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忘れないために

早乙女勝元さんを迎え
「子どもたちに伝える平和のための資料展協賛 記念講演」 盛会でした
と き 7月28日(木)13:30から
ところ ハートフルスクエアーG 大研修室
講演 「いのちと平和の尊さを」
講師 早乙女 勝元氏(作家、東京大空襲・戦災資料センター館長)
ビデオ 人形アニメ「おかあちゃんごめんね」(26分)早乙女勝元氏原作
早乙女氏は開会前、会場となりの岐阜市平和資料室をのぞかれ、「いい場所にある。駅に来た人、出てくる人が1年中寄れる場所。分けてもらいたいよい資料がいっぱいある」と感想を講演の中で触れておられました。170名の参加でした。
主催 岐阜市平和資料室友の会・岐阜市平和館をつくる会 Tel058−246−7273
子供たちへ伝える平和のための戦争展 終了しました
ハートフルスクエアーG 2階 平和資料室
7月9日(土)〜31日(日) 午前9時〜午後9時(26日は休館)
「敗戦、戦中のくらし、そして空襲」と副題が付けられましたが、まず目にはいるのが開戦時の国民学校の教室のイメージ、子供たちが戦争に巻き込まれていくようすが、パネルなどでうかがえます。
岐阜市歴史博物館所蔵の戦時下のくらしを考えさせる展示のあとは、今年特に各務原市、大垣市の空襲に関する資料を、岐阜市のものと比較して展示を行っています。各務原爆撃に使われた1トン爆弾や250kg爆弾、大垣に投下された焼夷弾などが迫力をもって迫ってきます。
また最近アメリカ国立公文書館から入手した岐阜空襲の一ヶ月前に空撮された岐阜市の写真も展示されまいた。道路疎開のあとが鮮やかに撮され、公会堂(いまの市民会館の位置)の屋上に設置され不気味な警報を伝えていたサイレンまで確認できるほどの精密な写真です。
子ども向けのイラスト入りの説明パネルも展示され、見やすくなっています。
また、うえのたかしさんの幼い頃の岐阜空襲の記憶から制作した版画「炎の記憶」、上野芙美さんの体験を書き上げた絵本「ハマユウの咲くころ」の原画も展示され話題となりました。
「岐阜県下の空襲」などのビデオも見られます

岐阜空襲の夜「岐阜空襲60周年の夕べ」盛会でした
と き 7月9日(土)18:30〜
ところ ハートフルスクエアーG 中研修室
講演 「あの日、あの夜から、戦後60年を考える」
講師 木戸 季市氏(岐阜聖徳学園大学短期大学部名誉教授・ 岐阜被爆者の会事務局長)
ビデオ 60周年新版「岐阜県下の空襲」(30分)「焦土;岐阜」(4分)
まず、長崎原爆被爆者である木戸さんは、10m以上吹き飛ばされ気を失っていたとあの日の体験から話をはじめられました。被爆者の受けた犠牲の大きさに対してのアメリカ政府および日本政府の責任を国際法や国際司法裁判所の「勧告的意見」にふれてあきらかにされました。
ついで、戦後60年を考える前に、戦争を繰り返した戦前60年を見直した上で、日本国憲法と日米安保条約、高度経済成長からバブルそしてその崩壊と戦後日本社会の特徴に触れながら、戦争の出てこない時代を強調されました。
さらに、部落問題は解決したとしてその現状や問題点、「弓矢裁判」「人権擁護法案」、憲法9条擁護など目の前にある具体的な課題を的確に指摘されました。15枚にもおよぶ貴重な資料も準備されており、時間不足が惜しまれました。73人の参加,「岐阜も戦場だった」も41冊買ってもらいました。
主催 岐阜市平和資料室友の会・岐阜市平和館をつくる会 Tel058−246−7273
国民学校の教科書ーぎふ[不再戦の夏2004]教科書展から
東京都教育委員会が都立中高一貫校で「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡教科書採択の動きを強めているさなか、「不再戦の夏2004実行委員会」では、太平洋戦争下で使われた「国民学校」教科書を取り上げ展示しました。その一部を紹介します。教科書は、岐阜市木田の故坂口祐康さんからお借りしました。

