Masara Tea(『フウゲツ』の人々/『風月堂』芳名録)

 (この「芳名録」は、決して客観的なものではなく60年代後半『フーゲツ』に通っていた一人のフーテンである「フーゲツのJUN」の記憶と記録と思い込みによる一人称的なものである)

 アベ・マリア(本名)阿部 薫(1949〜1978)。いわずと知れたフリージャズのアルト・サックス吹きとして伝説的人物で、カルト的対象となっている。マリアが、阿部薫ではなく物故者ではなかったら、この芳名録のトップに登場することはなかったろう。『フーゲツ』に来た時は、可愛い少年だった。本名の阿部を聞いて、「じゃ、名前はマリアだ」と、名付けたのはボクである。タイロンたちと、サイケ調のポスター店「イルミナシオン」を経営するが上手くいかず。後に、作家の鈴木いづみと知り合い同棲し、クスリとフリージャズの自堕落な人生を送る。晩年は(享年29才)精神的にも破たんをきたし、幻覚をみていたらしい。 マリアが、フリージャズの阿部薫と同一人物であることを知ったのは、死後であった。それも、深夜の特別番組で、ボクはその事実を知って3ケ月間、ウツ状態になった。生前の演奏する姿は、若松孝二のフィルムに定着されている。阿部薫と鈴木いづみの関係をモデルにした稲葉真弓の小説『エンドレス・ワルツ』は、あの頃の光芒を見事に描きあげている。これも、最近パンク歌手としてよりも、作家として評価されつつある町田康主演で映画化された(監督・若松孝二1995)。

 ダンさん(本名)永島 慎二。漫画家。10代の頃から天才的な漫画家としてデビューするが、心情としては芸術家タイプで、如何に生きるべきかを思い悩む人だった。その作品「黄色い涙」シリーズは、ダンさんがロマンチックな心優しい人であることを窺わせる。シリーズの第1弾が60年代最初の頃、『刑事(デカ)』(トップ社)に発表された「漫画家残酷物語」、第2弾が『コム』(虫プロ)に発表した「青春残酷物語/フーテン」である。ダンさんがフーテンをするようになった昭和36年(1961年)からの体験を交えた漫画作品であったが、発表時が1967年4月から1970年7月と、時代と同時進行するかのようにシンクロしている。1967年のフーテン大量発生にこの作品も関与していたとボクはみている。太宰や壇一夫などの無頼派に憧れながら、純粋すぎて成りきれなかったというちょっとピエロ的な可笑しくて哀しい生き方が作風そのものにあらわれている。ダンさんを慕ってアシスタントを務めた人間たちも、それぞれ個性的でフーテンしていた(シロー、シバ参照)。

 ゲーリー(本名)Gary Snyder このビート詩人のちのエコロジー実践家は、思想の根底に東洋の禅をもっている。詩集「亀の島」で、1975年ピュリッツァー賞を受賞。幾度も日本を訪れ、京都の禅寺(臨済宗・大徳寺)で修行を積んでいるが、ボクは1966年夏ナーガとともに『フーゲツ』に来た時に会った。ナーガたちが、ハリジャンのコミューンを作ろうとしていた諏訪之瀬島を訪れようとしている時だったと思う。ケラワックの小説「禅ヒッピィ」ダルマふーてんたち/ジェフィ・ライダー物語という異訳あり)のモデルであり、ナナオたちをはじめ日本の詩人たちとも親交が深い。カリフォルニアのシェラネバダ山ろくで、自ら禅堂を作り簡素な修行僧のような生活を送る。1997年のボーリンゲン賞に引き続き、1998年「仏教伝道文化賞」を受賞、1998年3月来日した。さらに2000年の10月、来日し湯島聖堂、駒沢大学などでポエトリィ・リィディングをし大勢の観客を集めた。この時、かっての部族の仲間と再会、さらに大鹿村までのツアーを敢行。2002年夏にも「東京の夏・音楽祭」に招聘来日。最近作『果てしなき山河』をリィディングする。

