アーユルヴェーダ歴史的背景

参考文献:ピエール・ユアール.ジャン・ポッシー.キ・マザール共著⇒アジアの医学

古代の歴史的な流れ
古代
インダス文明 前2500年頃 都市は非常に発達した私的設備が完備していた
前15〜11世紀 ヴエーダ文献の設立、文献最初の医学的知識
前11〜6世紀 ブラーフマナ文献と古ウパニシャッドの編纂
ブッダ 前560〜480年頃 ジーヴァカ、インド外科学の父
ナンダ朝 前350〜320年  
アレクサンダー王インド遠征 前325年 アーユルヴェーダの医学発達
マウリア朝 前320〜185年  
シュンガ朝 前185〜75年  
クシャーナ朝 後1〜3世紀 チャラカとスシュルタの二大医学サンヒターの成立
グプタ朝 後320〜500年 インド科学の絶頂期
ハルシャ王の治世 606〜647年 ヴァーグバタ(7世紀?)
ムスリムのシンド征服 712年  
中世
地方王朝時代(ラージプト時代) 8〜12世紀 マーダヴァ(8世紀?)の病因論ヴリンダ(10世紀)およびヴァンガセーナ(12世紀)が治療論の集大成
ムスリムによる征服 12世紀 アラビア医学の導入
デリー・スルタン王朝 13〜16世紀 シャールンガダラ(12〜13世紀)医学サンヒター著者
ハルジー朝 1290〜1320年  
トゥグルク朝 1320〜1412年 ハーキム・ディヤ・ムハンマドが「マジュムアイ・ディヤイッヤ」(1320年)を編纂マダナバーラが薬物論を著す。(1374年)
サイイッド朝ロディー朝 1414〜1526年  
近現代
ムガル朝 16〜18世紀 ユーナーニー医学の全盛期
イギリス統治時代 19〜20世紀 西洋医学の伝播と伝統医学の復興
インド独立 1947年以降  
アーユル・ヴェーダ
インドの伝統医学は、その歴史に関心をもつ一部の専門家を除いて、西洋ではそれほど知られていないのが現状でした。それにはさまざまな原因が考えられます。たとえば、インドの科学は独創性を欠いていて、ギリシャの科学やイスラムの科学からの借り物の上に基礎を置いたものであろうと、長い間考えられてきたことがあげられます。また後の医学上の革新については中国の影響があったと考えられることが多かったのです。他方、この科学の担い手であるバラモンたちは、他のカーストに属するヒンドゥーの人々に対してさえも隠してきた自分たちの知の宝庫を、ヨーロッパ人たちに積極的に見せようなどとは決してしなかったということもその原因のひとつです。
伝統医学の基礎となっている、アーユル・ヴェーダというサンスクリット語の名称で知られているインドの古典医学は、「長寿についての知」の意味ですが、「バイオロジー(生命学)」と翻訳しても良いでしょう。つまりそれは、単に医学であるだけでなく、正常なものであれ、病的なものであれ、あらゆる意味での種々多様な生命現象を取り扱うものなのです。この「バイオロジー」の内には心理学も含まれます。インド的なものの考え方によれば、心的な諸現象と肉体的な諸現象とは対立するものではないからです。それゆえアーユル・ヴェーダには、医療の実践にかかわる諸規定のほかに、健康と病気の状態にある身体・生命・精神にかかわる人間存在の諸条件がすべてまとめられているからです。
このアーユル・ヴェーダの医学は、西はイランから東はインドネシア、南はスリランから北はモンゴルに至るまでのかつてのインド文明圏全体の中で、ちょうど古代のギリシャの医学がヨーロッパおよびアラブ諸国で果たしたのと同じ役割を果たしてきています。今日西洋の医学が導入された結果それが消え去ってしまったかといえば、そのようなことはまったくなく、他のさまざまな伝統医学とともに今なお広く実践され、再び広く受け入れられるようにさえなっています。それゆえ、そこに述べられる理論や治療法がどのようなものであり、社会においてそれがどのような位置を占め、それが何の役にたち、普遍的な医学にいかなる寄与をなし得るかを問うことは、すぐれて今日的なのです。