@父親がいなくなった(国語)
上は太平洋戦争が始まった1945(昭和16)年から使われた国民学校一年生の「ヨミカタ(国語)の教科書、下はそれより8年前の昭和8年に発行された、尋常小学校一年の「国語」の教科書です。
どちらも挨拶を学ぶページですが、国民学校本では挨拶も「オトウサン」への呼びかけはなくなり、「オカアサンタダイマ」となりました。挿絵からもお父さんはいなくなります。家庭的な温かさも感じられなくなりました。家庭よりも国家が優先され、母子家庭が当たり前とされているのです。




A表情が消えました(国語)
これも同じ教科書の女の子の「糸電話遊び」から言葉使いを学ばせる教材です。
下の尋常小学校本は表情も明るく、着ているもていねいに描かれ、持っている人形もこどもの指先までも優雅です。
上の国民学校本になると、おもちゃも実にいい加減に」描かれ、こどもに表情が無く、2人が後ろを向いてしまいました。糸はぴんと張っていないと、振動はは伝わりません。



B桜を愛でる余裕もなくなりました(国語)
下は尋常小学校の最初に学ぶよく知られたページです。春が来て桜が咲くよろこびをいっぱいに表現しています。絵も丁寧に描かれています。
国民学校になるとになると、桜が咲いても、わきめもふらず体操し、体を鍛えることから始まりました。


C戦争ゴッコが主流に(算数)
国民学校1年生の算数は「カズノホン一」(昭和16年2月発行)になりました。
カズの数え方の基本を学ぶページですが、運動会が戦争ゴッコに変わりました。
少年兵士も敬礼から、抜刀万歳になりました。






D宮城、天皇、日の丸、神社参拝、目指すものは(修身)
一年の修身は「ヨイコドモ上」です。はじめの3ページと一年が終わる最後ののページをあげました。「小サイケレドミンナ日本ノコクミンデス」で終わります。入学時から徹底して「皇道」をたたき込みました。


教室の正面にもこの写真が飾られ、朝礼で「宮城遙拝」をしていました
白馬に乗るのは昭和天皇
登校と神社参拝はをつなげるものは?

1年修身の最後のぺーじです。
私タチハ、日本のコドモデス。
小サイケレドモ、ミンナ日本ノコクミンデス。
先生ノオシヘヲヨクマモリマス。
コンドソロッテ、二年生ニナリマス。
C墨ぬり教科書、「きりとり教科書」(習字)
今回お借りできた国民学校教科書のなかに、「初等科習字四」(昭和18年3月発行)が二冊ありました。一冊は不都合な文字に一部に墨が塗られたいわゆる「墨ぬり教科書」でした。戦後の一時期使わわれたものでした。もう一冊は墨が塗られるまえのもだったので、墨が塗られた部分が再現きました。
またよく見ると、墨ぬり教科書の方は、6ページにわたって切り取ってありました。私達はこれを「きりとり教科書」と名付けました。
墨ぬりの部分と、切り取られたページ、残されたページの一部を紹介します。



切り取られていたページ






残っていたページ




D「君が代」が消えました(音楽)
国民学校「高等科音楽一女子用」(昭和19年4月発行)と「高等科音楽」(昭和21年6月発行)がありました。上の「高等科音楽」は戦後最初に出された教科書です。これまで墨を塗ったりして消した部分を削除して、新聞紙様の用紙に印刷したものを配布、こどもはこれを裁断し、ホチキスでとめて使った仮の教科書です。
「目録」を見ると音楽教材の手直しが分かります。「君が代」や「紀元節」などの式歌、「海ゆかば」、男女共用になったせいもあるのか、「女子青年の歌」「小楠公の母」などが消えました。
戦後の教育改革の始まりが確認できます。
戦後第1号の教科書



昭和19年に使われた教科書



安田純平さん(イラクで拘束されたフォトジャーナリスト)を招く
「戦争はダメだと言いつづけよう−不再戦の夏2004」−
大きな反響を呼び、終わりました!
と き 8月13日(金)〜15日(日)午前10時〜午後7時
ところ ハートフルスクエアーG (13日は正午オープン)

