ジョルジュ・シムノン『下宿人』

Georges Simenon Le Locataire (1934)

OEuvres complètes 1,  Rencontre(1967)による

 エリ・ナジェアールElie Nagéarはトルコからベルギーへの道中、踊り子シルヴィー・バロンと出会う。絨毯を売って儲けるはずが当てはずれ、冬のブリュッセル、ホテルでの目覚めから物語がはじまる。エリは風邪で発熱、熱くさいので窓を開けるシルヴィー、閉めろというエリ。 窓から見える植物園のまだら状に残った雪。沈鬱で、うそ寒いすべり出し。

 エリは同宿のオランダ人をパリ行き列車の中で殺し金を奪う。ブリュッセルに戻った彼は、シャルルロワのシルヴィーの実家、学生相手の下宿屋に身を隠す。面倒見のいいバロン夫人、国鉄勤務のバロン氏、シルヴィーの妹、赤毛のアントワネット、そして東欧からの学生たち。捜査が進むなか、エリは心地のよい下宿に居ついてしまう。

シャルルロワ Charleroi  

  製鉄、機械工業、石炭化学などでシムノンの生地リエージュと並ぶ工業の町だった。「通りは果てしなく続いた、同じような家が並んでいる、二階建てで、茶色のレンガは黒ずんでいた」

 「それは田舎でも都会でもなかった。二軒の家の間に空き地のような空間があった。しかしそれは空き地でなく、炭田なのだ。通り全体がどこまでも続くひとつの工場。機械のあえぎが聞こえた(On entendait des halètements des machines)」

台所 cuisine  

   別室の食堂(la salle à manger)―リノリウムの匂いがぷんとする―は、なぜか使われていない。部屋の暖房費も切りつめたい学生には、暖かい台所が避難所になる。ある場面でシルヴィーが言うように「下宿人は台所で暮らしている」のだ。

 食卓でのバロン氏の席は決まっている。エリは三食つき、ほかの下宿人にも正午には食事が出される。夕食は彼らの自前 (à leur compte)、みんな自分の缶(sa boîte en fer―古いビスケット缶など利用)にパンやバター、ハム、・・・を入れたのを抱えて現われる。

 広い台所ではない。ひじ突きあわせて座る。バロン夫人は、せわしなく行き来しながら腰掛けては一口。車掌のバロン氏は食事時も日によって違う。儀式のような秩序と、てんでんばらばらの多様性。「要するに、めいめい自分のために[勝手に]生きていた(Chacun, en somme, vivait pour soi.)」 

ヴィルナ Vilna 

  エリはトルコのイスタンブールで生まれたが "d'origine portugaise"、ポルトガルに出自を持つユダヤ系、下宿にはポーランドからのユダヤ系留学生モイーズがいる。

 エリは「セファルディ(スペイン・ポルトガル・北アフリカ系ユダヤ人)」、モイーズは「アシュケナジ(ドイツ・ポーランド・ロシア系)」ということらしい。「第2次大戦前には,ユダヤ人口1650万のうちセファルディムは150万以下であった」(平凡社世界大百科事典) 

 モイーズの母はヴィルナ(現リトアニアの首都ヴィリニュス、当時はポーランド領。ヴィルナのユダヤ系市民はドイツ占領下に虐殺される)で家政婦を。モイーズはダヤ教慈善団体の奨学金で、満足に食事もとらず苦学する。

  エリは煙草輸出商の子、家が没落するまではヨーロッパを漫遊した。

 エリはヴィルナに行ったことがある。二度とも冬で、うらさびしい感じを受けた("C'était très triste")と言う。「夏は素晴らしいですよ!(L'été, c'est magnifique !)」とモイーズ。

イディッシュ yiddish   

  モイーズと二人で台所にいる時、

 「この家には長いんですか?」、とエリは突然イディッシュで話しかけた。

 モイーズと近づき、二人の間には特別の絆があると感じさせるため、これはひとつの手ではなかったろうか? 

 「一年です」、モイーズは書き物の手を休めず、フランス語で答えた。

- Il y a longtemps que vous êtes dans la maison ? demanda-t-il soudain en yiddish .

