ドミニック・オーリは語る
Dominique Aury, Vocation : clandestine. Entretiens avec Nicole Grenier. (Gallimard,1999)
Régine Deforges, O m'a dit. Entretiens avec Pauline Réage. ( Pauvert, 1995)
1998年4月26日、ドミニック・オーリDominique Auryは90歳で亡くなっている。ガリマール書店の原稿審査委員会の一員、雑誌NRFの編集に携わり、フェミナ賞審査委員をつとめるなど、半世紀の間フランスの文学界では重要な存在だった。翻訳家、批評家としての仕事もある。
ポーリーヌ・レアージュ『O嬢の物語』(1954年)実作者の有力候補として、早くからオーリの名が囁かれてきた。
1988年に録画されたフランスのテレビ対談で彼女ははじめて素顔を見せ、『O嬢の物語』の作者として語る。このニコル・グルニエとの対談(放映されたのはなお10年を経た後のことだという)を活字化したのがVocation : clandestine(『隠れて生きるのが天職』)である。
この本が出版されて数ヶ月後、面白い文章を目にした。レジーヌ・ドフォルジュがヌーヴェル・オプセルヴァトゥール(1815号)に寄せた書評(『爆発する女性のエロティック文学 Oの孫娘たち』)だ。
「エロティック文学は女性厳禁、それが当たり前だったのはさほど昔のことではない。読むのは少数、書き手はさらに少なかった。ずばぬけた文学通読者さえ、『O嬢の物語』はジャン・ポーランの作だと信じていた」
あわてて澁澤龍彦の訳者解説(1966)にあたってみる。澁澤も作者について、一番有力な説はポーランの単独作か彼とオーリの合作だとし、文体の18世紀風擬古性やプレシオジテからポーランの手が入っていることは間違いないと見ている。「ポーリーヌはポーランの女性形であり、レアージュはジャンのアナグラム(綴り変え)ではないかとも考えられる」
だがここから、澁澤も女性への偏見に判断を狂わされたと結論してよいだろうか。オーリが対談で語るところでは、編集者ポーランは作家の原稿に大幅に手を入れることがあった。(注1)
サルトルの『嘔吐』がその好例である。
プレイヤッド版全集の編集課程で、サルトルの手による草稿が発見された。しかしサルトルはポーランの訂正は見事だったと、現行のテクストを採用するよう主張したという。
筆名の由来。オーリによればレアージュは戦時中両親と住んでいた村の土地登記簿でみつけた地名が気に入っていたから。ポーリーヌはポーリーヌ・ボルゲーゼとポーリーヌ・ロラン、「身持ちの悪さで歴史に名高い」二人から取ったのだとか。
仮面作家の正体をめぐる論議についても、オーリは興味深い逸話を語ってくれる。サドの評伝で知られるジルベール・レリーはオーリへの手紙で、彼女のフェヌロン論と『O嬢の物語』の類似箇所を丹念に挙げ、作者はあなただ、と断言したという。
ここでドフォルジュの文に戻る。ドフォルジュには、O m'a dit(『Оは私に語った』)という、レアージュ時代のオーリとの対談集がある。(初版は1975、95年の再刊本によった) 彼女は今度の対談集には、何も新しい話がなかったと言う。「ニコル・グルニエが進行役を務めるこの晩(おそ)きに失した対談では、傷つきやすく誇り高く、そして敢然と恋する女Оを生んだ私のドミニクはどうなってしまったのか。神を、エロティシズムを、彼女の愛の的である文学を、拷問を、祖国を、フェヌロンを、ギュイヨン夫人を語る彼女の、屈託ない話しぶりは影もない」―.と、なにやら異様に激しい難癖のつけかたで、驚いてしまう。
75年刊の対談では、NRFの部内者たる正体を隠す必要からか、話題は自身と『O嬢の物語』に集中する。
88年の対談はジャン・ポーランやNRFの作家たちについての文学史的証言でもある。ニコル・グルニエは序文でこの本をポーランへのオマージュだと述べている。
