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(中央通り)
『ウィーン』:『風月堂』の左隣にあったここもクラッシック喫茶。早朝から開いていたためフーテンした朝、『フーゲツ』が開店するまでの時間待ちに使われた。赤いレンガ造りで、内装までレンガが使われていた。
『らんぶる』:『フーゲツ』の斜め右前にあった名曲喫茶。現在も往時の姿そのままに存続している。
『青蛾』:三越横にへばりつくようにあった。民芸喫茶のはしりのような、ユニークな店内だった。名前の由来は金子光晴の詩(たぶん「蛾」)によると聞いたことがある。ちなみに、当時、同名の同人誌があり、金子の猛烈な支持者たちの存在をボクは初めて知った。昭和22年(1947)開店、閉店は昭和56年(1981)と、最近(2000年10月)確認できた。
『西武』:騎士の鎧がインテリアで置いてあった。現在も営業中。
『白十字』:現在「エラワン」というタイスキの店の場所にあった純喫茶。喫茶店では老舗のひとつである「白十字」チェーンの新宿店だった。
『どんがばちょ』:在命期間は不明。「どん底」からのれん分けした飲み屋のひとつ。ユニークな店内で、面白かった。
『汀(なぎさ)』:映画館「昭和館」前の角地にあったダンモのサテン。ここを根城にしたフーテンも多かった。永島慎二の『フーテン』にも、よく登場する。
『ボロン亭』:中央通りのどん詰まりのビルの地下にあった喫茶室。ちょっと格が上のお店だった。
『CAT』:カウンターだけの小さな店。現在も頑張っている。
(靖国通り)
『びざーる』:地下にあったジャズ喫茶。黒塗りで、壁にユニークな面が飾ってあった。現在も、ショット・バーのような形態で営業している。よく店の前で店から流れてくるジャズを立ち聞きしていたものである。
『DIG』:螺旋階段に似た急な石段を登って3階にあったフリージャズ系のジャズ喫茶。1階はロールキャベツで有名な「アカシア」、2階が「Stick」(ここも一応ジャズだがヴォーカルなど軽いもの)。「DIG」にはコンセプトがあって、私語をすると怒られた。紀伊国屋で買った本を持ち込んで、静かにではなくアルバート・アイラーなどのSaxの金切り音に身をまかせて読書するのであった。一時『DUG』という姉妹店が紀伊国屋書店の裏にあったが、現在は「アドホック」の隣で営業し、またジャズ・バーが近くのビルの4Fで営業している。オーナーはジャズメンの写真でも有名な中平穂積氏。
『正宗食堂』:この食堂でよくフーテン明けの朝食を食べた。早朝から営業しているという貴重な食堂だった(もしかして終夜営業だったのかもしれない)。
『花園神社』:師走が近付くと花園神社の酉の市が懐かしく感じる。奉納された赤い鳥居が作る聖域の雰囲気と歓楽街歌舞伎町がすぐ脇にありながら、古代からの闇がそこにはある。境内には唐十郎の「状況劇場」の赤テントが張られ、唐の運命論的な神話世界がその闇の中に溶け込むかのように跋扈した。李麗仙が踊り、麿赤児が吠えた。世紀末の様相を呈し、街頭で投げられる火炎ビンに呼応するかの様に滅びの美を謳いあげていた。2002年の酉の市から恒例の「見世物小屋」に『月蝕歌劇団』が登場し伝統を踏まえたあらたなる展開を予感させている。
『フラワーパワー』:ここも輸入ポスターを扱い売っていた。横尾忠則などのポスター、ヒッピーのポスターも扱っていたが、おもにヨーロッパの物であった。
(新宿2〜3丁目)
『チェック』:「チェック」はディスコのはしりのような店だった。オーティスとかR&Bが多かったように記憶する。だが、この頃は、ブラック・ミュージュックという言葉はなかったが、ジャズ喫茶でもR&Bをかけて踊っていたりしたもんだ(ヴィレ,きーよなど)。
『LSD』:ここは赤坂MUGENなどより早くブラック・ライトを取り入れ曲もサイケ調のものばかりで、いわば60年代中〜後期のトレンディ・スポットであった。ヒッピー・ファッションの可愛い娘がたくさん来ていた。好奇心のかたまりのような顔をして・・・。ボクらにとっては、ナンパをしに行くところだった。
『ダダ』:LSDの上にあった。ちょっと芸術しちゃってナンパの向きの人にピッタリのお店だった。
