昭和3年
「卯月卯の日に卯の花盛り 夏のしるしか面白や」
と詠まれた反面祭りには闘争がよく見られたので、
「卯の葉祭りは紫の葉が御有 生血を見ねば納まらぬ」
と詠まれたのも祭りの消息を語るものでしょう。卯の葉祭りとは昭和35年まで祭礼が行われた日が5月20日(卯の月卯の日)だったので、「卯の葉祭り」と呼ばれていました。
青木の先代のだんじりが上左写真(昭和3年)と上右写真(昭和10年)です。このだんじりは大正10年頃、御影の東之町から購入してきたものです。東之町で大きな灘五郷の蔵元がだんじりを製作したものの、大きすぎて弓弦羽神社の鳥居がくぐれず宮入ができなく、やむなく翌年青木に譲ったとものです、住吉空区と同様に背が高かく横幅もあったので、青木地区内でも主に街道筋のみ巡行していたそうです(写真だんじり右の棒鼻に乗って立っている方は身長が185cmもあった人です)。 左写真は先々代の地車で大正9年、尼崎の築地栄町(現在の大官町の一地区)に売られた物です(山合わせのため棒鼻と前柱はレールで補強されています)。
先代の青木地車は稲荷神社に宮入するときは、芦屋の三条の踏み切りを通り迂回して運行していました。青木の宮入の自慢は、前をたった4人で肩を組みながら担ぎ、拝殿をまわるという他の所では見られない練り回しをしていました。この4人は仲仕・沖仲仕(おきなかし)と呼ばれる人たちで、焼酎や酒の樽を運んでいた怪力の持ち主です(船上の作業する人を沖仲仕、陸で作業をする人を仲仕と呼びます)。また地練りの時は、かどかどでだんじりを止め、高欄(前の部分)は引き出しのようになっていて、それを引き出すと舞台ができあがり、にわか、漫才、寸劇、踊りなどをして芸もみせていました。 よく芸を見せる所は、かつて祭りに参加して怪我や死者の出た家の付近で、その時のおひねり(御祝儀)をその家に渡し生活の糧の足しにしたそうです。
御輿を海に浸ける!! 困る世話人!こういった祭礼は昭和15年までで、第二次世界大戦に入り阪神大空襲の爆撃をうけだんじりの屋根などが吹き飛ばされました。当時川西航空機(二式大艇(四発飛行艇)、双発爆撃機・極光の工場)があり、焼い弾でなく500k爆弾で、ちょうどその付近にだんじり庫がありました。残っていた彫り物などは進駐軍に持っていかれました。
↓こどもだんじり 威儀もの行列→
田中区で借りただんじり
毎年借りていましたが、青木の若者が荒っぽく、昔から続いていた永遠のライバル深江区とよくだんじりをぶつけたり、棒鼻を上に乗せたりして暴れていたので、いつも森区が真ん中に入りだんじりが運行されました(普段は非常になかがいいのに祭り前になると、青木・深江の若者の目が血走ってきます)。だんじりが痛むものですから、他地区がだんじりをかさなくなり、だんじりの運行が戦後数年で途絶えてしまいました。さらに祭礼そのものも昭和35年を最後に行われなくなりました(かき番の年は大人御輿を子供御輿は毎年だしていました)。
子供だんじりは明治以前よりあったようで、昭和28年代まで曳行されていました。 しかし老朽化が進み子供だんじりが左へよっていくものですから、昭和30年代には青木八坂神社に据え置きされたままになりました。 そして耐え難い姿になりましたので昭和40年後頃に浜で燃やし廃絶しました。 子供だんじりの泥台(車輪付近)の彫り物(獅子の毬あそび)は現在の八坂神社本殿正面に使用されています。子供だんじりはよく赤の提灯を使用されます。これは、子供だんじりが夜曳行されることがないので、火がついたように見えるようにとの言い伝えがのこっています。 実際青木では、こどもだんじりにはろうそくを使用したことはなかったそうです。
現在のだんじりの略歴
本体のみの手造りだんじり
(西青木だんじり)
な源平ものや花鳥の彫刻がすばらしいです。西青木地区
は山路荘に属し、住吉神社の氏子です(村社:春日神社)。
住吉のだんじりとしてはこぶりですが、東灘全体でみる
と中型のクラスです。戦前まで春の例大祭には、住吉神
社の当番地区のだんじりが西青木東はしの旧街道までむ
かえにきていました。戦災にはあわず疎開させていた飾
り幕が戦災で焼失しました。戦後は地区内では運行され
ず、芦屋や深江に貸していました。
平成13年、秋祭りに見事に復活しました。(編集中ごめん)