(2) 大連海浜
《第7日目》翌日は大連海岸を探訪する。大連海岸の景勝地といえば、東から浜海路北段、棒スイ島(スイは木偏に「垂」)、浜海路東段、老虎灘、浜海路中段、付家荘、浜海路西段、星海広場、星海公園などがあるが、浜海路北段、東段、中段にはバスが通っていない。西段は東側の一部にバスが通るが、その先はバスがない。歩くのは無理だから、全部回ろうと思えばタクシーを雇うしかないが、私は友人の車で回ったので、タクシーだといくらかかるかははっきりしない。
市の中心から東に向かい、三八広場、二七広場を抜け、寺児溝を経て浜海路北段の入口に行く。浜海路北段は1999年に開通した道路で、市街東側から大連湾口を通り、山を越えて棒スイ島に至っている。海浜道路の中では一番高いところを通っていて、湾口にある三山島、対岸の新港のある岬などがよく見える。ここにも瀋陽の怪坡と同じように坂道の傾斜が逆に見える現象を起こす場所があるが、実際に見た感じでは怪坡ほど明瞭ではない。
棒スイ島はもともと幹部用の別荘で、広大な敷地の中に毛沢東をはじめとする要人の別荘や供回りの泊まるホテル、会議場などが点在している。ここにはまた岬に隔てられ、棒スイ島が防波堤になった専用ビーチがある。
私は1981年5月にここに宿泊したことがある。大連市街から現在の中南路、迎賓路を通って来たのだが、道は細く、植物園の脇を過ぎると人家がなくなり、山の中は墓地ばかりだった。浜海路北段が合流するあたりと現在の門のところの2ヶ所に歩哨所があり、帯剣した銃を持った兵士が立っていて、警戒の厳しいところだなと感じた。当時、他のホテルにはサービスなんてものがなかったのに、ここだけはきちんとしたサービスが行われ、料理も最高で、さすが幹部の泊まるところは違うと感心したものだ。
棒スイ島賓館は、今では一般に開放されていて、誰でも要人の別荘に泊まることができる。食事も運んでくれるから、家族数人で泊まってVIP気分を味わうのもいいだろう。部屋代は高いが、一戸に何人も泊まれるから一人当たりにすればそれほど高くはないはずである。
市外からここに至る道は迎賓路と言い、芝生と草花できれいに飾られていて、ウエディングドレスを着た新郎新婦が何組も写真撮影にきている。以前この道の両側はリンゴ畑だったのだが、「緑化」のため、芝生好きの市長に切られてしまった。
棒スイ島から浜海路東段に入る。始めはゴルフ上を左に見ながら進み、岩の露出した小山を左に見て坂を登ると左後方に棒スイ島が見える出す。崖の上を進んでいる間は、後方遠くに三山島が見える。道の後半は老虎灘の入り口を扼する岬の端に立つ灯台を望みながら石槽村を通り、老虎灘に出る。石槽村は未開発なのでみすぼらしい漁村にしか見えないが、後ろの丘陵のたたずまいもよいので、きちんと整備されたら付家荘や星海公園よりよい海水浴場になるのではないか。
老虎灘は深くくびれ込んだ入江で、昔は波静かなよい海水浴場だった。しかし流れ込む二つの川が汚染し、砂浜が埋め立てられ、湾口が締め切られたために醜い海になってしまった。遊園地やナイトクラブ、ミサイル駆逐艦、伝説に基づく虎(湾の西側にある)と娘(遊園地の中にある)の石像、鳥園、マルチ映画館などの娯楽施設があるが、大連まで行ってこんなところで遊ぶ必要はないから車窓から眺めるだけでよい。リージェントホテルの東側に日本時代の建物があるが、もとは何だったのかはっきりしない。
*ふるい地図を見たら、老虎灘の海水浴場は今の漁港の位置にあった。上記の日本時代の建物は、まさに当時の海水浴場の脇にあったのである。
浜海路中段は老虎灘から付家荘までの海岸で、海岸道路の中では一番風景がよいとされている。老虎灘を出て一番始めに目につくのは西咀の灯台。以前、ここは近寄れなかったが、最近では傍まで行けるという。次が北大橋。北は北九州市、大は大連市、両市の友好を記念してこの名がつけられた。一部の本には北九州市が資金を提供したようなことが書かれているが事実ではない。ここからは西に燕窩嶺の荒磯、東に石槽村方面が見え、沖には三山島が見える。水も青く澄んでいて浜海路では一番景色のよいところである。
北大橋から少し登ると燕窩嶺になる。ここは山東半島方面から渡ってきた燕が羽を休めるところなので燕窩嶺というのだそうだ。入場料を払って石畳の道を進んで行くと崖の上にせり出した東屋があり、ここから東大連島、西大連島、二タ島(「タ」は石偏に「它」と書く)、星島などが見える。
さらに進むと岩尾根となり、東を見渡す展望所があり、道が左右に分かれている。左に下れば小さな浜があって、小人数での海水浴に最適である(ごみが散らかっていなければの話。大きなゴミ袋とゴミ拾いの道具を持って行くとよい。家族揃って労働すれば、1時間できれいな浜になる)。右に下ると15mくらいの岩が2本そそり立つ磯に降り立つことができる。分岐から海岸までは高低差が100mぐらいある。左右は海岸ではつながっていないから、両方行くときは分岐まで戻って降り直さなければならない。このあたりは春になると桃のような濃いピンクの花が咲き、遠目に鮮やかである。秋には無数の赤とんぼが群れなして飛び交う。
燕窩嶺から西に進むと、華僑別墅、秀月酒店などを経て付家荘に至る。秀月酒店は93年ごろは比較的よかったのだが、その後は設備が劣化し、料理もどんどんまずくなり、ホテルも左前になったようだ。向かいの島でバーベキューができるが、渡船料が高いのでばかばかしいと中国人の友人は言っていた。それでも島に渡ってのバーベキューと海水浴は魅力がある。希望者は秀月にご相談を。秀月あたりの海岸は、波は静かだが岩礁が多く、思いの外に泳ぎにくい。
付家荘海岸はあまり広くはないが人気のある海水浴場である。一説によると大連の「キレイなギャル」はみんなここに泳ぎに来るという。97年ごろまでは公園といっても何もなかったが、今は芝生が植えられて「キレイ」になり、入場料が必要だ。海岸はきれいになったが、海岸の目と鼻の先でワカメやコンブの養殖をしているため、砂浜に大量に海藻くずが打ち寄せられて汚らしい時がある。浜の左側は漁船溜になっているのでハエがワンワンと飛んでいるし、汚れた川も流れ込んでいる。これもこの浜の欠点だ。食事は近くの国際村、華日大酒店、白雲大酒店などですることができる。国際村は日系の住宅でデパートの食堂風の和洋食を食べることができる。
浜海路西段にはあまり景色のよいところはない。地図には金砂灘、銀砂灘という地名がるが、そこにはワカメの加工場があったりアワビの養殖場があったりで美しくない。今は動物公園の中に入ってしまい、登るのに20元も取られるようになってしまったが、白雲山は海と星海方面を眺める展望台として最高である。頂上直下まで車で行けるから20元を惜しまずに登ってみたい。
白雲山の頂上にあるトンガリ帽子の展望台の屋上は、今は閉鎖されて登れない。93年ごろはこの展望台にダンスホールがあった。車で山を登り、さらに明かりのない山道を5分登らなければならないところだ。初めて登った時はこんなところにダンスをしにくる人がいたのだろうかと不思議に思ったが、街中にデートの場所が増えるにつれて閉鎖されてしまった。
