沙漠のホテルの赤茶けた水
そのホテルは沙漠の真ん中に突如としてあった。
中国内蒙古自治区「恩格貝」のクブチ沙漠。
もともと遊牧民が少数暮らしてるだけの地域らしかった。
10年にわたる植樹の成果、農業地域や、牧場(ダチョウ、エミュウ、ラクダ、羊など)の開拓により
今では村というべく集落もあるとの事。
そのホテルは、今年になってオープンしたらしく、沙漠開発関係者やボランティアの人達が利用している。
僕達もこのホテルを利用させてもらった。
建物そのものは3階建て鉄筋コンクリートの堂々としたもので、建物のデザインもよかった。
しかしこの建物の中で、僕は今までに経験した事の無いこんな体験をした。
このホテルを利用する前に、添乗員さんからこんな注意を受けた。
「ここは沙漠のど真ん中のホテルです。日本のホテルの観念は捨てて下さい。」
・・・うん、そりゃあそうだよね。当然・・・
「先ず建物ですが、形は立派ですが設計はかなりあやしいと思って下さい。」
・・・へっ?
「たとえば鍵。運がよければ一回で開閉出来ますが、悪ければなかなか開かないし閉じません。」
・・・う〜ん、まあそれは・・・
「それからお風呂ですが、バスタブはありません。シャワーだけ。お湯の出るのは夕方のシャワー・タイムの1時間のみ。」
・・・沙漠だもんね。仕方無いよね。
「ただそのシャワーもかなりあやしいもんです。運が良ければ使えるでしょう。」
・・・ちょ、ちょっと・・・
「一番の問題はトイレです。一応水洗です。しかし・・・いいですか。使用したペーパーはどんな物であっても
流せません。日本から持参したどんなに品質のいいペーパーでも流せません。水圧が無いのです。
流せば確実に詰まります。
もしそうなったらどうなるか・・・ここには修理屋さんは居ません・・・」
・・・オイオイ・・・
「使用したペーパーは、備え付けの汚物入れに捨てて下さいね。」
・・・汗・・・
「ああ、それからもう1つ。ここでは断水は日常茶飯事です。トイレ等の為に備え付けの洗面器に常に水を
貯めておく事をおすすめします。」
・・・沈黙・・・
確かにそれから利用してみると、いろんな不備が目立った。
先ずドアの開閉には閉口させられた。なかなか部屋の鍵がかからないし、解除出来ない。
それからシャワー。シャワータイムになっても約10分間は水のままでお湯にならない。
そしてバスルームの排水。いつまでたっても足元の水は流れてくれない。
それはそうだ、排水口に対して逆に傾斜が付いてるのだから・・・
そしてトイレ。決してペーパーを流してはいけないというそのトイレ。
ペーパーを入れる汚物入れというのは、ごく普通のくずかご(網目の)が備え付けてあった。
他にあげたらきりが無い・・・でもこれがここでは普通なんだと納得した。
考えて見れば、我が日本だってほんの何年か前まではこうだったはずなんだ。
今でこそ、なにかというとやれ「除菌だ」「抗菌だ」と騒いではいるが・・・
いつのまにか我々は某企業の策略により、トイレットとは洗浄シャワー付きの
水圧の高い水洗トイレが普通だと思わされているに違いないのだ。(オイオイ!)
次の日の朝・・・
朝早く目覚めた僕は『パブリック』と書かれたホテルのロビーのトイレに入った。
どうしても自分で処理したペーパーを、自分の部屋のトイレのくずかごに捨てるという事に
ためらいがあったからだ。
鏡の並んでいる手洗い場を通ると、水道のパイプから水が漏れているらしく
洗面台のパイプの下に洗面器が置かれ、そこに赤茶けた水が溜まっているのが目に入った。
個室に入ったものの今度は鍵がかからない。だって鍵は付いているのだが、肝心の鍵の受け側が無いのだ!
しょうが無いので、片手でドアを内側から手前に引っ張りながら用を済ますという、なんとも情けないカッコで・・・
「さてと・・・」
ほっとしたところで「どれ、水を・・・」水洗コックをひねった・・・反応無し・・・
「えっ?!」もう一度・・・沈黙・・・「アセ、アセ・・・」
もうどんなにしてもトイレの水は一滴も出てこなかった。
昨日の添乗員さんの言葉を思い出す。「ここでは断水は日常茶飯事です・・・」
「じょ、冗談じゃ無いよー!ど、どーしよー、このおみやげ〜!」
すっかり面食らった僕はもう途方に暮れるばかりだった。
ただ、いくら考えたって水は出てくれそうもなかったが・・・
「はっ、そうだ!あの洗面器の水だ!」
僕はその時、先程見た洗面台のパイプの下の洗面器に溜まっていた赤茶けた水の事を思い出した。
早速その洗面器をかかえてきて、おもいっきりその水をぶちまけた・・・
「は〜!やれやれ・・・」
ほっとした僕は(本当にほっとした)
この事(水が出ない事)を同室の人に伝えた。
それから、朝の空気を吸いに外に出た。
外には、このホテルに泊まってる同じボランティアのメンバーや
ここのスタッフの人達(沙漠緑化のメンバー)が散歩していた。
例の話をすると、スタッフの人は笑いながら
「ここではそんな事あたりまえですよ。いちいち気にしてたらやってられません。慣れる事です」
考えてみると我々は、事、水に関していえば本当に恵まれていると思った。
日本に着いてからも気付いたのだが、本当に日本は緑が多いと思う。
毎日水道をひねると、当たり前のように豊かな水があふれる。
ただ、このあたりまえの生活に慣れきっているのが自分なのだった。
そしてこんな事に遭遇するとただただ、うろたえてしまう・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やがてホテルにはそこで働いている、従業員の人達が集まり始めていた。
例の『パブリック』のトイレの洗面台をちらと見ると、そこにはこのホテルのスタッフの、若い女性が鏡の前にいた。
どうもまだ水は出ないようだった。
なぜなら、彼女を見るとなんと例の水道パイプの漏れの
赤茶けた水を自分の洗面器に(私がトイレに水をぶちまいた洗面器では無い)
少しずつ貯めながら、その水を使って化粧をしていたのだ・・・
私は思わず彼女に声をかけた。
「いつになったら、水は出るんでしょうね?」
彼女はあまり英語が理解出来ないようだった。
というか、おそらくは99パーセント私のかなりあやしい英語が理解出来ないようだった。
彼女はとまどった表情を浮べながらも、次に微笑すると、なんと自分の洗面器に少しだけ溜まった
赤茶けた水を僕に差し出したのだ・・・微笑みながら両手でその洗面器を僕に差し出したのだ・・・
きっと彼女は僕が水を欲しがってると思ったのだろう。
思わず口の奥が酸っぱくなってしまった僕は「ノー・・・ノー・サンキュー。サンキュー・・・」
ただそれだけ言うのがやっとだった・・・
彼女に言った「サンキュー」という言葉は、誓って言うけれど
本当にいつわりの無い僕の感謝の言葉だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕は今回この旅で本当にいろんな貴重な経験を数多くした。
又、すばらしい人達とも沢山出会った。
それらはすべて僕の大切な財産になるだろう。
日本に帰った今、またいつもの生活が繰り返される日々。
そして、水道の蛇口から、溢れんばかりに流れ出る澄み切った水を見る度に
僕はあの沙漠のホテルの女性の微笑みと、洗面器の中の赤茶けた水の事を思い出す。