『エデン・エデン・エデン』 ピエール・ギュヨタの言葉と世界
ピエール・ギュヨタ 1940年生まれ。9歳で寄宿学校に入り肉欲を発見。60〜62年アルジェリア戦争に従軍。反抗的兵士として投獄、懲罰部隊に。軍隊生活で監禁と最悪の汚辱を知ったギュヨタは67年この体験に根ざした『五十万人の兵士の墓』を発表。
レリス、バルト、ソレルスの序文をつけた『エデン・エデン・エデン』(1970)は猥褻文書として発禁に。またこの頃共産党入党。旅をする。フォルクスワーゲンミニバスでサハラ砂漠を何度も横断。重い鬱病に苦しみ81年一時生命の危機に。『エデン』がようやく解禁になるのもこの年。寡作だが現在までつねに超弩級の問題作を世に問い続ける。
ギュヨタにはきなくさい神話がついてまわる。スキャンダルを引き起こす性と戦争・暴力の作家、理論的同志たちがなんらかの転回を経た今も変化を拒む最後のアヴァンギャルド。最後の呪われた詩人。孤高の姿勢と坊主頭のせいで修道僧に喩えられるギュヨタ。(→写真)
マンディアルグが熱い賛辞を送った『五十万人の兵士の墓』邦訳(二見書房)は品切れか絶版。幸い『エデン・エデン・エデン』(榊原晃三訳)は97年ペヨトル工房から復刊されている。
フェルクール峠の麓、焼け焦げた西洋杉が密生している山裾の下では、大麦畑、小麦畑、養蜂所、墓、安酒場、学校、塵埃、無花果の樹、村落(メシュタ)、あるいは脳みそが一面に流れている小さな壁、さらにまた薄赤い果樹園や棕櫚の木が、火にあって一斉に膨張し、爆発している。花、花粉、麦の穂、小枝、紙切れ、あるいは乳や糞や血で汚れた布の切端、樹木の皮や羽毛が、舞い上がり、火を大地から毟(むし)り取る風に押されて、火元から火元へと漂っている。(p.18)
感電しそうなテクスト。ランボーとかロートレアモンとか口走りたくなるがギュヨタは空前絶後の、誰にも似ない作家だ。
『エデン』が描くのはアルジェリアを思わせながら、しかし独立した仮構の世界である。砂、草原、原子基地、軍用キャンプ、村。
兵士のための(女の)娼家の隣に労働者のための(少年の)娼家があり、ふたつの場は連結している。ワザグ、カームシェなどの娼家の少年たち。彼らは「犬」と呼ばれ、次々に客を取らされる。客の労働者たちは、油や粘土や屠殺の血や、仕事の汚れ・においを体に残している。
性労働ははてしなく続く、ギュヨタの性は多数の人体が結合された巨大な肉体=機械を思わせる。ペヨトル工房版の帯に、反復がうむ「強烈なグラウンドビート」とあるのは至言。
精液、血、痰、唾液、鼻汁…。ギュヨタの作り出すのは体液を元素にした液状宇宙だ。だがそこは同時に風が吹きぬける乾いた世界で、こびりついた精液はじきにほこりになる。こうして物質が還流する。
相似と繰り返し。幾組かの対。ふたごの鉄板工見習い。ふたごの兵士。カームシェとケミーサというまぎらわしい名の男娼。ジプシーと羊飼いの主人=奴隷関係は娼家の少年たちの隷従を反復する。
ぐじゅぐじゅした質感と科学書の冷徹。序文でソレルスが唯物論的基盤を云々するように『エデン』は徹頭徹尾即物的な作品だが、どんな場面にも美とか詩情とでも呼ぶしかないなにかが欠けてはいない。
登場人物の口にする言葉はリアリズム小説のせりふではない。「揺すれ、髪の毛を、毛を、眉毛を、睫毛を、耳を、指骨を…」(p.110)のように、それはけっして<自然なしゃべり>ではない。
奇妙な場面がある。少年カームシェが目覚めると客の精液が鼻の中で固まっている。指でそれをかむと尻に突っ込む。客の職工がまた現れると少年は言う、「最初の一発はおれの大事なひと、あんたとだ。さあ、あんたの先端で、今朝おれの鼻に叩きこんだソースを取りにこい。おれの肉よ、おれはソースをあんたのために冷やしておいたんだ」(p.39 必要上榊原訳に従わず逐語訳する)。
食と性の領域がだぶらされるのも『エデン』の特徴なのだが、精液が転移・循環するような感覚。おなじように舞踏蜘蛛は肉屋の性器からカームシェの性器に次に鼻に入る。一枚のパンツが複数の人間のあいだを移動する。
パンツは、娼家の主人が客から金の代わりに取り上げるのだ。金のない黒人少年は柘榴(ざくろ)の実で快楽を支払う。肉屋の店員と男娼を奪いあった鉄板工は、ゆずる代わりに子山羊の心臓を要求する。『エデン』に主題系らしきものを探すとしたら「交換」「交流」ではないだろうか。
楽園エデンの経済は奇怪なものだ。ワザグが支払伝票に接吻し最後は首に結びつける場面(p.198)で一枚の伝票は謎めいた記号に化けてしまう。
黒人少年の柘榴はカウンターに置かれ、その後もたびたび登場する。反復によって柘榴は静電気をおびるように意味を持ち始める。
章わけのない『エデン』だが、p.200の「青い山鳥どもが」にひとつの切れ目がある。娼家から砂と草原の世界へ。男同士の性愛が主調だったのが女と男、嬰児と羊飼い、猿、駱駝。