浜海西路が終わると星海広場である。このあたり、以前はドブ川が流れ、漁師の家があり、悪臭が立ちこめていたところだ。しかし、その後会展中心という国際会議・展示場が建設され、河川改修が行われ、中国一広い広場が整備されて今は大連の新名所になっている。さまざまな展示会、見本市などがここでひらかれ、いろいろな催し物が行われる。まあ、いうなれば大連版「幕張メッセ」、「ビッグサイト」である。
展示場などの施設ができればホテルもできる。このあたりにも何軒かホテルができたが、中には傑作な話もある。星海広場の近くに横浜のインターコンチネンタルホテルのミニ版が建った。これがなんと南北を取り違えて建ててしまったというのだ。客室は北向きで、海辺に建っているのに海の見える部屋がない。施主が気がついた時にはもう躯体が完成し、内装にかかる段階だった。このビル、結局取り壊すことになったそうだが、2001年にはまだあった。今もまだあるかもしれない。
星海公園は昔の星ヶ浦である。ある時、星が落ちて沖合いに見える島になったというのだが、これは伝説。ここは昔からの海水浴場であるが、ハイテク工業団地を造成するために東側を埋め立てたり、葛西臨海公園みたいな人口海岸を造ったり、西側に遊園地を作ったり、不細工な遊覧船の船着場を作ったりしたものだから昔の面影はない。公園に並行していたゴルフ場をつぶしたのも景観を損ねた一因だろう。また、海流の関係か砂が流失し、今の砂は北戴河から運んできたものである。ここには東洋一といわれるトンネル式の水族館がある。たしかにトンネルは長いが魚種が少なく、水族館としての面白みは乏しい。
星海公園のさらに西の黒石礁には自然博物館がある。これも1998年に市内から移転してきたものである。以前の自然博物館は、ロシア人が大連で一番初めに築いた地区にあって、主に満州国時代の「満蒙資源館」から引き継いだ標本を展示していた。展示範囲は鞍山で採れた鉄鉱石、撫順で採れた石炭、興安嶺で獲れた大鹿、大連の海で獲れた魚類等、鉱物から昆虫にまで及んでいた。以前の建物はすでに老朽化し、大掛かりな修理が必要になったので、星海公園の西にまったく新しい建物を建て、近代的な自然博物館に衣替えしたのである。
大連の人々は大連の海は美しいと言う。確かに美しいし、北戴河、興城、営口等の海岸よりずっと上であることは間違いない。しかし、大連の人々がこの海で外国人観光客を呼ぶと言うのを聞くと、「ちょっと待ってくれ」と言いたくなる。はっきり行ってこの海では外国人観光客を呼べない。「この海では日本人は来ないよ」と言うと、大連人は「こんなに美しいのだから絶対に来るはずだ」と反論する。当時、中国人は国外旅行ができなかったが、今はかなり自由に海外へ出かけている。もう、こんなことを言う人はいないだろう。
(3) 大黒山
《第8日目》今日は大黒山に行く。
大連の北側には大連湾が広がっている。この湾を挟んだ北東岸に大連経済開発区がある。大連からは湾をぐるりと迂回しなければならないので、以前は1時間半以上かかったが、今は高速道路やトンネルができ、40分程度で行けるようになった。途中に碧海山荘という遊園地があって、俗に「農民が作ったディズニーランド」と言われていたが、「名不副実」である。
開発区の北側には大黒山という石灰岩の三角形のどっしりとした山容の山があって、小学生や市民の遠足、行楽の場になっている。大黒山は663m、3つの登山口があり、大連から響水観、観音閣、開発区行きのバスにのれば、それぞれの登山口に行くことができる。
大連駅の裏から響水観行きのバスに乗る(金州まで行って、響水観行きに乗り換えてもよい)。バスはまず金州に向かい、金州からは川に沿って登り貯水池の横を通る。この辺は冬、霧氷の美しいところである。しばらく進んで右に折れ、小さな谷筋を進むと小さな堰堤があり、貯水池がある。ここが響水観である。
響水観は大黒山の金州側にある道観だが、本来は水源の神を祭ったところであろう。橋を渡って観に入ると左に石作りの竜首が突き出た池があり、その右手に社殿がある。社殿は門と本殿だけからなり、本殿の左右の耳房には道教の神々が祭られている。そして社殿の右奥に小さな深さ30mぐらい、途中、かがまないと通れないような狭い洞窟があって、その中から水が涌き出ている。これが本来のご神体であろう。
響水観を出て左側の山道(車道と交錯している)をたどると、大黒山の双耳峰と丘陵に囲まれた美しい小盆地にある朝陽寺に出る。朝陽寺は門と裏門が一番高いところにあって、門を入ると下りになり、盆地の底で小さな川を渡るると今度は上りになって本殿に至る。建物はどれも小じんまりしていてかわいらしい。本殿には仏像、脇殿には薬王像などが祭られていて、ここも三教合一の寺である。
朝陽寺の門前から北東に行くと観音閣方面、南に行くと金州と開発区を結ぶ有料道路に出、東に行くと開発区に行く道に出る。大黒山の頂上へ行くには、北へ行く道と東へ行く道の中間にある道を進む。この道は車も通れるので、休日には車の往来が多い。急な坂道を登ること1時間半、頂上直下の平坦地に達する。ここには唐代に作られた石積みの低い壁がある。東側の尾根に向かう車道が左手に延びているが、ここは一般の車両は入れないようだ。
頂上へ行くには、左後方に入る道を進み、コンクリート製の急な一直線の階段を登る。大黒山の双耳峰の東峰上には軍の通信施設があって(一説に気象観測所だという)、以前は頂上一帯への立ち入りが禁止されていて、山の北側や東西側の風景を眺めることができなかった。95年に大黒山に来た時には、頂上の100mくらい下に立入禁止の看板があったが、守衛が登ってもいいと言ったので、瓦礫の階段を踏みしめつつ頂上直下まで登った。しかし、通信施設の回りに鉄条網が張られていて、やはり北と東は眺められなかった。その後、1998年にこの階段ができ、西側のピークに登れるようになり、北や東西の風景が眺められるようになったのである。
頂上からは南は開発区、大連湾、大連の町、西は金州、東は新港方面、北には広々とした耕地が見渡せる。視界をさえぎるものは何もなく、通信施設ができるのももっともと思われる場所である。頂上からは西に向かう道が延びていて、これをたどって右へ行けば観音閣、左へ行けば朝陽寺方面に行くことができる。
さっき登ってきた階段を下りて本道に出、東に進むと右手奥に建築物の基壇跡があり、その先に垂直の断崖が落ちている。この下の林の中に、開発区方面から唐王殿に至る登山道の登り口がある。この山を背負い海を臨む崖の上で昼食にする。昼食後さらに東に進むとやや下りになり、唐王殿(石鼓寺)に着く。この寺は門と本堂だけの小さな寺で、閉まっていることが多い。唐王殿の脇は深い谷で、新緑や紅葉がきれいだ。
唐王殿の前から急峻な道を下って行くと、さっき上から見た断崖の下にある駐車場に出る。ここが開発区から山に入った時の登山口である。駐車場から川(水のないことが多い)に沿って下り、食堂のある所に出たら左に行く(この食堂は開いているのを見たことがない。右に行けば朝陽寺に至る)。平坦な道をのんびり歩いて行けば、開発区の北の端に出る。私が最後に行った時には、開発区から観音閣に至る道路が工事中だったため、大黒山からの道は右に折れて金州〜開発区有料道路の料金所の近くに出ていたが、今は直進して開発区への道に出られるのではないだろうか。