世界最古の医療

参考文献:幡井勉著⇒生命の科学アーユルヴェーダ

アーユルヴェーダ伝承の系譜
プラーフマー

プラーフマー

インドラ
アーユルヴェーダの最初

感覚器に伝えられるエネ
の提案者。

プラジャパティー

ルギーの水準を代表して

いる。
プラジャパティー

アシュヴィン双神

インドラは弟子のアートレ
プラーフマーの息子とも

ーヤとバラドヴァージャに
いわれているダクシャ・

インドラ

またカーシャバやダンヴ
プラジャパティー。 ああ ああ ああ ああ ァンタリにその知識を伝え

た。
アシュヴィン双神

バラドヴァージャ

カーシャバ

ダンヴァンタリ

スヴァルガ(天界)で

カーシャバ
医神といわれた。

アートレーヤー

スシュルタ

インドラの弟子の一人、カ

ーシャバは小児科が専門
インドラ

チャラカ

神々の王

【内科学派】

【小児科】

【外科学派】

◎神から啓示されたアーユルヴェーダ

アーユルヴェーダの教本では、このヴェーダも神々が人が病気で苦しんでいるのを哀れんで聖者にこの医学を掲示したものとしているのです。これには二つの系統すなわち、内科学派と外科学派があるが、ともに創造主のプラーフマー神から、万物の王プラジャパティーに、プラジャパティー王からアシュヴィンに伝えられ、アシュヴィンはインドラ神に、インドラはこれを内科学派のバラドヴァージャ、外科学派のダンヴァンタリに伝えたとされています。
内科学派は住持、文化の中心とされていたガンダーラ地方にあるタキシラ(現在のパキスタン)で活躍したアートレーヤい伝えられたが、六人の弟子たちがタントラと呼ばれる医学論文をそれぞれに著しています。
六人の有名な弟子たちはそれぞれ、アーユルヴェーダの論文(その大部分が既に消失している)を書いたと伝えられています。
アグニヴェーシャの著作、あるいはその一部が後に度々改定、削除、追加、増補されたが、『チャラカ・サンヒター』という形で我々の手許に残されたのです。

六人の弟子

六人の弟子

アグニヴェーシャ
ベーラ
ジャトゥーカルナ
パラーシャラ
ハーリータ
クシャーラパルニー

◎前ヴェーダ医学…先史インド医学…

ヴェーダを残したアーリヤ族がインドに入った紀元前千五百年には、すでに原オーストラロイド系とドラヴィダ系の民族がかなり高度な社会を築いていたのです。現在パキスタンのインダス川流域にあるハラッパーやモヘンジョダロの遺跡を見ると、彼らの築き上げた古代都市がどのようなものであったか、どのような分化をもっていたかが推測されますが、その遺跡から発掘された数々の印章に書かれた、いわゆるインダス文字はいまだに解読されていないのです。
医学に関する記録は見つかっていないのですが、おそらくは、アニミズム的なものであったろうと推測されています。「病気は自然現象ではなく、魔術あるいは呪術的なもの、超自然的なものとして、魔法、まじない、その他の様式で癒そうとする。病気を追い払うために、護符、魔除けが用いられる。彼らの医術はまさしく原始的なものといわざるをえない。」【クトムビア著:古代インド医学】
インダス文明社会は、どういう理由からか突如として崩壊しています。それはインダス川の大氾濫であったのか、アーリヤ族の激しい攻撃ににあったためかは判然としないのですが、ヴェーダ時代に入って最後のヴェーダ、すなわち『アタルヴァ・ヴェーダ』は非アーリヤ的なものといわれています。おそらく、先住民族の持っていた医学がそっくり征服者であるアーリヤ族のものになったのであろうと見られています。アーリヤ族が彼ら先住者の医学を借りたのだと考えられます。
古代エジプト人が、病気や死が自然で不可避のものでなく、目に見えない力を持った悪魔によって引き起こされ、不可視の世界のものだと信じていたように、インダス文明社会の人たちも、「それは神であり、精霊であり、生きている人間のなかにこっそりと、あるいは無理矢理に入り込んでくる死者の魂であることが多かった。内科医には二つの重要な任務があった。すなわち、まずとりついた精霊の性質を暴き、攻め、引っ張りだし、やっつけなければならない。それには強力な魔法だけが成功する。そのため医師は呪文を暗唱する専門家でなければならず、護符をつくるのにも熟練していなければならなかった。疾病は悪意のある精霊や神の怒りで引き起こされるものと信じられていた。」【クトムビア・前提書】
◎ヴェーダ医学…魔術・宗教医学…
ヴェーダ時代の医学とはいかなるものか、それはヴェーダによって知ることができます。病気と治療法の文献がリグ・ヴェーダのなかに散見されますが、なんといっても、アタルヴァ・ヴェーダに負うところが多いです。アタルヴァ・ヴェーダ医学は宗教と魔術、経験主義と合理主義の要素が混じり合っています。
ヴェーダ時代の人々は、世界のすべての古代人と同様に病気は悪魔のなせるわざ、鬼神のたたりと考えていたのです。したがって、その病気をもたらした魔神に対して誓願と調伏の呪文を唱えることによって病気から逃れようとしたのです。アタルヴァ・ヴェーダに登場する神々のうち、例えば、ヴァルナ(水神)は水腫を、ルドラは疼痛を、バルジャニヤ(雨神)は下痢を、アグニ(火神)は発熱、頭痛を、マルツは皮膚病を、ラークシャサは流産をもたらすと信じられています。
アタルヴァ・ヴェーダは呪文、祈祷、呪法を取り扱っていますが、そのなかには多くの経験的、合理的要素が含まれています。呪文や護符、内服用の薬草のほかに、水が医薬として、また生命の根源になる偉大な力を持つとされています。薬草の次ぎに有効なものとして牛の酪製品があります。パンチャ・ガィヤ(五つの牛製品)として、バター、凝乳、ミルク、バターミルクや牛のし尿が用いられています。また、米のかゆ、蜂蜜、脂肪も処方されます。
『アタルヴァ・ヴェーダ』には解剖学の萌芽があります。第十篇第二章の讃歌のなかの「人間の驚くべき構造」という部分には、骨格が列挙されているし、同第八章には心臓を九つの孔のある蓮にたとえた記事があります。事実、現代医学では、心臓には、大動脈1,肺動脈2,肺静脈4,上大動脈1,下大動脈1,計九つの血管が出入りしています。ただ、動静脈の区別は明確ではなく、血液はあたかも川の水が田畑を灌漑したあと海に注ぐように、心臓に再び戻ることはないと考えられていたようです。つまり、血液が循環するという知識はなかったのです。