たしかに前者でのオーリの方がより饒舌・闊達だと感じさせる箇所もある。少女時代の性的回想など、どっきりする話にも事欠かない。
14歳の頃彼女は父の本棚の好色本(ボッカチオやクレビヨン・フィス)を片っ端から読み始める。これを察して父は娘の早熟に驚くが、医学書のカラー図版で「文字通りの自然科学講義」に及ぶ。おかげで娘は「休み時間、校庭でのひそひそ話」は卒業できた。
同じ頃、友達の従兄弟と初めての性的体験をする。ただし男の子は「彼女には絶対傷をつけず、すべてを見せる」条件で。
オーリはこんなふうに、内密のことをあっけらかんと明晰に話す。
独特の道徳観がうかがえる言葉を引く。『O嬢の物語』が背徳の書として激しく非難されたことについて―
「これにはいつも、『ブリタニキュス』のジュニー姫のように答えたい気がします。「私には過分の誉れ、過分の恥辱」だと。新聞が毎日伝える出来事こそ良俗紊乱でしょう。強制収容所は良俗にもとる。原爆も、拷問も。
私の考えでは、生そのものが刻々に良俗に反しているので、様々な愛の流儀がことさら不道徳なわけではありません」
ジャン・ドルメソンの近作に面白いところを見つけた、と彼女は言う、
「昔、立派な家ではどんなしつけを受けたかという話で、「ちゃんとしなさい、見られてますよ」、そう言ったんですね。教育のかたちとして、すごく大切だと思います、この、見られているからきちんと振る舞うという感覚は。(中略)銃殺されるにも、喝采を受けるにも、守るべき作法があります」
ドフォルジュは賛同しながらも「道徳的振る舞いにこだわる私たちは、ちょっと古いんでしょうかね」
するとレアージュは「道徳とは別問題です。むしろ、自分を律する、守るということ。中国人のいわゆる「面目を保つ」。それが古い、化石だっていうなら結構じゃありませんか。時代なんてものからは、けっきょくどこかではみ出てしまうもんですよ」
説教になりかねないところで「銃殺されるにも、喝采を受けるにも」である。相手が「道徳」を口にすればすかさず突き放す。読者はつねに彼女があの『O嬢の物語』の作者だという事実を確認することになるのだ。
再びグルニエとの対談に戻る。
たとえばオーリがOの自己破壊の欲求を語る箇所。Oが求めているのは他の女たちが修道生活に求めたと同じものだと彼女は言う。愛も宗教も自己を、羞恥心をかなぐり捨てさせる。
「祈りほど淫らなものはありません。愛と同じくそれは誰かあるいは何かに身をゆだねることなのです」
ドフォルジュ相手だと―
「冒涜(ぼうとく)的な引用をしましょうか?Oが恋人にそれとなく告げている言葉、それは信仰あるものなら絶え間なくくり返している「主よ、我は御手にあり」なのです」と始まり、「(Oとその連れの娘たちは)所有されたいのです、極限まで、死に至るまで。殺されるのが望みなのです。愛する人に殺されることは歓喜の極みだとわたしには思えます。」、更に日本の心中の例をあげて締めくくる。こちらのほうが言葉を尽くし語りきっているという気がする。
とはいえグルニエとの対談は、特にポーランを語った部分が素晴らしい。私には文学史上の名前にすぎなかったポーランが、いたずら好きで陽気な「幸福術の天才」として蘇る。
彼女とポーランがパリ植物園近くに住んでいた頃の話。
ポーランは来客があると、植物園に連れて行く。
彼は蛇が好きで、蛇の飼育係に金をつかませ、檻を開ける許可を得ている。蛇を出し、「ほい!」と客人に渡す。相手がしり込みすると、すかさずオーリがつかんでしまう。
「わたしは怖くないのです。巻き付かれると気持ちがいいくらい。ポーランは落胆していました。きゃあとでも言えば気がすんだのでしょうが」
陽性のポーラン像を補完するのが、より真摯な言語の思索家としての彼を語ったくだりだ。アカデミー・フランセーズ会員になったのも、じつは自分が突破口になり、すぐれた言語学者を入会させてアカデミーを改革しようと目論んでいたのだという。
ポーランとどこかで重なるもう一人の男、それは彼女の父親だ。
美男子ではない、背が低いけれどがっちりして、スポーツを好んだ父。女性に目がなく、寛大な母をさえ時には苛立たせた。娘はしかしそんな父に魅了される。