『螺旋階段』:この店の事は、ほとんど抜け落ちていた。最近、手に入れた「デラパン」(「平凡パンチデラックス」の事です)に載っていて思い出した。中央に螺旋階段があるR&Bのディスコだった。ナンパの店。
『ジ・アザー』:67〜68年頃にちょっとしたアシッド・ミュージックブーム(当時はサイケ・ミュージックもしくはLSDミュージックと呼んでいた)があって、雨後の竹の子のように全国にその手のブームにあやかった店ができた(上記の『LSD』が、有名店)。ここも、そのような店のひとつ。深夜ディスコだった。
『アングラ・ポップ』:このゴー・ゴー・クラブ(後のディスコ)のコンセプトおよびネーミングはアングラの貴公子とも呼ばれていた金坂健二である。客筋はガキが多かった。ボクもそのひとりだったんだが…。店の存続期間は短命だった。
『どん底』:飲み屋さんであるが、ここも昔からあり、現在もツタをからませた外装が50年代を感じさせてくれる。ボクは、ここで丸山(三輪)明宏さんとお会いしたことがある。ドンカクなるオリジナル・カクテル(どん底カクテル)が有名。かっては西武新宿駅前にあった『灯』の対極=歌声運動の反日共派の一方の旗頭というか拠点だった。三島由紀夫や、有名人が通ってきており、フーゲツと双璧の新宿の名物店だった(現在もちゃんと、やってます)。1951年2月創業(現在の店は2号店)。スペインにも支店があります。
『やま小屋』:かって新宿は山男たちにとっても憩いの場所であった。構内にアルプス広場という長野に向かう列車待ちのスペースがあるところからもそれは窺わせる。かって、登山の装いのままこのような飲み屋、喫茶店で思い出話に花を咲かせたのだろう。『どん底』とは、姉妹店に当たる。
『たる小屋』:上記2店と雰囲気の似た飲み屋(居酒屋)さん。
『ナジャ』:文学者がよく集まるクラブだった。金のないボクらには、ちょっと敷き居が高かった。60年代の後半、白石かずこさんたちが活発な詩の朗読会を開いていた。
『モダン・アート』:アングラ芝居の専門小屋だったが、いつしかストリップ小屋と区別がつかなくなっていた。フーテン出身のダンサーが多数いて、いいアルバイト先を提供してくれていた。最近まで『ニュー・モダン・アート』として、ゴールデン街の入口で小屋を張っていた。
『ATG』:アートシアター・ギルド。新宿文化シアター。60年代の名画のことごとくを配給上映し、それだけでなく資金を提供して日本映画に活性剤を与え続けた。60年代新宿文化のもう一方の発信基地となる。ボクはここで芝居も見ている。
『蠍座』:ATGの地下にあった。赤い毛氈、黒いカーテン。アングラ芝居を上演するには、まるで絵に描いたようにピッタリだった。アングラ映画(自主映画)も上映していた。
『末広亭』:もちろん落語をメインとする古典演芸の専門小屋だが、ここで寺山修司の率いる「天井桟敷」の「大山デブコの犯罪」が初演されボクも見た。最近、経営不振で売りに出されているという不穏な情報もあり、皆でちょっと支えてあげましょうと呼び掛けたい!(もちろん、デートに古典落語でもという気持ちで見に行ってあげましょうという事です)永年のれんを守ってきたおかみさんが先年、お亡くなりになった。御冥福を祈ります。
『イルミナシオン』:今や伝説的なポスターショップ。タイロンがオーナーで、アベマリアこと阿部薫、スズキコージなどが働いていた。現在「花屋さん」。
『新宿病院』:かなりのフーテンたちがお世話になったはずである。スリクの飲み過ぎでアワを吹いて意識もうろうとして、救急車で担ぎこまれた。大久保病院と並ぶ新宿の緊急病院。
(新宿通り)
『Pit in』:新宿では老舗のジャズ・ライヴの店。数々の伝説的名演を生んできた。ボクはここで、唐十郎の「ジョン・シルバー」を見てしまった。現在、転居して2丁目で営業し、新宿にジャズの灯をともしつづけている。
『ヘッド・パワー』:昔からライヴハウスだった。昔は、もうちょうとサイケだったけどね・・・。
(歌舞伎町)
『ジャズ・ヴィレッジ』:通称ヴィレ。深夜ジャズ喫茶。不良少年のたまり場だった。若かりし中上健次、鈴木翁二も来ていた。文学を、漫画を詩を書く不良たち。アカデミックを装いながら青春に倦み、退廃しているという奇妙な共存。店の中には、板の床に塗り込めたコールタールの匂いと、タバコと精液と吐瀉物の匂いがした。60年代中〜後半の新宿で一番デカダンな深夜喫茶だった。POPなジャズが好まれて毎夜掛かっていた。セルジオ・メンデスとブラジル66、サイド・ワインダー、テイク・ファイブなどだ。
