マスカーニの誕生、ケルビーニ音楽学校
 1863年、ピエトロ・マスカーニはイタリア西岸の港町リヴォルノに、ドメニコ・マスカーニの次男として誕生した。ドメニコはパン屋を経営したいたが、家業は長男のフランチェスコに継がせることに決め、ピエトロは法律家にしようと考えていた。14歳の時に伯父の援助により、地元のケルビーニ音楽学校に入学した。彼はソッフレディーニからピアノと作曲を学ぶ。16歳の時に交響曲ハ短調を作曲、次いでケルビーニの記念のためのキリエを書いた。1881年7月18日に、同じ学校の親愛なる友ジョヴァンニ・ブルーニに、ピアノ曲「世間知らずな娘」を捧げている。同年の卒業時、2幕の歌劇「紡績工場」を書いて賞金を獲得した。また、この頃シラーの「歓喜の歌」に作曲し、それがミラノのコンクールに入選した。そのことで、ラルデラル伯爵に認められ、ミラノ留学の夢がかなった。 
ミラノ音楽院
 1882年にミラノ音楽院に入学。そこで彼はポンキエッリやサラディーノに作曲を師事し、また同室には5年先輩のプッチーニがいた。しかし、彼は勉学に耐え切れず中退し、ミラノのダル・ヴェルメ・劇場の管弦楽団に加わり、チェロを演奏するようになる。また、歌劇団に加わりイタリア各地を巡業し、指揮者・作曲家としてのキャリアを積んでいった。1885年、彼の作曲した喜歌劇「ナポリの王様」が地方巡業で公開されたが、たいした成功を収めることはなかった。
 その後、チェリニョーラで結婚しその地に落ち着く。音楽教師や劇場の指揮者を務めながら、作曲を続けていった。
カヴァレリア・ルスティカーナ
 彼の偉大な成功は、やはり歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」であろう。これは、1888年に楽譜出版社ソンゾーニョ(Sonzogno)社の主催した一幕物の懸賞オペラに応募するために書かれた物で、ヴェリズモ作家のジョバンニ・ヴェルガの短編小説に基づいている。そして、1890年にローマで上演され、審査の結果1等賞に入選した。この作品によって、マスカーニの名は一夜にして世界中に知れ渡るようになった。
 ところで、マスカーニはこの作品を作曲・応募するにあたって、原作者ヴェルガの許可を貰っていなかった。そのため、ヴェルガはマスカーニとソンゾーニョ社を相手に訴訟を起こすが、1893年にソンゾーニョ社がヴェルガに和解金143,000リラの支払いを認めたことで解決した。
その後のオペラ
 その後も彼はオペラを書きつづけ、1891年には「友人フリッツ」、1895年には「グリエルモ・ラトクリフ」を発表する。しかし、両者とも「カヴァレリア・ルスティカーナ」ほどの成功を収めることは出来ず、現在では両者とも間奏曲が取り上げられる程度である。1898年の「イリス」は日本を題材にした異国情緒あふれる作品であり、同じく日本舞台とするプッチーニの「蝶々夫人」の先を行く作品ではあるが、たいした成功を収めることもなかった。
 1901年には、イタリアの6都市にて「仮面」が同時初演された。しかし、マスカーニが指揮したローマを除けばみな失敗に終わり、ジェノバに至っては最後まで上演されなかった。現在では稀に序曲のみが取り上げられて演奏されることがある。また、弟子のボッタキアリがマンドリン用に編曲したものは、今でもよく演奏されている。
様々な活動
 作曲家としてのみならず、指揮者としても活躍を続けていた。1902年には歌劇団を率いて渡米し、自作をアメリカの各都市で上演した。1911年には南米にも渡り、ブエノスアイレスのコロン劇場で歌劇「イザボー」を初演した。1929年にはトスカニーニの後を継いで、ミラノ・スカラ座の主席指揮者に就任。指揮者としての名声も獲得する。また、1895〜1905年には、ペーザロのロッシーニ音楽の院長を務めていた。
 マスカーニは新しい題材からの着想を捜し求め続け、1934年に彼の最後のオペラである「ネローネ」を完成させ、スカラ座で初演された。これは当時のムッソリーニ政権をたたえる物であり、多くの音楽家から遠ざけられた。1940年には、「カヴァレリア・ルスティカーナ」初演50周年記念として、マスカーニ自身がスカラ座で指揮をし、その録音では現在でも残っている。
マスカーニの最期
 第2次世界大戦後にはムッソリーニに加担した罪で財産を没収される。マスカーニと妻のリナ(Lina)は、当時既にフランス軍に占領されていたローマのプラザホテルに住むことを許され、晩年はそこでひっそりと暮らした。
 1945年8月1日の午後、気管支肺の感染症の発作によって、マスカーニは高熱を出した。すぐに近くの教会の司祭が駆けつけ、最後の洗礼を行う。翌日の午前7時15分、マスカーニはこの世を去った。彼の息子のミミは、ファシスト活動のために投獄されており、父の最期を見届けられなかった。
 マスカーニの死の翌日、数千人の人々で道路は溢れ返っており、人々は彼の部屋を訪れることを許されてた。しかし、ホテルのドアを開けるや否や、ホテルは彼に別れを告げようとする人々で一杯になり、フランス軍将校は群集を押し戻すためにドアを閉めざるをえなくなってしまった。
 8月4日に葬儀は行われた。警察隊バンドがショパンの葬送行進曲を演奏する中、棺は群衆の中をゆっくりと運ばれていった。午前10時半、葬列は教会に到着した。教会の前で葬列が止まると、警察隊バンドはカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲を演奏した。葬儀が終わると、棺はヴェラノ墓地(Verano Cemetery)へと運ばれ、マスカーニの遺体は1951年にリヴォルノのミゼリコルディア墓地(Misericordia Cemetery)に移されるまで、この場所に埋葬されていた。
マスカーニの死後
 1995年10月6日に、マスカーニの死後50年を記念したコンサートが、イタリアのTriesteで行われた。そこで演奏された11曲は以下のとおりである。歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より前奏曲と間奏曲、歌劇「友人フリッツ」より間奏曲、歌劇「イザボー」より間奏曲、歌劇「シルヴァーノ」より舟歌、歌劇「仮面」より序曲及び歌を2曲、異国風の踊り、歌劇「グリエルモ・ラトクリフ」より間奏曲、そして歌劇「イリス」より序奏と太陽の賛歌。指揮者はTiziano Severini。
更新履歴
2004.9.13:「カヴァレリア・ルスティカーナ」に加筆
2004.1.6:「マスカーニの最期」に大幅に加筆。
2004.1.1:従来の形式を変更し、章立てにする。 「マスカーニの誕生、ケルビーニ音楽学校」に少しだけ加筆。
2003.7.25:マスカーニの生涯について、簡単に書き終える。作品紹介も作成。
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