鵜沼国民学校児童の作品
兵士を育てる教科書展(国民学校の教科書から)---内容の一部を紹介しています
{展示あんない}
@イラクからのメッセージ
森住卓 写真展
久保田弘信 写真展
その他マスコミに伝わらないイラクの現状を伝えます。
A15年戦争の真実
毒ガス・化学兵器
三光作戦・無人区の悲劇
日中15年戦争の時、「聖戦」の名のもとに日本軍が行った戦争の一端を紹介します。
B子供たちの総動員
兵士を育てる教科書展(国民学校の教科書から)
戦時中の代用食(「スイトン」ってどんなもの?)
戦争に協力させられた昔の子供たちの暮らしを、教科書と食生活から再現します。
{8月13日(金)のイベント}
オープニング演奏「ピースライブ」12時30分〜 ステージ
「芽ぶけミヤコよ」朗読劇 午後1時30分〜 中研修室
講演 「私の見たイラク戦争と民衆」 安田純平さん 午後2時〜 中研修室
入場無料
主催 不再戦の夏2004実行委員会
(連絡先:岐阜県教職員組合岐阜支部 Tel:068-263-1286)
後援 岐阜市教育委員会
参加団体 岐阜県生活協同組合連合会、岐阜市平和館をつく会、 岐阜県 地下壕研究会 撫順の奇跡を受け継ぐ会ほか
「不再戦の夏2004 プレ行事 講演会
@ 講師 坪内 廣清氏
元那加中・中央中などの校長をつとめられた
「国民学校の子どもたち」などの著作ありi
と き 6月27日(日)14時〜
演題 「神の国」であった時代の教育
−各務原陸軍飛行場と那加第二国民学校−
A 講師 吉田 千秋氏(岐阜大学教授)
と き 7月31日(土)14時〜
演題 「イラク戦争と平和憲法」
いずれも
場所 円徳寺(岐阜市金宝町交差点丸晶スポーツ北)
入場無料
主催 不再戦の夏2004実行委員会 連絡先068-263-1286
不再戦の夏2004 学習見学会1
地下壕探検に行きました
終戦間近の1944年末、空襲の激しくなった名古屋のの飛行機向上を地下に移して戦争を続けるため、周辺の山の中に碁盤目状の大規模なトンネルが、強制連行の朝鮮人や中国人によって掘られました。そのトンネルを地下壕といいます。」岐阜県下にある地下壕のうち、複雑で案内がないと入りづらい二つを訪ねました。
と き 5月30日(日)雨天決行
見学場所 平牧地下壕 10時〜10時45分
久々利地下壕 11時〜12時15分
岐阜地区の集合場所 各務原市民公園噴水 9時集合
参加費 資料代100円 自家用車利用代300円
持ち物 懐中電灯(ペンライト不可)、ヘルメットまたは帽子、長靴、長袖、長ズボン
主催 地下壕研究会:不再戦の夏2004実行委員会
基地調査
航空自衛隊岐阜基地の実態と自衛隊の変貌
憲法9条改憲に先行して、アメリカ軍の補完部隊化がすすめられている自衛隊の姿とはどういうものでしょうか。
と き 10月24日(日)13:30〜16:00
ところ 各務原勤労会館1F 第1小会議室
内容 航空自衛隊岐阜基地の概要
各務原市政と岐阜基地
岐阜基地の外周を車で回りました。
主 催 04日本平和大会in佐世保 岐阜県実行委員会
058−265−2983
「平和情報仁空」より 岐阜情報
今回は、岐阜の平和情報を二点お伝えいたします。一つ目は、真宗大谷派岐阜別院の「平和展」です。
十五年戦争下、岐阜県には「抵抗」を実践した二人の大谷派僧侶がいました。一人は竹中彰元。日中全面戦争勃発直後、「戦争は仏教の教えから見て罪悪である」、「このたびの戦争は、侵略である」と二度にわたり発言し、逮捕・有罪判決を受けました。もちろん真宗大谷派は彼をほっておく訳がありません。国家に負けぬよう、不埒な僧侶、として処分をいたします。そして、処分は今でも撤回されていません。つまり、現在でも「不埒な僧侶」のままなのです。その「不埒な僧侶」が「本物の僧侶」として紹介されます。
もう一人は河野法雲。「満州事変」下、国家神道が絶対視される中、「真宗は弥陀一佛 (阿弥陀如来以外は信仰しない) 」、「天照大神も迷いを持つ存在」との論文を発表したのです。当然大谷派でも問題となります。しかし彼は自説を撤回せず、大谷大学学長を辞職することとなりました。また、「主上臣下、法に背き・・・(朝廷とその部下が仏法にそむいた)」という親鸞の言葉を繰り返し述べていた、という証言や、「反戦めいたことを大学の講義で話し、警察が調べに来た」という証言もあります。竹中同様、「不埒な僧侶」として存在します
とくに、河野法雲については、そのほとんどが未発表資料で構成されるようです。ぜひご参観ください。われわれ平和活動者の大先輩です。浄土真宗が「いのち」や「平和」を尊ぶことを、実践を通して伝えてくださった方々です。
