ピエール・ダルモン『スタンネル事件』

Pierre Darmon  Marguerite Steinheil, ingénue criminelle ? ( Perrin , 1996 ) 表紙画像写真は→

−エリゼ宮に動揺。大統領が亡くなった、彼を崇拝する女性の腕の中で。1899216日のこと。今ではあまり起こりそうもないけど;-))

(『フェリックス・フォールの幸福な死』herodote.net

−そっとしておいてください! 

(マルグリット・スタンネル、英国での晩年、Ici Paris誌の記者に)

 1908年、モンパルナスのロンサン袋小路l'impasse Ronsin−ブーシェJean BoucherやボナLéon Bonnatら官展派芸術家の家が多い閑静な場所に、画家アドルフ・スタンネルAdolphe Steinheil の住まいもある。

530日から31日にかけての夜、主のスタンネルと、夫人マルグリットの母親エミリーが殺害される。翌朝、召使がまず目にしたのは手足を縛られ呻いている夫人の姿だった。スタンネルもエミリーも細縄で絞殺。

外部から人の入った形跡はない。スタンネルは激しく抵抗したようだ。細縄は画布をくくるのに使っていたもの。さるぐつわに噛まされた綿は、マルグリットが浮腫のある母の足に巻いたもの。監察医は、マドレーヌの手首足首、縛られた跡を見て同僚にささやいた、« C’est du chiqué »(こりゃ芝居だ)

 

マルグリット・ジャピーは1869年、フランシュコンテ地方のボークールBeaucourt地図) に生まれた。プロテスタントであるジャピーJapy家の機械工場は数百人の従業員を擁したが、彼女の父エドゥアールは兄弟と争って経営から手を引き、gentleman farmer( 趣味で農業を行なう大地主 )となる。マルグリットはメグMegと愛称され、両親次いで教師から音楽を習う。1877年にティエール大統領がベルフォールを訪れた時、マルグリットは町の代表として花を贈り歓迎。大統領はジャピー家に招かれ、彼女を膝に乗せてお話を聞かせた。

父の浪費癖ゆえの、母エミリーとの諍いこそあれ、マルグリットの少女時代は波乱のないものだった。兄の軍友、陸軍少尉シュフェールÉdouard Shefferとの交際は両家公認。だが二人が内緒で会い、局留めで手紙交換をしているのが発覚。怒る父、婚約は破棄、マルグリットはバイヨンヌの姉のところへ遣られた。父は88年動脈瘤破裂で亡くなる。

1889年、アドルフ・スタンネルはバイヨンヌ大聖堂のフレスコ画を修復中。彼はボードレールの酷評で有名な「ポンピエ」pompier画家メソニエのまたいとこで忠実な弟子、細部まで克明に写実的な歴史画を描いた。

姉夫婦の友人スタンネルとの縁談に、写真を見せられたマルグリットは笑った。親子ほど(17年)年齢が違う。ビアリッツの駅で初めて会ったのは大きな外套の小男、写真のあごひげがない。白いものが目立ち剃ったのだという。人のよさそうなおじさんをからかうのは楽しい。列車に戻り姉夫婦にたしなめられ、マルグリットは再びホームに下り、スタンネルに駆け寄り詫びる、ごめんなさい、おひげのあるなしはどうでもいいことです、私には。

大聖堂の仕事現場を訪ねるマルグリット。スタンネルは亡き父(Louis Charles Auguste Steinheil, 1814-1884 パリのノートルダム聖堂でステンドグラス修復 写真 を行なった)や自分の住まいの話を。彼の品の良い話しぶり、そしてパリ暮らしの夢、マルグリットを惹きつけるに充分だった。

