ある日・ある時
アメリカの写真屋@
アメリカの写真屋と日本の写真屋ではずいぶん色んなところが違います.国が違うのですから当たり前といえば当たり前ですが.例えばモノクロムの写真の現像に要する時間.日本では(少なくとも私の住んでいる町では)35mmフィルム以外は,「中7日」(プロ野球のローテーションより緩い)というのが常識.ところがあちらでは現在でも翌日仕上げで対応してくれます.
つまり,自分が撮影したフィルムを現像所に持ち込んで,仕上がりぐあいを確認してまずかったらもう一度撮り直すことができるわけです.それと空港での「持ち物検査」の際にその都度ことわってX線に当たるのを回避する必要がないというのも魅力です. そんなわけで通常訪れる町には行きつけの写真屋さんがあってそこには現像所もあるというわけで,知り合いもできたのですが….
アラバマ州のモンゴメリー(Montgomery)という町にもたくさんの写真屋があり私が毎日行くのはCF(仮称)という写真屋さんです.ある日仕上がりを受け取りに行くと深刻な顔をして「話がある」というのです.
話というのは,「いつもやりつけてないフィルムで現像に失敗した」というのです.驚きを隠せず,すかさず「どのくらい」と聞くと「よくわからないが10コマくらい」と言ってズタズタになったフィルムを見せてくれました.それは私が数日前にオハイオ州で撮影したフィルムでした.
「すまん.220(フィルム)はめったに現像しないんだ」
「めったに現像しないと言ってもあなたプロでしょうが…」
結局社長さんが出てきて,「深く謝罪」したのち,現像料とベタ焼きの代金を無料にするということで妥協が成立しました.
この話には後日談があって,損害は10コマと言っていたのは15コマもあって….実はこの写真屋さん,昨年も同じ失敗をしたのです.ただ昨年は2コマだけで,しかも同じ町で撮影したフィルムだったので実質的な被害はなくて,その上写真代をすべて無料にしてもらってと「かなりの実利」があったのですが,やはり「柳の下には…」.
歴史に学ばない人の哀れな結末でした.
アメリカの写真屋A
「アメリカで撮った写真はアメリカにいる内に仕上がりを見たい」という願望を実現するため,ある時期真剣に写真屋さんを探しました.その結果ワシントンでたどり着いたのはEC(仮称)という写真屋さんでした.日本の写真屋さんはどちらかというと見た目勝負(というか重要な要素の一つ)で入口も商品の配置も比較的きれいにしています.私が訪れるこの写真屋さんは,カウンターの部分にこそガラスケースがあってここで店員が応対しますが,店内には写真の器材が雑然と置かれています.
白黒の現像を翌日仕上げでやってくれるということを確認して,明日はワシントンを発つという日に,現像を依頼したのがつき合いの始まりでした.店長のB氏は,自分で現像した結果を私に手渡し,「そうか,日本から来たのか.広島を研究しているんだな」と言って握手を求めてきました.
「職人気質」ということばは,日本でだけ通用するものだと思っていた私の考えを変えたのはこの店です.例えば今年の3月,ワシントン滞在中は毎日この店に通っていよいよ最後の日,仕上がりを取りに行ったところ,実はまだ現像もしていないことがわかり,二人しかいない店員はお互いに責任のなすり合い.「もういいからフィルムを返してくれ」という私に,店員からフィルムを取り上げ,「1時間待ってくれ.金はいらない」と言って暗室に消えていきました.
「待ってくれ」と言われても,もう知り尽くしている店内を見る気にもなれず,前日知人から教えてもらった"Shoppers"というスーパーの食品売場で暇つぶしをし,1時間後に店に帰ると「申し訳なかった」と言って現像したフィルムとベタ焼きを渡してくれました.「金はいらない」という約束が守られたことは言うまでもありません.
アメリカの写真屋B
写真の出来が悪いのはカメラが悪いから,と自分の腕ではなくカメラのせいにするのはよくある話で,私もその例にもれないかもしれませんが….