もう一点は、岐阜県下の宗教者が最近発表した平和メッセージです。賛同者名は省略いたしますが、竹中・河野に学ぶ宗教者が多数おられることに、喜びと敬意を表したいと思います。
合掌 (不埒な僧侶になりきれない) 釋 仁空
一、岐阜別院平和展
・5月30日〜6月1日 午前10時から午後3時30分
・真宗大谷派岐阜別院(東別院) 岐阜市大門町1
・0582−66−1378
二、岐阜県宗教者平和アピール
私たちはイラク即時撤退と有事法制反対を強く求めます
バクダットは陥落し戦後処理に入りました。これで戦争は終るのでしょうか。とんでもない。アメリカは国連を無視して戦争を起こし、国連の介入を許さず、石油利権を求め戦後処理をしようとしているのです。そして
イスラムの憎悪の泥沼に入ってゆこうとしています。まさに憎悪を巻き起こす帝国主義戦争そのものです。どこでテロが起きても不思議ではありません。
国連こそ日本国憲法とともに第二次大戦の尊い犠牲のうえにきづかれたものであることを私たちは絶対忘れてはなりません。利権を求めての侵略戦争は認めることはできないのです。かっての国際連盟は満州侵略の日本の脱退によって崩壊され、いま国連はアメリカのイラク侵略によって崩されようとしています。アメリカ軍は即時イラクより撤退し、国連の権威を回復しイスラムの反米憎悪を断ち切らねばなりません。戦後培ってきた国際秩序の崩壊です。
この段階に入ってなおアメリカに追随したとしたら、共犯そのものであり、日本の国際的信用は全く失われます。今回の戦争支持によって小泉内閣の本質は明らかになりました。組閣以来靖国参拝と平行し、着々とすすめられてきたのです。明らかにいつかきた道です。
先に周辺事態法で自衛隊の活動範囲を東太平洋にひろげました。と思ったらテロ対策特別措置法で待ってましたとアメリカ軍への支援行動をインド洋までひろげ、さらに有事法制法案です。アメリカの帝国主義戦争に私たちまでが強制的に参加させられるのです。もはや自衛隊ではありません。どこへでも堂々と日の丸とともに進める立派な軍隊です。帝国主義戦争の同伴者です。私たちは誰をどこの国を敵として準備をすすめるのでしょうか。
二一世紀はアジアの世紀です。そのアジアへの敵視政策を続けて日本に未来があるでしょうか。私たちはアジアに尊敬され、信頼される民族にならねばなりません。そのためにも私たちは宗教者として利権を求めるアメリカ軍のイラク即時撤退と有事法制反対を強く求めるものであります。生きる尊さを知る宗教者として許すことはできません。
2003年4月23日
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兵戈無用 (佛説無量寿経)
=軍隊も武器もいらない=
DAITO Satoshi
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岐阜県原爆被爆者の会(岐朋会)の活動を紹介します
・岐阜県原爆死没者慰霊祭 8月3日(14時〜グランヴェール岐山)
・ 「原爆と人間展」の開催
岐阜市役所 7月7日(月)から10日(木)
岐阜県庁 8月12日(火)から15日(金)
各務原市産業文化会館 6月21日から23日
多治見市文化会館 6月22日(日)(岐阜県母親大会)
多治見市ながせ商店街 8月6日(木)から9日(土)
・岐朋会第13回総会 5月25日(日) 岐阜市スポーツプラザ
・平成15年度 第1回健康相談会 9月28日から29日(日月) 岐阜・下呂温泉
第2回健康相談会 2月29日(日) 岐阜市南部コミュニティセンター
岐阜市平和資料室開館1周年フェスティバル
「青い目の人形展」開催
と き 1月25日(土)〜2月9日(日)
場 所 ハートフルスクエアーG 岐阜市平和資料室と展示フロアー
講 演 「青い目の人形」と「ミス岐阜」 夏目 勝弘氏(元愛知県中学校教員)
「人形交流と岐阜県」 魚住 龍雄氏(中学校教員)
2月2日(日)午後1時30分 ハートフルスクエアーG 大研修室
1927年ごろ、日米関係が悪化するするのを懸念するアメリカ人ギューリック氏は、お互いの文化を交流することで子どもたちに平和の心を育てようと考え、1万2千体の青い目の人形を日本の学校や幼稚園へ送りました。思いがけないプレゼントは、子ども達だけでなく、多くの人々に感動を与えました。
不幸にして日米は戦火を交えることになり、敵性の人形としてこわされたり焼かれたりしましたが、心ある人々によって全国で300体近い人形が密かに守られて今に伝わっています。235体贈られた岐阜県内にも、バッテロー(八百津町和知小)、メリーブランナー(七宗町上麻生小)の2体が残されました。「人形に罪はない」として守ってきた人がいたのでした。