18907月、ベルフォールのプロテスタント教会での(スタンネルはカトリック)結婚式。イタリアへの旅は花嫁の気まぐれで早々に切り上げ、ロンサン袋小路での生活が始まる。マルグリットはまず夫に影響力を持つ姉妹の一人と争い、厄介払いに成功。翌年娘マルトが誕生。だがマルグリットは離婚を求める。仰天した夫と家族の嘆願に、お互い束縛しないとの契約を交わすことで離婚は回避されるが、以後二人は別室で眠る。次第にスタンネルはアトリエにこもりきりに。マルグリットは契約にいう「絶対の自由」を得た。

画家の世評はさほどでもなかったらしく、妻は夫の作品を色仕掛けで売り込むに至る。名高い収集家の所蔵品にスタンネルの絵がまじるように。夫も突然の「付加価値」の理由を知らぬはずはなかった。

1897年夏、軍事演習に参加する愛人ルメルシエ判事を追うように、夫同伴でラ・ヴァノワーズla Vanoiseにやってきたマルグリットは、こちらは勲章授与に来たフェリックス・フォール大統領の目にとまる。大統領から食事に招かれ彼女は辞退するが、夫が大統領の素描を描きたがっていると伝える。二度目の招待も、応じると見せ現れるのは夫だけ。

パリでも交友は続く。スタンネルの絵«Remise de décorations par Monsieur le président de la République aux survivants de la catastrophe de la Redoute ruinée» (角面堡崩壊の惨事生存者への大統領閣下による勲章授与)1898年のサロンに出品、国家買い上げとなった。同年夏、マルグリットは夫と離れサンタドレスSanite-Adresseの別荘で過ごす。近くのル・アーヴルには大統領一家が滞在。大統領は朝マルグリットを誘い二人で騎馬の散歩、午後は音楽と歌。

大統領の愛妾となった彼女の「より特別の謁見」は、エリゼ宮の「青の小サロン」(le petit salon bleu) で。後年の彼女の回想録(« My Memoirs »)はここらから「誇大妄想」傾向を見せるという。大統領の政策に関わる助言までした、ドレフュス事件再審反対の大統領を懐柔し、任期の歴史を書くため重要な手紙や資料を託された、云々。大統領の生前から彼女自身が形成に力を貸したこの「お話」は、やがてロンサン袋小路の事件で、機密文書めあての犯罪との怪説を生むだろう。

スタンネル夫人のサロンは何らかの恩恵を求める人が群がるが、18992月、フォール大統領の急死。大統領には数年前から心臓病の徴候が。ドレフュス事件をめぐり政局は緊迫、16日午前の閣議で、午後のリシャール枢機卿、次いでモナコのアルベール1世との会見でも、大統領はひどく疲れ、落ちつかなげに見えた。午後5時ごろ、官房長ル・ガルに気分がすぐれぬと訴え、「小部屋」le «cabinet» に入る(「青の小サロン」には装飾家が来ていた) 数分後ドアが開く、大統領は「ますます気分が悪い」、ル・ガルはあわてて大統領を支え、助けを呼ぶ。この晩エリゼ宮にマルグリットがいたのは「ありそうな、確実でさえある」ことだとしても、「すべての証言から、大統領はこの時、愛の愉しみに力を費やす余地はなかったと言える」

大統領のそばにいたのは女優セシル・ソレルCécile Sorel との説まで流れた。当日のマルグリットの存在は、 九年後の事件が引き起こした騒ぎの中、初めて一般大衆にまで知られる。大統領の「艶死」が伝説として定着するのもこの時だ。

事件直後マルグリットは、あごひげの三人の男と赤毛の女が押し入ったと言う。男らは龕灯を手に、法皇の法衣か長いフロックコート(lévite)のようなものを着ていた。芝居でユダヤの「レヴィ族神官」が身につける服との類似からこう呼ばれた「レヴィット」彼女はその後も、ユダヤ人に疑いを向けるような証言を重ねる。