◎後期ヴェーダ医学…経験合理医学…

アタルヴァ・ヴェーダ時代に続く紀元前800〜600年のブラーフマナ・ウパニシャッド時代は、アタルヴァ・ヴェーダ医学の魔術、宗教的性格を未だ脱しきれずにいたのです。ラサーヤナ(長寿)とヴァージカラナ(強精)に加わるブータ・ヴィディヤー(鬼神学)とサルパ・ヴィディヤー(毒物学)の四つの部門があったが、この魔術・宗教的医学と並行してゆっくりとではあるが、経験合理的医学が発達していったのです。それを促進したのがインド自然哲学の勃興であったのです。

四つの部門

ラサーヤナ(長寿)
ヴァージカラナ(強精)
ブータ・ヴィディヤー(鬼神学)
サルパ・ヴィディヤー(毒物学)
アーユルヴェーダの医学思想の原点は、インド哲学のサーンキヤ(数論学派)、およびニヤーヤ(正理学派)、ヴァイシェーシカ(勝論学派)にあるといわれています。アートレーヤー学派に属するチャラカは紀元前七世紀頃に活躍したが、いわゆる『チャラカ・サンヒター』という有名な医学古典は紀元後に世に出たとされています。したがってチャラカという人物はどの年代にいたかは今もって不明といわざるをえないのですが、約千年の間、次々と多くの医学者が著した学説(タントラ)を整理し、出版されたものに対してチャラカの名を献じたものと思われます。
そのチャラカ・サンヒターはヴァイシェーシカ学説の説明からはじまります。ヴァイシェーシカには六つのカテゴリーがあり、宇宙のあらゆる事物がそこから生まれるといいます。それらは、ドラヴィヤ(実体)、グナ(性質)、カルマ(運動)、サーマーニヤ(相同または普遍性)、ヴィシェーシャ(特異性または特殊な個性)、サマヴァーヤ(内属性)などであります。

六つのカテゴリー

ドラヴィヤ(実体)
グナ(性質)
カルマ(運動)
サーマーニヤ(相同または普遍性)
ヴィシェーシャ(特異性または特殊な個性)
サマヴァーヤ(内属性)
1.ドラヴィヤ
実体という意味で、それ自体独立したものです。グナ(性質)、カルマ(運動)、サーマーニヤ(相同または普遍性)、ヴィシェーシャ(特異性または特殊な個性)、サマヴァーヤ(内属性)もドラヴィヤの存在なしにはあり得ないのです。ドラヴィヤがすべての基礎(アーシュラヤ)であり他はすべてこれに従属するというのです。ドラヴィヤには以下九つのものがあります。地(クシティ)、水(アープ)、火(テージャス)、風(マルトゥ)、空(アーカーシャ)、時間(カーラ)、空間(ディシュ)、魂(アートマン)および精神(マナス)です。
1.地(クシティ)
2.水(アープ)
3.火(テージャス)
4.風(マルトゥ)