 ナーガ(本名)長沢 哲夫。詩人・百姓・漁師。バム・アカデミー時代、ジーンズをカットした短パン姿で「部族」というカラフルな機関誌を売っていた。ナーガは、バム=部族の中で最も知性あふれる人物であった。確か、京大を出ていたんじゃなかったろうか(大卒者がバムには多い。高学歴のヒッピー集団だったのだ)。バム時代の代表格で、早い時期にゲリーやギンズバークとも京都で出会っている。後に、諏訪之瀬島に第四世界とゲリーが呼んだ「バンヤン・アシュラム」と名づくコンミューン(がじゅまるの夢族)をナナオ、ポンらと作り新しいヒッピーの聖地となったが、ヤマトの観光資本たるヤマハのリゾート開発の矢面に立たされ解体。自身は、現在も島に留まり続けている。その詩もひと味違う文学の香りが高い前衛的なメッセージに満ちている。『つまづく地球』(復刊SPLASH WORDS刊2003)

 ナナオサカキ・ナナオ。驚くなかれナナオは、1922年(大正12年)生まれ。ボクにとっても親の世代、今の若い人たちにとっては祖父の世代に当たるにも関わらず、ナナオは今も歩いている。天性のボヘミアン、ビートの先駈けと思えるが、実は予科練体験を持ち戦後、闇市から始まって様々な仕事を遍歴しながら徐々に彷浪者になっていったらしい。それが、新宿という街での出合いと引き合わせから似顔絵描きをやっていたポンや、山尾三省らバムの連中と知り合い「部族」の結成に立ち会うことになる。その出来事は、日本にリュックサック(バッグパッカー)革命が始まったことを意味したと、ボクは思う。その原点に『風月堂』が、関わっているのだ。ナナオの詩は英文でも(自訳)出版され、世界的にも有名。その詩は諧謔味あふれる俳句のような詩で、独特のリィディングでもファンは多い。ナナオの場合そのカリスマ的魅力がアダとなっている。2003年、元旦。満80歳を迎え、なおも矍鑠(かくしゃく)としている。「犬も歩けば」「地球B」(人間家族編集室刊)「超詩集・ココペリ」(同)など。

 ポン(本名)山田 塊也。画家・詩人・作家。ボクが出会った時、ポンは歌舞伎町の銀行前で似顔絵描きをしていた。ポンは、飛騨高山の名家の出身らしく(1937年生まれ)、生まれつきのフリーク(身体的意味でも)だが、それを「家」の因縁によるものと思っている節がある。70年代は、琉球ネシアの一角にとどまってヤマト資本との闘い(ヤマハ、CTS=石油備蓄基地計画など)に明けくれる。奄美枝手久に開いたコンミューン「無我利道場」は、様々な意味でも有名。80年代中端、高山へ帰り「お祭りポン太」の異名通り、あらゆるフリークな祭りにはその姿が必ず見える。そう、1988年八ヶ岳で開かれた「生命の祭り」以来、フリークな生き方はしっかりと根付きつつある。それが、エコロジカルと呼び名を変えようとも60年代から脈々と流れ続けたもうひとつの(オルタナティヴな)生き方なのだから・・・。「アイ・アム・ヒッピー」(1990、2003復刊予定)、「トワイライト・フリークス」(2001)

 サンセイ(本名)山尾 三省。詩人・百姓・思索家。1938年(昭和13年)東京神田で出生。2001年8月28日没。三省こそ、現代の哲人かもしれない。詩人こそ時代の奥深い所に埋もれた思想をえぐり出すという意味では、三省は淡々と身辺を詩に歌いながらその世界はディープである。三省は「部族」のメンバーだった頃から、放浪者よりは生活者であった。住んでいた国分寺のアパートは「CCC」後の「エメラルド色のそよ風族」の拠点=都市型コンミューンとなる。日本初のロック喫茶「ほら貝」も、この場所に立ち上がった(場所を変え存続)。三省は家族とともにインドを放浪した後、屋久島に辿り着き、清らかな白子川のほとりに居を構え、「聖老人」縄文杉に見守られながら思索を続けていた。三省は、その農に根差す生き方といい、現代の宮沢賢治と言っても言い過ぎではないかもしれない。そのためか、「宮沢賢治」に関する思索も多い。賢治の「法華経」信仰を語るには三省の造詣の深いインド哲学と、農に根差す生き方はぴったりのようである。その人柄を慕って、白子川はまるで村の様相をしているが(かって廃村同様だったという)、近年、李 政実(い・じょんみ)が再度歌手デビューする際の、きっかけに三省の詩(「祈り」)との出会いがあると語って、彼女の作曲でCD「わたしはうたう」にも収録され新しい世代との交流、それも韓日交流のきっかけになりそうである。残念なことに、2001年8月28日死去。三省が残した三つの遺言(三省だからこそか?)は、水のほとりで一生を過ごしたこの詩人らしい雄大なそして当たり前のメッセージに満ちていた。すべての川を清流に! 著作多数。