ポーラン同様「幸福術の天才」だった父を語った後、最後に、「母は不幸の天才で、ちょうど釣り合いがとれていました」彼女の話し手としての美質は、饒舌と抑制、率直さと婉曲の唯一無ニの絶妙のバランスにある。
対談集に文学賞が与えられた例は知らない。インタビューや対談を敬遠する作家も存在する。
しかしドミニック・オーリの語りは芸と呼ぶしかない域に達している。彼女をしのぶ文章の中で複数の人が彼女の声(calme et claireとかunie et harmonieuseとか形容される)、その会話の魅力について語っているのももっともだと思えた。(注2)
(注1)ただし、司法当局に提出した文書の中でポーランは、自分は原稿にいっさい手を入れていないと述べている。「私の文体とポーリーヌ・レアージュの文体を比べていただけば明白である」(『Oは私に語った』中の引用による)さらに(注1)への付記 その後『澁澤龍彦翻訳全集(9)』(河出書房新社)の種村季弘氏による解題を読むことができた。種村氏はオーリの公表されたものとしては最初の素顔インタビュー(94年の「ニューヨーカー」から95年フランスの「リール」に要約が掲載)にもとづき、次のように書いている。
「四十年目の告白は結局、『オー嬢の物語』という作品の本文はドミニック・オーリイ、序文はジャン・ポーラン、と役割分担をはっきり分けたわけであるが、それを真に受けたのでは、「作者が女であるということには、ほとんど疑問の余地はあるまい。」とか、「(作者が)男ならば、決してこんなことは考えないだろうし、間違ってもこんなことは口にしないだろう。」とかいうポーランの見えすいた戦略的発言に、こちらからまんまとはまってしまうような気がしないでもない。(中略)ポーラン単独作説はともかくとして、依然としてドミニック・オーリイ/ジャン・ポーラン合作説の可能性は否定されたわけではなく、問題はむしろ振り出しに戻ったと見るべきかもしれないのである。」(強調は松本)
ジルベール・レリーがレアージュ=オーリ説の根拠にしたのは、評論集『みんなの読書(Lecture pour tous)』(1958)に収められている「フェヌロン 至純の愛」だろうか?
自らも神秘主義的傾向をもち、ギュイヨン夫人の静寂主義(キエティスム)に共鳴したフェヌロンと彼女の取り合わせは意味深い。
『平凡社世界大百科事典』によれば静寂主義の根本は(1)祈りを通じ魂を浄化すること,(2)神の前では無に等しい自己のありのままの姿を見つめ,自己愛を完全に捨て去り,神の内なる真に自由な新しい生命を得ることがたいせつなこと,(3)そのためにはすべてを神にゆだねなければならないこと(村田真弓)である。
オーリが強調するのもこの静寂主義の自分を無化する、捨てるという側面だが、『O嬢の物語』と重ねてみると、彼女の文章は不穏なひびきを持つ。
同じ信仰を持つ人々に彼は十字架を愛せと説く、十字架を背負うのを幸せだと感じなさい、十字架は神から生じるものだから。死を愛しなさい、死は神から生じるものだから、死は神の意志、神の喜びだから。
ローマ教会に断罪された一部静寂主義者は、自己放棄欲をいっそうつのらせ、神の意志は測(はか)りがたいがゆえに、神が誘惑に導くとしたら 、 ―日々の祈り「われらを引きたまわざれ・・・ et ne nos inducas...」にも関わらず―、謙虚に罪を犯さねばならない、とほのめかしさえした。もしかしたら神はあなたの恥を、屈辱を、罪までも望まれるのではないか。僧ラスプーティンもこう主張し、帝政末期ロシア宮廷を大狂宴でおののかせることになる。
(注2)NRF, Juin 1999 ( この号はオーリ特集)は貴重な証言を集めている。対談相手のニコル・グルニエはロジェ・グルニエ夫人だろうか?グルニエ『シネロマン』には「ニコルに」と献辞がついている。
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