する山林も、入札により民間に払い下げられてしまいました。

 山頂の石尊大権現では、石尊権現記銘の神器や仏具が全て撤去され、残された社が阿夫利神社とされました。この時に阿夫利神社の祭神が「大山祗神」とされました。新たに阿夫利神社の神主となったのは、八大坊最後の別当であった実乗の弟子教順で、禰宜は御師の1人が勤めることになりました。こうして、古代からの「川がある偉大なる山」が、数百年を経て石尊大権現と崇められるようになり、さらに数百年を経て、遂に現在の「大山祗神」へと変貌しました。全国的な状況をみても、山岳信仰を旨としていた社寺は、その殆どが祭神を「大山祗神」へ強制的に変えさせられました。延喜式に記載された阿夫利という名で復活したにも関わらず、式内社で官幣社の扱いを受けていたのですが、社格はそれより下の県社兼郷社(初代祠官は権田直助)とされました。

 

 これまで連綿と長い年月にわたって、人々は不動明王信仰や石尊大権現信仰として大山を崇めてきましたが、一変して突然に神道へ変えろといわれても、そう簡単にはいきません。信者の間には動揺が広がって大山講の活動を見合わせる講もあらわれ、大山を詣でる人は激減したといいます。信仰心の低減は各地の石尊大権現の社への維持も低下させ、建物は朽ちても修繕されず、やがて明治40年頃から始まった神社合併によって、その名が次々と消えていくことになりました。

 


 

 それでは実際に、信濃国での大山信仰はどのようなものであったのでしょうか。以下余談とまいります。

 江戸時代の大山参詣は、旧暦の6月27日から7月17日までが参拝できる期間と定められ、6月26日から晦日までを初山、7月1日から7日までを七日堂、7月8日から13日までを間(あい)の山、7月14日から17日までを盆山と言いました。江戸時代に大流行した「大山詣り」と言えばこの「盆山」に参詣することを指し、当時は4000程の講中が存在していたとされます。これを人数に換算すると50万人を超えるものとなり、短い参拝期間にこれ程の人々が押し寄せれば、山中は参拝者で埋め尽くされていたのではないでしょうか。

 こうした大山への参詣を信濃国へも波及させたのが、先程から述べている御師(明治以降は先導師と呼ぶ)の活動になります。。これに関する古文書まで今回は確認しませんでしたが、今後は御師を迎え入れて接待した史料、大山へ参詣した日記などの史料を長野県内で調査していく事も大切だと思われます。

 また、大山参詣では珍しい風習があります。それを「納太刀」(おさめだち)と言い、源頼朝が武運長久を祈願して佩刀を奉納したのが始まりと云われ、木太刀を石尊大権現に奉納し、開運・厄除けを祈願するものになります。木太刀には『奉納大山石尊大権現』と書き、その下に半分位の字で「大天狗」「小天狗」と書き、さらに下へ大きく『所願成就』と書いていたようです。この木太刀を水垢離のときにも携行している様子が浮世絵にも残っており、水垢離の後にこれを担いで山頂の石尊宮に詣で、神前に奉納し、代りにそれまでに神前に納められていた他人の木太刀を持って帰り守護としたようです。東御市祢津の大日堂という所に、市有形民俗文化財に指定されている『石尊さまの納め刀』が多数保存されています。これがいわゆる木太刀で、天明元年(1781)から近年までのものが大小150本程あります。

 しかし、関東一円でこれだけの信仰をあつめた大山でしたが、意外にも信濃全土まではその信仰を広げることができませんでした。どの地域が大山信仰を受けていたのかというと、明治時代の大山阿夫利神社所蔵『開導記』というものが現在しているので、その中の長野県分を見ると、先導師8人と278の講が存在し、さらに講員の全戸数が23万を超えるといった驚くべき数字となっています。その講の範囲は、佐久郡、小県郡、諏訪郡、筑摩郡、安曇郡でした。

 昭和11年に出版された『長野県町村誌』には、各町村における膨大な神社の名が記載されています。その中から大山に関する神社名を探すと次のようなものを見出すことができました。

広戸村(御代田町)の阿夫梨社、面替村(御代田町)の阿夫利社、御代田村の阿夫利社、市田村(小諸市)の石尊神社、島立村(松本市)の石尊社、四賀村(諏訪市)の雨降神社、永明村(茅野市)の雨降社、米澤村(茅野市)の石尊社、姫子澤村(旧東部町)の阿夫利社、芳田村(上田市)の阿夫利社、殿城村(上田市)の阿夫利社、諏訪形村(上田市)の雨降社、上野村(上田市)の石尊社、余里村(旧武石村)の雨降社、小澤根村(旧武石村)の雨降社、傍陽村(旧真田町)の雨降社

 大山信仰が衰退した昭和になってからの記録なので、安曇郡では社が確認されませんでしたが、ほぼ往時の講中の形跡を把握することができます。また、これら社の祭神は何故か「大山祗神」、「大巳貴神」、「伊奘諾神・伊奘冉神」、「不詳」など様々で、神社名も違うなどしているので、次のような変遷の理由が考えられます。

 @石尊社であったものが、「神仏判然の令」によって阿夫利社と変えられた。

 A「神仏判然の令」によって石尊と阿夫利の中間をとって雨降社と変えた。

 B最初から雨降社であった。

合祀されたのか、単に社名を変えたのか今となっては知れませんが、無格社であったため昭和38年『長野県神社名鑑』からはその名が全て消え、現在は辛うじて長野県内で唯一の東御市大字新張の阿夫利神社が、長野県神社庁に登録されているのを確認できます。しかし、県内には過去に大山を参拝した際に建立した記念碑的な石碑を守るような形で覆屋を設けた小さな阿夫利社や石尊社が幾つか存在しています。さらに、こうした記録にも残らないような高さ30cm程度の小さな石祠が各地の小高い山頂などに置かれ、そこには「石尊」などの文字が全く刻まれていないので、地元の人々だけが知る秘された石尊信仰となっています。

 