青い目の人形:メリーブランナー
青い目の人形:バッテロー

主催 岐阜市 支援「ミス岐阜の会
日中国交回復30周年記念:偽満州国建国70周年:忘れられない年に
「不再戦の夏 2002」展
日中友好と反戦平和の願いを込めて、過去の歴史の事実に目を向け、不幸な戦争を二度と再び引き起こすことのないように、この展示会を企画しました。
と き 8月10日(土)12:00〜19:00 8月11日(日)9:00〜19:00
会場 ハートフルスクエアーG 2階 大研修室・和室・中研修室
(JR岐阜駅高架下東、2階改札を出たらそのまま真っ直ぐ進めば入り口です。)
入場料 無料
マスコミ各社の報道もあり、2日間で2100人の入場者を数えました。
パンフレット「731部隊関係資料とラストエンペラー日本画コレクション」を発行しました。(500円)
展示品 @731部隊極秘資料「特移扱」実物文書−長春の旧憲兵隊本部の庭から焼けこげた状況で
大量に発見されたもの。中国以外で初公開。まt、731部隊の概要・実態をパネルで紹介し、現代の私たち日本人が抱えている課題であることも訴えます。(大研修室)


Aラストエンペラー日本画コレクション−旧満州国皇帝:溥儀の資料を集めた中国長春の「偽満皇宮博物院」に保存されていた日本画約270点の中から10点を借用展示します。渡辺崋山・松村景文・小杉放庵・松林桂月・橋本関雪など著名な画家の作品が60年ぶりに里帰りします。これももちろん初公開です。(和室)
溥儀のもとにどうして膨大な日本画コレクションが残されていたのか、その謎にも迫り、戦争と美術・文化との関わりをも考えます。

