小島六郎氏の紹介

1900年生まれ、新潟県北魚沼郡小出町出身。早稲田大学法科卒。都新聞社、読売新聞社などで記者生活

10年を過ごす。

終戦後、函館新聞専務取締役に就任。ベースボールマガジン社重役などを歴職。

大正15年、早大山岳部時代に四谷竜胤と穂高滝谷を初登攀。昭和22年〜23年早大、稲門山岳会合同隊の指揮をとり、積雪期の北海道ペテガリ岳に極地法登山をした。

著書「夏の山・冬の山」、共著「北アルプス」「槍・穂高・上高地」などがある。

                                                    <斉藤一男>

   世界山岳百科事典 (山と渓谷社 1971年刊)  より

1996年小出町にて永眠 96歳            (1999.7.14     山と渓谷社より掲載許諾) 

 

小島六郎さんを偲んで

    長岡ハイキングクラブ     土田 幸雄

 

小島六郎さんが、旧冬12月の13日、故郷の小出町で駒ヶ岳に看取られながら、96歳の天寿を全うされた。

 小島さんといえば大正14年8月、早稲田大学山岳部のとき、上高地の主、上条嘉門次をして、「あそこは鳥も通わない」とまでいわせたという伝説のある北アルプスに唯一残された未踏の谷、滝谷の初登攀者として知られている。

 この初登攀は、四谷竜胤、小島六郎両氏の早大パーティと、藤木九三、富田砕花両氏のRCCバーティが奇しくも同日、同時刻頃出発、初登攀を争い、多少のルートの違いはあったものの、それぞれが成功したという、異色の記録としても有名である。

 両パーティは、前日、蒲田の今田旅館で偶然一緒になりテントを持っている藤木パーティは、滝谷の出合いにテントを張り、テントを持たない早大パーティは、槍平の室堂に泊まり、8月13日の午前7時滝谷の出合いでおち合って一緒に登るという打ち合わせをした。ところが、その約束の午前7時、早大パーティが滝谷出合いに到着したとき、おち合う時間を午前6時と思っていた藤木パーティは、待ちきれないで先行していた。

 前人未踏の滝谷登攀に熱情をかたむけた両パーティだっただけに、この1時間のずれが残したわだかまりが、その後、昭和38年頃、藤木九三のレリーフ建設場所をめぐる紆余曲折の原因となったことは、小島さんの『山、山、人間』(スキージャーナル社)に詳しくしるされている。

 なお、初登攀の記録は、小島六郎著『山に生きて』(ベースホール・マガジン社)、藤木九三著『雪・岩・アルプス』(中央公論社)にある。

 このことでもお分かりのように、小島さんは学生時代から登山に情熱を傾け、東京都山岳連盟副会長や、日本山岳協会副会長などを歴任され、日本の山岳界の重鎮として活躍されてこられた。

 この経歴から大方の人達は山一筋に生きられたという印象を持つが、実は、小島さんは長岡工業を卒業後、早稲田大学に進学し、名門の野球部員として活躍しておられたが大正12年の関東大震災で生活環境が変わり、野球を続けることができなくなり、野球によるスポーツへの道をふさがれなやんでいたとき、ほんの出来心のつもりで山岳部の計画に参加したのが、山岳部員になったと著書にある。

 大学卒業後は、読売新聞の社会部や運動部記者として長年活躍され、戦後は函館新聞専務取締役としても手腕を発揮された生粋のジャーナリストである。

 小島さんの知遇を得たのは昭和39年3月、富士山で行われた日本山岳協会の登山指導者研修会である。

 小島さんは日本山岳協会常務理事として「最近の遭難について」という演題で講演された。遭難の自己責任を強調しておられたことと、遭難防止の基本は登山者の組織化であって、山岳会は資格審査など言わずに誰でも入会させ底辺を厚くすることだと、熱っぽく話しておられたことが強く印象に残っている。

 今になって思えば、山岳遭難をめぐっての訴訟が頻発している近年の風潮や、学生山岳部の衰退・崩壊はもちろんのこと、若い登山者の山岳会ばなれを予見しておられたかのような気がする。

 気さくなお人柄で宿舎で私たちの部屋においでになられたり、帰途、東京まで中央線でご一緒させていただき、色々なお話をお伺いしたこと、その後、東京に勤務していた際、何度か国立のお家に寄せて頂き、ご高説を拝聴したことなどが、つい昨日のことのように思い出される。

 天寿を全うしての大往生とはいえ、人の別れは悲しく、寂寞たる想いでこの文を綴っている。

 あの温厚なふくよかな笑顔の大先輩の顔が、天国に旅立たれるときは、痩せておられたことが何とも悲しい。

 小島さんらしい平成6年の年賀状を、天国からお許しを得て紹介し筆を擱く。

                                                                             合掌 

『新年お目出度う−と言いたいのだが、自分の歳じゃその声が出ない。』

『90に4を加えたからといって、つむりをまげないで素直になれ。』

『頭のボケで、年賀状の文字に迷うのだから、お目出度うもないじゃないか。』

『なあに、病人じゃなし、元気を出せ』

『ウーム・・・・わかった。』                 小島六郎

  土田幸雄氏(新潟県山岳協会事務局長・日本山岳会越後支部監事)のご厚意により「新潟県山岳協会ニュース」第121号(平成9年3月25日発行)から転載させていただきました。  

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