「もしかしたらそうかもしれない」と思い始めたのは,同じ被写体を撮影したのにどうみても分解能力に差があることに気付いたからです.それはワシントンD.C.の国立公文書館所蔵の写真を接写したもので,原爆投下前の広島市街地を空から撮影した写真でした.相手はプロですが,小さな家屋の一つひとつを鮮明に見分けることができ,新鮮な驚きでした.その時,ふと国立公文書館の写真を扱う部屋で中判カメラを操っている研究者のことが脳裏をかすめたのです.
「カメラの違いかもしれない」とその時,思いました.以前に中判カメラの値段を調べたことがあり,私のような貧乏人には買えそうもないといったんはあきらめました.「退職金で中判カメラを買う」というのがその時の決意でした.画質の違いに気付いたほとんど同じ時期に知り合いから「退職する頃にはあんな重いカメラを持つ気にはならない」と助言を受け,中判カメラを買うことに気持ちが傾きました.
日本では中古のカメラを買うことにまだ抵抗がありました.前回登場したワシントンD.C.の写真屋は中古のカメラをたくさん扱っており,中でもマミヤが専門のようでした.「中判カメラならハッセルブラッドがいい」という私に「おまえの考えは間違っている」とばかりに私を説得にかかったのは店長のB氏でした.
買うことに気持ちが傾くと残った問題はいくらまでまけてもらえるかということで,毎日仕上がりを受け取りにいく度に値下げ交渉をするわけです.そんな努力のかいあって,ボディと90mmレンズそれにフィルムフォルダをあわせて1100ドル台の攻防になっていました.「これ以上は絶対にまけない」というB氏との間に,「その日の現像代金を無料にする」という妥協が成立し,晴れて中判カメラを手に入れることができました.
カメラの名前はマミヤRB67,使い心地は快適です.ただ,何かパーツを付け足すたびにほとんど35mmカメラ1台分のお金が必要になるのには閉口しますが….
(1999年10月23日)
「不発の原子爆弾」とは
昨年の1月,突然イギリスのテレビのプロデューサーと称するH氏からメイルが飛び込んで来た.「ソ連の史料館から重要な電文を入手した.テレビドラマ化したいので協力してほしい」という内容である.
その電文とは,終戦直後の1945年8月27日に,関東軍から大本営に宛てて打電されたもので「長崎より東京に持帰りたる不発原子爆弾を速やかにソ連大使館内に搬入保管しおかれ度」というもので,打電した側の責任者にかの有名な瀬島龍三氏の名前があった.添付ファイルには,この電文といっしょに,これと関連したソ連側の対応をロシア語から英語に翻訳した資料も付けられていた.
「当時3発目の原爆は日本に存在しなかった」という私の返事に,H氏は協力してくれるならという前提で,交換条件を申し出てきた.原爆投下部隊に関する写真を多く所蔵していて,そのうちの何枚かを譲ってくれるというのである.不発の原子爆弾というのは,原爆そのものでないにしても,私たちが研究している模擬原爆・パンプキンの不発弾ではないかというのである.長崎に投下された原爆ファットマンは,当時はその形状そのものが軍事機密だったので,可能性が皆無ではなかった.その時,パンプキンの投弾地一覧表などは提供した.
昨年3月に渡米してアラバマ州のマクスウェル空軍基地の歴史資料室を訪問したとき,H氏がこの資料室にも取材に来たことを知った.資料室の知り合いのD氏が,彼の訪問について詳しく教えてくれた.それによると,H氏とカメラマン,ニューメキシコ州のアルバカーキに住むC氏を含め4名がはるばる取材にやってきたということだった.C氏は私のことをH氏に知らせた張本人で,やはり原爆投下部隊の研究者である.「不発の原子爆弾」にかけるH氏の執念を見る思いだった.
それから数か月たった昨年の秋,私は思いもかけずこの「不発の原子爆弾」の顛末を知ることになった.ふと立ち寄った本屋さんで『沈黙のファイル −「瀬島龍三」とは何だったのか』(新潮文庫)という本を手にした.共同通信社社会部編で発行日は昨年の8月1日になっていた.