ついでに観音閣からのコースについても紹介しておく。観音閣コースはバス停近くの射撃場から始まり、岩窟にある観音閣を通る。そして一度頂上西側の尾根に出て、山を巻くように次の尾根に出、急坂を登って頂上に達する。このコースが一番歩行距離が長く、登りだけで3時間半くらいかかる。どのコースを歩くにせよ、山中は朝陽寺の門前以外は水も食べ物も売っていないので、自分で用意していかなければならない。朝陽寺のあたりはリンゴなどの果物の産地なので、季節になるともぎ立てのリンゴやナシなどを安くかうことができる。
山を降りて開発区まで歩き、開発区からバスに乗る。開発区には東芝、マブチ、三洋、三島食品等々の日本企業の工場がある。日本企業の工場は清潔感があり、できた当初は、これが工場かと中国人を驚かせたという。しかし、最近では中国資本が建てる工場もきれいになり、外見はあまり差がなくなっている。
開発区の北東は金石灘というところがある。ここは国家級リゾート指定地で、古生代の岩石が露出していて岩石の博物館と呼ばれている。また世界のベスト100に選定されたゴルフ場もある。ここには3度ほど行ったが、いつもゴルフ場の工事で道が寸断されていて、まともに目的地まで到達できなかった。ゴルフ場完成後は金石灘に行く機会がなく、ついに金石灘のよい所を見ることができないまま終わった。大黒山に登ってから金石灘というのはかなりきついから、両方行きたいというのであれば開発区で1泊しなければならないだろう。開発区にもホテル、日本料理店が多い。
開発区から大連まではバスに乗る。バスは高速に入らないのでタクシーより遅いが、それでも1時間ほどで大連駅に着く。響水観から朝陽寺、頂上、唐王殿、崖下、開発区を辿るコースなら、夕方5時には大連駅に戻ることができるだろう。今晩は南山路のLe
Igossoというレストランで洋食を食べる。ここは大連では割と早くできた日本人経営のイタリア料理店で、外大の欧米系留学生に人気がある。初代のマスターは今、上海の旧フランス租界だった衡山街で洋食と中華の優雅なレストランを開いていて、上海小姐にすごい人気があるそうだ。
7.旅順
《9日目》旅順は今どき珍しい未開放都市で外国人は特別の許可がない限り入ることができない。1993年だったかと思うが、旅順口区の渤海と黄海の境目に面する地域が開発区となり、工業団地造成が行われた。開発区を作った以上、外資を呼び込まなければならない。というわけで1994年、旅順口区政府の肝煎りで、投資してくれそうな外国人に対する説明会が行われた。私は投資しそうな外国人ではなかったが、政府に顔のきく友人がいたのでその説明会に参加し、鶏冠山、両杆砲、博物館、勝利塔などを観光することができた。
このころ聞いた話では、開発区ができたのだから、旅順口区も近く開放されるということだった。ところが、軍は、区政府が了解も取らずに外国人を招待したといって臍を曲げ、開放を拒否。1996年7月になって、ようよう外国人が開発区に行き来できるよう、大連と旅順を結ぶ旅順中路の北側部分の開放に同意したという(竜頭鎮、寺溝村、鉄山鎮を結ぶ線の南側は未開放)。開放までの経緯は当時いろいろな人から聞かされた噂であるが、真偽のほどは定かではない。
今、外国人が旅順で自由に観光できるのは、二百三高地と水師営の二ヶ所だけだが、それはこの二ヶ所が進入禁止線の北側にあるからである。ということになってはいるのだが、97年と99年に博物館と東鶏冠山に行った時には、日本人観光客がたくさん来ていた。親しいガイドの話では、観光資源調査団という名目で入るのだそうだ。
ある友人はハイヤーで二百三高地に行ったら、そこにいたパトカーに500元出せば市内を案内してやると言われ、パトカーの先導で博物館や旅順駅、鶏冠山を見物したという。また、別の友人は旅順の旅行社にガイドを頼んだら、鶏冠山と博物館に連れていってくれたという。とにかく建前は外国人進入禁止だが、実際にはいろいろなルートで外国人が入っている。二百三高地と水師営は、政府の布告を見る限り、観光に何の手続も要らないはずだが、現地に行くと、公安の許可がないと入れない、などと言われることがある。いろいろ問題も起きているようだから、かなり費用がかかるが旅行社に手配を頼んでおくほうがよい。
大黒山登山の翌日、タクシーを雇って旅順に出かける(1日300元程度)。旅行社には前日に連絡してあるので、公安の手続きは済んでいるはずである。旅順南路を通り、白銀山トンネルの出口でガイドと合流する。南路は外国人進入禁止だから、本当は通ってはいけないはずだが、旅行社がこの道からこいと言うのだからしかたがない。市内に入り、旅行社の前で少々停車し、手続きを済ませて水師営に向かう。
水師営に行くには、大連から旅順中路で竜頭鎮、三八里村を通り、中路が北路と合流したところで少し北路を進めばよい。水師営は最近の復元で、建物そのものは全く価値がない。歌には「庭に一本棗の木」とあるが、そんな木もない。以前はただの資材置き場で荒れるにまかされていたそうだが、観光客が来るようになって食堂ができ、周囲に何軒もの家ができている。ここでは、ああここに乃木とステッセルの会見場所があったのか、と思うだけである。日露戦争の戦跡については「旅順要塞を見に行こう」というホームページに詳しい。興味のある方はそちらを見てほしい。
次は二百三高地。二百三高地は旅順市街の北西にある後石山風景区にある。水師営からは旅順中路に戻って西に進み、突き当たったら右に進めばよい。二百三高地の周辺は公園になっていて、花木が多い。高地の頂までは徒歩でも車でも行ける。頂には砲弾を模った碑があり、乃木希典が書いた「爾霊山」(二〇三とほぼ同音)という文字が鋳込まれている。ここにはロシア軍の塹壕(石が積まれている塹壕は最近の偽作だという)、日本軍が掘ったトンネル、乃木保典戦死の跡などがある。
旅順の町は南が海で他の三方は山に囲まれている。だから旅順に入るにはどうしても山を越えなければならず、侵入者を阻止しようと思えば山に防衛線を張ればよい。旅順の地図を見てみると、東から白銀山南保塁、白銀山保塁、東鶏冠山保塁、東鶏冠山北保塁、望山、盤竜山保塁、二竜山保塁、松樹山保塁と続き、旅順市街北西側の大連北路に達する保塁線がある。大連北路から西は、椅子山保塁、小寨子山保塁、大寨子山保塁と続く防衛線があり、その外側に二百三高地と老虎溝保塁がある。
二百三高地は旧旅順市街から一番遠い所にある保塁ではあるが、その頂に立てば旅順港が一望できる。また渤海の羊頭湾がすぐ後ろだから砲の搬入や補給の便もよい。だからここを占拠して観測点を設ければ旅順港への砲撃が可能になる。というわけで旅順攻防戦における激戦地となり、日本軍だけで死者5000人、負傷者7000人を超える犠牲が出ている。