 キラ(本名)西野。詩人・沖仲仕。ワコの夫。若き日、ボクはキラにそそのかされて、もう少しで「部族」に引き込まれそうになった。三省とは、早稲田文学部での先輩後輩の関係にあるらしい。長い間、沖仲仕・倉庫番といったその屈強な肉体を生かした生活を続け、都市近郊に住みつづけている。東伏見の「ラブ・ビレッジ・コミュニティ」の拠点となるアパート(?)を、最初に見つけた目利きの人物。ボクらにとっては、無口でやさしいキラは兄貴であり、父であった。2001年に死去したとのニュースを最近得る。

 ジャンジャン中村。詩人・画家。1967年夏の「部族」による葬式ハプニングで死者にしたてられてしまった人。丁度、「フーゲツ」に居たボクなど多くのジャンを知る人間が本気にしてグリーンハウスで行われたこのクレージーな葬式に参加してしまった。本人は、都内某所で一日隠れ潜んでいたとか……。ジャンは、日野市に住み国分寺などの画廊でときおりユニークな絵を発表し続けている。

 シローダンさんに彷浪のスタイルにおいて憧れさせた人物。本人も漫画家志望で、いたって絵が上手く、ボクなども羨望した。漫画「フーテン」の中にも登場している。青梅に住んでいた頃からの連れ合いとともに現在は北海道にて、無農薬の八百屋および百姓をしているという。ダンさん(永島慎二)のマンガ「旅人くん」のモデルだと、ボクは固く信じている。息子は、バンド活動をしNHKのバンドコンクールでも上位にいったらしい。

 ナモ(本名)長本 光男。もと国分寺CCC(エメラルド色のそよ風族)のメンバー。「長本兄弟商会」を西荻の「ホビット村」内に山尾三省らと作り、無農薬有機野菜や農産物を取り扱う新しい「八百屋」のスタイルを作った。生産者と消費者の顔を近付けた「JAC」などの流通革命の端緒を開き、そのスタイルは「ポランの広場」等に引き継がれたくさんの「就職しないで生きる道」を、作り出した貢献度は大きい。スタジオ・リーフ刊行のミニコミ「人間家族」を、荒川氏から引き継ぎ1983.04〜2000.01号まで発行人(現在の発行者は大築凖氏)。

 ガリバー(本名)安土 修三。一時は、ジュクの名士だった。「フーゲツ」に来たのも遅かったにもかかわらず最もマスコミ受けしたために有名人となる。自ら演出・出演するハプニング劇を舞台にまでして、派手な事の好きな男だった。いわば、アート派なのだが、服装からしてガリバー旅行記に登場するガリバーそのままで自己演出からしてクサかった。前衛芸術家として生き延びている。

 タイロンフーテン名は、あのタイロン・パワーから取ったらしい。本人は、ウダツの上がらないとても二枚目とはお世辞にも言えない顔だったが…。マリア(阿部薫)などとともに「イルミナシオン」を経営。一時は、東伏見の「ラブ・ヴィレッジ・コンミューン」の2階に住む。

 スズキコージ絵描き。「フーゲツ」で会った事のあるような、ないような…。セツ・モードセミナー関連の子たちが、「フーゲツ」には結構来ていたので、そのグループの中にいたのであったか?ともかくも、「イルミナシオン」で働いていたことがあり、マリア(阿部薫)を知っているらしいので、近くにいた事は確かである。当時から、「平凡パンチ」などにイラストを描く。

 リュウ(本名)進藤 隆三郎。おそらく、この事実を公開するのは本邦初であろう。リュウが「フーゲツ」に来ていたのは、数カ月。確か、1969年の暮れだと思う。端正な顔立ちにも関わらず、首にタオルを巻き、まるで肉体労働者のいでたちであった。自ら、ルンプロを名乗りボクらに京浜安保共闘に入るように盛んにオルグしていた。のちに、日本共産党左派を名乗っていた一派と合体して「赤軍派」を形作る党派の活動家だったのだ。その端正な顔立ちゆえに女性にもて、当時19才にしてホステスをする女性と同棲していた。そのような事実が、後に武器強奪・武装蜂起の過激路線を突き進む「赤軍派」が警察に追い詰められていく過程の中で、榛名山山中での総括=リンチ殺人の対象者となり同志=仲間と信じていた者の手によって無惨にも殺される。個人的には、リュウに裏切られた事もあったがもはや死者はムチ打つまい。亡くなってから、もう28年。若いまま死んでしまった君はもう天上界での清らかな星のかけらだろう。でも、ボクは君が懸命に生き、青春の只中で死んでいった事実を記憶し続けるよ。合掌。