『ヴィレッジ・ゲート』:通称ゲート。深夜ジャズ喫茶。「ヴィレ」と並び称されるたまり場だが、いくらか中産階級のお坊ちゃまが多かった。
『木馬』:コマ劇場前のビルの地下2Fについ数年前まであったが、オーナーの代替わりでカラオケをやったり色々模索していたようだ。この数年間はレゲェのクラブとして新たな不良少年の居場所を提供していたが、99年になって『ロフト・プラス・ワン』が厚生年金会館脇から引っ越してきて不穏なムーブメントを起こしそうな雰囲気である。ジャズをやっていた当時はカウンターとホールがあり、骨とう品が店先を飾るというムードあふれるジャズ・バーだった。
『New PONY』:「木馬」の斜め前の2Fにあった。2階からコマの前を通り過ぎる群集を観察できる絶好の立地であった。『PONY』の姉妹店。
『王城』:歌舞伎町に小さな児童公園があることは以外に知られていない。この公園は世界に知れ渡った歓楽街歌舞伎町のヘソなのだ。その歌舞伎町公園に隣接したクラシック喫茶だったが、火事にみまわれたりしながらもアベック喫茶、カラオケ、テレクラと手を変え足を変え風俗の変遷そのままを地でいくような変身ぶりでしたたかに生き残っている。名前そのままに、夜の歓楽ディズニィランド歌舞伎町の白雪姫の城のように…。
『スカラ座』:公園の左隣「カチューシャ」のあった道を挟んでつたのからまるスカラ座がある。ミラノのオペラハウスの名前をいただいた。1954年4月オープン。当時のおしゃれでモダーンの流行が西洋の上流階級趣味にあった事の証人みたいな店である。『風月堂』がカフェであるとすればここは、もう少し重い雰囲気がある。一時は、詩の同人誌の会合などに盛んに使われていたが現在は、ホステスさんたちの通勤前のお休み所になっている。この店は五木寛之などの50年代早稲田青春の門派にとっては、取り落とせない店のはずである。2002年12月31日閉店。
『カチューシャ』:ロシア料理店としては、筆頭に上げたい店のひとつ(なんだか、だんだん田中康夫みたいになってきた)。新宿は、戦前からロシア料理やボルシチの店があった。知識人にとっては、革命を成し遂げたソビェトは憧れの地だったのだ(岡田嘉子をみよ! エッ!知らない?)。やはりロシア料理店のひとつ「灯」から始まった「歌声喫茶」は、この店にもおよんで新宿とロシアの関連をますます強いものにした(?)。長い間、閉まっていたがファンの要望熱く、近年、週末だけ営業していたが2001年6月閉店解体(1955年創業)。
『ヴィレッジ・ヴァンガード』:つい最近死刑を執行されて死んでしまった死刑囚文学者永山則夫が、ビートたけしが、ボーイをしていた事で最近つとに有名になっている。永山則夫は3人を連続射殺した直後の1969年1月にヴィレッジ・ヴァンガードのボーイとなっている。「広域重要108号事件」として指名手配にあい逃走中の時であった。1998年3月号の『文芸別冊』で、同じ時期にヴィレッジ・ヴァンガードで働いていた、いまやカンヌグランプリ受賞の大監督となったらしいビートたけしが、インタビューを受け回想している。『ヴィレ』にいた鈴木翁二の文章がいい。店内は黒ずくめで狭かった。
『らんぶる』(歌舞伎町店):なんと、あのピンク通りである「さくら通り」の中程の2階に数年前まであった。クラシック・ファンよりホステスさんたちの逢い引きの店として使われていたが、あのホステスさんたちもモーツァルトが実は好きだったのかもしれない。
『つるかめ食堂』:この店は金のないボクらでも腹一杯のメシの食えた本当の意味での大衆食堂であった。新宿の盛衰を見つづけている店のひとつ。現在も昔と変わらぬ姿で、歌舞伎町公園の目の前で営業している。西口の「思い出横丁」の中に西口店がある。
『不夜城』:最近、馳星周の小説およびそれを原作とした映画によって、闇のかなたから甦りつつある高級クラブ。新宿歌舞伎町の象徴的存在の地位を『スカラ座』『王城』から奪い取るかもしれない。眠らない街Sleepless Town歌舞伎町にはピッタリのネーミングだからだ。80年代中頃までツタのからまる異様なたたずまいを見せていてくれていた。また、馳星周の小説「不夜城」は、中国マフィアの暗躍する80年代以降の物語だが、歌舞伎町という土地の精霊に導かれて書かれた節がある。また彼の貢献は、不夜城の中国語的ニュアンスを新宿のイメージの中にふたたび持ち込んだことにもあるだろうと思う。