左から橋本関雪「設色人物」、渡辺崋山「寒林群鴉図」「仕女図」、松林桂月「夏山雨後」
{関連事業} 講演会(中研修室)
8月10日(土) 13:30〜 「祖父;松林景月を語る」 松林 明氏
14:30〜 「731部隊・特移扱文書」 吉林省档案館学芸員
15:30〜 「偽満皇宮博物院収蔵品」 偽満皇宮博物院学芸員
証言集会(中研修室)
8月11日(日) 10:30〜 「憲兵と特移扱文書」 長沼節二氏(元中帰連会員)
13:30〜 「満蒙開拓団」 西尾克己氏(元中帰連会員)
14:30〜 「満州でのくらし」
VTR上映など(中研修室)
8月10・11日 17:00〜19:00 「幻の満州旅行」「証言:侵略」「満州事変」など随時
コンサート(交流広場)
8月10日(土) 12:00〜 関島秀樹コンサートと展示会オープニング
折り鶴協賛活動(大研修室・ロビー)
展示品パンフレットと折り鶴セットで1000円のカンパ(協賛金)をお願いします。
折り鶴は吉林省档案館へ贈呈し、日中友好と反戦平和の使節とします。
主 催 日中国交回復30周年を記念する会 実行委員長:寺尾光身(名工大名誉教授)
協賛団体 岐阜市平和館をつくる会・岐阜県地下壕研究会・撫順の奇跡を受け継ぐ会:岐阜 その他
連絡先 090−9661−5097(今井)
「不再戦の夏 2002」 第3回プレ企画
講演 「731部隊展示資料解説」 倉橋 正直氏(愛知県立大学教授)
「ラストエンペラー日本画コレクション」 今井雅臣氏(実行委員 展示担当)
と き 8月6日(土)19:00〜
ところ ハートフルスクエアーG 2階:中研修室 18名参加
戦跡めぐり−岐阜空襲の跡を訪ねて
コープぎふ岐阜地区平和委員会では、今年も恒例になっている親子戦跡めぐりを企画しました。
戦後57年、被爆物はだんだん少なくなってきました。今も姿を残している被爆物を、歩いて見学します。
有事立法が話題にっているときです。戦争について、考えてみましょう。
と き 7月27日(土) 9時30分 岐阜北口交番前集合 〜 12時30分 ハートフルスクエアG解散
コース 住吉神社 → 溝旗公園(白山神社、稲荷神社) → 白山小学校 → 平和資料室
参加料 無料
持ち物 帽子、水筒、汗ふき用タオル、筆記用具
問い合わせ先 松島 0120−38−8731
約30名参加、無事終了しました。
2001年ピーストークデイ”20世紀を平和な世紀にするために”
記念講演 「捕虜の虐待と優遇-人道のひとつの側面」 講師 野村 健二氏{元岐阜北高等学校校長)
野村健二氏は、ラバウルで敗戦を迎えた。オーストラリア軍のもとでの捕虜生活は、日本の軍隊がまったく教えてこなかった待遇であった。戦勝病兵に対する手厚い看護は「生きて虜囚の辱めをヲ受けず」とした日本の軍隊教育とはまったく異なる思想を持っていることに気づいた。
復員して永く高等教諭をしていたが、この体験を何とか記録に残したいと、退職後、ラバウルの体験と捕虜の歴史を丹念に調べ、昨年表題の著書を著した。
著作紹介 「人道のひとつの側面-捕虜の虐待と優遇」 発行所=平和文化 定価=2000円+税
「孫にする夜話-戦争体験を語る」 発行所=郷土出版社 定価=1000円
日 時 2月10日(土) 午後2時〜
場 所 岐阜教育会館(岐阜市美江寺町) Tel058-263-1286
主 催 ピーストークデイ実行委員会 連絡先Tel0585-263-1286(岐阜県歴教協 魚次龍雄)
平頂山事件の生存者 方素栄さんの証言を聞く会
と き 2000年2月29日(火) 午後6時半より
ところ 岐阜市民会館大集会場
資料代 1000円
主 催 平頂山事件原告の証言をを聴く岐阜実行委員会
連絡先 日中友好協会岐阜県連合会 Tel058−266−0333
岐阜市美江寺町2 教育会館内
平頂山事件(1932.9.15、撫順炭坑を襲撃した抗日民衆自衛軍に内通しているとして、平頂山村住民約3000人を虐殺した)で奇跡的に生き残った方素栄さんら3人の方が、日本国を被告として損害賠償請求訴訟をおこし、現在係争中です。
方さん達お二人の尋問が東京地裁で2月25日行われることが決まり、来日されます。この機会を捉え、方さんを岐阜にお呼びして、証言を聞く会を開くことになりました。