それによれば,「不発の原子爆弾」とは,長崎の原爆といっしょに投下された観測用のラジオゾンデだった.日本側はこれを不発の原子爆弾と思いこみ,それをソ連に渡すことによって米ソの競争を煽り立て,日本はその間に再起をはかるという計画で,大本営の参謀,朝枝繁春氏の策によるものだったとある.
ソ連の崩壊以来,旧ソ連に関する情報の公開も進み,第二次世界大戦や冷戦当時の情報に接する機会も増えてきた.「不発の原子爆弾」同様,多くは検証の過程にある.その時ふとアメリカの国立公文書館で私に話しかけてきた日本人の言ったことを思い出した.それは,「公文書館というのは巨大なゴミの山」ということばだった.巨大なゴミの山から宝物を見つけだすことは容易なことではない.H氏の悲劇は今後も繰り返されるかもしれない.
(西暦2000年1月12日,最近HPの内容が更新されていないというT君の示唆によりアップ)
海外での交通違反は免罪されるか?
日本で重大な交通違反を犯した後,罰金の支払いを踏み倒すために日本を離れた友人がいた.果たして外国での交通違反は日本への帰国によって踏み倒すことができるか?
一昨年,ワシントンD.C.での体験で,スミソニアン航空宇宙博物館の前に違法駐車して違反切符を切られたときの話.図書館の職員との約束の時間に遅れまいと博物館の前までは行ったのだが,駐車スペースはすべて満杯.何度か建物の周りを回っても見つけだせず,こうなれば約束優先と駐車違反に及んだ.事情を話して待ってもらう予定が,立ち話をしている間に胸にゲストを示すプレートをつけられ,3階の図書館に向かう途中に駐車違反のことをすっかり忘れていた.
3時間後に一応の仕事を終わり館外に出て駐車違反に気が付いて駐車場所に着いたとき,馬に乗って違反の摘発をしていた警官と鉢合わせとなった.「すぐに移動します」という訴えも空しく赤い色をした違反切符をいただいた.期限を指定して罰金50ドルを振り込むようにとあった.
今となっては信じていただくことが難しいかも知れないが,交通ルールは守るべきという信念に基づいて罰金を支払うことにした.ところが,私が滞在していた家の持ち主であるS氏夫妻は「絶対に払わなくてよい」と説得にかかったのである.S夫人は「私もカナダで駐車違反して踏み倒したが帰国後請求書は追っかけてこなかった」というのである.S氏は「請求が来たら俺が払ってやるから払うな」とまで言って進める.結局友人の進言にしたがって支払いを見合わせた.
帰国して確かに警察からの請求書はこなかった.すっかり駐車違反のことを忘れたおよそ2か月後,アメリカのレンタカー会社から1通の手紙が届いた.「ワシントンの警察から駐車違反の督促が届いたが,それはあなたが借りていたレンタカーです.あなたには支払いを拒否する権利が残されていますが,その場合は会社のリストに登録され,今後一切我が社のレンタカーは貸しません」とあった.何という合理的なシステム!?結局2か月遅れで遅滞に伴う追加の請求を含めて100ドルを送金した.市民道徳という建前のほかに,このレンタカー会社に見捨てられると今後の活動に支障をきたすという打算もあった.
この時私に味方したのは為替相場で2か月の間に円が上がり,実質的な差額は3000円程度となった.日本に比べて少ない金額で貴重な学習をさせていただいたと考えればそういえなくもない.
表題に戻って結論:交通違反金はやはり即座に支払うべきです.
(2000年3月2日)
雪岳山に登る(1)
今年8月から日本人も北朝鮮の金剛山に登山できるようになった.朝日新聞によれば,カメラのレンズは160mm以下で,ビデオカメラは倍率24倍以下,双眼鏡は倍率10倍以下が条件という.