  N'était-ce pas un moyen de se rapprocher de Moïse, de lui faire sentir qu'il y avait entre eux des liens particuliers ?

- Un an, répliqua Moïse en français, sans cesser d'écire.

 エリは東欧の学生たちよりはるかにヨーロッパを知っている。トルコでは、「上流社会ではフランス語で話す」  モイーズにアシュケナジの日常語イディッシュで話しかけるのは、親愛のしるしだろうがモイーズは拒絶する。エリは「イディッシュを話さないのですか?」、モイーズは答える、

 「フランス語も話します。ぼくがここにいるのはフランス語に上達するためです」

 −Je parle aussi bien le français. Je suis ici pour me perfectionner. 

 自尊心が強く、頑(かたく)なに孤独を守るモイーズ。シムノンの育ったリエージュの家には、この小説のような下宿人がいた。そこで目にしたユダヤ系学生の姿は、シムノンが繰り返し描く「東欧のユダヤ人」の原型になった。

忘れる  眠る だるさ

 エリとシルヴィーは船上で出会う。ブリュッセルの宝石店へ彼女の虎の子の金塊を売りに行ったあと、エリは通りに出る。船上でのことを彼はもう思い出せない。それは「別世界で起きたこと、いや他人に起こったできごとのように」感じられる。

 殺人のあと列車の洗面所に隠れたエリは、「ただひたすら横になって眠りたい」 

 (《ただ眠りたい主人公》はシムノンの『列車を見送る男』にも登場する)

 食卓でバロン氏が新聞を読みながら、遺体に十八箇所傷があったというと、エリは「ほかの人たちと同じぐらい驚く」

 バロン家に居ついた彼は、一種の麻痺状態に陥る。「彼は微笑んでいた。体の節々が痛んだが、それが苦痛ではなく、快感だった。彼はこの貧しい台所で伸びをし、ほぼ完全な充足感を味わった」 食事中ぼんやりとバロン夫婦の会話を聞きながら、 「そして頬は紅潮し、目は光り、首筋は痛み、鼻孔はふくらみ、エリは自分が熱くやわらかい物質の中へさらに沈みこんでいくのを感じた」

部屋履き pantoufles  カラー faux col  

 警察の手が迫ることを知らせに来たシルヴィーは、ふとエリがバロン氏の部屋履きを履いているのに気づく。(シムノンの家庭でも、下宿人が父デジレのひじかけ椅子に平気で座るようなことがあったらしい。安心できる自分の場所"son coin"の危機) 

 passer sa vie en ses pantoufles (引きこもってのんびり暮らす)などの慣用句からも、「部屋履き」の意味合いがうかがえる。

 食事時、パイプをくゆらし新聞を読むバロン氏と向かい合わせに座り、煙草を吸い、話し相手になるエリ。二人とも同じようにワイシャツのカラー(取り外せるfaux col)を外している。

 くつろぐ時、実直な家庭の父バロン氏とエリは、お互いの分身のように見える。

発作 crise 

 エリはトルコから政治亡命中と偽るが、バロン夫人はやがて真相に気づく。家を出て行くように言うが、死刑が恐いと泣き叫ぶ彼の姿に思いとどまる。直前の、シルヴィーの妹アントワネットに命乞いをする場面から、エリは、ひざまずく、こぶしで壁を叩く、ベッドに身を投げる、など芝居がかりの動作を繰り返す。

 「発作」を起す人間と、見守る人間。シムノンの『血統』では、彼の母をモデルにしたエリーズは、「小さなハツカネズミ」のように不安で、なにもかもに不満を持ち、時々わっと泣き出す。夫デジレの晴朗さと対照的である。

 役割は必ずしも固定していない。『家の中の見知らぬ者たち』の弁護士ルールサは、最初は飲んだくれ、人の面倒を見れる状態ではない。青年マニュが現われ、鎮め役が必要になる。 

 エリの嘆きとバロン夫人の反応は悲壮だが、ここがあってこそ、エリがその後しらっとして家に居続けるおかしさ・不気味さが生まれる。すべて演技ではなかったかと思えるくらいに。

