青木祭礼の歴史(平成8年編集)


昭和3年  

大変荒っぽいだんじり祭りで、だんじりの衝突や棒鼻を乗り上げさせたりしていたようで、当時はこの地でもだんじりは高価なものではありますが、短期間にだんじりが代替わりしてしまったようです。

 

青木の先代のだんじりが上左写真(昭和3年)と上右写真(昭和10年)です。このだんじりは大正10年頃、御影の東之町から購入してきたものです。東之町で大きな灘五郷の蔵元がだんじりを製作したものの、大きすぎて弓弦羽神社の鳥居がくぐれず宮入ができなく、やむなく翌年青木に譲ったとものです、住吉空区と同様に背が高かく横幅もあったので、青木地区内でも主に街道筋のみ巡行していたそうです(写真だんじり右の棒鼻に乗って立っている方は身長が185cmもあった人です)。 左写真は先々代の地車で大正9年、尼崎の築地栄町(現在の大官町の一地区)に売られた物です(山合わせのため棒鼻と前柱はレールで補強されています)。 

先代の青木地車は稲荷神社に宮入するときは、芦屋の三条の踏み切りを通り迂回して運行していました。青木の宮入の自慢は、前をたった4人で肩を組みながら担ぎ、拝殿をまわるという他の所では見られない練り回しをしていました。この4人は仲仕・沖仲仕(おきなかし)と呼ばれる人たちで、焼酎や酒の樽を運んでいた怪力の持ち主です(船上の作業する人を沖仲仕、陸で作業をする人を仲仕と呼びます)。また地練りの時は、かどかどでだんじりを止め、高欄(前の部分)は引き出しのようになっていて、それを引き出すと舞台ができあがり、にわか、漫才、寸劇、踊りなどをして芸もみせていました。 よく芸を見せる所は、かつて祭りに参加して怪我や死者の出た家の付近で、その時のおひねり(御祝儀)をその家に渡し生活の糧の足しにしたそうです。




 
 
 

(西青木だんじり)