 昭和34年(1959)のこと、上田市長瀬(旧丸子町)の金井地区に、高さ6mを超える標柱に「石尊之辻跡」と大きく揮毫されたものが建てられました。これは当時の日本相撲協会理事長であった故時津風定次氏(元横綱双葉山)によるもので、明治28年(1895)までこの地に石尊之辻と呼ばれた相撲道場が経営されていたことによります。長野県の石尊之辻という言葉を聞けば、直ぐに偉大な大関 雷電為右衛門を思い浮かべる人も多いかと思います。江戸時代、小県郡長瀬村を流れる依田川の畔には石尊大権現の社が建ち、周辺の数千坪がその境内であったと云われています。その辻にあたる所を「石尊の辻」と長瀬村の人々は呼び、庄屋の上原源五右衛門は相撲道で石尊を力水の神と崇め、そこで相撲道場を開いていました。延享元年(1744)に幕府は武技奨励のために全国に相撲免許制を布き、江戸相撲所属の部屋持ち年寄が、諸国に有力な門弟を獲得するために免許を与えた稽古場を創設するようになっていきました。宝暦12年(1762)江戸相撲年寄であった初代浦風林右衛門(初代〜3代まで異説あり)が、信濃国へ訪れて長瀬村の石尊之辻を視察し、上原源五右衛門に浦風の免許を与えて稽古場とすることになりました。この稽古場は、最手役(力士)、目代及び取次(行司)、門人(力士)によって組織され、門人1人につき25人の弟子力士がつけられ、信濃国はもとより周辺国から見込みのある若者が親などに伴われて門弟となり、ある程度力をつけてから江戸相撲へ送られていたと云われています。天明元年(1781)長瀬村に近い大石村(東御市)の関太郎吉(雷電為右衛門)という若者が石尊之辻へ入門し、門弟として学問や相撲を修業して、やがて江戸へ出て大関となることは有名です。雷電の活躍と相撲人気の向上によって、浦風部屋は石尊之辻を信濃国の拠点として、耳取村(小諸市)、平根村(佐久市)などの近接地に土俵を増設していきました。こうした取り組みをした四代目浦風林右衛門(3代目とも)は、佐久郡平賀村(佐久市)の出身で雷電の兄弟子にあたり、十二代目浦風林右衛門は小県郡上田町(上田市)出身(四股名は太郎山)、十三代目浦風充宏は北佐久郡軽井沢町出身(四股名は信州)になります。長瀬村の石尊稽古場は明治28年に第9代浦風林右衛門を最後に閉鎖され、その後の度重なる依田川の氾濫によって石尊社も流出し、現在は近傍の長野新幹線橋脚の脇に阿夫利神社として残っています。

 長瀬村では明治38年(1905)7月に、長く途絶えていた大山講が再び創立され、毎年2人宛代参人をくじ引きで決め、その費用は組費から出していました。4月の出立にあたって講仲間全員で日待ちし、先達が法螺貝を吹き、サンゲサンゲを唱えて、錫丈を振って代参人を見送りました。大山では佐藤速水宅を定宿として参拝し、持ち帰った神札は不動明王の掛軸にかけて読経の後、多少の飲食をして各戸へ配布しました。現在の長瀬の社が、石尊の社ではなく、阿夫利神社と呼称しているのは、明治38年に再び講中が結成された時には、既に大山に石尊が存在せず阿夫利神社となっており、先導師(旧御師)の活動も阿夫利神社を頂点に営まれていたので、単に分祀されて建立されたからだと考えられます。

 さらに上田市中丸子の旧鐘紡の河原のアカシア林の付近にも、阿夫利神社があり、約80人による規模の講が昭和40年頃まで続いていました。この講では、4月18日に「雨降大神」の幟を立てて公民館で祭りを行う盛大なものでした。その幟を収める箱には文政7年(1824)の銘があるので、長瀬、中丸子、武石といった依田川流域の村々で、江戸時代から昭和にかけて長く大山信仰が続いていたことが確認できます。

 今でも松本市の女鳥羽川と田川が合流する巾上という場所に、石尊大権現の碑が祀られています。国道143号の田川大橋の東側にある緑地公園に置かれ、磨かれた安山岩の正面に「石尊大権現」、側面に「天保4年癸巳 三月八日庄内村」、「八十一才木澤楠道書」とあります。建立当時は飛騨街道筋に建立されていたようですが、転々として現在地に落ち着いたと云われています。碑の由来書によると、天保3年(1832)に犀川渡船がようやく許可され、その記念として松本藩儒学者である木澤楠道に揮毫してもらい、天保4年に建立するに至ったとのことです。それからも碑は、飛騨街道や犀川渡船を利用する者達が安全や商売繁盛を願う対象とされ、戦前まで白装束姿の行者が祈祷したり、石尊様の祭りが行われるなど地域で大切に崇められていました。神社は消えても、このような石碑は朽ちることなく長野県内の各所に残されています。とても全てを探しきれていませんが、東御市、上田市、佐久市、佐久穂町、下諏訪町、塩尻市、松本市などで存在を確認することができました。

 

佐久市鍛冶屋・・寛政2年(1790)建立

 

 元々は大山の裾野に広がる地域に住む人々の地域神であったことが全ての根本になります。それを崇めた信濃の人々の痕跡について、しっかり歴史として後世の人達に残していかなければなりません。高速道路の小諸と佐久インターチェンジ付近で雄大な浅間山に目をやると、中腹にまるで祭壇のようにポコッと飛び出た岩山があります。これも石尊山といい、軽井沢町の追分にある浅間神社から参道が延び、血の池を通ってこの山まで行くことができます。この浅間山と石尊山が対となる関係が、神奈川県の大山にもあります。大山の南西に浅間山と名付けられた、やや低い山があり、浅間山の祭神が木花咲哉姫神(このはなのさくやひめのかみ)なので、大山祇神とは親子の関係を表したものになります。時々この石尊山を見た時、私達が飲む水、作物を育てている水は、こうした山々が天から受けたものを、頂戴していることを改めて感じ、大切にしていかなければならないのだと思いました。道路交通網が発達した今でも、大山までは自動車で片道4時間以上も要します。機会をみて何が人を惹きつけたのか、この目で直に見てみるつもりです。ぜひあなたの御先祖が崇めた神の痕跡を探してみてください。