プリンキポ島 Prinkipo 

 エリは下宿でさかんにトルコのお国自慢をする。ちょっと前、ブリュッセルでは、トルコは遠く(「一度も行ったことのない国のように」)思えていたのに。

 イスタンブールから一時間、マルマラ海のプリンキポ島にあるヴィラ、「湖よりも静かな海」での舟遊び。

 嘘ではなかった。それはすべて真実だった。風景は絵に描けるくらい鮮明によみがえった。しかしそれらには実感がなかった。人生の大半をそこで過ごしたはずなのに、確信が持てなかった。

 だから彼は話をした、バロン夫人が食い入るように聞いているからでもあった。アントワネットが身動きすると夫人は、いらだたしそうに「エリさんが話している時は、じっとしてなさい!」と言った。

 彼女は彼の言葉を、まるで恋歌(ロマンス)の繰り返し句のように聞いていた。

 作家シムノンにとって、ベルギーもこんな場所ではなかっただろうか。彼の言葉、「今いる場所については決して書かない ("Jamais je n'écrirai sur le lieu où je me trouve...".)」( Paul Mercier, Postface à "La mort de Belle"de Simenon, Belfond,1996 )に重ねると、何かが暗示されないだろうか。

徒刑場  bagne 久生十蘭の『十字街』(1952)で1930年代フランスの警察組織は「やりきれないほど時代遅れ」と評されている。また「行刑の方針は懲罰主義で、日本では明治時代に廃止された流刑をいまもなお現行し、南米仏領ギアナにある悪魔島という亜赤道の流刑地へ、毎年、千人近くの囚人を送って、ひどい風土の中で死滅させる」 

 エリは、最終章でラ・ロシェルから沖のレー島へ、更に流刑地へと送られる。足に鎖をつけ護送される囚人たちの姿は蒼古として見える。(その後1942年にギアナの徒刑場は廃止されている)

 黒衣のバロン夫人が、レー島までエリを見送りに。エリの妹エステル(グレーのスーツの背の高い娘、手袋を外さない)も来ているが、二人とも互いの存在を知る由もない。妹のことはエリの話にもちらっと出てくるが、群集に混じって最後に一瞬登場させる作劇の見事さ。

 徒刑場行きのラ・マルティニエール号、白い船は「ほとんどレジャー船のように」見える (" Le La Martinière, peint en blanc, avait presque un air de bateau de plaisance. ") 

   ぼろを着た囚人の中、エリの姿(グレーの三つ揃い、レインコート、フェルトのソフト帽)が際立つが、彼も手錠、足には鎖、頭を上げカメラを見返す。

歴史

 1938年の講演『冒険は死んだ  L'Aventure est morte 』で、シムノンは自問自答する、「世界地図が《歴史》(l'Histoire)を生み落とそうとしている」時に、お前は普通の人間の「小さな物語(tes petites histoires)」を書いていていいのか、と。

 1936年、彼はポルクロール島で長篇『ドナデュの遺書』に取りかかっていた。ラジオで人民戦線内閣成立、労働者のストや工場占拠のニュースを聞く。「革命」の余波は地中海に浮かぶ小島にも及んだ。世の中がひっくり返ろうというのに、ブルジョワ一家の「小さな物語」を書いていることをシムノンは恥じたという。『ドナデュの遺書』は1937年出版される。翌年、やはりポルクロール島で執筆中、ドイツによるオーストリア併合を知る。

 しかしシムノンは、こんなことも言っている。

 私は自分を叱咤しました、ドナデュ家の人々は今も生きてるじゃないか、私たちも、私も、あなたも。そう考えることで気を取りなおしたのです。

 何より、人間は大文字の《歴史》を生きるのではない、ただの物語を生きるのだと自分に言い聞かせ、元気を取り戻したのでした。

 そしてどういうわけか、賢人モンテーニュと、その穏やかで曇りのない作品を思い出したのです。  ( Portrait-Souvenir de Balzac, Chrsitian Bourgois,1991 )

 

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