写原氏のサイトメグレ警視のパリからはこのページにリンクしていただいてます。シムノンの非メグレ作品、日記・手紙・講演などを中心にした読書ノート。
シムノンの裁判所無用論(2001年11月) 公有なんて認めない? ガリマール書店における文学とミステリの政治学 ベルギー愛憎 シムノン、バルザックを語る 『メグレと優雅な泥棒』と非メグレの『罰されざる罪』を並べて読む ほかにフェリーニ、ジッドとの書簡集 ↓に《非メグレ》小説についてまとめたもの
シムノンにはメグレもの以外に多くの小説がある。邦訳『仕立て屋の恋』(パトリス・ルコントの映画の原作、ハヤカワ文庫)がその見本といっていいだろう。暗くて救いのない話が多い。ドストエフスキーと比べられたりもする。ジャンル的にはミステリではなくサスペンス。(もっともハイスミスなどは『罪と罰』はサスペンスの傑作だと書いている)
シムノンはこれらの作品を「ロマン・ロマン」「ロマン・デュール(ハードな小説)」と呼んでいた。「本格小説」と訳される場合もあるようだが「本格推理」とまぎらわしいので、ここでは主に「非メグレ」で通す。
非メグレはメグレものと構造的にどんな関係にあるのか。非メグレ作品の多くは犯罪者やなんらかの意味で追われる人間の側から書かれ、メグレものと遠近法が逆転している。メグレ=医師と犯人=患者の対に代わって非メグレでは患者的人間の行動が中心になる。逆転といえば語りの時間的順序の逆転でもある。メグレものなら後のほうであかされそうなドラマが、非メグレでは最初におかれる。
メグレものの中にも書きようでは非メグレになりそうな素材がいくらでもある。メグレ・非メグレ、両方とつきあうとその関係が見えてくるようで楽しい。
シムノンは日記(*)の一節でメグレ警視をバランスを取るための仕掛けと呼ぶ。患者的人間のかかえた闇に対して、小林信彦も言うようにメグレものではつねにユーモアが救いとなる。もっとも非メグレに笑いがないわけではない。『ロンドンの男』はもと道化師の泥棒が登場する暗黒喜劇だ。
シムノンの比喩を借りれば、メグレものは(油彩画に対する)素描だった。だが絵画の巨匠がつねにデッサンに立ちかえるように、メグレものは小説という芸の基礎訓練のために欠かせない。だからメグレ・非メグレのニ系列がずっと並行して書かれて行く。
素描のたとえはおもしろい。ターナーやギュスターブ・モローのように、後世の目からは油彩よりアンフォルメルを予告するような水彩のほうが新鮮に見えたりもする。
先に引いた1961年1月23日の日記。シムノンは『メグレと優雅な泥棒』を書き終えたところ。この作品は
「かなり無秩序な(意図的に、である)即興的粗描き、どういうわけだか交叉してしまうふたつのストーリー。笑わす箇所もあり。わざとすこぶる軽くした。ハードな小説なら同じ主題をあつかえたかどうか。とにかく多くの人間にとって耐えられないものになっただろう。」
シムノンは「メグレものでは、非メグレよりもっと深刻な主題にふれることもある」と言う。そのことをわかってくれているのは(友人でシムノン論を書いた)ド・ファロワとシムノン夫人だと。
(*)Quand j'étais vieux. Tome U (Presses de la cité, 1970)
「非メグレ」作品 読書ノート
『癲癇』 (1933) 暗澹たる作品 しかしすごい 『ロンドンの男』 (1934) もと道化師の殺人を目撃した鉄道員は 『マンハッタンの三つの部屋』 (1946) 恋するシムノン 『瓶の底』 (1949) アリゾナを舞台に兄弟の聖書的闘い 『共犯者』 (1955) 愛人を乗せてドライブ中多勢の子供を死なせた男
灰色の大きな家 ―『癲癇(てんかん)』 Le Haut mal (1933)
ラ・ロシェルに近いニュールNieulの村。ポントロー夫人(Mme Pontreau)は、娘たちと暮らす寡婦。亡き夫が事業にしくじり家は没落。物語の始まる時点で、次女のジルベルトは農家の息子ジャンと結婚している。