実は,3年前に海外登山を考えたとき,第1候補になったのがこの金剛山で,2番目が白頭山(中国名は長白山)だった.苦心して調べた結果,金剛山には簡単に登れないことが判った.そこで,代替案として韓国の最高峰雪岳山(ソラクサンと読みます)が登場した.3年前の8月のことである.
学生二人を連れての海外登山で,福岡からソウル,ソウルから韓国北東部のソクチョまで飛行機で飛んで,そこから雪岳山の麓にバスで行くという計画だった.どうしても福岡-ソウル間の往復の航空券がとれず,やむなく片道切符での韓国行きとなった.少しでも経費を少なくしようと,徳山から福岡までは車で行って,安い駐車場に車を置いた.
ソクチョまでは問題なく行けたが,持参の地図にも愛読書「地球の歩き方・韓国編」にも空港の正確な位置が記載されておらず,結局ソクチョから雪岳山の麓まではタクシーを利用することになった.麓の宿泊施設のある場所は,A地区,B地区,C地区と分類されており,高級感はこれらの英字のイメージ通りで,A地区が登山のアクセスも簡単で値段が高い.タクシーの運転手に安いオンドル部屋があるところで降ろしてくれるように頼むと,C地区のとある旅館の前で車を止めてくれた.
1泊一人約900円でトイレもシャワーもある.学生はけっこう気にいったようだ.初日は歩いて公園入口まで行き,飛竜瀑布コースに進み六潭瀑布や飛竜瀑布などを見学した.翌日の登山の予行演習のようなもので,マミヤのRB67と重い三脚を背負って,上段の滝まで行き,記念撮影をしてまた登山口まで帰ってきた.カメラと三脚の重さはけっこうこたえたが,まあ何とかなるだろうと思った.
帰りは少々疲れていたので登山口から旅館までバスを利用した.日本円で20円程度,決して高くない値段だ.
近くの食堂で夕食をとってシュラフにもぐり込んだ. (2000年10月15日)
雪岳山に登る(2)
今考えてみると,おそらく登山者という自覚より観光客という気分で登山計画を立てたのだろう.前日の登山口付近の踏査により,登山口よりロープウェイを使って権金城(クォングムソン)駅まで行き,ここから尾根伝いに雪岳山の最高峰大青峯(テチョンボン)まで登ろうということになった.
5時過ぎに起きて市内バスで登山口まで到着した.ロープウェイ駅に到着したのは6時過ぎだが,けっこう混んでいてロープウェイに乗ったのは8時を過ぎていた.終点の権金城駅までは,所要時間わずかに10分である.
「世の中そんなに甘くない」と思ったのはその時であるが,実はここから尾根伝いに登るコースは
雪岳山登山統制期間とやらで,縦走禁止になっていた.資源の保護と復元のため1997年の1月1日から1999年の12月31日までの3年間入山禁止とある.「そんなばかな」と思っても後の祭り.無理に登ろうとしても監視している人たちに制止されるだけだ.実は,今回の登山に当たって,秋に開催予定の学会の事務局に雪岳山の地図を送ってもらいかなり細かい検討はしていたつもりだった.「それって公私混同じゃない」と私だったら言いそうなところだが,当時はそうまでしないと地図が入手できない絶望的な状況だったと理解してほしい.
地図を見直してみても統制期間のことは何一つ記されていない.観光に浮かれていて登山口での情報収集を怠ったツケが回ってきたわけだ.これでその日の内に大青峯の山頂にたどり着く道は閉ざされた.皮肉なことに天候は申し分ない.最初から観光気分であることを自覚すべきだったが,「こうなれば観光だ」と頭の中を切り換えた.
権金城山頂からの眺めは抜群で「登山」にこだわらなければ,ここから外雪岳の岩峰群を見ただけで満足できる.狭い山頂は韓国国旗をバックに記念撮影する人たちであふれかえっていた.
ロープウェイで登山口まで引き返して蔚山岩(ウルソンパゥイ)まで足を伸ばすことにした.登山口で少し休み,継祖庵まで約40分歩いてここの揺れ岩を見学して引き返した.登山口の小公園に着くとすでに1時を回っていた.