ドラヴィヤ

5.空(アーカーシャ)
6.時間(カーラ)
7.空間(ディシュ)
8.魂(アートマン)
9.精神(マナス)
2.グナ
ヴァイシェーシカでは、グナは性質を意味し、サーンキヤ・ヨーガでいう現実や実体ではありません。チャラカ・サンヒターには感覚的な性質として次のようなものがあげられています。
ああ
1.ルーパ(色) 8.プリタクトヴァ(相違もしくは分離)
2.ラサ(味) 9.サンヨーガ(結合)
3.ガンダ(香) 10.ヴィバーガ(分離)
4.スパルシャ(触) 11.パラトヴァ(優性)
5.シャブダ(音) 12.アパラトヴァ(劣性)
6.サンキヤー(数) 13.ドヴェーシャ(嫌悪)
7.パリミティ(量) 14.ヤトナ(努力)
チャラカ・サンヒターには物理的な性質として次のようなものがあげられています。
1.グル(重) 11.ムリドゥ(軟)
2.ラグ(軽) 12.カティナ(硬)
3.シータ(寒) 13.ヴィシャダ(透明)
4.ウシュナ(暑) 14.ピッチラ(不透明)
5.スニグダ(湿) 15.シュラクシュナ(滑)
6.ルークシュマ(乾) 16.カラ(粗)
7.マンダ(不活性) 17.ストゥーラ(粗大)
8.ティークシュナ(活性) 18.スークシュマ(浸透性)
9.スティラ(不動性) 19.サンドラ(緻密)
10.サラ(流動性) 20.ドラヴァ(派性)
3.カルマ
カルマは運動の意味です。ドラヴィヤやグナと共に第三番目のものとして削減できないものです。これには五種類の運動があります。
1.上昇
2.下降
3.収縮
4.伸張
5.一般的運動
4.サーマーニヤ
四番目のカテゴリーに属します。事物に内在する属性とか普遍性や相同性という意味です。相同であるという認識はすべて、事物のなかのサーマーニヤの存在によるものです。
5.ヴィシェーシャ
五番目のカテゴリーに属します。ヴィシェーシャによって事物は別個のものとして認識されます。
6.サマヴァーヤ
分離し難い内属性というのは、それあるが故に、実体と性質、実体とカルマ、実体とサーマーニヤのような二つの違った事物、さらにカーラナ(原因)、カールヤ(結果)、原子、ヴィシェーシャが全体として分離し得ぬ実体として目に見えるのです。不分離の固有性という奇妙な関係があるために、実体、運動とその特質、原因と結果、実体のなかにあるジャーティおよび特質があたかも一つのものであり、同一のものであるかのように固く結合してみえます。
前ヴェーダ期のアタルヴァ・ヴェーダには医学に四つの部門しかなかったが、後期ヴェーダ期には新しい四つの部門が加えられ、八部門、八科(アシュターンガ)になっています。
1.シャリヤ・タントラ(外科) 5.ブータ・ヴィディヤー(精神科)
2.シャーラーキャ・タント(小外科ー眼科・耳鼻科など) 6.アガダ・タントラ(毒物学)
3.カーチヤキツァー(内科) 7.ラサヤーナ・タントラ(長寿法)
4.カウマーラ・プリティヤ(小児科) 8.ヴァージ・カラナ(強精法)
アタルヴァ・ヴェーダではブータ・ヴィディヤー鬼神学が優勢でしたが、(鬼神学は)アーユル・ヴェーダでは八部門のうちの一部でしかなくなります。医学はついに宗教の束縛を断ち切り、宗教と手を結ぶようになったのです。
医学は、神秘的なものから半神秘的なものを経て、歴史の黎明期へと伝えられていきます。インドラが内科学をアートレーヤーに伝え、外科学をダンヴァンタリに伝えます。このことから、内科医のアートレーヤーと外科医のスシュルタが医学のそれぞれの創始者といっていいでしょう。
アーユル・ヴェーダはこの時代にすでに、ほぼ現在の形にその体系を確立していたと思われます。そしてこのアーユル・ヴェーダが、ギリシャ医学や中国医学に影響を与えたことは推測に難くないのです。
ギリシャ医学の病理説は四体液(血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液)、中国医学のそれは三体液(気、血、水)で、アーユル・ヴェーダも三体液説ですが、身体を循環する要素の不調和が起こると病気が発生するという点では奇妙にも類似しています。当時の北インドがアレキサンダーによって征服されたあとギリシャ人医師のクテシアス(前400年頃)やメガステネース(前300年頃)が北インドに定住していたころから、インドがギリシャから学んだことがあるかもしれないが、ヒポクラテスが前五世紀、仏陀が前六世紀(仏陀はアーユル・ヴェーダを熟知し、比丘たちに養生法を説いています。)ということからすると、アーユル・ヴェーダ医学はギリシャ医学とは別個にその体系を造り上げたとしかいえないのです。もしギリシャから借りたものがあるとすれば、ギリシャ医学のなかにあった脈診法や阿片が、なぜアーユル・ヴェーダにはないのかということが説明できないのです。