 ケイスケ「フーゲツ」での親友だった。彼から吉本隆明、埴谷雄高の面白さをボクは学んだと思う。ケイスケはフーテンというより都市を転がり降りていくホーボータイプの男だった。中産階級出身のお坊ちゃまで、それでいて反抗心は人一倍というタイプの「不良少年」は、「フーゲツ」にはたくさんいた。不良知識人の典型の一人。グラス(マリファナ)をやり、一時は指名手配されかかる。

 マキタ不良知識人のもう一人の典型。というよりマキタ君の場合は、不良過激派というべきかもしれない。成蹊学園在学中から正門前で首に犬輪を付けたハプニングで学園当局に異議申し立てをし、新聞に取り上げられて有名になる。本人は某財閥系企業の御曹子。新宿に出てきてからも、様々な仕掛けを考え実行する。いわば、文化かく乱の仕掛人で、それを目指す会社「ユニット・プロダクション」までも宮井睦郎らと立ち上げていたほどである。近年は、北海道で畜産業を営み、牧歌的に暮らしているのかと思っていたら、未解決のある爆弾破壊事件の真犯人を名乗り世間をアッと言わせた(別の容疑者が逮捕され、冤罪事件になりかかっていた。この事件は、その後どうなったんだろう?)。

 エトー文芸評論家の江藤淳と同姓同名であるらしかった。そのくせ、文学の見識はいまひとつで、幼さが残っていた。図体ばかりは大きく、学生ぽさの見かけを裏切っていた。優しい面も多分にあり、ぼくの20歳の誕生日に公開されたばかりの『俺たちに明日はない』(アーサー・ベン監督。ウォーレン・ベィティ、フェイ・ダナウェィ主演)のチケット代をおごってくれた。その事によって、60年代を代表するこの傑作とともに忘れられない一人となった。

 ユタカ(本名)基継。プロテスタントの家に生まれ、ワコ・キヨ姉妹の弟である。ネフローゼの病を持ち、夭折天才型の詩人であった。ぼくもメンバーだった詩誌『プネウマ』のいいだしっぺ。最初にフーゲツで出会った日は、ユタカが長い入院生活から、シャバに出てきた最初の日であった。すぐに、ぼくらは義兄弟のような友人となり、この4歳年下の弟分はボクをさしおいてフーゲツでの人気者になる。なにしろ、その生意気な言動が大人たちを感心させ、天才肌の止まることをしらない饒舌さが、すべての年上の大人たちの舌をまかせた。のちに、反戦青年委員会にかかわり、某党派の活動家になり、対抗党派の内ゲバの対象リストに載り逃亡。家庭を構えてのち、司祭の道を選びどこかの教区の司祭をやっているはずである。

 ミカミ(本名)三上。自称アーティストだったが、それも精神病院から抜け出てきた芸術家と称していた。渋沢龍彦の「毒薬の手帖」「秘密結社の手帖」が、愛読書で桃源社発行のそのぶ厚い本を持ち、黒魔術とマルキ・ド・サドを愛していた。おどろおどろしい絵を描き、絵の中には目玉がたくさんあって、分裂症の典型を演じようとしていた奴だった。『プネウマ』(東伏見ラヴ・ヴィレッジ・コンミューン)の仲間とは近しい関係にあった(装丁を担当)。

 ピエロ(本名)根本。いつもボーッとした顔をして、肝心な場面には、いつのまにかちゃんと立ち会っているというヘンな奴だった。だから、マスコミ取材の写真には、いつもしっかりと写っているのである。週末フーテンだと思っていたが、何だったんだろう。こいつは。

 トイレット(本名)キヨシ。長髪を脱色し、金髪に染め短躯にも係わらず、黒のロングコートを着てハイヒール・ブーツを履いて、そう、丁度アムロ、コムロファミリーが90年代になって復活させたナリ(ファッション)をしていた。トイレットは、なによりも3丁目あたりでは、ちょっとしたスターだった。なにしろ当時のフーテンたちのいいアルバイト先になっていたアングラ芝居小屋『モダン・アート』で主役格の芝居を打っていたからだ。最も、その小屋にどれだけの客が来ていたかは、疑問だったが...。『モダン・アート』は、アングラを掲げる小屋だったが、テイのいいストリップ小屋にすぎなかったのだから。