宿舎のあるC地区まで引き返し,私一人航空券の確認のため,ソクチョの空港に行くことにした.初日にタクシーに乗ったときルートが確認できたので,片道100円もかからない格安のバス料金で簡単に空港に着くことができた.何としても帰りの切符を入手したかったが,ソウルより先はどの航空便も満席ということだった.失意のうちにというより,帰りの日程に制約されずに登山できるという期待感が広がった.(2000年12月12日)
雪岳山に登る(3)
よく考えてみると,もう8月28日,すぐに学校が始まる.キャンセル待ちなどを考えるとあまりというかほとんど余裕がない.小生が帰らないのはやむをえないとしても学生が登校しないのはまずい.
そんなわけで,28日に大青峯に登山して,その日のうちに下山し,ソクチョの空港からソウルへ向かうことにした.朝2時に起きて準備を始めた.C地区から登山口までの約1時間の歩行を省くために,旅館の主人にタクシーの運転手代わりになってもらい,3時には登山口に到着した.ソウルまで予約している飛行機は16時半に発つので,9時過ぎには山頂に立たないと間に合わない計算になる.
前日確認しておいた登山口から暗がりの中を懐中電灯を照らしながらの登山となった.途中で休憩を入れながら,ほとんど登りのない登山道を進んで5時半には陽瀑山荘にたどり着いた.ここからしばらく歩くと急な登りとなる.カメラと三脚の重さがこたえ,三脚は学生に持ってもらうことにする.7時に喜雲閣山荘に到着,ここでまた小休止.
日頃の運動不足とこの日の急ピッチもあってさすがに疲労が隠せない.途中で写真撮影などのために20分の休憩.8時40分に小青峯山頂に到着する.ここまで来たらもう登るしかないということで,結局9時20分に大青峯山頂に立った.
山頂からの景色を堪能した後,9時50分下山開始.11時前には喜雲閣山荘に戻ってきた.ここで思いもかけない問題が発生した.同行のK君が体調の不調を訴え始めたのである.早い話が下痢でほとんど歩けなくなった.どうも山頂で冷たい風に吹かれたのが原因のようだ.飛行機に間に合わないのは仕方がないとしても脱水症状が進めば生命の危険もある.下界では笑い話ですませられることでも,深い山の中では生命にかかわる.約1時間,まったく前進できない状態が続いたが,そのうち症状が緩和してきた.
陽瀑山荘に着いた時にはすでに12時半,飛行機に間に合うかが微妙になってきた.K君の荷物をすべて取り上げて同行の学生に持たせ出発した.往路では暗くて見ることができなかった渓谷の景色を見ながら駆け足での下山となった.急いで急いで15時に登山口の小公園にたどり着いた.
預けておいた荷物を取りに旅館へ寄らなければならなかった.長時間の登山で汗だくになっておりシャワーも浴びたい.そんなことをしていると飛行機に間に合わない.「旅館でシャワーを浴びたいので15分待ってくれる?」,道々考えていた貧弱なハングルが通じて,タクシーに乗った.(2001年1月3日)
雪岳山に登る(4)
旅館に着くとさっそくシャワーを浴びたいところだが,一つのバスに3人が並んだのでは時間が足りない.特別にお願いして空き部屋のシャワーを使わせていただく.旅館の女将にお礼を言って再びタクシーに乗る.努力の甲斐あってか離陸1時間前の15時30分にはソクチョの空港に到着する.ここまでは予約の飛行機代を無駄にすることなくたどりつけたわけだ.
ソウルの金浦空港に着いたのが17時20分,どこか当日分の福岡行きの座席が空いている航空機会社がないかと,手当たり次第訪ね歩くが,当日分はもちろんのこと翌日分もないという.悩んだ末に水際まで,つまり釜山まで陸づたいに行ってそこで航空便と船便の両方にアクセスすることにする.