97年に行った時にはまだ麓の公園が造成中で、山頂直下の駐車場もできていなかった。山頂には古びた建物に入った売店が1軒あったが、最近では新しくて大きな売店が3軒もあるそうだ。日本人の旅行者が多いのだろう。
中国では、戦前日本人が立てた記念碑などはほとんど破却されているが、旅順は珍しく、日本人が日露戦争の戦跡に建てた記念碑が残っている。もちろん「帝国主義日本が中国を侵略した罪業の証拠」という位置付けをされているのだが、同じ大連市域でも、金州南山の乃木勝典の墓などは跡形もなくなっていたから、やはり旅順は特殊なのである。
二百三高地から太陽溝景区にある博物館に向かう。旅順博物館はロシアが基礎部分を作り、日露戦争後に日本が後を引き継いで完成させたという。館内には大谷探検隊が新疆からもたらしたミイラをはじめ貴重な文化財が大量に収蔵されていて、中国でも優良博物館の一つにかぞえられている。大連の中心に博物館がないのは、ここに立派な博物館があるからである。博物館の前には、博物館を監視するように白亜の中ソ友好塔が立っている。
博物館から南に進み、動物園で左に折れ、海辺に立つ勝利塔を右に見てしばらく行くとロシア風の緑色の葱坊主屋根を載せたかわいらしい旅順駅がある。この駅も古い建物で文化財に指定されている。昔、幾多の英才を育てた旅順中学も今通った通りの右側にある。
駅から博物館に来る途中で見た勝利塔のあたりは、小型の軍艦が停泊していて、外国人の立ち入りが厳しく制限されている区域である。94年の招待会の時、友人とこの塔に登ってみた。塔の下で入場料を払う時、当時流通していた外貨兌換券を出した。すると、係の娘がこんな金は見たことがないと受け取りを拒否した。すでに10年以上流通している兌換券が旅順では通用しなかったのである。この一事を見ても、旅順は外国人の訪問が少ない都市だったことがわかる。
駅からは白玉山の東側を通り、鶏冠山路に入り、鶏冠山に登る。東鶏冠山はロシア軍が強固な要塞を作っていて、日本軍が侵入坑道を掘ったり、ロシア軍がこれに対応するための塹壕を掘ったり、日本軍の特殊工作隊が要塞に爆薬を仕掛けたりと激戦が行われたところである。ここは要塞の保存がよく、戦闘施設、生活施設などがよく残っている。以前は中に入って詳しく見物できたのだが、2001年以降は外から見るだけになってしまったようだ。
東鶏冠山には日露戦争記念館が設けられていて、観光客が多い。記念館の展示は帝国主義の罪証という主題の下ではあるが、かなり公平な展示をしている。ここから少し登れば、ロシア軍が据え付けた2門の大砲が残る望山(両杆砲と通称する)に達することができる。両杆砲はこのあたりの最高点で、旅順を取り巻くように連なる山々とその頂に建てられた日露戦争記念碑が見える。両杆砲から海岸方向を眺めると、中央に白玉山を挟んで東西に広がる旅順の町、袋状の旅順湾、旅順港を扼する老虎尾、軍艦の停泊する東港などが手に取るように見える。両杆砲は原則的には行けないのだが、旅行社に頼んでおくと行けることもある。しかし、いろいろ事情があるらしく確実ではない。01年に行った友人は、旧知の旅行社員に頼んでおいたのに両杆砲には登れなかった。
旅順には以上の他に、白玉塔、日俄監獄旧址、万忠墓、電岩砲台などの名所があるが、外国人の立入が厳しく禁されているから行ったことのある人は少ない。大連駅前から出ている旅順ツアーのバスに乗れば、東鶏冠山、両杆砲、監獄、万忠墓、白玉塔(兵器博物館)、電岩砲台、勝利塔、博物館と回ることができるが、規則上外国人は乗せてもらえない。しかし、規則を知らずに中国人に誘われてこのバスに乗り、監獄以下の外国人禁制の名所を全部回った人もいる。バスの発車後、外国人が乗っていることに気づいた車掌に、観光地では一切日本語を話さないように釘を刺され、観光中ほとんど話ができなかったそうだが、運のいいことではある。
日俄監獄旧址はロシアと日本が管理していた監獄で、暗く陰鬱な建物である。ここには犯罪者だけでなく多くの政治犯、抗日戦士が囚われていて、ここから七三一部隊に送られた人もいるという。 万忠墓は日清戦争後に日本軍が起こした大量虐殺の犠牲者を葬った墓で白玉山の北側にある。乃木希典はこの虐殺に責任があるといわれており、旅順には乃木にまつわる遺跡が少なくない。
電岩砲台は旅順湾の湾口東にある黄金山の黄海側にあり、日露戦争の時、旅順に接近する日本艦船に砲撃を加えたところである。岩をくりぬいて作られた堅牢な砲台は今でも使えそうだったという。黄金山にも砲台があり、西側の湾口をにらんでいる。この砲台は旅順閉塞隊を苦しめた砲台である。
黄金山からは西に旅順湾を扼する老虎尾、北の眼下に東港が見える。東港は旅順湾の中でも独立した区画で、北岸からは見えにくい。ここには潜水艦や駆逐艦が停泊しているという。
市街地の中央にある白玉山は旅順港を見渡す格好の展望台で、ここに登れば港内の各所が手に取るように見える。白玉塔の下にある兵器博物館は旧式の兵器が展示してあるだけで、それほど面白いところではないそうだ。
東鶏冠山の観光を終え、元の道を戻り、旅行社の前でガイドを下ろす。車は再び白銀トンネルを越え、旅順南路を通って大連に向かう。この沿線にはもう一つ黒竜潭という名所がある。黒竜潭は大連の黒石礁から旅順南路を走るバスに乗れば4.5元で行ける。ここには大正期に日本人によって作られたダムがあり、今でもダムの上には当時の完成年を刻んだプレートが残っている。本来はここも外国人立入禁止地域であるが、桜の名所なので春になると中国の機関が日本人を招待してくれることが多い。花見のころはダムに水がほとんどない。冬の渇水期後だからかもしれないが、あるいは近年の異常気象と関係があるのだろうか。ここにはまた日本と関係のある珍しいモクレンがあり、天然記念物に指定されている。
なお、旅順南路に高速道路ができたとの情報がある。紹介写真を見ると確かにグリーンに白の標識が立っていて高速道路のようだ。しかし大連は黄海大道ができた時、一般道路と交差しているにもかかわらずグリーンの標識を設置し、運転者が高速道路と勘違いしてスピードを出し過ぎ、事故が多発した前科がある。旅順南路の高速道路なるものの写真を見ると、通常の建築物が道路に面して建っているから、これは高速道路ではないようだ。将来高速に変わるとしても、今は高速ではないと思われる。
今回は花の季節ではないので黒竜潭にはよらず、一路大連のホテルに戻る。今晩は93年以来付き合いのある中国人板前のいる「大江戸」へでも行って、カワハギの刺身と殻付の生ウニを肴に、天津の純米酒朝香でも飲もう。いよいよ明日は大連を離れ、海鮮とは縁の切れる鞍山に行くのだから。
8.安波と姑蘇城
《第10日目》大連駅から鞍山行きの一番のバスに乗る。乗ってしまえば高速道路経由で3時間ほどで鞍山に着く。鞍山では千山に登り、湯崗子温泉に泊まろう。
大連と鞍山の間には安波温泉や熊岳温泉をはじめ、いろいろな観光地がある。今回は行かないが、今までの記憶を頼りに、安波とその周辺について書いておく。