 


『其之 83』H21.6.1〜H22.4.24

 

 長野県出身のタレントである林マヤさんが、ラジオのトーク番組で面白いことを言っていました。「次のお葉書は小林さん○○歳、ん〜小林さんだから、林家の分家だね、分家、分家」私はこれを聞いて、林の分家が小林?この人はなんと奇妙な事を言っているのだろうかと、その時は思いました。それから数日経ったある日、ひょんな事から中世史の研究書を読む機会があり、それによってあの時に林マヤさんが喋っていたことは、それほど的外れではなかったと思い知らされました。

 私達は毎日のように何気なく苗字を使用しています。しかし殆どの人々が自分の苗字のルーツを知りません。例え知っていたとしても、それは漠然としたものにすぎないのかもしれません。こうした現象が起こっている理由として考えられるのが、殆どの人の苗字が定まったとされる中世の史料が現代に伝えられていないからになります。これは長野県に限らず全国的な傾向であり、260年余続いた江戸時代の史料より、380年余続いた中世のものが桁違いに残されていません。これにより、長野県内のどの市町村史を見ても、室町時代と鎌倉時代の頁には「○○乱・○○戦いがあって、現在の○○辺りの地名と同じ苗字の武士の名前が書かれているので、中央の○○とつながりがあったと思われる。」「○○荘と記録にあるので、発掘調査などからも現在の○○の辺りと推定される。」などと概ねまとめられています。この程度の歴史しか判然としない状況なのです。これが室町時代後半の戦国時代になってくると、しだいに記載が増え始め、中世が200ページだとすると、江戸時代はそれだけで1冊(600ページ)となっています。しかし、奇跡的に残された中世の史料が県外に幾つかあり、そういったものから我家のルーツのヒントを得ることもできます。

 

 ある中世史研究書には次にようにあります。

 文安4年(1447)、丹波国山国荘(京都府)の枝郷にあたる下黒田村の「菅河浄玄」が、弟の右近に垣内(かいと、集落という意味)の屋敷を譲り、山林も売却して分家させました。右近は灌漑用水を掘って周辺を開発し、その地名から「塩野」と名乗りました。数代経って塩野は「塩野中」、「塩野新屋」の3家に分かれ、塩野中は地名を取って「井本」と名乗り、塩野新屋も「新屋」と名乗るようになり、それぞれがさらに分家を出して江戸時代へ続きました。それから500年程も経った現代では、お互いが同族であったという事を全く知らなかったとのことです。また、黒田宮村に西兵衛太郎の家があり、弟を分家させて「小西」とし、その2代後の西与兵衛は、弟2人を分家させて「上西」、「下西」とし、さらに分派していった家から養子を取るなどして、本家を存続させていきました。

 日本のあちこちに居住する全ての「林」さんが、上記のようなものによるとは到底言えませんが、現代の字(あざ)規模の近隣数集落内における「林」「小林」「大林」「中林」、「平」「大平」「小平」「中平」などは、こうした数百年にわたる分家によって形成されていったと考えられます。また、苗字が自宅付近の小字名と同様であったり、類似した苗字であったり、小さな集落に凡そ2〜3の苗字しかないような場合は、中世に同じ一族であったのかもしれません。

 鎌倉時代における相続形態は、その土地が戦功や開発によって拡大可能だったので、分割相続が基本でした。親の土地は子供達に分け与えられてしまい、各々が新たに拠点とした地名で呼ばれるようになりました。しかし、鎌倉時代後半以降になると、分割相続がしだいに長男の単独相続へと変化することによって、何代にもわたって同一の場所に住み続けるケースが一般化し、地名を用いた個人の通称が、いつしか先祖代々伝えられる家の名=苗字と化していったと言われています。やはり多くの人々のルーツはこの時代にあるといえます。

 

 これら最新の中世史研究を見た時に、これまでの私が描いていた中世史観は大きく変わりました。今回の余談では、こうした研究を県内の一地域に当てはめ、その歴史について考えてみたいと思います。

【佐久郡の中世】

 南北に長い佐久郡の歴史を考えるうえで見落とせないのが、浅間山と八ヶ岳による災害になります。まずこの時代に最も大きな影響を及ぼしたと考えられるのが、仁和3年(887)〜仁和4年(888)八ヶ岳(天狗岳)の崩壊になります。崩壊したとてつもない量の土砂が千曲川を堰き止め、上流を湖化させて水没させ、下流は大洪水によって押し流されました。ここで現在の佐久市塩名田における発掘調査において、この時の洪水によるものと思われる厚さ2mに及ぶ砂層に覆われていたことが判明しました。塩名田でこれだけの堆積を引き起こしたとなると、ここより上流域では、より甚大な被害を与えたことが考えられます。また、浅間山の災害としては、天仁元年(1108)の大噴火があります。一般的に地質学で「追分火砕流」と呼んでいる時の噴火で、この時の爆発によって、現在のしなの鉄道追分駅〜御代田駅の付近までが火砕流によって焦土となり、埋められました。江戸時代の天明の大噴火などからも、同様に火山灰によって気候に異常をきたし、それから数年間は収穫量の減少などによって飢餓が続いたと考えられます。

 このような地形をも変える大災害の他に、毎年又は年に数回も発生する洪水があります。ここ50年間を振り返ると、千曲川は勿論のこと大石川、滑津川、雨川などの各支流においても、土石流や洪水が何度も発生しています。近代的に治水整備された河川ですら大きく破壊されたことを考えると、中世では更に大きな被害が生じたことでしょう。そして、こうした被害が発生しても、災害復旧工事の無い当時では、数十年程度で人が住めるほど、土地は回復しませんでした。よって、この時代の荘園と国衙領の位置を考えるには、こうした被災地域や被災を受け易い地域を、その比定地から外さなければなりません。そうした地域に人々の生活があったのであり、それに付随する田畑も存在していたと考えるべきなのです。

 