一方中国医学ですが、その成立は前漢時代とされているのでインドより古いとはいえませんし、秦時代のいわゆる秦医がスシュルタの外科学をそのまま借用したのではないかと思われるほどの大胆な外科手術を行っていたことが推測されています。スシュルタはチャラカがバラモン出身で内科学派に属していたのに対し、クシャトリアの出で外科学派といわれています。スシュルタの外科はこの時期の世界的レベルを超えた驚異的な数々の手術を行ったことで有名です。彼の考案になる手術器具はメス、ピンセットなど121種にのぼります。化膿創の切開、骨折と脱臼の整復、結石、痔、痔瘻などの手術をはじめ造耳・造鼻術のような形成術、白内障の手術にも卓抜な手腕を発揮していたのです。
かくて、古代に栄えたアーユル・ヴェーダは中世期のイスラム王朝、19世紀以降独立までのイギリス統治下に衰微したのですが、独立後は、ネルーの指導によって、その教育、研究が奨励され、現在百校を越す医科大学と主要都市に大学院が設けられ、アーユル・ヴェーダ医師(ヴァイドヤ)がインド人口の八割の医療を担当しています。
日本におけるアーユルヴェーダ
日本におけるアーユルヴェーダの歴史を知る人は少ないでしょう。特にアーユルヴェーダがどの様なものなのかを知らずに、エステだの痩身だのといって看板を掲げている人達などはその部類でしょう。
1968年、昭和43年のことですが、ある一行がインド伝承医学のアーユルヴェーダを実地に見聞するために、パキスタン国境に近いジャムナガールのアーユルヴェーダ大学を訪問したのです。その訪問団は当時の民族医学研究所長、久保全雄先生の示唆を得て、岡部素道先生を団長に、石原明、小野文恵、谷美智士、幡井勉、花田伝、丸山博、丸山昌朗(五十音順)という錚々たる諸先生方です。(今はもう故人となられた先生もおられます)
インド伝承医学とはどの様なものなのか、アーユルヴェーダなるものの実体は、前知識も十分とはいえない状態で現地視察を行ったのだそうです。このときに音頭をとったのが幡井勉先生です。現地視察を終え帰国した後すぐに、丸山博先生(当時阪大医学部衛生学教授−1996.10.10−90歳で他界されました)を筆頭に、アーユルヴェーダ研究会が1969年4月に結成されたのです。
1971年にインド哲学者のGokhale博士が来日し、その年にスシュルタ・サンヒターの和訳書が刊行され、日本国内でのアーユルヴェーダ熱が高まり、研究者も意気揚々だったそうです。この当時は、インド哲学、医学、薬学、応用化学などの多彩な顔ぶれの研究者達が関心を寄せ、丸山博先生を中心に研究発表や機関誌の発行などに精力的な取り組みが行われたのです。
アーユルヴェーダ研究会では、アーユルヴェーダの医学思想の紹介と、アーユルヴェーダを実施医療に取り入れるに当たり議論され、その模索が始まったのです。1973年には、アーユルヴェーダの権威者の一人である、Pandit Shiv、Sharm博士が来日し、さらに研究熱に油が注がれるのです。そしてさらに、1975年には第一回アーユルヴェーダ国際セミナーが、インド・パンジャバブ州パチアラで催されたのです。このときに日本から二十数名の研究者が参加されたのです。
この様な背景の中で、アーユルヴェーダは日本に根付き、最近では雑誌や書籍、TVやCMなどで見聞きすることが多くなってきています。しかし本来の姿が多少歪曲され、エステや痩身の代表のように報じられたり書かれたりしているが、インド医学であるアーユルヴェーダは、世界最古の医学であり、東洋における伝承医学の一つであることを忘れてはならないのです。
現在では、アーユルヴェーダ学会として活動しています。

 

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