こんな内容でした 方さんは71歳、時に瞼をぬぐうこともありましたが、平頂山村で起きた惨劇、孤児になってからの生活、労働と平頂山事件を伝える活動、日本人と日本政府への訴えなどを淡々と話してくれました。
父は日本兵が家に入ってきたとき逃げ、目の前で撃ち殺されました。日本兵は「写真を撮る」といい銃で脅し、家族を追い立てました。
村人たちは、村の南のほうの一箇所に集められました。あたりには黒い布がかぶされた写真機のようなものが、十数台置かれていました。
日本兵は私たちに座るように指示をしながら、機関銃の黒い布を取り、発射したのです。
父以外の私たちの家族7人は、まとまっていました。祖父は私をかばうように、両腕で抱えるようにして倒れました。私にも銃弾が当たりました。後で分かったのですが、このとき私は頭や首、左腕、左脇腹右足など8箇所に銃弾を受けていました。私は痛くて、祖父を呼んだのですが、返事はありませんでした。祖父の体が、私の上に覆い被さっていて、息ができないくらいの苦しさでした。私は、痛みのため意識を失いました。
気がついたのはしばらく経ってからだと思います。私は、祖父の下で、仰向けに倒れていました。 私が目を覚ましたのは、すぐ近くで、上の弟が「マー(媽)!」「マー(媽)!」と呼んでいたからだったのかもしれません。私が目を覚ましてまもなく、上の弟が這い出してきたのが見えました。弟は「マー(媽)!」と大きな声で叫びました。すぐに日本兵が来て、弟めがけて、銃剣で、上から突き刺しました。銃剣は、クシューと音を立てて、弟の体に入りました。日本兵は、弟の体を突き刺したままの銃剣を上に振り上げて、弟を捨てました。私は、すぐに目を閉じて、動かないようにしました。私のところへ来ないでほしい、私に気付かないでほしい、私はそれだけを凍りついたように願いました。。
やがて、日本兵たちが歩く音が聞こえなくなりました。しばらくして私は、思い祖父の下から何とか這い出しました。私はすすり泣きながら、祖父に声をかけましたが、動きませんでした。母、祖母も引っ張ってみましたが、動きませんでした。母の頭の上に、白い豆腐のようなもの(脳みそ〉が見えました。下の弟は、母に抱かれて、動きませんでした。
こうして当時4歳だった方さんは、祖父母、両親、兄弟すべてを失い、その後母方の祖父母のもとで平頂山の生き残りであることをが分からないように、隠れて過ごしました。その後修学、撫順製鉄所などで勤務しやがて結婚、2男1女を育てます。
方さんは中華人民共和国か建国された1949年頃から、平頂山の体験を小学校、職場、集会などで話すようになりました。溥儀や元日本兵の入っている撫順市にあった戦犯管理所でも話すことになったそうです。事前に所長から何度も、日本人に話すときに、自分の恨みをぶっつけるな、大きな視野を持って、悪いのは日本軍であって日本人が悪いのではない、「鬼」といわないようにと教育されそうです。
会場に、45年前にこの戦犯管理所で方さんの話を聞いたという元日本兵の方がお二人参加されており、あらためて当時の状況を話してくれました。いわば加害者と被害者が同席し、涙で声を詰まらせながら戦争の犯罪性を訴えるという、感動的な場面になりました。
最期に方さんは、事実はなくならない。私たちの恨みや苦しみは消えていない。日本政府は過去の侵略の事実と、この事件で大虐殺のあったことをを認め、その上で謝罪と公正な賠償ををして欲しい。悪かったことを認識し、同じことを繰り返さないための行為だ、事実を伝えて欲しいとまとめました。
「2000年ピーストークデイ」のご報告 (
と き 2月5日(土) 午後2時より
ところ 長良川会館(忠節橋南詰め 木曽川上流工事事務所西となり)
講 演 「ベトナム戦争とダイオキシン」
講 師 中村悟郎氏(岐阜大学助教授)
氏はフオトジャーナリストとしてベトナム戦争を取材、枯葉剤によるダイオキシンの汚染 を記録してこられました。
主 催 ピーストークデイ実行委員会 参加費無料
講演の要旨です 中村氏は100枚ほどのご専門のスライドを使い、ダイオキシン汚染の広がりと怖さや、日本の対策の遅れについて時間を延長し、約3時間にわたって話してくれました。