 記録で確認できる最初の佐久郡の郷は、八ヶ岳の崩壊から50年程経った、承平年間(931〜938)に作成された『和名類聚抄』(流布本)にある「美理郷」「大村郷」「大井郷」「刑部郷」「青沼郷」「茂理郷」「小沼郷」「余戸郷」の8つになります。「美理郷」「大井郷」「青沼郷」は、現在の私達にも覚えのある地名ですが、その他は佐久郡で全く知らない地名になります。これら郷について、どの辺りであったのか様々な説が存在していますが、未だにはっきりしたことは判っていません。律令制では50戸で1里(郷)を構成するので、それを維持するには、それなりの食料が必要となります。この頃において最も生産性が高いと考えられるのが条里田ですが、佐久郡では平賀、常和、内山、田口、三井(全て佐久市)の千曲川東側にあったのではないかと云われています。しかし、現在推定されている8郷の比定地は、条理田の比定地を当てはめていない地域を推定しているので、条里遺構(恐らく小規模)と郷の関係についてより研究を深めていかなければならないと思います。また、近年の発掘調査で出土した土器に書かれていた文字によると、「大井」と書かれた土器が佐久市長土呂と小諸市御影から、「刑部」と書かれた土器が佐久市岩村田北から出土しました。これによって両郷はこの付近ではなかったかと、違う説が出てくるようになりました。旧来の説は、現在まで伝わっている地名と似た名前の郷であるから、ここではないかといった少し無理矢理な説によるものだったので、これからの発掘調査によってますます変わっていくことでしょう。

 この時代の人間は、どのような場所で生活を営んでいたのでしょうか。例えば人間がどういった地に田畑を耕し、居住するのかを単純に考えた場合、誰もが次のように考えます。

  @ 災害が無い地であること。

  A 水があること。

  B 用水となる河川があること。

  C 川から簡単に水が引けること。(高低差が無い、取水部が被災しない)

 以上のように考えると、南斜面で日当たりが良く、湧水や小川があって飲用に用いることができ、近くに荒れない安定した河川があって、できるだけ僅かな労力で、微低地へ引水できる平地が開けている地域が、最も適している地だと言えます。こうした単純かつ忘れてはならない条件を念頭に置いて比定地を考えると、色々違った視点で想像することができます。

 

 さて、8郷の時代は朝廷が律令制以来の支配システムを転換し、調庸や正税の未進・未納を防ごうとした時代でした。これまでと違って、朝廷から国司に収税の責任を強く負わせたことによって、信濃国司は佐久郡司や在地の有力者を組織の中に組み込んでいく必要がありました。そして把握した田地を幾つか括って「名」とし、負名から租税を徴収する新しいシステムを導入しました。8郷もこれによって名付けられたと考えられ、佐久郡では多く見て8人の富豪農民である田堵がいたと推定できます。

 やがて10世紀にもなると、8郷も全国的な傾向と同じく、耕作地の荒廃と村落の消滅がやってきます。ある研究によると、気候の温暖化にともなって、河川の流域に新たな段丘が形成されるなど、平野部の地形が大きく変動し、耕作地の荒廃化に拍車をかけたといわれています。佐久市長土呂周辺に繁栄していた大集落も、発掘調査から急激に減少したことが判明しています。こうしたこともあってか、ある研究によると、長久元年(1040)の荘園整理令の頃から、全国的に「郡郷制の改編」というものが行われていきます。これは、それまでの負名を単位とする租税徴収をやめ、地域単位で賦課しようというものになります。これにより古い8郷は解体され、佐久郡全体をいくつかに分割したことが考えられます。それは後の公領・荘園の領域から推定すると、千曲川とそれに流れ込む湯川を境とした3分割がされたのではないかと推定できます。そして、その内の2つが荘園とされ、幾つもの郷を含む巨大領域の荘園が誕生する基になりました。


 

 この大きな変動によって佐久郡は一度リセットされ、やがて西暦1000年を過ぎた頃、現在の私達につながる集落の形成(歴史)が始まります。

 

 教科書には「持明院統と大覚寺統」という言葉がでてきます。何気なく試験の為に暗記している言葉ですが、実は佐久に住む人達にとっては切っても切れない縁がある言葉なのです。幾つかの郷土史系の書物では、佐久郡の伴野荘は「大徳寺」が所有していた荘園として紹介されています。しかし、大徳寺が伴野荘を所有するようになったのは、元徳2年(1330)の鎌倉幕府滅亡の直前になり、それ以前の数百年間にも所有者はいました。

 信濃史上、有名な文治2年(1186)後白河法皇より源頼朝へ充てた督促状というものが現存しています。ここには東国の国々が年貢の未進をしており、それを納めるよう荘園名と所有者が記載されています。佐久郡では「佐久伴野荘 院御領、大井荘 八条院御領」と書かれていました。ここで伴野荘だけに、わざわざ「佐久」を付けているのは、伊那郡(下伊那郡豊丘村付近とされる)にも「伴野荘 上西門院御領」があったからになります。佐久伴野荘の所有者であった「院御領」とは、まさしく後白河上皇のことになります。大徳寺に残った伴野荘の史料から、伴野荘は持明院基家から、娘の北白川院(藤原陳子)、その娘の式乾門院(和子内親王)、後堀川院の娘の室町院(暉子内親王)、伏見上皇、花園上皇、そして大徳寺へと寄進されたことが判明しています。

 文治元年(1185)壇ノ浦で安徳天皇が入水した際に、同じく守貞(もりさだ)という皇子も乗船していました。彼は安徳天皇と同じ故高倉天皇の皇子で、当時は5歳でしたが入水することなく、無事に都へ戻されました。守貞皇子は祖父の後白河上皇から大変気にかけられ、既に弟の尊成親王が後鳥羽天皇となっていたので、皇位継承の可能性が無くなっていました。このことから後白河上皇の姉である上西門院の養子とされました。文治5年(1189)上西門院が没すると、親王宣下を受け守貞親王となり、院御所の六条殿に居住しました。建久2年(1190)守貞親王は元服し、藤原基家の妻が守貞親王の乳母だった縁から、基家の娘の陳子がその后に選ばれました。藤原基家は、藤原道長の次男の頼宗から5代目にあたり、邸宅内に持仏堂の持明院を建立したことから、持明院中納言と呼ばれていました。これにより守貞親王は藤原基家の持明院家に居住し、その系統が持明院統と呼ばれるもととなりました。その後、皇位につけない守貞親王は、建暦2年(1212)出家(法名は行助)しましたが、承久3年(1221)承久の乱の後、鎌倉幕府の要請により、急遽陳子との子である茂仁が後堀河天皇として即位し、その父である貞守親王は後高倉上皇となりました。かつて天皇を経験せずに院政を行った者はおりません。

