これまで、このHPをご覧くださった方から、いくつかのご質問をメール等で頂きました。
それに不十分ながらも、住職の出来る範囲でのお答えをさせていただきました。
ここにその内容を紹介し、ご覧くださった多くの方からのご意見をお聞かせいただきたいと思い、掲載することといたしました。但し、ご質問くださった方が特定できる可能性のあるものなど一部の内容は、住職の責任において削除 あるいは改変いたしております。
このページをご覧になっての感想、ご意見等がございましたら、「掲示板」に書き込んでいただくか、表紙に掲載したメールアドレス宛にメールを頂きたいと存じます。
なお、各問いは下へ行くほど古くなっています。問いの番号をクリックしていただくと、その内容をごらんいただけます。
| 問いI | 子供を持つことについて | 2006年9月 |
| 問いH | 現代の日本における仏教音楽について調査しています | 2005年9月 |
| 問いG | 法話の仕方を教えてください | 2005年7月 |
| 問いF | こんな私でも、仏様は見捨てずに見守って頂けるでしょうか? | 2005年5月 |
| 問いE | 怒りを我慢すると、何も言わない私が負けた、舐められたと考えてしまいます | 2005年4月 |
| 問いD | 「及ばざるは 過ぎたるより まされり」と言う言葉は、どのように受け取ったらよいのでしょう | 2005年2月 |
| 問いC | 出家の意義を教えてください | 2004年2月 |
| 問いB | 浄土真宗門徒がクリスチャンの女性と結婚したいのですが | 2003年11月 |
| 問いA | 霊は平生にはどこに居られるのでしょうか? | 2002年9月 |
| 問い@ | 夫が住職を継職する意志のない寺を廃寺にしたいのですが | 2002年6月 |
| 問い@ | |
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私は、現在43才です。実は、夫が住職をせまられています。親とは別居していますが、子供は高校1年、娘は中学1年です。夫は一人息子で、兄弟や親戚は、まったく1件もありません。夫は、寺をつぐ意志はなく、別居して18年になります。(もちろん今は、持ち家に住んでいます)
私自身は、一般の家庭で育ち、寺のしきたりについては無知です。夫が自分の意志で住職の道を選ぶのであれば、私はついていくしかないと思っていますが、寺を辞めるということが現実に可能なのかどうか自分のおかれている状況について認識しておきたいと思っています。 この3月に義父 の住職が亡くなり、次期住職として義母がたとうとしています。ご門徒数は、遠方者を入れ、名をすべて書きつらねても、50件。実際には24件ほどの小さな寺です。これから先のことを考えると寺院の維持も難しく、また、仕事との両立も厳しいものがあります。実際、前住職も教員生活をした自分たちの年金で寺を守ってきたようです。おつきあいのある近隣の住職さんのお話では、「寺を辞めるのなら、そうとうの金額を支払うことになる」と、言われています。 別居したときから、遺産関係は放棄するつもりではいましたが、自分たちの預貯金まで差し出すことになるとは・・・。
寺の常識がない私には、まるで、詐欺にでもあったような気分になりました。これが「宗教」と言えるのでしょうか。今までありがたく拝んできたことに逆に裏切られたように思いました。本当に廃寺にすることは、数千万ものお金がかかることなのでしょうか? 廃寺など、子孫に恵まれている家では、ありえないことなのかもしれませんが、ご存じでしたら、教えてください。アドバイスをいただければ、大変ありがたいです。 |
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| 住職の答え | |
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メールをありがとうございました。
@解散当時の住職に帰属する また解散するためには、門徒総代に諮問し、責任役員の2/3以上の多数の議決を経、総長の承認を得た後、所轄庁に認証の承認を得る といった手順になるようです。
いずれにしても、お金は何千万もかかるということは無いはずですが、手続きは決して簡単ではありません。これは、宗教法人を簡単に設立したり、解散したりができないようにするためのものであると思います。
しかし、寺を守るためには経営者的な考えを持たざるを得ず、悲しい思いをすることがよくあります。ご門徒が亡くなりお葬式があるというとき、悲しく切ない思いと収入があるためにホッとする思いと、どちらも心に浮かんでくるのは自分ながらに許せない思いがいたします。 |
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| 頂いたご返事 | |
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さっそくのお返事ありがとうございました。 |
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| 問いA | |
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前略 |
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| 住職の答え | |
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メールをいただきありがとうございました。 |
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| 頂いたご返事 | |
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此の度は私の稚拙な質問に対して、ご親切、ご丁寧な返信メールを頂き有り難うございました。
お尋ねした疑問の端緒は茨城の物理学者が命は質量を持ったエネルギィであるとの実証談を、NHKラジオ放送でお聞きした事が発端です。これはこれまで曖昧であった命即ち霊というものが、肉体から離れて存在することを物理的に証明した一例です。 |
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| 問いB | |
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突然のメール、大変失礼致します。今抱えている悩みについて良いアドバイスをいただきたくメールをしました。早速ですが、今私には結婚を考えている女性がいます。
その女性というのは、日本人ではなく海外の方です。本当に心から愛し合うことの出来る方で、今2人でいつも結婚した後の生活を夢に見ながら話をしています。しかし、どうしてもこの2人には1つだけ大きな考えの違いと言いましょうか、よりどころとなるものの違いがあります。それは、宗教です。私は、浄土真宗本願寺派つまり、親鸞聖人のみ教えを心のよりどころとして、今の女性とめぐり合えたこと、つまり、複雑に絡み合う中でのご縁であるとして、大切に時間をすごさせて頂いております。一方彼女はクリスチャンです。お互いそれぞれ自分のよりどころなる宗教を持っています。 |
