(本庄小学校100周年記念)

沿革

青木は慶応年間に村田屋庄助という人が初めて児童を集め読書・そろばんを教えました。その後児童が自然に増加し2部に分けて昼間は児童に、夜間は青壮年を教えていました。次に長谷角蔵、奥田多賀雄、樋上彌右衛門等が後を継ぎそれぞれ私宅にて教えていましたが、明治5年学制発布により、青木の無量寺に移り「青木尋常小学校」となりました。西青木も西林寺で行っていましたが、明治6年3月3日、青木・西青木で「青木小学校」を設立、児童数80名・修業4年・8級に編成されていました。 明治17年3月教室が手狭になり新校舎を建設。さらに18年1月15日青木字西中522番地に新築移転する。明治19年5月1日文部省訓令3号により翌年青木簡易小学校と改称し、同26年兵庫県兎原郡立青木尋常小学校となり、同28年兎原郡本庄精道両村組合村立青木尋常小学校となり、同29年武庫郡と兎原郡が合併し武庫郡青木尋常小学校と改称された。 明治31年小学校の分立は不経済なのでこれらの組合をときました。

深江も同じ頃、正寿寺の理圓法師が寺小屋を開き四書・五経・そろばん・習字を教えていました。 その後播州小野より野間本造が深江村に来て評判を聞きつけて沢山の人がやって来たそうです。明治5年に「深江小学校」となりました。 深江も精道村との組合を作りましたが、明治32年3月組合を解きました。

明治32年3月、西青木・青木・深江と共に深江字東畑934番地、同935番地、青木字東畑323番地、同324番地にわたる地域に新校舎を設立し、新しく本庄尋常小学校が設立されました。

 

(明治末の本庄尋常小学校と本庄精道組合村立青木尋常小学校の卒業証書)

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(第一校歌)明治〜大正中期

1、松は緑に海青く ほのかに浮かぶ真帆片帆

  かもめは低く飛び交じりていさご洗う波静か

2、紀伊の山々淡路島 さ霧の内にほの見えて

  ちぬの浦風そよそよと 吹くや朝風心地よし

3、金波銀波にただよえる (以下不明、連絡願う)

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(第2校歌)大正末〜昭和初

1、青嵐ぞ濃きちぬの海に 高き香りを窓にして

  日毎に集う八百の まどいも楽しい我が母校

2、ゆるしの文に別け入りて はるたゆみなく物学ぶ

  道に立つ子よはげみなば 花ぞ香らん我が母校

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明治41年4月1日義務教育延長(尋常科6年、高等科2年)となり、総工費1890円にて60坪7合5勺の教室を増築。大正3年6月26日工費1836円にて47坪8合のの教室増築、大正9年7月10日木造2階建講堂付き建坪260坪3合、他に倉庫便所等建坪20坪8合5勺、総工費8万3千五十円で建設された。

 木造2階建校舎  鉄筋2階西校舎

昭和4年4月14日鉄筋2階建校舎1棟(西校舎)階下100坪、階上100坪、塔屋5坪3合が、総工費2万8千974円8銭で完成。

 昭和33年

昭和12年鉄筋3階建の校舎がで近代校舎のモデル校となり、見学者が多く訪れました。 昭和16年第2次世界大戦に入り「本庄国民学校」と改称されました。 空襲により大被害を受け復興の中、昭和25年神戸市に合併となり、神戸市立本庄小学校となりました。

 鉄筋3階建て東校舎(S41)

昭和33年頃、生徒数が2500人を越え、深江に本庄小学校深江分校(昭和36年東灘小学校になる)ができました。 写真に見える松は旧浜街道(西国街道の南街道)の道沿いにあった松と言われていましたが、大正5年生まれの父が、大正から昭和初めまでは無かったそうで、その後の記念樹のようです。実際には公民館(旧役場前)から、そのまま西へ300M程で拡張前の43号線に合流し、東は踊り松から深江に通っていまして、松並木が続いていたそうです。

(震災後の本庄小学校・中学校)



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