佐久市

六地蔵ろくじぞうとう ○○○

重要文化財1登録 室町時代建造物

 

六地蔵

ろくじぞうとう

 

建造:真紗の住 秀鶴

幢の材質:安山岩(赤みをおびる)

幢の構造:7尺2寸2分、六角形の幢身笠石

建造:永享12年(1440)

 

 

 千曲川の左岸を甲州道、右岸を甲州往還などと呼んで、古くから南北の道として多くの人に利用されてきました。そんな甲州往還沿いに用水路と人家の狭い間にずらっと並ぶ石造の列、そんな石造の1つが国指定重要文化財「六地蔵幢」になります。ここは江戸時代まで入澤村と呼ばれていました。

 入澤村は、東から谷川が千曲川にほぼ直角にぶつかり、そこを中心に扇状的な広がりの地形をした村でした。南に平林村、北に下越村と接し、抜井川から取水した田口用水堰(田口の五稜郭へ向う)が平林村を通って村の中心を南から北に通過し、その水を利用した田が広がっていました。村は磯部組、三条組、十日町組の3集落から成り、六地蔵幢は十日町組にありました。明治11年(1878)『郡村誌 南佐久郡』の入澤村の項によれば、「古い石燈1基が村の午方角の十日組の中央、路傍の川辺にあり、火袋の中に六地蔵を置く。笠石火袋台迄は六角にして、柱石より下は円く、笠石の裏悉く磨て永享十二稔庚申真紗の住秀鶴と刻す」とあります。具体的に構造としては、上から宝珠、笠、長押、がん部、中台、幢身、基壇といった名称で構成され、がん部の中に6体の地蔵菩薩が置かれています。驚くことに地蔵菩薩は小さな石造であるにもかかわらず、1体1体が違った手の動きをしており、『今昔物語巻17』に書かれているように、人は手に香炉を捧げ、一人は掌を合せ、一人は宝珠を持ち、一人は錫杖を執り、一人は花筥を手にし、一人は念珠を所持しているようにも見えます。材質は赤みを帯びた石ですが、これは通称「佐久石」と呼ばれ、 佐久市 入澤の薬師堂の石積や、谷川の河原に転がっている中にも同様な赤身を帯びた安山岩が見られます。また、上写真でもわかるとおり、円柱の幢身がボコボコとしていますが、これは信者が信仰のために削って持ち帰った為と云われています。

 全国には石造の六地蔵幢は幾つか残っていますが、この「永享12年」という古い六地蔵幢は他に例がなく、保存状態も良いので貴重とされ、重要文化財に指定したと文化庁の解説にはあります。そして、この石像に刻まれたものしか史料が残っていないので、その他の説明はありません。そこで今回は他に紹介されていない少し踏み込んだ考察をしてみます。

 

 入澤村は平賀郷の一部として開かれ、別名「青沼の郷」と呼ばれていました。六地蔵幢が造られた頃の入澤村は、岩村田を本拠とする大井氏の支配下で、鎌倉公方足利持氏と将軍足利義教の争いが佐久郡にまで波及して、持氏派の大井氏と義教派の芦田氏(立科町)が小競り合いを繰り広げていました。そして永享10年(1438)持氏追討の綸旨を得た幕府軍によって足利持氏は討たれましたが(翌年自害)、永享12年に持氏の子が結城(茨城県、翌年4月落城)に立て籠もって合戦となり、結城氏に味方する大井氏が関東管領上杉氏と碓氷峠付近で合戦をするなど大変混乱した時代でした。

 そもそも六地蔵とは、人間が死後に生前の善悪によって行きめぐる地獄の「餓鬼」、「畜生」、「修羅」、「人間」、「天上」の六つの苦界(六道)において、衆生の苦しみを救う六種の菩薩さまになるので、こうした人の生死が交錯する世から救われようとする思想から、武士によって造られたとも考えましたが、入澤村古図のある記載を見てそれは間違いだと気付きました。

左写真(十日町猿田彦社)

 

 十日町組の集落は、平林村との境に接する位置にあります。ここの甲州往還沿いに並んだ家屋の裏に社の絵と「猿田彦社」の文字(祭日4月1日)、そして石造に刻まれた「永享十二稔庚申」の文字。これらから六地蔵幢は猿田彦命と庚申の関係にもとづいて、十日町の百姓が永享12年に行った庚申待ちの一環として造立したものだと考えられます。入澤村の六地蔵幢から約100年後に建立された、茨城県鹿島市本浦観音堂に残る六地蔵「逆修 庚申講中 現当二世願望成就砌造立」と刻まれ、現世と来世の幸福を願い、その願いが成就するように造立されたことがわかります。このことから入澤村のものも同様の目的により造立され、伝承では十日町の山側に津金寺(平林千手院)という寺があり、そこの参道に置かれていたと云われています。ここで現在の六地蔵幢の横には「三十三夜塔」、「十九夜塔」、「石造地蔵菩薩像」、「道祖神」が並べられています。これは周辺旧村の寺にも同種の石造が多数置かれているので、十日町のものも同様に昔は寺の境内に置かれていたと考えても不自然ではありません。恐らく平林本郷と十日町の境界が不自然な境界で分けられていることから、室町時代に津金寺の参道で栄えていた佐久往還沿いに平林本郷の人々が市場を開くために十日町をつくり、両集落は津金寺を共に菩提寺としていましたが、津金寺が再三の火災等によって現在の平林本郷へ移転し、十日町が分離して入澤村とされるに至って、自分達の先祖が造立した石仏だけを集落の佐久往還沿いに移したのではないかと考えられます。長い年月にわたって魔除けや幸福を願う庚申信仰が十日町集落では続けられてきたのですが、いつしか人々の信仰心も薄れ、六地蔵幢が何の為に造られたのか?、その足跡すら記憶から失われてしまいました。

 この佐久往還沿いには、このような「二十三夜塔」や「庚申塔」が至る所にあります。これによりもしかしたら周辺の旧村にも六地蔵幢があるのではないかと考え探してみました。すると十日町から佐久往還を南へ数km進んだ海瀬村下海瀬組(佐久穂町海瀬)に廃墟(実相寺)となった寺があり、その参道に幢身から下ろされ、宝珠とがん部を失った六地蔵幢を発見しました。そこに住む人々が信仰を続けていかなければこのような姿にも成りうるのかと、歴史の無常を感じました。

 参考にその他周辺地域で見られた六地蔵幢をいくつか下記へ紹介します。これと比較して如何に十日町の六地蔵幢が造形的に優れているかを実感していただけると思います。

      

 上宮寺(佐久市田口)  善福寺(佐久穂町崎田) 新海三社神社(佐久市田口) 遍照寺(佐久市三分)


○交 通

JR小海線の青沼駅と羽黒下駅間の県道川上佐久線沿いにあります。狭い県道なので、気を付けていないと通り過ぎてしまいます。すれ違い等にご注意ください。

○料金、駐車場

道路沿いなので料金無料。駐車場はありません。道も狭いので停車は短めにしましょう。

 

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六地蔵の中の一つ
内の撮影


六地蔵下部
県道側より撮影