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| 住職の答え | |
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メールを有り難うございました。
当初は毎晩のように聖書を持って、キリスト教に改宗させようと、ご主人のご両親にキリストの教えを説きつづけられたそうです。それを本当にうれしそうにご主人のご両親は聞いておられたそうですが、もちろん寺参りをおやめになるはずもなく、お念仏を喜ぶ毎日を送り続けておられました。
その後、河村とし子先生が様々なご縁で同じ念仏喜ぶ身になられたときに、おばあちゃん(ご主人のお母様)にそのころのことをたずねて、「あのときはどんなにか情けなかったでしょうね。よくあんなににこにこして、毎晩毎晩聞いてくださったことですね。」といわれたそうです。 それに対しておばあちゃんは、「いやのう。ちょっとも情けないとも思わんし、腹が立ったり、悲しかったりということはちょっともなかった。こうして毎晩、一所懸命キリスト教を説きにきてくれるこの嫁だけど、ご縁があってうちの嫁になった人じゃから、如来様におまかせしときゃええと私は思うとった。」と答えられたのです。 私も、すべては如来様におまかせするしかないと思います。死ぬまで信じるものが異なったままかも知れませんし、どちらかに惹かれて変わることもあるかも知れません。いずれも私たち人間のはからいを超えた世界のことでしょう。また、もし異なるものを信じたまま命を終えたとして、その先がどうなるのかは、いよいよ以て私たちには「まかせる」ほかどうにもならないことです。 私は、阿弥陀様から命をお預かりして、今生かさせていただいております。従って私の人生の中で、私の力で決めたこと、私の力でなしとげたことなどただの一つもないと言わざるをえません。命さえも預かりものなのですから。 多くのご縁によって今の私があると感じるごとに、すべての出会いは尊いものであったとつくづく思われます。その時その時を精一杯生きることの積み重ねが人生ですが、ご縁は大切にしたいと思っています。その結果は、おまかせするしかないのではないでしょうか。 何のアドバイスにもならず、誠に申し訳ありません。お許しください。 |
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| 頂いたご返事 | |
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貴重なアドバイス大変ありがとうございました。 |
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| 問いC | |
| 突然すみません。出家の意義を教えて下さい。お手数お掛けしますがよろしくお願いします。 | |
| 住職の答え | |
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「出家の意義」と言うことですが、この場合の「出家」とは「僧侶になること」を意味すると考えて良いのでしょうか? 私は浄土真宗の僧侶ですが、この宗では、宗祖『親鸞』自らが正式に妻帯して非僧非俗(僧にあらず俗にあらず)の生活をされました。その流れを受けて、私たちも先祖代々一般の方と変わらない生活をしています。これは、阿弥陀如来の願いが、特別な修行をしたくとも出来ない者を、阿弥陀如来を信じ、その働きにまかせてさえくれたならば必ず救うという願いであるからです。 この願いを信じて、阿弥陀如来の働きにまかせ、必ず救われると定まった身を、精一杯生き抜くことが私たちの生き方です。 従って浄土真宗において僧侶になることは、普通の生活をしていく中で、「非僧非俗」の「非俗」の面に少し重点を置いた暮らしをします、と自らに宣言したようなものであると私は考えております。決して特別な、偉い人になることではありません。 ただそれを勘違いしてしまいがちなのが、私たちの大きな問題であると思います。 又、本当に「非俗」の面がその生活にあるの?と疑いたくなる生活をしているのも私たちです。 今この文を書きながら、あらためて私のこれまでの生き方を振り返って、ああ恥ずかしいことだったと、反省させられたことでした。良いご縁を頂いたことを感謝いたします。 出家の意義にはなりませんでした。申し訳ありません。 |
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| 頂いたご返事 | |
| ありがとうございました。現在、在家の信仰をしています。参考になりました。よく考えます。 | |
| 問いD | |
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教えて頂きたい事が御座いまして、失礼かと思いましたが、お暇の在ります時で結構ですので、宜しくお願い申し上げます。 |
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| 住職の答え | |
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この度はメールをくださり、有り難うございます。
お釈迦様のお覚りの中で、「中道:ちゅうどう」というものがあります。二つの両極端から離れた自由な立場(中:チュウ)を実践すると言うことです。「何事にもこだわってはいけない」という事だと思ってもらえばいいかも知れません。
病気の時にお医者様が薬を出されるときには、多少効き目が弱くとも副作用の少ない薬を先ず使われるのではないでしょうか。その後の様子を見て少しずつ強い薬に変えて行かれることもあるでしょうが、いきなり効き過ぎるほど強い薬を出して、その病気は治っても患者さんが別な副作用に苦しむよりは、少し効き目が弱い方がよい、と言うことでしょう。まさに「及ばざるは 過ぎたるに まされり」です。
ご質問の中に「知らない方が知り過ぎている者よりも良い」という言葉がありましたが、あるいはそうかも知れません。私達が知るべき事や知りたいと思うことには限りがありません。常に新しいことやもっと深いことを知りたいと追求し続けることは、人生を楽しく豊かなものにしてくれます。その中で、「全てを知り尽くしたい」という事にのみこだわって生きるより、「私はまだまだ知らないことが多くて、うれしいな」と思って生きることの方が勝っているのではないでしょうか。 |
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| 頂いたご返事 | |
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このたびはお忙しいにも関わらずに早速のお返事を頂きまして、感極まって居ります。本当に有難うございました。優しく解りやすい説明に改めまして、何回も読み直して居ります。 |
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