大連の普蘭店市には安波という温泉がある。ゆったりと波打つ丘陵地帯にあって、景色はどうということもないが、宿泊施設なども整備されているので周辺の観光地と組み合わせれば、大連住民には1泊2日の行楽地になるだろう。ただし温泉は日本のような大浴場や露天風呂はなく、バスタブでお湯につかるか温泉プールで泳ぐだけである。これは中国ではどこの温泉も基本的に同じである。
安波には、瀋大高速で麹屯まで行き、麹屯から松樹鎮、同益を経由して行く方法と、黄海大道で皮口鎮に行き、皮口から蓮山鎮、楽甲を経由して行く方法がある。安波だけなら公共バスを使って行ってもいいが、付近の名勝を回るのなら車で行くほうがよい。呉姑城にせよ摩崖仏にせよ、バスの便が悪いし、歩くには遠すぎるからである。
安波には2度行ったことがある。一度は氷峪溝の帰りに寄ったので、普蘭店の苗屯から省道に入り、星台鎮で呉姑城を見て蓮山鎮、沙包鎮を通って行った。もう一度は大連から行ったので麹屯で高速を降り、直接安波に行った。どちらの場合も道は悪くなかったが、案内標識が整備されておらず、道を聞いては走り、走っては聞き、ずいぶん遠回りをさせられた。
呉姑城は星台鎮にあり、本当の名は清泉寺という。さらに昔の唐代には城塞だったとのことで、今でも山には城壁の跡がある。清泉寺が呉姑城と呼ばれるようになったのは、この寺が衰微した時、呉という老女が資金を集めて再建したからである。寺は文革で荒れ果てていたようだが、90年代に入って修復され、このあたり随一の名刹として参詣人が多いそうだ。
寺は山の中腹にあり、寺への道は浅い谷の中についている。川沿いに上って行くと橋があり、石碑が2基ほど立っている。斜面に建てられた寺へは急な石段を登って入る。木々が生い茂り、雪が降り積もってせっかくいい雰囲気なのに、階段の脇に投げ捨てられた石炭殻が景観をぶち壊しにしている。青レンガの楼門をくぐると広いテラスがあり、正面の本殿に道仏儒が一緒に祭られている。ここも三教合一の寺である。
寺の左手には山頂に続く道があり、山頂に出れば唐代の城壁跡があって遠望が利くという。しかし、激しい風に粉雪が舞い、防寒着のフードを掻き合わせてもなお顔が上げられないような天候では、山に登ろうなどと言い出す酔狂者はどこにもいない。早々に本殿のテラスを降り、暖かいバスを目指して逃げ帰ったのだった。
この時は双塔鎮の望海寺にある摩崖仏には行かなかった。次に行った時には何度も道を聞き、ようよう摩崖仏に辿りついた。今はどこでも観光に力を入れているから、少しは行きやすくなっているだろう。摩崖仏は平凡な畑の中にあり、周囲の景観も、崖に彫られた仏像もそれほど強い印象を与えない。摩崖仏ファンでもなければ見に行く必要はない。
安波と双塔鎮の間には碧流河貯水池がある。これは大連の水源として1995年ごろ竣工したもので、これができればもう水不足の心配はないといわれた。しかし、2000年にはサウナ等の営業停止を含む厳しい給水制限が行われるほど水が不足し、さらに北にある英那河からの導水工事をしなければならなくなった。工事はすでに完了したが、水資源そのものが豊富ではないので、天候次第では大連の水不足は今後も続くものと思われる。水不足のことはともかく、碧流河貯水池は大変景色がいいからそのうち観光開発される、と安波の人が言っていた。今どうなっているだろう。もし碧流河の遊覧ができれば、安波観光はもう少しバリエーションが増えるだろう。
安波のホテルは鎮のはずれにある。今は鎮にも宿泊施設がたくさんできたようだが、以前、宿泊施設はここしかなかった。ホテルには温泉プール、10人くらい入れる浴場、サウナ、食堂などがあった。しかし宿の売店は貧弱で高かったから、みな鎮まで歩いて買い物に行っていた。温泉プールは深くて160cmくらいの人では足が立たない。冬だったからプールには湯気が立ち込め、5m先が見えない。これでは人が溺れても誰も気がつかないのではと心配したものだ。
大連にはこのほか仙浴湾、金斗湖、竜潭山、陸海などの観光地があるが、行ったことがないので状況がわからないが、いずれもランクの低い観光地だからあまり魅力があるとは思えない。
大連瓦房店市の西に横山という場所がある。ここには大規模な風力発電場があり、デンマーク製の風車が200基以上並んでいて壮観である。瀋大高速を李店で下り、省道を西に進み、三台を経て橋を渡ればそこが横山である。風力発電に興味のある人は必見。
大連市の北は営口市である。営口には熊岳、赤山、金牛山(営口県の西8kmの永安郷にある旧石器時代の洞窟遺跡で、1984年以降28万年前と推定される古人類化石が50点あまり出土している)、西砲台、石棚山石棚(国家級文物)、月牙湾、仙人島、望児山、楞厳寺、蓋州上帝廟(国家級文物)など名所があるが一度も行った事がない。熊岳は大連と瀋陽の中間点で、温泉と海水浴場で有名である。熊岳は何度も通っているだけでなく、当地出身の友人が二人もいるのに、まったく縁がなかった。熊岳で海水浴をした友人の話では、海も温泉もよくなかったという、行くほどの価値はないのかもしれないが、足も踏み入れなかったのは少々残念な気がする。
9.千山と湯崗子
話を鞍山に戻そう。大連を早朝に出たバスは10時過ぎに鞍山に到着する。鞍山はなんと言っても鞍山製鉄所が有名である。鞍山の鉄山は1909年に満鉄地質調査所の所員が発見し、1918年に鞍山製鉄所が作られて製鉄が始まった。製鉄所は1933年に昭和製鉄所と改称し、本渓湖(本渓鋼廠)、兼二浦(北朝鮮の松林市にある黄海製鉄所の前身)と並んで海外三大製鉄所と謳われていた。戦後、設備の大半がソ連に持ち去られたが、共和国成立以降の再建により、年間150万トンを生産する当時としては中国一の大製鉄所となった。
製鉄所の敷地は広く、鞍山駅の北西一帯はすべて製鉄所の敷地である。今の製鉄所にはここ十数年の間に外国から導入された最新の設備もあるが、戦前からの設備もあり、新旧さまざまな設備が混在している。ちょっと前まで港内には各種の蒸気機関車が走っていたが今はどうだろう。工場では生産性工場運動や省エネ運動などが行われているが、通路に資材が放置してあったり、構内を無統制に車が走っていたり、企業管理の改善が必ずしもうまくいっていないように見えた。
鞍山の町は駅の東に広がっている。駅前の通りをまっすぐ行くとロータリーがあり、これを右に折れると烈士山公園に突き当たる。烈士山公園入口の牌坊は、満州国時代の鳥居の両側を切り落としたもののようである。たしか鞍山には世界一大きな鉄の鳥居があったと聞いたことがあるような気がする。多分これがその鳥居だったのだろう。
駅前通りをさらに東に進むと二一九公園にぶつかる。鞍山の町は製鉄所の建設に伴ってゼロからできた町なので、極めて整然と都市計画がなされている。これは瀋陽の和平区、撫順の新撫区と同じである。しかし、瀋陽と撫順は駅を頂点として左右に斜めの道が延びているのに対し、鞍山は中央のロータリーを頂点とする2本の道が駅の方に延びているところが違っている。