自由と遺産彼女には夫と母を殺す動機なら十分ある。司法警察が最初彼女の話を鵜呑みにしたことはのちに非難されるだろう。予審判事ジョゼフ・レーデJoseph Leydetはマルグリットの友人、事件がスキャンダルに発展することへの恐れが捜査を遅らせたのかもしれない。

  190810月末 l’Écho de Parisに、捜査の進展具合を問題にし、事件のもみ消しを示唆する記事が載る。記者はスタンネル夫人に手紙で問い合わせたが返事は来なかった、という。数日後、これに答える投書で彼女は、警察庁は芝居の衣装屋で犯行当日三着の「レヴィット」が盗まれたのを掴んでいると明かし、犯人は「外国人」にまちがいないと自説を繰り返す。

 新聞各紙はこれに飛びつく、押し寄せる報道陣に司法警察と検事局の渋い顔。しかも問題の記事と投書は、マルセル・ユタン記者と彼女が相談して仕組んだものだった。憶測で名前まで挙がる報道の加熱、警察は沈静化に努めるが、「ユダヤの陰謀」説が出るのを止められない。

 警察が思い通り動かないのに苛立ったか、今度はマルグリットは召使レミ・クィヤールRémy Couillard を告発する。クィヤールの札入れから、彼女が犯行の夜盗まれたという真珠が発見されたのだ。理由をつけてクィヤールの札入れを持ってこさせるところから、 le Matin紙社内での札入れ検分まで、マルグリットは必ずジャーナリストを立ち合わせている。(彼女がメディアを利用したのか、されたのか、微妙なところである)

 1125日、宝石商の証言をきっかけに、問題の真珠は彼女自身が召使の札入れに入れたことが露見。問い詰められると、料理女の息子アレクサンドル・ヴォルフAlexandre Wolffが夫と母を殺害したのだと言い出す。

 一転拘留の身となった彼女だが、決定的な証拠がないまま、翌1909年の裁判で無罪になる。イタリアの精神医学・法医学者ロンブローゾは「スタンネル夫人のやむにやまれぬ虚言癖は、ヒステリー女性に固有のもの」とコメント。ジャン・ジョレスのl’Humanitéから右翼のl’Action françaiseまで、事件は論説の嵐を引き起こす。皮肉なことに、最初彼女に発言の場を与えた反ドレフュス派ジャーナリズムによって、彼女は「ユダヤ・シンジケート」の手先、再審に乗り気でないフォール大統領の暗殺犯にまでされてしまう。

 『性的不能者裁判』(辻由美訳 新評論 1990)などの著書があるピエール・ダルモンの主なテーマは「歴史学と医療の境界領域およびメンタリティーの歴史学」(同訳書による) スタンネル事件はミステリ的な想像を誘うーホームズ物パスティッシュでこの事件をねたにした"The Case of the Unseen Hand" Donald Thomas) があるらしいしかし著者の狙いは、犯行について大胆な仮説を示すことにはない。

 召使に容疑がかかったこともあり、裁判はブルジョワ対労働者の構図で見られる。弁護側は陪審員の内、労働者の票の行方を案じたが、杞憂に終わる。「労働者は同じ階級の人間の恥ずべき行いは容赦しないが、相手がブルジョワだと寛大になる」 

 弁護側証人に立ったペザン先生Me Paisant(公証人か弁護士)は、被害者アドルフ・スタンネルを自信も気力も失った「大きな子供」として語る。無力な男と結婚し、生活のための戦いに疲れた女性が強い男にすがっても無理はない。この不倫の擁護は、当時のイデオロギーに適うものだった。スタンネル夫妻の娘マルトに同情が集まったことも大きい。l’Illustration には顔を覆い泣き崩れるマルトの画が載り、「このドラマの一番痛ましい犠牲者」を憐れむ感傷的な文が添えられていた。

 犯罪そのものよりは、犯罪への人々の反応、とりわけメディアの力で矛盾に満ち、「夢のイメージ」に似たスタンネル夫人像が作られていく過程が本書の読みどころである。

 

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