まずドクちゃんたちで知られるベトナム戦時の化学兵器(枯れ葉剤)によるダイオキシン汚染を追い、さらにベトナム帰還アメリカ・韓国兵の被害の実体とアメリカ政府への補償要求運動、またセベソ(伊)での土壌汚染などが、脳や手足・皮膚の損傷、神経や知能の発達異常、抵抗力の低下,癌の発生と米政府の承認、脊椎障害、若者の精子の減少、異常出産等々人体に深刻な影響を与えていることを紹介されました。
日本でもようやくダイオキシン法が発効しましたが、氏によれば産業界の圧力で、網をかぶせながら逃げ道がちゃんとつくられているざる法だということです。例えば、1000ピコ以上の汚染には土の入れ替えをするということではドイツ並というが、ここまでで100ピコで子ども立入禁止、40ピコで葉物野菜の作付け禁止、5ピコ以下があるべき姿.といったより軽度の汚染についてはドイツにあるものが全く触れられていないなどのトリックが隠されているとのことです。また、汚染地での作業に防護服着用の規定もないなどお粗末なものだそうです。
これにたいしドイツでは、産業界か処理の責任を負っており、余計な包装の省略、企業による地域での徹底した分別回収、生ゴミの堆肥加工、自動車の部品の新車再利用など、日本と違い燃やせない、埋められない、すなわち汚染科学物質を発生させない仕組みが出来ているという実態に衝撃を受けました。 80年代半ばからの住民運動の広がりの中で、市町村条例、州条例、96年法制定となったということです。日本の遅れを改めて思い知らされました。
アピールする写真と、深刻な事態と展望を、豊富な経験から語られる熱気に、時間を忘れて聞き入っていました。
近鉄百貨店の閉店を惜しむ
99年9月閉店した近鉄百貨店には、屋上の遊園地から始まる子どもの頃からの様々な思い出があります。
とりわけ、岐阜空襲を記録する会結成の翌1975年催した「戦災30周年岐阜空襲展」のことです。30周年を記念する空襲展を開きたいと中日新聞岐阜総局に相談すると、快く共催を受け入れてくれ、新聞社を通じて近鉄百貨店(この年まで丸物百貨店でした)に申し入れ、三者が実質的な共催をすることになりました。
中日新聞は読者に資料の収集を呼びかけたり、紙面に岐阜空襲のキャンペーン記事を連載、空襲展が始まると連日その様子を報道し、盛り上げました。百貨店は会場を無償で提供してくれたばかりでなく、大型パネルの作成やポスターなど経費はすべて負担してくれました。
入場者6日間で約4万5000人、8月11日の日曜日には、開店と同時に七階の催事場には入場者が続々と詰めかけ、昼過ぎには入場を待つ人の列が階段につながりました。この種の催しでの一日入場者同百貨店最高の、1万人となったほどです。
焼け跡のパネルを見つめて涙を流す人、ここにいるとあのころの町内に人に会えるからと、毎日通ってくる人、どうしてこんな事にとつぶやきながら歩き回っている青年、懸命に子どもさんに説明しているお母さん、最終日にはお盆で帰ってくる人に見せたいので会期を延ばしてといってくるお年寄り、会場は熱気にあふれていました。
終わって近鉄の吉安課長は、「張り替えて次に使えるのに、もったいないなあ」といいながらパネルをすべて記録する会に寄贈してくれ、現在もさかんに使われています。中日新聞も小幡記者をはじめ岐阜総局全体で取り組み、アメリカからも米軍撮影の写真を入手、寄贈してくれました。共催した三者共に成功をかみしめることができた、優れた催しでした。
その後50周年を記念して1995年「子らに伝えよう岐阜戦争・平和展」を開催していますが、ここでも近鉄百貨店は会場を提供してくれ、入場者は1万8000人にとどまりはしましたが、宣伝にも大きく力を入れてくれました。
実はこの間、市内の別の百貨店に空襲展を持ち込んだことがありますが、「社風にあわない」と断られています。
焼け跡にポツンと立つすすけた近鉄百貨店、岐阜空襲の象徴ともいえる光景です。その百貨店がなくなっても岐阜の空襲、戦争展に大きく力を貸してくれたことを忘れません。8階段踊り場には、いまも空襲時のすすけた跡が天井や壁面いっぱいに残っています。近鉄百貨店の魂として、一部でも残したいものです。
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