(西武新宿駅前/海老通り)
『穂高』:純喫茶だったが、早くから同伴喫茶になる。1999年に閉店した。
『上高地』:このあたりにある長野にまつわる命名はなんなんだろう?「やま小屋」の所に書いたのと、同じ理由だろうか? ここも今はカラオケ、同伴喫茶。
『PONY』:「PONY」にも思い出が一杯だ。深夜この店のスパゲッテイ・ナポリタンを泣きながら食べていたもんだ。何があんなに哀しかったんだろうか? いきつけの一軒だった。
『灯(ともしび)』:歌声喫茶のはしりの店。西武新宿の駅のそばにあり、アコーディオンの伴奏に合わせて歌うロシア民謡に青春時代を懐かしむ中年世代は多いことだろう。ここも、もともとはロシア料理店だった(『味楽』)。木の柱、白い壁山小屋風のくすんだ店内は50年代の名残りをそのまま残していた。場所を変え、ビルの中で現在も営業しているが、昔日のたたずまいは残念ながらない。
『タロー』:ビルの最上階にあったダンモのライヴ・ハウスだった。あの当時のご多聞にもれずアングラ劇もよく上演されていた。現在、西口小田急ハルク下で純喫茶として営業を続けている(マッチのデザインが昔のままだから多分、関連の店)。余計なことだが、『スカラ座』『カチューシャ』『タロー』は関連店である、『スカラ座』のオーナーの趣味が嵩じてトスカーナ地方(イタリア)の家具を輸入販売する会社が経営する喫茶という位置付けである。
(区役所通り)
『吾兵衛』:あのゴールデン街の一角にフーテンのひとり吾兵衛が、開いた店。店を持てるのも驚きだったが、ゴールデン街というのがよりセンセーショナルだった。
『ひしょう』:ゴールデン街の中で代表して店名を上げておく。ママさんはキップがよく、客に「お竜さん」とよばれている。もちろん、東映ヤクザ映画の永遠のヒロインの名前(藤純子が扮した「緋牡丹のお竜」こと矢野竜子)である。数年前まで参議院議員さんだったが、応援むなしく一期つとめて落選してしまったが、お客は自分達の下へお竜さんが帰ってきてくれたとホッとしたことだろう。
『きーよ』:区役所通りが職安通りにぶつかる所に、鬼王神社があってその隣のビルの地下にあったが、この場所も2カ所めであった。ボクは閉店にたちあうチャンスに恵まれ、この店の形見としてのレコードを数枚持っている。数メートル先に小泉八雲の住居跡がある。
(西口)
『きくや』:鯨定食が最も安くて栄養価の高い食品だった頃から、西口のこの闇市のなごりを残す飲食店街の一角にあるこの店で安い酒をのんでいた。
『つるかめ食堂・西口店』:西口「思い出横丁」は、現在まで残る焼跡闇市の生きた歴史的遺跡のひとつ。ゴールデン街とともにバブル全盛の頃、再開発計画という名の破壊の矢面に立たされていたが、バブルの崩壊とともに生き延びることができた。歌舞伎町店参照。
『ぼるが』:西口は淀橋浄水場の殺風景な跡地があるだけで、酒を飲みに行くところだったのだ。この店も名物の焼き鳥を焼くコンロが石造りの外装にピッタリで、舟歌が聞こえてきそうだった。そう、ヴォルガの舟歌が・・。
(中野)
『クラッシック』:名前の通りのクラシック専門の「名曲喫茶」。昭和5年開業。実はこの店は教えたくないのだが、やはり記録に留めておきたくて新宿から中央線もしくは総武線に乗ってきてしまった。この店こそ現存する50〜60年代の香りをそのままに、いやいや戦前の青春さえもまるで店自体がタイム・カプセルのように伝えてくれる文化財的価値を持つ店である。中央線沿いには、そのような店がまだまだ頑張っていてくれて感激させてくれるのだが、この店はいわば「近代」の正倉院。この店の文化財的価値を認めて、難くせをつけない消防庁、保健所にも感謝状を送りたい程だ。御主人が亡くなってから、一時閉店を考えられたらしいが、未亡人と愛らしい娘さんが店を守り続けていらっしゃる。ありがとう! 中野ブロードウェイに向かって、左側の路地を入った所に現存。皆さん! 利用してあげましょう! 貴方(女)には60年代の至福がもたらされると思います。ただ、床を踏み抜いたり、階段の手摺をもいだりしないように!