 ハングラその奇妙なニックネームの起こりは、ケンカか何かで玉(レンズ)の半分欠けてしまったままのサングラス(グラサン)を掛け続けていたからだが、「(サン)グラ(ス)」という命名は出来過ぎでおそらく自分で言い出したのだと思う。だが、当時あまたいたフーテン(新宿ビート)の中でもトイレットと並ぶ出色のネーミングであった。68年か、69年のある日、毎日のようにハイミナールとアンパン(シンナー)とショウチュウでラリっていたハングラは、靖国通りで車にはねられあっけなく死んでしまった。新宿を呪い、世の中を呪詛する叫びとともに死んだのだという。ボクはハングラのこの最期のエピソードをマンガにしかかったが、それはほとんどダンさんの『フーテン』の焼き直しのようで挫折した(ダンさんのその作品の中でも、多くの車に轢かれる事故が描かれる。60年代の半ばからいかに交通事故が増えたかの証左であろうが、足どり不確かのラリパッパのフーテンたちはとりわけ車に無防備で多くの仲間が犠牲になった。ハイミナールの飲み過ぎで廃人同様になったのと、どちらが多かっただろう?)。

 J・A・シーザー(本名)寺原孝明。フーテン時代からその女性キラーの甘いマスクと、日本一といわれた豊かな長髪で有名だった。美術学校を受験すべく静岡から上京中にフーテンしていたらしい。電車の中で会った『天井桟敷』の女優にすすめられ1969年寺山修司の主宰する『天井桟敷』に籍を置く。渋谷の「天井桟敷館」で、居候的生活を送りながら、寺山修司にすすめられ役者兼音楽を担当するようになってから呪術的なシーザーの音楽世界を作り出す。ミュージカル劇でもある『天井桟敷』の芝居にはなくてはならないものとなる。寺山修司の死後、『万有引力』を主宰し、寺山芝居を引き継いでいる。

 ナポレオン(ナポ):ナポは「ヴィレ」の仲間だったとボクは思い込んでいた。当時のノートを読み返し、フーゲツの仲間だったと確認した。ナポも、知る人ぞ知るフーテン有名人の一人だった。片目が隠れるような長い前髪をたらすヘア・スタイルをナポレオンカットとボクらは呼んでいた。優男でナポも女性にもて、常に美少女が傍にまつろっていたもんだ。その後、音楽関係のプロモーションをしていたという情報もある。

 バーバラバーバラもナポレオンカットの典型の前髪をたらした長髪だった。ガッシリとした体型、バーバラは男っぽかった。バーバラもうらやましい位ナオン(女)に、もてた。

 サミサミものちにボクらとは、近しい仲となる。というのも、東伏見ラヴ・ヴィレッジ・コンミューンに住み着くことになるからだ。フーゲツのフーテン仲間のうちでは、珍しく短髪だった。よく食うために日雇いに出ていた。

 マッキーフーゲツ・ラリパッパ・フーテンの一方の雄であった。ともかく、朝から睡眠薬を飲み続け、話す言葉はしどろもどろ。女とラリパッパ仲間といつもラリって2階の階段からころげ落ちていた。

 ゴロー売れないサックス吹きのジャズメンだった。しかし、サックスを吹くよりホラを吹き、いつもやっぱりクスリの飲み過ぎで言語中枢をヤラれたような話し方をする女と一日ラリっていた。ゴローは淋病病みで、膿でシミができた下着を穿いていた。

 ロクロクはロクでもない学生だった。当時、武蔵野美術大学の建築科に在籍していて、実家も名古屋の建築事務所ということだったが、毎日新宿で女を引っ掛けてはアパートに連れ込むというセックスの奴隷みたいなことをしていた。しかし、仲はよかった。

 ボブボブの住まいは吉祥寺のガレージだった。今、考えてみればロフト住まいの先駆者だったんだが…。それでいて、ホームレスみたいに、ゴミ箱をあさって生きていた。生まれながらの、バカボンドつまり彷浪者タイプで、その生き方の知恵といったら学ぶものが多かった。

 バスター:バスターが退治する相手は女であった。つまり「おんな殺し」と同じ意味だったのである。「ジャズヴィレ」から転向したボクが最初に好きになったマジョをこいつとはりあう羽目になってしまった。80年代のある日、ホビット村の『悠々満月堂』(元ほんやら堂)で再会したが、顔もやってることも60年代と変わっていなかった。