麦打ちの日ジャンは馬小屋の上の穀倉で持病の癲癇の発作を起こす。ポントロー夫人は倒れている彼を天窓lucarneから転落したようにみせかけ殺す。
ジルベルトは家に戻り、また母娘だけの暮らし。一家は誰ともつきあわず、「100メートルのところまで出るにも手袋と帽子を忘れない」。
ポントロー夫人がこの家を仕切っている。背が高く、姿勢がよくて、目がきつい。長女のエルミーヌは母親似。いっぽうジルベルトはぽっちゃりして無気力、「人種がちがう」のだ。末娘ヴィエーヴことジュヌヴィエーヴはラ・ロシェルで勤めていて、娘たちの中で彼女だけが外の世界と接触をたもつ。
ポントロー夫人の犯罪動機はほとんど説明されない。農場を売り払った金を借金の返済にあてたらしいから合理性はあるわけだが、作者は彼女の行動記述に徹する。
『共犯者』のランベールは最後に自殺してしまう、しかしポントロー夫人にはそんな弱さはない。彼女に嫌疑がかかり、村八分にされてもたじろがない。自分を告発した労働者を逆に誣告罪で訴える―刑法典に目を通した彼女は、それが相手の証言内容を知るための唯一の手だと承知しているのだ。
ポントロー夫人には多分殺人も、家計簿をつけたり、家政婦にうさぎの臓物を抜かせたりすることと等価なのだ。荒涼とした彼女の精神になにか絶対的なものがあるとすればそれは「家」だろう。
建物は家並みが途絶え、もっと行けば海という象徴的な場所にある。村でいちばん大きくて堅固な部類の、灰色の石の家。スープのよそい方まで厳格な儀礼化した、息のつまる家庭。
長女エルミーヌが新聞の三行広告の男性に手紙を書いていて母に見つかる。母親はさりげなく「出ていきたいのかい?(Tu veux nous quitter?)」とだけ言う。娘は涙を流して許しを乞う。母の支配力がどれほどかが露わになるこの場面でポントロー夫人は「塔のように頑健(solide)に見える」。家に対して用いられた「堅固(solide)」と、同じ形容詞が彼女に使われているのだ。
無気力ですぐ横になりたがるジルベルトはまるでこの家という石化する宇宙から排除されたように自殺をしてしまう―しかも自室にとじこもったあげく窓から飛び降りるという、ジャンの死を反復する形で。
そびえたつ女がいる。どこか影が薄く、転落する人間がいる。そして末娘ジュヌヴィエーヴだけが家を脱出する。彼女は銀行員のアルベールと駆け落ちするのだ。
消えた娘たちと入れ替わりに、家の住人になるのがナケ夫人(Mme Naquet)。いつも何かに憑(つ)かれたようにひとりごとをいっている、つかみようのない人。ジャンの死の日農場へ手伝いに来ていた。ポントロー夫人が取調べを受けるのも、先の労働者に彼女が言ったことが発端なのだが、証言を突如ひるがえすのも彼女。このおばさんの予期せぬ行動が物語を動かしていく。
最後の章で、ジュヌヴィエーヴは夫と子供連れでガボンから帰国、故郷を訪れる。家が近づくとパニック状態、ひき帰したくなったりするが―
ドアが開いて玄関前の石段をふたりの女が降りてきた。三人目の女は錠に鍵をかける。ポントロー夫人だった。まっすぐな姿勢、黒服、髪は白く、手にはミサ典書。すぐエルミーヌに追いついた。灰色のスーツのエルミーヌは、母と同じぐらい厳(いか)めしい(aussi rigide que sa mère)。
ふたりのわきを雨傘を持ち大きすぎる靴で歩くナケおばさんは、おとぎ話から抜け出たようだ。
車の中のジュヌヴィエーヴは今では冷静に彼女たちをながめることができる。エルミーヌがこちらを振り返り母親に叱られるのを見て笑ってしまうくらいに。
この章全体にただよう雰囲気、悪夢からさめたあとのような、不安がまじらないではない明るさ。ジュヌヴィエーヴは去り、黒と灰色の女たちが残されるだろう。
(Presses Pocket,1991 による)