 

 これらを含めて伴野荘の成立を考えると次のようになります。

 本来は国家から支給されるべき封戸の代替として、信濃国の受領から伴野郷の租税収納権を得た封主(恐らく公卿)が、「郡郷制の改編」と併せて国免荘として立荘し、その名を伴野荘としました。ここで長元6年(1033)の記録に、信濃介として伴貞資なる人物が存在していたことが判明しています(歴代信濃国司と介の中で、伴氏・大伴氏は彼1人)。伴貞資は後述する秦為辰より上位の信濃介で、より多くの人民を動員して開発する力を持っていたことが考えられます。現在でも大伴神社が旧領域に幾つか鎮座しており、祀られる程の勲功者が居たことを考えると、「郡郷制の改編」の時に、伴貞資か彼の子孫が伊那郡と佐久郡における伴野郷を封物の代わりの国免荘として伴野荘を与えられ、立荘・再開発の事始めをしたのかもしれません。例えば大田文が現存しているおかげで荘園成立年が判明し、信濃国と同程度に都から離れている能登国を見ると、荘園全体の74%が1136〜1150年に成立しています。まさに鳥羽院政の時代でした。これにより伴野郷も1100年前後に立荘して、白河院庁か鳥羽院庁(1086〜1156)へ寄進されたものと考えられます。やがて伴野荘は後白河上皇(院政1158〜)の所有する所となりましたが、守貞親王の養育代として持明院(藤原)基家に領家職が与えられたと推定されます。

 一方で30年前の研究では、「大伴氏は淳和天皇の諱が大伴であったため、姓を伴と改め、「大伴の郷」は「伴の郷」というようになり、「伴野郷」となった。そして荘園整理令を避けて藤原摂関期に藤原氏へ寄進され、それを受け継いだ藤原基家が、より上位の院へ寄進した」と主張しています。しかし、発掘調査から藤原摂関期に寄進できるような規模の田畑や人が地中から出てこないこと。藤原道長は万寿4年(1027)に死亡しており、その本流である藤原頼通が「宇治殿領」として受け継いだのですが、傍流の更なる傍流であった藤原基家が受け継いだ可能性が低いことなどから、現時点ではありえないと考えられます。荘園研究の途上期であった30年前においては、このような解釈をしていました。

伴野荘を流れる片貝川(佐久市前山)

 次に伴野荘の領域からその歴史をみてみましょう。

 建武2年(1335)の『大徳寺史料−注進 伴野荘郷々村御年貢存知分事』において、伴野荘の領域と年貢高を知ることができます。伴野上中下3ケ村1000、大沢村250、野沢郷1300、野沢原300、小宮山500、春日郷520、桜井郷800、縣沢300、三塚郷350、臼田原180、上臼田村300、下臼田村280、高屋木80、畑物村100、大日向村100、余地村60、保間250、海野口63、平沢村4、下縣田、大石、岩郡、宿屋80、鷹野郷800(数字は年貢を貫文で表したもの、数値だけの計7617)の地名が挙げられています。これを見て思うのが、片貝川を中心に広がっていることです。佐久郡の河川は、南北の千曲川を軸に、東西から幾多の支流が流れ込んでいます。その殆どが急勾配で、現在でも頻繁に災害が発生しているような河川ですが、片貝川だけは違っています。片貝川は唯一と言ってよいほど千曲川に平行して南北に流れている河川になります。その勾配は緩やかで落ち着き、旧臼田町稲荷山の岩体から北へ向かってわずかに盛り上がった地形(江戸時代にはこの稜線上に佐久の甲州脇往還が通り集落が形成された)によって隔たれ、東を千曲川、西を片貝川が流れています。片貝川は平地の中を静かに流れ、幅も3m程度しかないので、自動車で近くを走っていても、その存在に気付きません。しかし、下流にいくにしたがって西から幾つかの支流が流れ込んで水量も多くなり、その付近が大沢・伴野・三塚・小宮山・桜井・下縣田と全体の40%近くの貫高を占める地域になります。そして、この荘園の凄さに驚かされるのが、現在まで脈々と使われ続けている八ケ村用水の造営になります。八ケ村用水が通る高屋木・野沢原・野沢の地域には小河川が無く、あるとすれば千曲川しかありません。そこで現在でも千曲川から取水して流れ続ける高柳→原→野沢の用水と、ほぼ同目的を持った井溝がこの頃に造られた可能性が高いのです。明治時代の地図では現在より1km程下流から取水していました。千曲川の河床高が現在の高さより高ければ、明治時代の位置からでも取水できましたが、年々下がり続け、上流々へと取水位置がズレていったと考えられます。よって明治時代よりもっと古い中世では、より下流の高屋木(佐久市高柳)付近の千曲川を開き、ここから野沢郷まで約1.5kmの井溝を開発したと考えられます。

 これだけの大規模な開発を誰が行ったのでしょうか。残念ながら史料が残されていないので、他国の例から見てみましょう。播磨国赤穂郡久富保に先祖伝来の領地や屋敷を持っていた秦為辰という人物がいました。彼は承保2年(1075)播磨国の大掾であるとともに赤穂郡司としての地位を利用して、久富保の荒廃田40余町を開発しました。その時、彼は自ら現地に泊まり込み、郡内の人民5千人余を徴収して、長さ30町にも及ぶ井溝を掘り起こし、これを開通させるという難工事を行いました。彼はその功により開発地の領有を国衙から認められることになりました。このように郡司という地位を利用して、自身の支配下にある私的な従属農民だけでなく、管轄化の農民をも動員して大規模な開発を行い、それを私領化する在地豪族層の動きは、当時顕著にみられたといいます。伴野荘でもほぼ同時期にこの様な開発が行われたと考えられます。