おびただしい数の動物たち。バシュラールはロートレアモンの動物誌を書いた。ギュヨタの動物誌。犬扱いされる少年たちと雌犬が交錯してくらくらするのは、レリスの言う「幻覚をおこさせる」文章のせいだ。
獣たちは性の大狂宴に加わりさえする。幼い子どもも、動物も、『エデン』は渦のようにすべてを巻きこんでしまう。
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文字から声へ 朗読するギュヨタ
拾い読みですまそうとした『エデン』と向かい合う気になったのは、インタビューでの彼の言葉にひかれたから。あちこちで拾った記事からのノート。
活字がその力を失ったと感じるギュヨタは以前から自作の朗読を行なってきた。聴衆の前に出ることは冒険だが、自分の言葉の力をはかる機会でもある。またそれは著作のはらむ怪物的なものをみずからひきうける、悪魔祓いの意味を持つ。朗読することでテクストの力も弱点もわかるし、即興で言い換えたりもする。この<声>への転回をギュヨタは『エデン・エデン・エデン』以降と位置付ける。(『G・バタイユ伝』のミシェル・シュリヤがギュヨタにインタビューしたもの。以下この『リール』誌の記事による。この文のタイトル『ピエール・ギュヨタの言葉と世界』はシュリヤの本―まだ入手できていない―の題を借用)
難解と言われるのは仕事に影響しますかと問われ自分の作はむずかしくないと答えた上で、ギュヨタは難解が犯罪視される時勢を批判する。作家・哲学者がわかりやすさに安住せず思考の極に挑むことで文明を築いた。野蛮とは、とことん考えることの拒否だ。
形式面と別に、内容が陰惨だという声にも反論する。朗読すると聴衆がそれらの場面や行為の官能性も、自然と宇宙のイメージがあふれているのも、確実に感じとってくれるのがわかる。
ギュヨタは去年«Progénitures»(人や動物の子供)という800ページの大作を出した。言語的冒険は『エデン』よりさらに過激になっている―『エデン』が古典的に感じられるほどに(1)。
作者による約40分の朗読がCDで付く。『ル・モンド』の書評者は、本を投げ出す前にCDを聞くか声に出して読んでみることをすすめている。するとなにかが起こる、これはまぎれもないフランス語だ、「乗っ取られ脱構築されたフランス語」、しかし霊気を感じさせるいきいきしたフランス語。
『リール』のインタビューでギュヨタは語っていた、"Progénitures"のフランス語はすばやい、圧縮したフランス語だ、不必要な時制も、場所をしめす前置詞や無音のeも省略(patt'mandibul'ventr'bondeのように)、自分は母国語から不要なもの表現的でないものをいっさい切り捨てるのだと。だがそれは幼時からつきあってきた言語であることに変わりはない、完全な音の遊びではない。
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風が航空標識を、小麦の刺のような穂を揺さぶり、虫の群れの飛翔を外らし、禿鷹の群れを引きちぎって、断崖の表面の浮き彫りのほうへ運ぶ。小石が震える。砂が便所の穴の中で退き、重なる労働者たちの尻に穴を穿ち、あちこちの小路の中で煙り、病院の杏の木の下でパジャマに締めつけられている兵士たちの血のにじんだ包帯に穴を穿ち、トランジスター・ラジオのイヤホーンを突っこんでいる耳や疱疹の上に塗ってあるポマードに穴を穿ち、ブリキ板や布地に穴を穿ち、灰色の雲雀の巣が余り詰まっていない山の横穴にできている黒い盛土に襲いかかり、巨大なタイヤや標識板で抉られた急造道路を埋め、骨や死骸を覆う。(『エデン』 p.59)
私たちの前には故榊原晃三氏訳の『エデン』がある。あとがきで榊原氏は日本語訳は不可能と承知の上で挑んだと書かれているが、しかしいま例としてあげた部分など、堂々たる一節ではないか。速度感と張りのある言葉が眼前に風景をたちあがらせる。
(1)冒頭、娼家の会計の女が労働者に話しかけるところ
-« l' jarret boueux, l'orbit' empossiarée, ta poitrin' m' trembler, l' comptoir caiss' , ta mâchoir' a'c, mes chieveux chiauds, ...
☆ギョヨタを知るため参考にした主な記事
『リール』誌インタビュー
『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』N° 1847のDidier Jacobによる記事 次のarchivesで2000年1ー12月Guyotatで検索
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