(高円寺)
『ネルケン』:昭和30年(1955)開業の名曲喫茶。高円寺南口アーケイド街「PAL」の右手。お寺の前に現存。枯れ木の様な柱、狭い囲いの席。木のテーブル。カビの生えたようなレコード盤が、溝音をさせながらかっての名演奏をこれまで幾度も再生してきたように、今日も奏でている。まるで時の止まったような、ゆったりとした時間を過ごすならお勧め、かっての孤独なボクには寂しい思い出しかないが・・・。
『サンジェルマン』:この店にも思い出が詰まっている。メイン・ストリームのジャズが中心だった。そこに、ボクは新宿ではやっていたR&B系のジャズや、フリージャズを伝えたものだった。高円寺の古本屋さんで、本を買っては「ネルケン」か、この店で読んでいた。読書には、クラシックかモダン・ジャズのBGMが必要だった。
(阿佐ヶ谷)
『ランボー』:とうとうダンさん(永島慎二)の住む街まで足を延ばしてしまった。阿佐ヶ谷は、ボクには60年代とともに80年代にも思い出がある。『ヴィオロン』(1980年開業)や、『あるぽらん』(小さなライヴハウス)であるが、それは本筋から外れることになってしまう。気を取り直していこう。『ランボー』は、カウンターだけの小さなBARである。アブサンの似合う店であり、ヴェルネールやランボーが飲んでいそうな店。この店名は新宿にこそ欲しかった。音楽は、もちろんレコード盤。ジャズありクラシックありだが、御亭主の愛しさを込めたそのレコードの扱い方に感動してしまう。1階に元ボクシングチャンプの定食屋さんがある。
(荻窪)
『ダダ』:最近は単なるスナック化していたが、画家、文人が集った。
『ミニヨン』:私語禁止のリスリング・ルームなる場所があって談笑できるスペースとは区別してあった。この店にも周辺に住む文学者などが、よく顔をだしていたらしい。
(西荻窪)
『ほびっと村』:1Fにある有機無農薬野菜の八百屋のスタイルを最初に作った『長本兄弟商会』、2Fのレストランと飲み屋の『遊々満月洞』(開店当時は『ほんやら洞』)、3Fの『ナワ・プラサード』とフリースペース『ほびっと村学校』等によって形作られるカウンター・カルチャーの殿堂。70年代以降のスタイルをひっぱった。日本における和尚(ラジネーシ)の紹介や、三森式ラマーズ法の普及(現在はアクティヴ・バースという言い方をする)など功罪と功績は多々。評価は分かれるかもしれない。その原点となったのは、『地球の上に生きる』(1972.草思社)だし、70年代のホールアースカタログを目指した『やさしい革命』(1978.草思社)だったろう。
(吉祥寺)
『Funky』:1957年開業の老舗のJAZZ喫茶。喫茶、Barとスタイルを変え40年間を生き延びているが、吉祥寺は新たなジャズバーのメッカとなりつつある。店長は野口伊織氏。姉妹店はたくさんある(『アウトバック』1972年開店、『西洋乞食』1974年開店、『サムタイム』1975年開店など)。
『メグ』:1970年(1969年説もあり)開業。店長は最近とみにジャズ評論家になってしまった感のある寺島靖国氏。前衛ジャズの嫌いな気楽な、それで気難しいオヤジさん。この店には70年代にタレントだったフラワー・メグが働いていたという伝説がある。現在も、私語禁止の気骨あるダンモの店(姉妹店『モア』は閉店してしまったらしい)。