 モリヤマ(森山):モリヤマもセツに通っていたと思う。すぐ、廃刊した男性誌の創刊号にイラストを発表し売れっ子になるかと思っていたのだが…。

 ジョカン(助監督):ジョカンはどうやらその頃全盛だった日活ロマンポルノの助監督をしているらしかった。ジョカンが語る現場の話は映画ファンでもあったボクにとっても面白かった。でも、ジョカン! キミは自分の夢をかなえて1本くらい監督したのかねぇ。

 クリヤマ:(本名)栗山豊。クリヤマは似顔絵描きだった。主に銀座すずらん通りを似顔絵のテリトリーとしたが、フーゲツの常連でもあった。アンディ・ウォーホルに会いに行き、街角での似顔絵描きとして世界彷浪をした。ガリバーたちと仲が良かった。2001年死去の報を聞く。「PORTRAITS」1974「似顔絵ストリート」1997(ともに、自費出版)

 ジュンそうそう、忘れずに自分のことも書いておかねば…。「フーゲツ」に出入りする前、ボクには前史がある。ボクの、ジャズ喫茶通いは近所にあった日暮里「シャルマン」から有楽町「ママ」を経て、渋谷道玄坂百軒店、新宿の深夜ジャズ喫茶へと発展していく。1964〜66年頃だ。ボクは下町の都立高校に通う学生だった。そして、新宿ビートというか不良少年のたまり場だった「ジャズ・ヴィレッジ」(通称ヴィレ)に辿り着く。鈴木翁二や上京したての中上健次がやってくる2年も前の話である。そこで歌舞伎町の狭い路地裏を徘徊する野良猫同然の生き方にはまってしまう。つまり「フーテン」になってしまうのだ。10代であったボクのテーマは「自由」と「反抗」と「自己表現」であった。よく聞いていたジャズの好みがビバップからフリージャズになってしまう。ヒッチハイクで旅をし、詩を書いた。その頃、新宿に奇妙な集団がいることに気付いた。多くは、似顔絵描きだったが、ハプニング(パフォーマンス)を好んでやる肉体派アートのグループらしかった。彼等が出入りする場所が「風月堂」だった。こうして、ボクはある暴力事件をきっかけにヴィレを卒業し「フーゲツのJUN」となる。


 有名人コーナー(著名人で「風月堂」を訪れた人はたくさんいるが、ここではよく行っていたと表明された方および確認された方のお名前のみ掲載させていただきます。)

演劇人:唐 十郎/寺山修司/蜷川幸雄/清水邦夫(1959年自作の戯曲を蜷川の前で「風月堂」にて朗読)/天本英世(劇団・四季)/三国連太郎/北野武(ビートたけし)/イッセー尾形(1971年19歳の頃)/

舞踏家:ヨネヤマママコ/

詩人:清水雅人(月刊「風月堂」ミニパンフ編集)/関根 弘/白石かずこ/清水俊彦/北園克衛(VOUグループ)/三木 卓/堀川正美/

画家:古沢岩美(「新超現実派」の会合で1954〜1960頃)/勝呂 忠(1957.5個展をする)/藤井孝次朗(二度の個展。1957〜1959多摩美大在学中バイト。宿直役)/池田龍雄(1956〜1962頃)/野中ユリ/秋山祐徳太子/中村 宏/

作家(著述業):ヨシダヨシエ(「ポエティ・グラフィカ」1959.1)/栗田 勇/森 遥子(「風月堂の青春」)/西江雅之(「新宿季節はずれの街」)/山崎朋子(ウェートレスとして)/上笙一郎(児童文化研究・山崎朋子夫)/鈴木いづみ/ロバート・ハリス(平柳 進)/宮澤一誠(音楽評論「新宿ルイード物語」)

イラストレーター:真鍋 博/

カメラマン:羽永光利(1954 阿佐美ー阿佐ヶ谷洋画研究所時代に通う)/福島菊次郎/高梨豊/

映画人:足立正生/加藤 衛/金坂健二/おおえまさのり/岡部道男/宮井睦郎/

音楽家:早川義夫(JACKS)/りりぃ/山口富士夫(村八分)/チャー坊(柴田和志・村八分)/松本 隆/高田 渡(60年代なかば植字工だった時代に通う)/

一般人(?):紅谷隆二(インテリア・デザイナー)/笹川老人/山下老人(先生)/