 以上により貫高から推定すると、伴野荘で中心的となっていた地域は、伴野上中下3ケ村と野沢郷であったことがわかります。野沢は現在の佐久市野沢ですが、伴野とはどこなのでしょう。現在でも佐久市伴野がありますが、これは明治初期に下縣村、下縣新田、下平村、今岡村、相浜村が合併して伴野村と名付けたことから大字伴野が残ったもので、中世にこの一帯が伴野であったわけではありません。上記の伴野荘領域を丹念に見ると気付く人もいると思いますが、片貝川沿いで佐久市有数の田園地帯である前山だけが抜けているのです。このことから伴野3ケ村は前山(一部現在の小宮山を含む)だと云われています。後の数百年後、荘を支配した伴野氏は、この前山と野沢で一族2分裂することになります。

 

【西暦1200頃の佐久郡】

図中の●:後期古墳(参考)

※小規模な集落は省略してあります。

※図中の大井荘・伴野荘と記した大きな色の部分は、領域を広く囲んだもので、色全てが集落や耕作地ではありません。この中に小さな色が幾つか点在しているイメージになります。


 

 伴野荘がほぼ千曲川の西側一帯にすっぽりと収まるよう荘域をもっていたように、その反対側である東には別の荘園がありました。これが先述した「大井荘 八条院御領」になります。大井荘については、伴野荘のように大徳寺が古文書を残してくれたのとは違い、どのように成立したのか、誰の所有だったのか、その実態はわかっていません。僅かに残った嘉暦4年(1329)の『諏訪上宮の結番帳』史料によると、南市村(小諸市)、塚原(佐久市)、小田井(佐久市)、長土呂郷(佐久市)、安原(佐久市)、香坂郷(佐久市)、平尾郷(佐久市)、東布施(旧望月町)、西布施(旧望月町)、甕郷(旧望月町茂田井?)、田口郷(旧臼田町)、矢島(旧浅科村)、湯原(旧臼田町)、小田切(武士の名として、旧臼田町)、崎田(旧八千穂村)、志津田(?)が荘域だったことがわかります。

 大井荘は、「郡郷制の改編」によって承平年間にあった古い「大井郷」の名を継承して成立した大領域でした。郷の付く長土呂郷、香坂郷、平尾郷、甕郷、田口郷がその中心的な集落で、地形はほぼ台地上にあって、江戸時代に用水が開削されるまでは畑地が主流でした。しかし、水量の豊富で南へ遠く離れた佐久市田口の雨川流域も開発されていることから、過去に災害など何かしらの理由で国衙が開発を断念した地に、荘園領主が伴野荘と競うように開発の手を入れたか、国衙領だった地域を大井荘民の出作地だと主張して手に入れたものとも考えられます。

外九間1号古墳(田口郷)

 八条院は鳥羽天皇の娘で、建久7年(1196)病によって所領の大部分を以仁王の皇女である三条姫君と、一部を養育していた九条兼実の子である藤原良輔に譲りました。しかし、三条姫君が元久元年(1204)死亡すると、八条院が再び領有しました。建暦元年(1211)八条院が死亡すると、後鳥羽天皇の第一皇女の昇子内親王(春華門院)に譲られましたが、同年急死したことによって、順徳天皇のものとなりました。実際は後鳥羽上皇が管領していましたが、承久3年の承久の乱によって全て幕府によって没収され、後高倉上皇へ譲渡されました。これにより、千曲川西の伴野荘が後高倉上皇の妻である陳子、千曲川東の大井荘が後高倉上皇と、夫婦で両荘を所有するようになりました。その後、大井荘は貞応2年(1223)安嘉門院に譲られ、伴野荘を領有していたのが式乾門院なので、今度は千曲川を挟んで姉妹の所有となりました。ここからが伴野荘と大井荘の運命の分かれ目で、弘安6年(1283)安嘉門院が死亡すると、大井荘は伴野荘と同様に、室町院へ相続される予定でしたが、亀山上皇が幕府に働きかけて亀山院領としてしまい、以後大覚寺統の経済基盤となりました。そして、大井荘は「乾元元年(1302)後宇多院に進献」と昭慶門院の記録に残っているので、亀山上皇→後宇多上皇→昭慶門院→後醍醐天皇へと引き継がれていったと考えられます。

 また、安元2年(1176)山科家の記録に、八条院御領の院庁分として大井荘が「不帯官符」とあります。これは不輸の特権として太政官及び民部省から符を下された官省符荘となっていなかった新しい荘園ということになり、延久元年(1069)に実施された延久の荘園整理令などでは、寛徳2年(1045)以後の新立荘園が停止されているので、大井荘はこれより新しい西暦1100年前後に成立した荘園であることになります。これにより大井荘と伴野荘は、ほぼ同時期に成立した荘園で、ともに白河院庁か鳥羽院庁(1086〜1156)へ寄進されたと考えられるのです。

 

 大井荘は現在の佐久平と言われる地域を中心とし、旧望月町や佐久市小田井など「牧」と関係の深い地域を含む特徴がありました。国衙領や伴野荘が水量の豊富な地にあるのとは違い、水量の少ない数歩で跨げる程度の小河川や湧水に頼らざるを得ないような地でした。恐らく伴野荘が米を主作物としたのに対して、大井荘は小麦や豆ではなかったかと考えられます。外周には長倉牧、塩野牧、望月牧があったことからも痩せた地であったことがわかりますが、そうかといって疲弊した劣悪な荘園というわけではありません。佐久郡の年貢は、「信濃布」といって都で重宝された麻布でした。米が作れなくとも麻を栽培してそれを織り、さらに私牧で高価な馬を生産していれば、単純に米を生産しているより財を成すことができたと考えられます。これにより、やがて貨幣制度が浸透してくると、伴野荘より大井荘の方が栄えていったと云われています。伴野荘が米生産の拡大を図った大規模な開発を行ったのに対して、大井荘は牧畜などに重きを成し、少しずつ増え続ける人口に対応した畑地の開発を小規模に行っていったと予想されます。

 