『ロンドンの男』 L'Homme de Londres (1934)
ディエップの鉄道員マロワン。夜勤の転轍手として、塔の上の「ガラスの檻」から港ふきんを見下ろす。ある晩、ロンドンから着いた泥棒ブラウンが、盗んだ金をひとり占めするため共犯者テディを殺すのを目撃する。だが金の入ったスーツケースはテディと一緒に海に。ブラウンが逃げたあと、マロワンは水の中に飛びこんでかばんを拾い上げ、隠す。
盗賊ブラウンはもとサーカスの道化師。身の軽さが売り物だが、盗んだ証券が偽造だったり、へまばかり。マロワンが殺人現場を目撃したうえ、金を持っているらしいと気づき、なんとか取り戻そうとする。
ブラウンは大悪人ではない。相棒テディに隷従した末、たまりかねての犯行だった。小さな人間による小さな殺人。
ブラウンがもと道化なのは偶然ではない。やせてひょろながい体、とんがった鼻、血の気のない唇。
いくつもの場面は、深刻さとおかしみの混じったマイム劇になる。たとえば事件の後、マロワンが港でブラウンを見かけ、じーっとしらぬふりをし続け、最後はおたがい恐くなって逃げ去る。
ブラウンは最初こそホテルのおかみなどと言葉をかわすが、刑事が登場すると逃走、浜辺にあるマロワンの物置小屋に身を隠すあたりから、彼はいっさいせりふのない、闇の中の動物みたいな存在になる。
マロワンの娘が小屋に潜伏した男を見つける。マロワンは食べ物を持って小屋を訪れる。警察からかくまってやり、金の入ったかばんのこともなんとか話し合いで解決したい。
小屋の中の薄闇でマロワンは話しかける。
《 Monsieur Brown ! ... 》 dit-il de la même voix qu'il eût parlé à un interlocuteur ordinaire.
Les deux boîtes de sardines prirent place à leur tour sur le canot.
《Écoutez, monsieur Brown... Je sais que vous êtes ici... La cabane m'appartient ...Si j'avais voulu vous dénoncer, je l'aurais déjà fait hier...》
Il écouta, un peu penché comme après avoir laissé tomber une pierre dans le mystère d'un puits. Rien ne vibrait, que le dernier écho de sa voix..
「ブラウンさん…」、彼はごくふつうの相手に話すような声で言った。
こんどは鰯の缶詰がふたつボートの上に置かれた。
「聞いてくれ、ブラウンさん…ここにいるのはわかってる…小屋はわたしのだ…警察に言う気なら、きのう言っていた…」
彼は耳をすました、暗い井戸に石を投げ込んだあとのように、こころもち身を乗り出すようにして。じぶんの声のかすかな残響以外、どんな音もなかった。
マロワンはブラウンのいるのと反対側を向いて呼びかけを続け、(ていねいな「ブラウンさん」と同様、ずれが生む滑稽さ)ふいに後ろから襲われる。
ひげぼうぼうで悪鬼の表情のブラウン。手にはカニとりに使うcrochet(鉤型の道具)を持っている。格闘の末マロワンは相手を倒す。
「物体(La chose)はまだ生きていた。二つの目が依然輝いていた。片手がマロワンにむかって伸びた」 これでもか!(Tiens ! Et tiens !)と鉤でとどめをさすマロワンは、容易に死なないネズミを足で踏み殺した時の感触を思い出す。
ブラウンの脱・人間化はこうして完了する。