地下鉄でソウル高速バスターミナルに移動,思い出したようにここで食事をとる.釜山までの高速深夜優等バスの料金は22100ウォン,決して高くない.22時にソウルを出発,比較的快適なバスの旅で3時に釜山に到着,ここで仮眠をとる.
6時にタクシーで地下鉄駅に行き,ここから中央洞まで地下鉄に乗る.歩いて釜山国際旅客ターミナルに到着すると7時を過ぎていた.金海国際空港まではかなり距離があるので,なんとか当夜の関釜フェリーの切符でもと祈るような気持ちで発券カウンターに向かったが,意外や意外,何度アクセスしても「なし」のつぶてだったビートル2の切符があっけなく入手できて,9時前には乗船できた.
ちょうど12時に福岡についてトラブル続きの雪岳山登山が終了した.
(2001年2月17日)
鑑定承ります(1)
3月20日から4月4日の間,渡米した.何度も渡米していると知り合いも増えてくる.日本人だと分かると親しく話しかけてくる人もいる.昔日本にいたことがあるとか,知り合いの奥さんが日本人だとかいう話が多い.そんな中,今回の渡米では,日本人であるが故の依頼が3件あった.
まず最初は,いつも訪ねるアラバマ州マクスウェル基地歴史資料室のA氏である.今回初めて知ったのだが,コインの収集家で日本のコインもいくつか持っているという.世界中のコインを集めていてカタログも持っているが,漢字が読めないので同定ができないという.いつもお世話になっているので気軽にOKしたところ,次の日にさっそく12種類の日本のコインを持ってきた.虫眼鏡で見ると,なるほど西暦表示がないので漢字文化圏でない人には同定が大変だろう.1銭とか5銭とかいうコインが多い.古い物では明治10年というものがある.明治と昭和は変換が簡単なのだが,はて大正というのは何年まであったのか,昭和生まれはつらい.
一通りの情報を英語にして渡すとお礼を言って帰って行った.次の日に資料室にやってきて,「お陰で全て同定できた.ありがとう」という.「お役に立てて何より」と言って,「うちの娘もコインを集めている」と言うと,次の日さっそくアメリカの各州で発行されたコインを数種類持ってきて「日本の収集家だったらこれは持っていないだろう」と寄贈を受けた.簡単な説明書もついていた.
「ちなみに尋ねてみるのだが,コインの収集家というのは何を楽しむのだろうか.毎日ながめて墓場まで持っていくのだろうか,それとも付加価値が付くのを待って途中で利益を得るのが目的なんだろうか」と聞くと,「お前らしい質問だが,収集家というのは途中経過を楽しむものなのだと思う.今まで持っていなかったコインを収集できた時の喜びとか,もちろんながめる楽しみもあるし,複数持っているものは交換する楽しみもある.人それぞれの楽しみ方があるのだよ」と言う.なるほど….いずれにしてもこの鑑定は楽だった.(2001年4月7日)
鑑定承ります(2)
アラバマ州のモンゴメリー(Montgomery)の歴史資料室での仕事を終えて,ジョージア州のアトランタまで戻る.アトランタ空港でレンタカーを返すと,いつものことながら気分が楽になる.レンタカーを借りている間は事故や盗難などに常に気を配っていなければならないので疲れる.あとはアトランタの友人J氏宅での滞在を楽しむだけだ.
少し遅れて空港に迎えにきたJ氏が車の中で「頼みがある」というのである.近くに住む友人が日本刀を所有しており,それを「鑑定」してほしいというのである.「そんなこと私にできるわけがないよ」と返すと「お前がやらないとうちのカミさんがやらなきゃいかん」と言う.没論理的なのだが変に納得して引き受けることにした.
翌朝,R氏宅を訪ねると家族3人と猫1匹の盛大な歓迎を受けた.居間に問題の日本刀が置いてあった.依頼の主旨は,その日本刀がいつ頃造られたものかを教えて欲しいということで,手掛かりは柄に貼ってある金色のラベルだけである.