1985年に鞍山に来た時は、鞍山の町はほぼ戦前の姿をとどめていた。友人が生まれたという家も残っていたし、友人の父親が車をぶつけてタイルがはがれたところもそのまま残っていた。しかし、1996年に行った時には、古い建物は取り壊され、新しいビルがニョキニョキと建って、すっかり昔の面影はなくなっていた。
鞍山の駅前から千山行きのバスに乗る。途中、東山景勝区にある玉仏苑の前を通る。この玉仏苑には世界一大きい玉仏がある。玉仏は高さ7.95m、幅6.88m、厚さ4.10m、重さ260トンの黒みがかった緑色の玉石を刻んで作られたもので、表には釈迦、裏には観音が彫られている。材料の玉石は丹東の項で紹介した岫岩で1965年に採れたものである。
中国では2001年に「国花」ならぬ「国石」の選定が行われ、この玉石が最終選考に残っていた。結果はどうだったのだろう。最近の報道では、岫岩ではもっと大きな玉が発見されたという。玉仏の石が「国石」に選定されたとしても、数年後にはこのもっと大きな玉に取って代わられてしまうのだろうか。なお、千山に行くとき玉仏苑の前を通らず鉱山の脇を通る道がある。この道を通ると鉱山の雰囲気を少し味わうことができる。
千山の手前には千山温泉がある。バスの窓から見ていて、水着を売る露店が出ていたら、そこが千山温泉である。この温泉の水質もなかなかよく、温泉プールは市民に人気がある。時間があったら千山の帰りに一風呂浴びるのもよいだろう。千山温泉の門標からちょっと入ると右側に食堂がある。ここの薫肉大餅は餅子も肉も独特でおいしい。温泉に寄ったら食べてみるとよい。
バスは40分足らずで千山大門に到着する。30元の入山料を払い中に入るとバスが待っている。5元払ってこれに乗れば無量観、祖越寺、龍泉寺や千山大仏、五仏頂の登山口に行くことができる。道は舗装されていて傾斜もたいしたことはないが、乗らないと一番奥まで2時間ほど歩かなければならない。ここはバスに乗った方がよい。他に歩くところはたくさんあるのだから。
千山は、古くは千華山、後に千朶蓮華山と呼ばれたが、最後に千山となったという。また、千山には昔999しか峰がなかったので、これを惜しんだ人々が人工の山を築いて千にしたと言う伝説や、神が千番目の山を創ってくれたという伝説がある。要するに比較的小さな峰が狭い地域に密集しているのである。
千山は最高峰の仙人台が708mとたいして高い山ではないが、国家級風景名勝区に指定されている。千山にはたくさんの峰と花崗岩の岩場があり、その間に寺院、道観が点在し、多くの文人墨客が遊び、1600種もの詩文が作られている。しかし自然景観そのものは、黄山や華山などに比べると、雄大さ、峻険さ、秀麗さ、幽邃さのいずれにおいても劣る。漱石の『満韓ところどころ』で、馬に乗って千山に行った同行者が「わざわざ苦労して行くほどのところじゃない」と言っているが、率直な感想だ。千山は山そのものは全国区の景勝地とは言い難い。東北には寺院や道観を建てるにふさわしい山が少なく、千山にこれが集中したので、自然に文人が集まり、全国的な名山になったのだろう。
現在、千山は4つの風景区があるる。西海景区、大仏景区、中南部景区、御覧景区である。このうち大仏景区は93年に天然の弥勒菩薩が発見され、今では毎年6月に大仏節が開かれて数万の信者が参集すると言う。しかし、その実体は岩山がなんとなく弥勒菩薩(布袋和尚)に見えるというだけのところである。
中国では、弥勒菩薩が修行のため人間界に下りてくるとされ、民間では五代の狂僧布袋が弥勒菩薩の化身だと考えられてきた。このため弥勒菩薩と言えば、ほとんどの寺でも布袋を模った腹の出たでぶっちょの坊主姿をしている。千山の大仏も発見当時はこのでぶっちょの「弥勒」に見えないことはなかったが、最近は顔のあたりの木が茂って、「そう言われればそう見える」といった程度でしかない。四川省楽山の睡仏の類である。大仏を見るには、バスを降りて石段を1時間半ほど登らなければならないから、あまり割の合うアルバイトではない。もっとも最近、歩かなくても行けるようになったとか、周辺を整備してよく見えるようにしたという報道があったから、少しはよくなっているのかもしれない。
千山は龍泉寺から御覧コースを登る人が多い。風景区の入口でバスに乗り、碧水龍潭という池のところで降りる。ここから舗装道路を右に少し入れば龍泉寺がある。龍泉寺は唐代の創建で、唐の太宗が泉の水を飲んでその美味さに感激し、龍泉寺という名を下賜したと伝えられている。龍泉寺は千山最大の寺院で、建物もほぼ修復されている。入口左側の崖の高みにある割れ目に樹齢数百年という松が生えているが、松の姿はまるで盆栽のように小さい。また龍泉寺は抗日の拠点でもあったといい、これにまつわる逸話も伝わっている。寺内には今も泉があってよい水が出ているそうだが、3度も行っているのにまだ飲んだことがない。
龍泉寺の右奥から山に入り、自然石を積んだ階段を登る。30分も登ると枝尾根に出、ここを左に折れて尾根筋を登ると20分ほどで四阿のある天外天というピークに出る。ここから右手にすすめば御覧山景区で、いくつかのピークを経て無量観に出ることができる。左手に進めば小黄山景区を経て五仏頂に至ると標識がある。五仏頂までは3km程度である(小黄山という表示は御覧山景区東部でも見られた。どちらが本当の小黄山なのだろう)。
天外天から右に進み、岩の尾根を歩く。上り下りがあり、ちょっとスリリングな所もあるが、ほとんど危険はない。九重天、七重天などいくつかのピークを越え、鸚鵡石の近くで人がやっと一人通れるくらいの一字天を通る。一字天は長さ30m、高さ10m、巾1m以下の岩の割れ目で、ここを通ると空が一の字のようにしか見えないということで一字天というのである。
千山には、天外天から祖越寺へ行く道の途中の臥虎峰の南にも一線天という類似の場所がある。ここは長さが32mある。一線天という名は安徽省の黄山、蘇州の天平山等々、いろいろな山にあるごくありきたりの名前である。
さらに進むと一歩登天という垂直の岩(高さは5mくらい)を岩に散りつけられた鉄環にすがって降りるところや夾扁石という岩の割れ目の通路もある。夾扁石はねじれているだけでなく、途中からさらに狭くなるので、体の大きい人は動きが取れなくなる恐れがある。迂回路を通るようお勧めする。また夾扁石通過の際は、リュックは手に持って通過したほうがよい。
この御覧山コースはこじんまりしているが、岩の景色がなかなかよい。山容の小ささは如何ともしがたいが、3時間のハイキングはなかなか楽しい。また、最後が無量観という東北随一の道観で終わるのもよい。ここも丁寧に見れば見どころが少なくない。一行の人数が多い時や、時間がない時はこのコースを歩くのが一番よさそうだ。秋の紅葉は日本の紅葉の名所ほどほどみごとではないが、山頂から裾野に続く紅葉や黄葉が見られる。
*あるHPに体の丈夫ではない人や臆病な人は登らないほうがよいと書いてあったが、それほどのことはない。私でも3歳の少女を抱いて上り下りしたことがあるのだから、普通の体力があれば誰でも登れる楽な登山である。