殺人の直後、あれほど不安だったマロワンの心に訪れる異様な静けさ。世界が意味を失って遠く遠く感じられる。イギリス人刑事たちの投宿するホテルで金を返し、ブラウン殺害を告げる。彼の行動をシムノンはくどくど説明しない。ただイギリスから駆けつけたブラウンの妻に彼が同情する様子だけが描かれる、シムノン的な、淡いタッチで多くを暗示にとどめるやりかた。
取り調べの警視との受け答え。マロワンと、法と社会を代表する警視の言葉はかみあわない。彼の挑むような言葉、微笑、相手はそれを冷笑的と受け止める(ブラウンとマロワンとのあいだに見られた伝達不能がここでも起きる)。
現場検証につめかけた群集も報道陣も彼には現実感がない。連中になにがわかるだろう。事件はささいな偶然の積み重なりだった。しかし彼はまた、『共犯者』『瓶の底』の主人公がそうだったように、ぼんやりと「運命」と呼ぶしかない必然のちからをも感じ取っている。社会を離脱した人間の立つ、このしんと静まり返った地点、それはやがて書かれるカミュ『異邦人』(1942)のムルソーの場所ともなるだろう。
(Presses Pocket,1999 による)
*シムノンとカミュ シムノン=ジッド書簡集(この本については→ここ)にもカミュの名は出てくる。
最初主題の類似に気づいたときは大発見でもしたようで興奮したが、Bernard Alavoine, George Simenon : Parcours d'une æuvre (Encrage, 1998)を見たらすでに40年代からシムノンとカミュを並べるというのは一種の紋切型になっているらしい。
étrangeté.、incommunicabilitéの主題を同時代人としてふたりが共有していても不思議ではないだろう。
『失われたフランス語を求めて』でジャン・デュトゥールが1960年頃は小説の半分ぐらいが人間どうしの伝達不可能性をテーマにしていた、この流行の元祖が『異邦人』だったと書いている。対照的に今は「コミュニケーション」ばかりがもてはやされる時代だとも。
Trois chambres à Manhattan (Le Livre de poche)
フランソワ・コンブはニューヨークで暮らすフランス人映画俳優。ハリウッドでは思ったほど仕事が得られず、ラジオや芝居で食いつなぐ。
ある深夜、ふらりと入った店で出会った女性ケイと、バーをはしごする。ケイも居候(いそうろう)していた友達のアパートにいられなくなり、目下宿無し。
町をさまよった後、あやしいホテルに泊まる。
出会った時刻から、ほぼ四十八時間後、彼がケイを自分のアパートに連れて行くまでは、いちばん密度の濃い部分。
彼女がお気に入りの曲をジュークボックスで繰り返しかける。回るレコード。町をやたらと歩き回る二人。
この間、深夜から朝にかけてはおよその時刻が書きこまれるのに、昼間だけは作者による指定がない。ただ二人が一緒に町を行く姿だけがあり、えーっという早さで夜が来る、不思議な時間。
ケイはウイ―ン生まれ、パリでも暮らした。秘めた過去・多少の虚言癖があるようで、フランソワは急速に恋に落ちながらも嫌悪感や疑い、嫉妬に苦しむ。
生まれかけの恋がこわれてしまいそうな不安。シムノンはこの小説についてロマンティシズムという言葉を使っているが、単にロマン的とは呼べない苦さとリアルな感触で、もうあまり若くはない二人の恋が描かれる。日記や手紙などからシムノンにとってのこの作品の意味あいを知ることができる。渡米して出会った女性ドニーズとの愛。彼女との生活が始まるが妻も同じ家に住み続ける。早い時期に最初の妻と結婚したシムノンは、ドニーズのおかげで初めて情熱恋愛l'amour-passionに目覚めたのだ。
彼は1960年の日記で、改訂新版のため『マンハッタンの三つの部屋』を読みなおした後、
Pas content du style, mais comme j'ai retrouvé le début de mon amour pour D.!
文章には不満、だがD.(ドニーズ)への愛の始まりを追体験できた!