刀を手にしたときに引き受けたことを後悔した.まず素人の私から見てもその刀が値打ち物には見えないこと,つまり相手を失望させるだろうこと,そしてこれが決定的なのだが,ラベルの文字が全く読めないのである.文字列は3段になっていて,1段目が4文字,2段目が7文字,3段目が5文字あることだけはわかる.相手は真剣に「どうだ読めるか」と聞いてくる.「ぜんぜん読めない」とはさすがに言えなくて「ちょっと厳しいなあ」と応えると,それならとばかり強力なライトを別の部屋から持ってきて私の肩越しに照らしてくれる.ライトが熱いのか脂汗なのか外気温は低いのに汗をかいている.
期待を一身に担ったプレッシャーの中で,刀を少し傾けてみると何と3段ある文字列の3段目の最後の文字が読めるではないか.確かに「町」とある.「そうか,この刀を造った刀鍛冶のある地名なんだ」と思う.そうするとその前の文字がまた読めてこれは「関」だ.山口県にも下関,中関,上関とありこれは大変だ.しかし,町名があるなら県名もあるだろうということで県という字を探そうとするが,3段目の3番目の文字が旧漢字の「縣」のように読めなくもない.すると「○○縣関町」となる「○○○縣」なら苦労しないものを全国に数多ある2文字の県である.「待てよ,関町というのは聞いたことがある」と思う.刀を造るくらいだから刃物の産地なのだろう,大学3年の時の夏休みの実習で岐阜県庁に行った時の記憶がわずかに甦る.○○県は岐阜県ではないのかと思って見るとそう読めなくもない.
結局粘りに粘って,1段目は「○査○○」,2段目は「関○○工業組合」,3段目は「岐阜縣関町」まで読めた(と思った).これ以上は無理だ.「これだけ手掛かりがあれば,日本に帰ればきっと解ると思う.解ったら手紙で連絡します」というと,相手は「そうか,ありがとう,君の協力に感謝している」とお礼を言ってくれた.月並みな世間話をしてその場を去ったが「期待に応えられなかった」という無念さが残った.
鑑定承ります(3)
手掛かりとなるメモを持ってJ氏の家に帰ったところで,彼の奥さんのパソコンに日本語のフォントをサポートしたシステムが入っていることに気がつく.「日本に帰らなくてもできる」と思って,さっそくYAHOOの日本語サイトに入り検索を始める.
キーワードに「関町」,「刀剣」,「組合」を設定して検索すると,何と「岐阜県関市における刃物産業の歴史的な発展過程」というサイトがある.関町は関市に昇格し,2段目の「関○○工業組合」の○○は「刃物」だったことがわかる.この「関刃物工業組合」が設立されたのが1931年,1945年には,進駐軍が関署に大量の刀剣類を搬入させ没収したとあり,特に1943年には,軍指定の造兵刀を大量生産したとある.
つまり問題の日本刀が造られたのは,所有者が期待していたような年代ではなく,ずっと近代になってから,しかも大量生産の産物だということが解った.検索結果のうちで必要な部分を拡大コピーし,英語を添えてR氏に渡すことにした.事実を明らかにするということが相手を悲しませる結果になるとは何とも複雑な感じだ.
これは全く偶然なのだがその日の夜に「History Channel」という歴史物ばかりを手がけているテレビ局の番組を見た.これは私の好きな番組でアメリカで見るテレビの視聴時間の50%以上がこの番組に当てられる.番組は「第二次世界大戦における銃」というシリーズ物で,その日のテーマは「第二次世界大戦における日本の銃」だった.前日のテーマが「ドイツの銃」で,これはドイツの技術力をかなり評価する番組だった.一転して日本の銃は評価が低く,その理由として開発がほとんど一人の人物に委ねられていたことを指摘していたのが印象的だった.さらに番組では,日本の将校クラスが実用的でない日本刀をほとんどその権威を誇示するためだけに持ち歩き,近代戦の何たるかを理解していなかったというコメントがあり,昼間に見た日本刀と思い出してますます複雑な思いにかられた.(2001年7月1日)