中国医学の歴史
伝説時代
旧中国の伝統的な歴史では、聖人を推戴して、帝とし(三皇五帝)国家を始めたのです。その三皇五帝には、諸説ありますが、伏義(ふくぎ)・女か(じょか)・神農(しんのう)・黄帝(こうてい)・せんぎょく・帝こく・尭(ぎょう)・舜(しゅん)とする説が有名です。
舜の家来の菟(う)が、次の帝になり夏王朝(かおうちょう)と称したのです。中国で最初の王朝であるという説があります。のちの華夏(かか)とか夏という語句は中国を指すものとして用いられています。
殷(いん)「紀元前16世紀〜紀元前11世紀」
殷王朝は殷墟(いんきょ)から出土した甲骨(こうこつ)によって、その存在が明らかになっています。甲骨とは動物の骨に文字を刻んだものですが、それによると殷の人は病気について占っていたようだといわれています。
古代

前16〜11世紀 最初の医学に関する碑文が獣骨や亀甲に見られる。

前11世紀〜前771年頃 「易経」(前9〜8世紀頃)

春秋時代

前770〜475年 扁鵲(へんじゃく)(前407〜310年頃)、脈学の創始者。

戦国時代

前475〜221年 「内経」中国最古の医学書で伝説の帝王、黄帝が書いたとされる。

前221〜206年 淳于意(じゅんうい)(前216〜154年?)中国臨床医学の父。

前206〜後220年 華佗(かだ)(141〜207年?)鍛錬法の始祖。外科医。
張仲景(ちょうちゅうけい)(142〜212年)中国のヒポクラテス。
古代王朝

三国時代

220〜280年 皇甫謐(こうほひつ)(215〜282年)。古典的な鍼療法をあみ出した。

西晋

265〜316年 王叔和(おうしゅくか)(3世紀頃)脈学の理論家。

東晋

317〜420年 葛洪(かっこう)(280〜340年)医師、煉丹術師。

南北朝時代

420〜589年 陶弘景(とうこうけい)(452〜536年)「神農本草経」に医学的注釈。
中国医学古典に出てくる人物像
扁鵲(へんじゃく) 華佗(かだ) 張仲景(ちょうちゅうけい) 皇甫謐(こうほひつ)

扁鵲

華佗

張仲景

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半鳥半人の姿を持つと伝えら 春秋戦国時代に各地を遊歴し、行く先々で常にすばらしい名医ぶりを発揮した伝説の人物。

(170?〜240?)後漢時代に活躍した医師。鍼灸のほか、導引法である「五禽戲」にもすぐれ麻沸散を用いて、すでに全身麻酔で開腹術を行っていたといわれる。 傷寒論の著者とされ、その名は有名だが、詳細は不明。南陽の人で名は機、字が仲景である。後に長沙の太守(郡長官)にまでなったといわれる。ああああああ (215〜282)西晋時代の人で、字は士安。自らを玄案先生と号した。鍼灸術の基礎文献として高い評価を受けた「鍼灸甲乙経」を著した。
王叔和(おうしゅくか) 葛洪(かっこう) 陶弘景(とうこうけい) 神農氏(しんのうし)
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(210〜285)三国一晋代初期、太医令を務めた人物で出身は山西・高平とも山東・済寧であるともいわれる (283〜364)東晋時代の神仙家として有名。号は杤朴子。若年期に神仙道を修行310ごろ道教思想のバイブル「抱朴子」、医書「肘後備急方」を著す。 (456〜536)梁の人。号は華陽隠居。4,5歳時から神童ぶりを発揮し斉の高帝、梁の武帝から重用された。また神農本草経を整備、校訂し、神農本草経集注の著した。 医薬の祖・神農氏は「火徳の王」とも言われ、手には真紅の鞭を持ち、人身牛首の異形をしていたとされる
中国医学の成り立ち
中国の古い医学書『素問』の中に、中国医学の成り立ちが次のように記載されています。
東方の地は 海に近く、魚と塩を多く摂るため、でき物や腫れ物で病むことが多い。それで、鋭い石器で切開する外科療法が発達した。
西方の地は 山岳で、気候が激変しやすく、人々は衣服を着ずに毛布をまとって生活をしていた。脂肪肥りとなり、邪が内にこもるために内臓の病気が多く、煎じ薬を用いる治療法が発達した。
北方の地は 高原で、寒さが厳しく、人々は遊牧の民で乳を主食としていた。そのために腹の張る病気が多く、灸療法が発達した。
南方の地は 高温多湿の平野で、人々は酸をたしなみ、腑(はらわた)を食していた。そのために体表面に血行障害が起こり、手足が引きつれたり、しびれたりするので、体の表面に鍼治療を行う療法が発達した。
中央部は 湿気の多い平原で、いろいろな物を食べ、運動不足となって四肢の力がなくなったり、冷えやのぼせを生ずることが多かった。そのために、運動療法やマッサージが盛んになった。
現代の文化史は、中国大陸を黄河と揚子江(長江)によって三分し、それぞれの地域を、黄河文化圏、江淮文化圏、江南文化圏と名付けられたのです。
黄河文化圏 この文化圏を作った祖先は、遊牧の民であったといわれています。激変する気候の中で、裸になっての医療体系は発達せず、頭部や四肢の露出部分に、石器や骨器等で刺激を与えたり、皮膚に火熱を加えたりする針灸治療が発達したと想像されています。そうした経験の中から、「経穴=ツボ」が発見されたと言われています。そしてツボの系統がわかり、「経絡」が発見されたと伝えられています。
江南文化圏 この文化圏を作った祖先は、高温多湿の気候と、平原に恵まれて生活し、豊かに生い繁っている草や木の根や皮を用いて病気を治療する薬物療法が発達してきたと言われています。この文化圏は、気候風土からして流行病の発生する地域で、そうした経験の中から湯液「漢方」医学が発達したのです。そして処方と結びついた「証」という概念を体系化するに至ったのです。
江淮文化圏 中国医学の第三の古典「神農本草経」といわれるものが、この文化圏を作った祖先であると伝えられています。西方の山地に産した多彩な植物を中心に、一つ一つの薬効について述べられています。
中国大陸の各地で発達してきた伝統的な地域医学が集大成されたのが紀元前後です。紀元一〜二世紀頃の漢王朝の時代に、『黄帝内経』や『傷寒論』など中国医学の理論の基礎となっている医学書が完成したのです。その中国医学の考え方の基礎となっているのが、中国の古典哲学に基づく『陰陽五行論』というものです。 陰陽と五行のバランスがとれていると健康で、この陰陽と五行のバランスが崩れると、病気や不調が起こるというのが中国医学の考え方です。
人間の身体を自然と一体の法則を持つものとして丸ごととらえ、その全体のバランスを考えたのが中国医学の理論なのです。また中国医学で大切なものに、「気」「血」「水」という身体を構成する成分があるという考え方です。気とは生命エネルギーで、宇宙に満ちている気が食べ物や呼吸によって人体に取り入れられてエネルギー源となる。その気が変化してできたのが血と水で、新陳代謝を司ると言われています。
この気は、「経絡」という全身に張り巡らされた目に見えないルートを伝わって流れ、この気や血や水の流れがスムーズであれば健康で、滞ると病気になるという考え方があります。中国医学は、悪いものを切除したり、症状を抑えるのではなく、身体のバランスを整えるというのが基本的な考え方です。
身体の中の不足したものを補ったり、過剰なものを減らしたりして、身体の陰陽五行のバランスを整えたり、気・血・水の流れをスムーズにして、正気を養って抵抗力を強めることを第一に考えた医学なのです。

 

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