と書く。また娼婦たちとの体験を率直に語ったところで、セックスと愛がひとつのものだったのはドニーズとの場合だけだったと打ち明けている。
(シムノンの日記や手紙を読んでいると、こういう内密の話をずばり、真顔で語っていて、こちらがきまりの悪くなる瞬間がある。シニシズムと生真面目のシムノンにしかない混じりあい。自分はどれほど多くの小説を書いたかという感慨に続いて、いきなり人間は生涯に何度性行為をするのだろうと問う頭の構造)
日記にはまた、「ふたりでアル中alcoolisme à deux」という表現がある。酔った恋人たちが体験する特別の状態。ニューヨークのような大都市もその時ふだん以上に親密なものとして体験されるのだとシムノンは書いている。
シムノンの作品で、恋愛そのものが主題になるのはまれな気がする。
だからこそこの時期の作品は彼にとって思い入れのあるものだったのだろう。しかしジッドはそれらをあまり高く買わない。そのお年(四十代)で愛を発見されるなんて素敵ですねと皮肉り、文体に陳腐なあるいは安直なところがあると小言を言っている。
最後に、『マンハッタンの三つの部屋』にはハリウッド映画を連想させる場面がいくつも見られる。ケイの好きだという曲が、何度も重要なところで使われるのなど、映画のやりかただし、ラストで二人がドアに鍵をかけて立ち去るところ、音楽が高まりエンドマークが出ても不思議でない。
意識的にちがいないこの手法はアメリカ−ドニーズと出会ったアメリカ、映画に代表される大衆的ロマンティシズムのアメリカ−へのオマージュなのかもしれない。
酒と水の物語―『瓶の底』 Le Fond de la bouteille (Presses de la Cité, 1949)
この本は写原祐二氏に頂戴したものです。
弁護士パトリック・マーティン・アシュブリッジ、通称P.M..は、メキシコ国境に近いアリゾナの村(町?)ツマカコリに住む。
母が酒浸りだったP.M..。どんな時も自制を失わないように心がけている。バーで飲んでいて、酔いすぎていないかトイレの鏡で顔を見に行くほど。
P.M..には飲むと兇暴になる前科者の弟ドナルドがいる。夏の雨季がはじまった夜、ずぶぬれの弟がふいに現れて狼狽する。
警察に追われているらしいドナルドは妻子が待つメキシコへ逃亡したい。だが雨でSanta Cruz川が増水。カウボーイたちが馬で渡るこの川は通行不能に。P.M..は弟を家にとめる。
シムノンの書く川は生き物のような存在感を持つ。雨が降り出した翌朝、村の男たちが川を見に行く場面。La Santa Cruz était haute, déjà plus haute que pendant la nuit.Elle formait une masse d'un jaune sombre, qui coulait, gluante, épaisse, se soulevait par endroits, respirait comme une bête, charriant des branches d'arbres, des bidons, un tas de saletés, et les hommes s'animaient en la contempolant.
川は水位が高い、もう夜よりも水嵩が増していた。暗い黄色の巨大な塊となって流れる川は、ねばっこく、濃密で、場所によって盛りあがり、獣のように息づき、木の枝やブリキ缶、山ほどのきたないものを押し流していく、川を見つめるだけで男たちの気持は高ぶった。
川には象徴的な役割。弟の出現、増水とともに荒々しい季節が始まる。
ドナルドは落伍者だ。P.M..は、独立独歩で今の地位をきずいた。だが歳月を経て弟と会うと、漠然としたやましさを感じる。
弟が逮捕されたのを知った時弁護を買って出なかった、最初の妻をまるで捨てるような形で離婚した。P.M..はキャリアのために多くのものを見殺しにしてきた.。
ドナルドが勝手に持ち物を使うようなささいなこと、妻や周囲の女性たちが、暗い魅力のある弟にしめす好意。なにもかもがP.M..には嫉妬や妄想の種になっていく。
ドナルドをメキシコに逃がすよう兄のもとにさしむけたのはロサンゼルスに住む妹のエミリーだ。分散した家族の行方を完璧に把握し、ドナルドのことですべてを仕切っているのも彼女。P.M..が故郷からの脱走者なら、彼女は逃げた彼を捕えようとする血縁の力をになう。P.M..は酒を飲みだす。友人宅では殴り合い。規律と節制で築いてきた世界がこわれていく。
弟が銃を盗んで逃亡する。無理にでも川を渡る気だ。村の男たちは武装し、人間狩りに興奮して追跡に出る。
P.M..は機先を制して馬で川に向かう。途中でやはり馬に乗ったフォークという男が加勢を申し出る。フォークはP.M..と同じよそもので、口数の少ない、孤独な人間。(これはシムノン流の西部劇なのだ)生活を守ることだけ考えていたP.M..だが、もう運命にしたがう気になっている。アイルランドから来た父親。オハイオで生まれた彼の二人の息子がこうして今、国境近くで互いを捜しているのだ。
ドナルドが見つかる。兄弟で川を渡る場面でP.M..は奔流に呑まれる。弟の馬だけが対岸に着く。
シムノンはカインとアベル、エサウとヤコブという、旧約聖書の兄弟殺しを引き合いに出す。
P.M..とドナルドの対立、そして最後にP.M..の自己犠牲による死。和解というには苦すぎる結末。それは太古にさかのぼる、「聖書的闘い」なのだ。
からからに乾いた土地、とつぜん出現する水。稲妻。メキシコで降る雨がこちらから天地を結ぶ柱のように見えるという雄大な光景。アリゾナのまさに聖書的な自然ほどこの闘いの舞台にふさわしい場所はなかったかもしれない。
共犯者 Les Complices.(1955)
Ce fut brutal,instantané. Et pourtant,il resta sans étonnement et sans révolte comme s'il s'y attendait depuis toujours. D'une seconde à l'autre,dès le moment où le klaxon se mit à hurler derrière lui, il sut que la catastrophe était inéluctable et que c'était sa faute.