 保元元年(1156)に勃発した保元の乱において、後白河天皇に従った佐久郡の信濃武士に根井氏、望月氏がいます。根井氏は大井荘内に拠点を置いていた当時最も有力な武士で、佐久市根々井付近で私牧も営んでいたと云われています。ここから大井荘の再開発を請け負った在地豪族とは、根井氏の一族すなわち、望月牧の望月氏とその本流である小県郡の滋野一族ではなかったかと推定されます。『滋野三家系図』によると、清和天皇の子貞保親王の孫「喜淵王」を祖とするとあります。その子滋氏王が信濃守となり、滋氏王5世の孫重道の長男広道が小県郡海野に、次男の道直は祢津に、三男の広重は望月に居住しました。この三家から小田切、会田、真田、塔原、光、田沢、借屋原、浦野、大塩、岩村田、香坂、根井、落合、館などの一族が広がっていったと云われています。以上の系図を信じれば、滋氏王は清和天皇から計算して西暦1000年頃に信濃守となったとすると、三家に分家したのは西暦1100年頃になります。こうなると、滋野氏の興隆と望月氏による大井荘の開発が時代的に一致し、伴野荘ほどの大規模なものではありませんでしたが、小さいながら岩村田・香坂・根井(以上佐久市)、館(佐久穂町)など各所に一族を派遣して田畑や牧を広げていったと考えられます。

 ここで古代の8郷の「大井郷」の比定地を長土呂とすると、発掘調査から9世紀における佐久郡最大の村落地であったことになります。多くの説は「大井荘は岩村田を中心にして広がっていった。」とありますが、岩村田には鎌倉時代以前の大集落遺跡がないこと、河川がない(湯川は岩村田より低地にありすぎて水が利用できない)ことから立荘当時は、大井荘の中心ではなかったと考えられます。このことから、小河川である濁川と湧玉川中流域に繁栄した大集落「大井郷」が10世紀の大変動によって崩壊し、さらに天仁元年の浅間山噴火で塩野牧と長倉牧も壊滅しました。そして伴野荘と同様1100年頃前後に至って「郡郷制の改編」によって有力な封主によって立荘されると、外部から開発を請け負った滋野一族が大井荘各地に散在し、私牧を営みながら荘園を形成していったと考えられます。大井荘内各地に小規模な郷が分散していたので、立荘当時は中心的な郷は特段定まっていなかったと考えられますが、有力な根井氏の根拠地であった佐久市根々井に馬市などが設けられ、東山道の通過地として栄えていたと云われています。

 


 

 8郷の名が出てから160年余が経った西暦1100年頃、源八幡太郎義家の甥っ子で、源盛義(父は源新羅三郎義光、祖父という説もある)という人物がいました。系図の『尊卑分脈』では彼の苗字が「平賀」となっており、更に60年余後の治承4年(1180)以仁王が平家追討の令旨を伝えるべき東国武士の中に「信濃国には、大内惟義、岡田親義、平賀盛義・その子義信、木曽義仲」とありました。そこに居住しなければ平賀とは名乗らないので、これにより平賀郷という郷があったことが推定されるようになりました。そして、鎌倉幕府末期の嘉暦4年(1329)『諏訪上宮の結番帳』には、「平賀郷・・・」とはっきりと書かれ、さらにその範囲として小井河・東明寺・内山・三河田・滑瀬・平賀・松井(以上全て佐久市千曲川東側)、平林・青間・入澤(以上全て旧臼田町千曲川東側)という佐久郡の地名が挙げられていました。これらから平賀郷が実際に存在していたこと、場所は千曲川東岸の湯川以南で、東から西に向かって千曲川へ注ぎ込む志賀川、滑津川、谷川などの支流域だったとわかりました。この頃の千曲川は、現在の千曲川より(佐久市三条付近から)東側の位置へ分流し、平行するように山裾を北へ流れていたと云われ、それを避けるような立地に郷ができていたようです。これらの支流域は地滑りや豪雨災害を受け易い地でしたが、支流へ流れ込む小さな沢が幾筋もある水の豊富な地でした。この地域は古墳が多く残る地域にもあたり、先の条里田推定地ともほぼ重なり、佐久郡の中でも古くから開発が進められた地域であったと言われています。

 八ヶ岳の崩壊に始まり、気候の大変動によってこれら条理田を含む国衙領も荒廃の一途を辿りました。やがて朝廷も、国衙領の再編成によって税収を復活させようと考え、長久の「郡郷制の改編」が行われ、湯川の南に複数の郷を含む広域的な平賀郷が成立しました。その後、伴野荘と大井荘による検注妨害や国衙領の収奪など対立が悪化してくると、その対策として期待され招聘されたのが、資財と軍事力を持った源盛義だったのです。彼は滑津川の下流の平賀に居住し、公領の再開発も請け負って、条里田を中心に荒廃していた田畠を開墾しました。あるいは田堵らの田畠を買得するなどして、しだいに他の支流や沢まで所領を拡大していったと考えられます。

 佐久郡にはこの他、平賀郷ほどの規模ではないのですが、志賀郷(佐久市志賀)、山田郷(佐久市常和)、郷の規模までには至らない小諸などが存在していました。以上のように佐久郡には、おおよそ千曲川を挟んで西に伴野荘、東に大井荘と平賀郷、滋賀郷、山田郷、その他全域に散らばるように小さな村などの人の営みがありました。ここで建長2年(1250)に鎌倉幕府が京都閑院御所造営を命じた記録があり、所領高に応じて木材を割り当てているので、当時の御家人が保有していた所領の大小がおおよそ判断できます。10本小笠原入道跡(伴野荘)、5本大井太郎(大井荘)、5本平賀兵衛尉(平賀郷)、3本小室太郎跡(小諸郷)、1本志賀七郎跡(志賀郷)、2本布施左衛門跡(布施郷)、2本春日刑部丞跡(春日郷)、これにより、鎌倉時代中期に佐久郡の耕地バランスがどのような状態であったのか、皆さんにも感覚としてわかってもらえると思います。

 


 