御覧山にはロープウエーがあるが、動いているところを見たことがない。乗ったことのある人の話では、乗り降りの時に停止しないので、飛び乗り飛び降りをしなければならなず、危険だそうだ。最近この地域も整備されたということだから、もしかすると改善されているかもしれない。
無量観は1667年の創建で今も19棟の建物がある。このうち老君殿がもっとも古く1668年のものである。中心となる建物は三官殿で福を与える天官、罪を赦す地官、災厄を消す水官をはじめ26体の塑像が祭られている。観の下にある山の中腹には聚仙台という欄干に囲まれた台があり、聚仙台と書かれた巨石がある。またこの東側に千山三塔があり、いずれも貴重な文化財とされている。無量観から西に行けば祖越寺がある。ここは宿泊もできる。この寺の後ろからも天外天方面に行く道がある。
私は千山に3回行っているが、いずれも同行者が多く、幼児から老人までいたので、すべて龍泉寺から無量観までのコースを歩いた。残念ながら一度も他のコースを歩いたことがないのである。それで他のコースについては不明なところが多いのだが、知っている限りのことを書いておく。
五仏頂は竜泉寺の少し西でバスを降り、そこから川に沿って普安観まで歩く。普安観は頂上直下の道観で、千山で一番高いところにある寺廟である。竜泉寺から普安観までは約3kmだから、歩いても1時間半とみればよいだろう。バスの停留所近くからロープウエーがあり、頂上直下の普安観まで歩かずに登ることもできる。千山第2の高峰五仏頂の頂上は20m×15mほどの砂地で、赤いマントを羽織った5体の仏像の並んでいる。頂上からは濛々と広がる千山の山並や西海貯水池を見ることができる。五仏頂から東に進めば、天外天に達することができる。
千山の中部コースについては、「龍泉寺から舗装道路を少し東南に進んで一品洞天に至り、そのまま西南に進むと南泉庵、そこから山道を東南に進むとまた舗装道路に出るから、これを東に進めば朝陽宮、大安宮、慈祥観に至る。さらにここから南に入る舗装道路を進むと五龍宮から中会寺に達する」という記述がある。また、「千山正門から舗装道路を2.5kmほど進んだ所で西南方向に延びる谷に入る。この谷をしばらく進むと山上に瑠璃瓦製の白い塔が載った浄瓶峰が見える。ここからさらに500m進むと中会寺に着く」という記述もある。
ある地図によると、千山正門側から中会寺方面に行く道は3本ある。上の二つの記述は一番西寄りと東寄りの道を通ったものと推測される。手元には3枚の千山地図があるが、道や堂宇の位置が地図ごとに違っているので、正確なことはわからない。具体的には現地で確かめるしかなさそうだ。
南部景区最大の名勝は仙人台である。仙人台は千山の最高峰で岩が高さ20mのところでせり出して屋根となり、30m×4m岩棚ができている。遠目にはワニが口を開いた感じである。また、この岩の正面には菩薩像、脇には仙人台彫られている。仙人台の直下にある香岩寺も斜面にへばりつくように建てられた名刹である。
昔の千山の案内には必ず仙人台に立っている若者の写真が載っていたものだが、御覧山、西海(五仏頂、龍泉寺)、大仏コースを結ぶ車道ができてからは、行く人があまり多くないようだ。竜泉寺側からだと歩行距離が長いからだろう。歩行距離を短くするには一度門を出て、バスで仙人台の登山口まで行きけばよいのだが、それでもバスを降りてから2時間以上登らなければならない。こんなことも行く人が少ない理由かもしれない。
仙人台の行き方については、1997年の旅行記によると、無量観から慈祥観、太和宮を経て香岩寺に行き、そこから険しい道を登って頂上に達したとある。また別の資料では中会寺を経由して登ったとも言う。ところが 最近の報道によると、千山正門からの道が舗装され、五龍宮、中会寺を経て大安寺までバスが通うようになり、大安寺から30分で仙人台に登れるようになったと言う。中会寺から仙人台までの南斜面は北斜面に比べると緩やかだそうだから、危険もあまりないのだろう。また別の千山紹介によると、秀峰や奇岩怪石は南部地区に多いという。千山に行って仙人台に行かないのは、千山に行かなかったのに等しいとも言う。道も整備されたことである、今度千山に行ったらぜひ仙人台に登ってみたいものである。
千山旅行社の広告によると、仙人台のガイド料は15人の団体で150元、車の手配も可能ということである。97年の旅行記では、千山の五大叢林はいずれも廃墟に等しい状態だったと書かれているが、最近の資料ではみな立派な寺院の写真がある。最近数年の観光開発で修復されたのであろう。
登山終了後、千山正門からバスで鞍山駅に戻る。今晩は湯崗子温泉に泊まる。湯崗子温泉は鞍山から15km南にあり、湯崗子駅のすぐ近くである。しかし、湯崗子駅に停まる列車は1日に3本しかないから、バスで行く。距離はそれほどないからタクシーで行ってもたいした費用はかからない。
湯崗子温泉には唐の太宗が入ったと言われている。大連の大黒山、呉姑城、千山の龍泉寺、興城の菊花島、どこも古さを語る時はみな「唐の太宗の高句麗遠征の砌」と切り出す。唐の太宗はこのあたりで歴史の古さを言う時の常套句なのだろうか。
湯崗子の歴史ではっきりしているのは、金の天会8年(1130)に金の太宗が入浴したことで、以後連綿と続いた歴史の古い温泉である。1920年代には張作霖が別荘を作り、30年代には日本人が対翠閣という旅館や竜宮温泉という温泉施設を作り、天津から潜行してきた溥儀がここに隠れていたことは有名である。
湯崗子温泉は中国最古の温泉療養センターで、中国4大温泉リハビリテーションセンターの一つである。温泉の温度は57度〜65度で、広い池を囲む庭園風の敷地に各種の施設が設けられている。溥儀と皇后が入浴した竜宮温泉は円形の浴槽が今も残っているから、ぜひ入って見たい。また、泥蒸風呂など各種の温泉療法や針、灸、抜缶子なども体験できるから、興味のある人はやってみるとよい。
この温泉には1985年にも来たことがある。私が入った風呂がどのへんにあったのか記憶が定かではないのだが、白いタイル張りの深さが120cmもある6畳くらいの浴槽があり、入ってみたら温度はひなた水同様、水面には垢がたっぷり浮いていた。係員に文句を言ったら、お湯を出す係がいないから湯を足すことができない、シャワーで我慢してくれと言われた。で、シャワーを浴びたら、これがまたチョロチョロとしか出ない。もっと出そうと思って更に蛇口を回したら、蛇口がポロッと取れてしまった。あの時の湯崗子温泉はさんざんだった。
97年にはだいぶ状況が変わっていて、ホテルなどが新築されていた。溥儀の入った竜宮温泉はちょっと暗かったがそれなりにいい湯だった。しかしロッカーなどがビショビショで、まだ快適とは言えない。今は中国四大リハビリ施設として日本向けに宣伝しているし、温泉療養ツアーもあるくらいだから、相当よくなっているだろう。中国初心者にも安波よりは安心して入れる温泉と言えるのではないだろうか。
10.遼陽