とつぜんで、あっという間だった。しかし、彼には驚きも反抗もなかった、はるか昔からこうなるのを待っていたみたいに。ほんのつかの間、後ろからわめくようにクラクションが鳴りはじめたその瞬間、彼は破局が避けられないこと、そしてそれは自分の落ち度だということを知った。
Presses Pocket版(1992)のページを開くと第一行、そこだけ大きな活字の CE FUT BRUTAL, INS- が飛びこんできて、いかにも効果的。
主人公の建設屋ランベールは秘書の女性エドモンドを隣に乗せ車を走らせている。彼女の体に触るのに夢中で、クラクションでわれに返る。直後の曲がり道で彼の車はスリップ、後から来たバス(夏休みの子供たちが多勢乗っている)は、よけようとして壁に激突、炎上、彼はそのまま現場を逃げ去る。
最初の段落にすべてが凝縮されている。
以後の物語は、それから数日、町民がみな喪に服し、警察は事故原因になった車をやっきになって捜する中での彼の行動を追う。同時に彼の人生をさかのぼって、彼がなぜ事故の瞬間、奇妙にさめた態度で来るべきものが来たと感じるまでに至ったのかが語られるだろう。雄牛にたとえられる喧嘩っ早い男、周囲への反抗を繰り返してきた彼に、この時「驚きも反抗もなかった」必然が。
お上品な妻との間に子供はない、店では優秀な弟が設計、彼が現場を担当。もともと孤独だったランベールは事件のせいで、世界との絆が絶たれてしまったと感じる。やましいところのない連中の振るまいがすべて無意味で芝居がかって見える。
唯一真実を知る秘書のエドモンドと彼は「共犯者」となる。だが、このタイトルは皮肉で、エドモンドがどう考えているのかランベールにはまったくわからない。彼女はなにも起きなかったように、平然とふるまい続ける。彼女は感情を持たない怪物なのだろうか?
ランベールは、子供のとき、歯痛の鎮痛剤のせいでふわふわとした恍惚を味わった。この体験を彼は忘れられない。妻以外の女を求めるのも、それに似た感覚、現実からの解放を求めてのことなのだ。
彼は罪の意識にさいなまれる様子がない―というのは多分不正確で、罪悪感の部分は封印され描かれない。代わりに前景に出るのは妄想的な不安、同時に不敵な居直り、ぶすぶすくすぶる怒りである。
捜査の手が及ぶのを感じ追い詰められた彼が最後に試みるのは、エドモンドを連れ車で出かけ、あの日中断された情事の続きをおこなうことだ。しかしエドモンドはもうこれまでのように頂点に達することが出来ない。彼女が、ごめんなさい…(Je ne peux pas. Pardon...)とつぶやく瞬間、仮面にひびが入るように、彼女も事件が忘れられずにいたことが明らかになる。
とはいえそれは一瞬で、すぐエドモンドはもとの彫像に似た女に戻る。内面をほとんど書かず、わずか数行でフラッシュのように隠れたものをさらし、ふたをする、効率のよい語りの技術。
「内面」がちらっと見える瞬間がもっとも肉体的な行為のさなかにおかれていることも重要。シムノンは批評家が自分の作品の性的側面にばかり注目するのにいらだっているけれど、劇的な要(かなめ)になる場面がまさに性と結びついているのはやはりシムノンの特異さを物語っている。
*舞台になる土地 Coudrayとなっている。事故にあうバスは子供たちを乗せて「パリか北フランス(le Nord)のどこかの市」に戻る最中だったとあることなどから『首吊り船』(集英社文庫 『メグレ警視』所収)にも出てくる「クードレイ」(ネット検索であがったうちのCoudray-Montceaux(Essonne))か。ただ地図をさがしてもEssonneのCoudrayは今のところ見つからない。