 治承4年(1180)以仁王から平家追討の「われ、一院の第二皇子として、天武天皇の旧儀を尋ね、王位推し取るの輩を追討し、上宮太子の古跡を訪て、仏法破滅の類を打ち滅ぼさん」と令旨が発せられました。ここで令旨を伝えた源行家の職はというと八条院庁の蔵人でした。反乱の中心となった源頼政も長年八条院に仕えていたことから、女院から要請を受けて参戦したといわれています。一方で令旨によって参戦した信濃武士をみると、いずれも小県郡、佐久郡、諏訪郡、筑摩郡、高井郡の者達が中心となっていました。ここに信濃国内の八条院御領をみると、東条荘(高井郡)、常田荘(小県郡)、大井荘(佐久郡)、捧荘(筑摩郡)、諏訪上社・下社(諏訪郡)などでした。これはまさに以仁王の令旨というのは、自領に関係する武士へ参戦を命令したもので、平氏への反感や木曽義仲を慕うものでなかったことがわかります。結局は上野国の兵を率い、源氏の血筋としても上位の義仲が頭領となって打倒平氏を果たすことになったのです。これにより同族の平賀盛義は義仲に従わず、源頼朝に従うようになりました。佐久郡から義仲に従ったのは根井行親、楯親忠、小室忠兼、志賀七郎、桜井太郎、平原景能、野沢太郎、望月太郎、矢島行忠などでした。その後の木曽義仲の快進撃は誰もが知るところですが、都に上って皇位継承者に口を出した義仲は、八条院から反発を招くことになりました。そして寿永3年(1184)木曽義仲は源頼朝に討ち果たされました。

 

 その後、文治2年(1186)伴野荘の地頭として加賀美二郎長清という記録が残っています。既に寿永2年(1183)後白河上皇による宣旨により、源頼朝が東海・東山の年貢官物を在庁官人を指揮して収納・京上させるとともに、それを妨害する者を頼朝が取り締まることができるようになっていました。これにより平氏没官領はもちろんのこと、この度の木曽義仲に組した者の領地を没収しました。佐久郡の伴野荘には加賀美長清が地頭として置かれ、大井荘の記録は残っていませんが、後に長清の七男が大井荘の地頭になった記録があるので、同じく加賀美長清が地頭になったと考えられます。そして、長清の父である加賀美遠光が文治元年(1185)信濃守とされ、平賀郷の平賀義信が武蔵守、その一族で大内維義が相模守と、有力な地に信濃武士が任ぜられました。加賀美長清は甲斐国小笠原荘を本拠地としていたので、小笠原を名乗っていました。これが以後300年以上続く、まさに信濃守護家としての小笠原氏誕生の瞬間であり、佐久郡の小笠原一族支配の始まりでもありました。

 承久の乱の頃になると、伴野荘の地頭職は小笠原長清の六郎時長に譲られて伴野氏を名乗り、大井荘の地頭職は太郎朝光に譲られ大井氏を名乗り、以後武田晴信が侵攻してくるまでの300年間佐久郡に影響を持ち続けました。大井氏の拠点となった岩村田は有名ですが、この大井朝光が地頭になった頃から岩村田が大井荘の中心として整備されたと考えられます。現在の佐久IC付近から岩村田市街地へ南下する井溝が開削され、岩村田での人口集中が可能となると、東山道の通過地として職人が集められたり市場が開設されるなどして繁栄していきました。南北朝の戦乱以後は、東と南を深く掘る湯川を天然の堀として利用し、しだいに城塞都市としての機能を持つようになっていったと言われています。

 

 さて、ここまで長々と、耕作地の開発を中心に佐久郡の村々が出来上がっていく過程を述べさせてもらいました。ここで、村落の成立年について幕末に書かれた『信濃国佐久郡七拾五箇村開発記』というものを紹介します。これは江戸時代に佐久郡各郷の開発についての調査があり、恐らく各郷の伝承などに基づいてまとめられたものと考えられるものです。古いもので平安初期にさかのぼりますが、先ほどからも述べているように、西暦1000年頃から佐久郡の村々が成立していくという推定と大きなズレは無いので、意外に参考となるものです。

郷  名 開発年 開発人数
岩村田郷 829 9
平原郷 880 6
安原郷 896 5
大諸郷 940 3
耳取郷 949 9
田口郷 967 5
小田井郷 984 2
芦田郷 986 5
香坂郷 994 1
臼田郷 1010 4
平賀郷 1022 5
野沢郷 1080 5
桜井郷 1122 3
小諸郷 1128 5
矢嶋郷 1134 7
平尾郷 1145 3
長土呂郷 1174 3
山田郷 1176 1
下県郷 1221 3
志賀郷 1233 5

 

安定した食と安全の確保は「人」の定住につながります。これにより、現在まで脈々と佐久郡内に住み続ける人々の「家」が成立したのは、まさにこの時代だといえます。各郷の中には、幾つかの「名(土地に人の名前を付ける)」が設定され、その代表(名の中の大多数は他人の土地を含む)である名主は、領主の年貢や公事を請け負う役目を負っていました。名主は畑地を含む屋敷・在家を持ち、その内に親類や下人・所従を住まわせて、一緒に田地を耕作するなど一種の共同体を築いていました。そして一番始めに述べたように、分家によって別の地を開発して移住し、その地の地名を名乗るなどを繰り返してしだいに一族を広げていきました。江戸時代に各村の庄屋や村役人を務めたような「家」は、このようにして成立したのです。

 やがて西暦1400年からの100年間だけでも、大井氏と芦田氏、大井氏と平賀氏、大井氏と伴野氏との争い、武田氏と村上氏の乱入など、いよいよもって佐久郡も乱世へと突入していきました。文明16年(1484)には村上氏が大井氏を攻め、繁栄を誇った岩村田城下も焼け野原になったと伝えられています。こうした乱世により消滅する村、逃散する百姓など数知れずいたと思われます。百姓と雖も時には兵であり、日常の狩で得た弓術など、武力は武士よりも上であったともいわれています。そんな中で「惣」を組んで為政者に従い、一方では反抗しながら生き抜いた農民層、それが今も佐久郡で生きているあなたの「家」なのです。

 

・・・・・四方赤良

四方赤良余談6

其之83以降


四方赤良余談5

其之82以前


四方赤良余談4

其之76以前


四方赤良余談3

其之71以前


四方赤良余談2

其之63以前


四方赤良余談1

其之52以前


四方赤良余談

其之38以前


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