《11日目》今日は最後の目的地の遼陽に向かう。湯崗子から鞍山に出、鞍山から遼陽行きのバスに乗る。遼陽は思いのほか歴史の古い町である。戦国燕のころには町があり、秦のころには襄平と言って遼東の中心だった。漢代には県が置かれ、その後高句麗の支配地になったが、唐代には遼東城となり、遼東の中心になった。さらに金代には東京府となり、清初には瀋陽に移るまで首都が置かれていた。これだけ重要な所であったため争奪の対象となることも多く、近時だけでも日露戦争の遼陽会戦、国共内戦期の遼瀋戦役などによる破壊を経験している。洛陽などと同じで、歴史は古いが市内に古い建物がほとんどない。
遼陽の名勝といえば、遼陽白塔、漢代の壁画墓、清の東京陵などが挙げられ、白塔と壁画墓は国家級文化財である。白塔は駅から徒歩15分くらいのところにある白塔公園の中央に立っている。高さは71m(一説に40mと言う記述のある資料もあるのだが、見れば分かるのにどうしてこんな大きな差のある説があるのかわからない)、レンガ作りで八角十三重の塔である(あるHPに3重の塔とあるのは密檐部分を1層と数えたのだろう)。
塔の北には明代に広佑寺があったので、広佑寺白塔と言われていたが、形式は遼代のもので修復を記録した碑文によれば遼の中期以降に建設されたらしい。また、東京城の北西から出土した碑には金の世宗の母が東京大清安寺に塔を建てたと書かれており、この塔が白塔かもしれないとも言う。いずれにせよ、塔は遼代のもので高い基壇の上に立ち、塔の各面には座仏、脇時、飛天などの彫刻があり、軒には風鐸と鏡がかかっている。
塔の周辺にはかって寺院の礎石だったと思われる1m四方もある石が点在している。公園には遊園地があって、飛行塔などの遊具があり、遼陽市民が子供連れで遊びに来ていて仏教施設らしい雰囲気はほとんどない。
遼寧省には朝陽の雲接寺塔、興城の白塔、北寧の双塔、撫順の遼塔、瀋陽の無垢浄光塔など遼代の塔が多く、みな十三重の実心密檐式の塔なのだが、形や雰囲気にそれぞれ違いがある。別に遼代古塔に興味があるわけではないが、この違いはどこから来るのか気になるところである。
東京陵は、遼陽市街の北にあり、駅前から13路のバスに乗って終点で下車すれば行ける。これはヌルハチの弟の墓で、様式は瀋陽の北陵に似ているが、規模はずっと小さい。
壁画墓は漢末から魏晋のもので国家級文化財だが、今は一般には公開されていないようだ。遼陽の博物館に行けば壁画墓の展示を見ることができるから、興味があれば博物館に行くとよい。
遼陽は日露戦争の古戦場でもある。ここでは1904年8月、クロポトキン率いるロシア軍22万と大山元帥率いる日本軍13万が激突した。日本軍は8月26日にロシア軍の前進基地であった弓張嶺に師団ぐるという常識外れの夜襲をかけてこれを奪取し、9月4日には遼陽を占領している。本渓と遼陽を結ぶ省道が山を越えるあたりに弓張嶺、寒嶺などの地名が見られるが、これが日露戦争の戦跡である。このあたりは以前、本渓からの帰りに通ったが、山また山、その上当時は道路工事中で山越えにかなりの時間を要した。今は道がよくなっているから、山のほかにはなにもないところだが興味があれば行ってみるのもよいだろう。
遼陽にはトンアルプーという村がある。トンアルプーのトンは人偏に冬を書く。アルは「二」、プーは「堡」である。堡は普通「bao」と発音するのだが、地名の時は「pu」または[bu]と発音する。遼寧省には堡[pu]のつく村が多いが、これは明代の長城守備隊の駐屯に関係する地名だという。トンアルプーはこの説明からもわかるように小さな田舎町である。それがなぜ名所になるのか。
実はここには農民が作った皮製品の一大市場がある。もともと皮革に関係があったのかどうかはわからないが、1995年には誰もが知っている市場だった。97年に行った時には、市場の周辺は農村で、当時の中国の農村に見られるようなみすぼらしい家が立ち並び、ゴミがあたりかまわず捨ててあるといった状態だったが、市場のある区画には大きな建物が4棟、小さい建物が数棟あり、そのすべてに毛皮や皮革を扱う店が入っていた。店の規模は大小さまざまだが、高いものは20万元のミンクのコートから安いものは5元の子供用チョッキまでなんでも揃い、値段は小売価格の半値以下というので、同行の中国人はコートや帽子など、かなりの物を買いこんでいた。瀋陽や大連で厳しい冬を越さなければならない人は、コートでも買いにいってみるのも面白い。ついでに鞍山にある箱包城に寄ってカバンやバッグなどを見ても面白いのではないか。
トンアルプーは高速を灯塔で下りて、省道を西へ20kmほど進み、東昇で市道に入って南に進めばすぐである。箱包城は高速を通っているとき、西側を見ていれば大きな建物と看板が見えるから、すぐわかる。
11.瀋陽
トンアルプーから遼陽に戻り、バスで瀋陽に向かう。遼陽から瀋陽までは1時間足らずである。瀋大高速を北上し、三環路に入って東に進み、瀋丹高速と合流して北に向かえばほどなく悪臭を放つ渾河を渡る。渾河からは20分から30分で瀋陽駅前の南二馬路、この旅の出発点に戻る。これで11日に及んだ遼東半島の旅は終わりである。
なお、瀋陽、撫順の名所については「瀋陽名所案内」、「撫順、新賓の旅」と題する別稿があるので、そちらを見ていただきたい。
瀋陽は東北地方最大の都市で、商業の中心なので規模の大きな市場がたくさんある。市場については「瀋陽名所案内」で紹介していないのでここで紹介しておく。
@小食品市場:南二馬路にあり、乾物や菓子が安い。
A五愛市場:五愛路にあり、服装と服飾小物、傘、鞄、文具、靴、化粧小物などが安い。
B中国靴城:文化路と万柳塘路の接点にあり、靴が安い。
C日雑市場:靴城の南にあり、日用雑貨が豊富で安い。
D厨房用品市場:十三緯路にあり、大きな設備から箸まで、厨房食堂用品ならなんでも揃う。
E骨董市場:北市にあり、本物の骨董から偽物まで、現代の美術品からチャチな飾りまで。なんでもある。日本人の残したものを売る店もある。日本軍の軍用品は買わない方がよい。「侵略の罪証」を持ち出したと空港で没収される恐れがある。骨董市で売ってる日本画の類は、売り手は日本人が引き上げの際残していったものだと言うが、100%偽物である。市場の階下には植木やペット市場もある。北駅正面の道を直進すると左側にも骨董店の入ったビルがある。ここに足繁く通っていると、畑から掘り出した遼代の磁器などを売りにきた農民に出くわすかもしれない。
F朝鮮族百貨店:西塔の少し東にある。周辺は朝鮮族の居住地で、百貨店の裏の道では、他では手に入らない朝鮮料理の食材などを買うことができる。
旅行で瀋陽に寄った場合はバケツや鍋釜など買うこともないだろうが、時間があったら五愛市場だけは覗いてみるとよい。偽物展示会といえるほど偽ブランドの品物が多くて面白い。中には帽子の表がポロで、裏がアシックスなどというすごいものがわずかの10元で買える。偽ブランド品は日本への持ち込みはできないが、髪飾りや時計、折り畳み傘など、1元から30元くらいでお土産が買える。ガールフレンド100人にプレゼントしても100元から200元で済むのだから、友人の多い人にはありがたい市場である。
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