『檸檬』(70年代フーゲツなきあと、ボクはこのカフェの存在でなぐさめられた)『OZ』(「カルメン・マキとOZ」の拠点になったいまや幻のライヴハウスだった)『ぐわらん堂』(「武蔵野タンポポ団」はこのライヴハウスをぬきでは存在しなかっただろう)『バロック』『こんつぇると』『のろ』『もか』(おそらく日本一のコーヒーが飲める店。今は豆売りがメイン)これらは70年代の店だが、忘れがたい店なので触れておきたい。
(三鷹)
『第九』:三鷹駅前の再開発で二代目のオーナー(本屋さんで、ビルの中に第九の名は残っている)は、潤ったかもしれないが、消滅が惜しい名曲喫茶。太宰治が入水自殺をした玉川上水に似合った店だった。先代は詩人でもあり、「藝林」の同人として若い時に書いた詩を中央公論社から自費出版なさっている。石田弘二「詩集・未成年」(1959.12第九書房発行)がそれである。ぼくは、偶然手に入れている。
(国分寺)/国分寺は昭和三十年代2軒の店によって代表される「劇画」村とヒッピィ村の顔を持つのだ。
『でんえん』:『でんえん』の存在を知ったのは年が分かってしまうが(もうとっくに分かってるって?)、さいとうたかをの貸し本マンガつまり劇画の中であった。確か「台風五郎シリーズ」の背景に必ず名曲喫茶『田園』の看板があるのだ。デビュー当時さいとうたかを氏や「劇画工房」のメンバーは、上京してすぐ国分寺に住んでいたらしい。永島慎二氏にとっても忘れる事のできない青春のヒトコマの思い出あふれる店の一軒。このことはオーナーも知らずにお亡くなりになってしまったが、現在夫人が店をきりもりなさっている。武蔵野美大、学芸大の学生たちや、周辺に住むアーティストたちはお世話になったのではないか。失いたくない店の一軒。1957年(昭和32年)開業。
『ほら貝』:日本で最初のロックを聞かせる店として山尾三省らの国分寺在住のバムが、金銭を稼ぐ手段として開店させた。ワイルドな店だったが、場所を変えひっそりと現在も存続している。ビールビンをドアの重しにしている店があれば、そこが『ほら貝』だ。
『ほんやら洞』:早川義夫氏がオーナーだった時期もあり、現在はやはり歌手だった中山ラビさんがオーナー。『ほんやら洞』は、京都、金沢、そして東京にあるが(一時は2軒。西荻窪の「ほびっと村」の2Fにあった)いずれもカウンター・カルチャーもしくは住民運動等のたまり場という共通項を持っている。が、いずれも、個別経営である。名前の由来はつげ義春氏の「ほんやら洞のべんさん」による。カマクラと同じ雪でできたほこらの意味で北陸地方の方言らしい。
(国立)
(ブランコ通り)
『ロジーナ茶房』:1954年(昭和29年)開業。国立では老舗の一軒。画廊喫茶のはしり。山口瞳の小説に度々登場。府中の店とは姉妹店。
『邪宗門』:1955年(昭和30年)開業の名曲喫茶。この辺りで昭和30〜40年代に学生時代を過ごした者には忘れがたい店のひとつ。現在も雰囲気はそのままで『ロジーナ茶房』の隣でがんばっている。
『韻』:モダンジャズのバー。現在は代替わりしたのかママさんがやっている。
『ナジャ』:ブランコ通りの中間にある1972年開業のカフェ。アナログ・レコードのジャズ、シャンソンがきける。店内のインテリアも独特。97年、98年の2年間にわたり年末恒例ポエトリィ・リィディングの会場としてボクはお世話になっている(Poet_cafeを参照してください)。
(大学通り)
『白十字』:大学通りにある洋菓子喫茶。1955年開業。店は一見きれいに見えるが、看板とロゴに注意! 時代を感じさせてくれるだろう。
(富士見通り)
『ジュピター』:国立老舗の名曲喫茶の一軒。いまも、音大、一橋そして美校の若者がたむろする。
『電脳・風月堂』支配人 敬白